伊藤仁斎を考える

「天は吾を滅すか」の「天」は、伊藤仁斎によって17世紀にはじめて新しく意味づけられる(子安 宣邦 仁斎論語論語古義』現代語訳と評釈)「天」との関係において自己を否定して「人」が依拠できる「道」とは、なにか?皆が往来している表側の路を考えてみる。この時代、自分をすてて皆んなを優先させたらヤバくはないか。たしかに、路から考える卑近が大切である。このことは選択する。だからこう考えてみる。表側は内部である。裏側は内部に絡みとられることがない。だから自分を捨てて人(人類)を優先するのは、裏側にあることが要請される路においてではないかと。そこに天下の公が存在するとしなければやっていけなくなるのではあるまいか。どんな時代も表側の路から裏側の路を消滅し尽くすことはできなかったが、近代というのは表の側からする原理主義ー「この道しか無い」「他の道がない」ーがでてくる時代である。‪近代がうまく行っていたあいだは原理主義が齎す政治的災害に関心がいかなかったけれど。‬近代を経験し始めたベラスケスの絵は画布の裏側を示しているのは、身をかわすために、裏側の路が残されるのである。裏側には多分われわれ自身が表象されているが、われわれは決して近づくことができない。