MEMO

どんな世も語り部が必要であるが(必要であると考えられているが)、そこで何を語っても許されるというのではない。王の治世に先行する神々の世界を想定しないと、矛盾することになるという見方がある。そうだろうか?わたしはこう思う。神々の世界は、原理を以ってなにもかも解釈し尽くす自己完結した世界に対する異議申し立てのようなものとしてギリギリ要請された物の見方というならばその意味を理解できないことはない。このとき言説<神々の世界>は、ロゴス初めにありきという意味でのロゴスの優先性を否定するものではない。言説が語るそういう神々の世界は、それを死に切った過去にあるとかんがえていいのかわからないが、思考をもって表象できる書かれた言葉の領域の<後に>はじめて成り立つと考えても全然矛盾が起きないのではないか

近代の言説は先王は制作する超越者として目に見えないものに名を与えたと解釈した。近代の言説から近代国家が誕生したとき一神教をもったのである。

‪次の米国の戦争のときに自衛隊がどこにいて何しているのか分からないようではマズイ。だがもはや自衛隊を外に出さぬという憲法改正のプロジェクトは失敗したとする見方もある。自民党解釈改憲によって望む軍国主義化を達成してしまっているし、どうなんだろうか、改憲の手続きを進めていてもほんとうのところは改憲の必要をそれほど感じていないのかも‬しれないのである。左翼は新しく平和戦略の国家論を構築するしかないときに来ているのではあるまいか

サイレント映画は、顔が光の中に置かれている。籠のなかに囚われている。胴体は暗い。どこにも立っていないし(『M』)、どこにも立っていたのである(『極北のナヌーク』)‬

なんか、ショスタコの強制された歓喜の恐怖のことをおもうな

‪現在は戦前じゃあるまいし天皇批判に熱中するよりも、国家から自立した人民の方向をもって、国家と対等である自己を確立することのほうが大切。わたしも思想、思想史をもつことがその条件だとおもっていました。思想と思想史は文学論を通じて展開したことが重要で、国家は自己を正当化するために文学をもつものですから、対抗できるものと考えていました。だけれど思想、思想史をもつこと、文学を読むことは簡単なことではありませんでした。どれくらい対価を払ったかわからないですが、どうせほかのこともできないので、後悔せずにくたばろうとおもっています。勿論わたしのようなものはもつこともよむことも完了していません。すべては過程であると言いたいところですが、まさかそんなこともわからないありさまです。立派なものではありません。

‪至上なものが考える、故に卑近なものがそこに存在する。そのためには卑近なものは他者をもたなければならない。史上なものを考えるのはヨーロッパあるいは中国だけれど、この構造を超えて、新しい普遍主義が成り立つかは、史上なものは卑近なものがいかに普遍主義を批判的に考えていくのかを考えるかにかかっている‬とおもう。そういう言説の運動として考えられる他者は、わたしの関心を占めるものをあげると、アジア、ヨーロッパ、グローバル時代に19世紀20世紀に戻る必要のない国家、17世紀18世紀19世紀漢字、中江兆民のルソー漢文訳(講座「明治維新の近代」)

‪Gaping Gill, swift to mate errthos , stern to cheek self...‬ ‪( Joyce, Finnegans Wake )

思考に映像と音が伴うことに、楽観的になりある時には悲観的になるのだけれど、精神的世界と感覚的世界は切り離してはいけないし、どちらかに無理に統合もできない。ここから芸術は精神的世界と感覚的世界との中間に位置するといわれるのは意味がある。思考は二つのものが無関係なほうが無限の過程をもつ。空間的に、精神的世界と物資的世界の間の直線は点になってもいいが、この点を横断する直線が外部に向かってひかれる運動がある。これは理念的に要請される。この思考と空間の関係は思考と時間の関係へうつる場合は、思考とそれに映像と音がともなうことそれ自身が思考の対象なき対象となるが、そのときでも、要請されたその外部性は失われ得ないとおもう。外部性によって、空間は分割的・同質的であり、運動は空間との関係において非分割的・異質的である。また時間は空間から自立した意味において非分割的・異質的であるとはじめていうことができる。

ゴダール『映画史』の編集を通してみると、映像と言葉、この両者は互いに独立しているとおもう。方法的に映像を、言説を為す言葉に近づけていくとき、言説がその外部をもつという感じ。外部とは外から見ること。接近してきた映像との繊細な関係が成り立つとき言われたことは同じを保つことが困難だろう