運命の力

ヴェルディのオペラ「運命の力」を観て思ったのは、登場人物達を突き動かしている名誉とか評判。あれは何だろうかと。私にとっての意味を考えるのですね。名誉と評判から生じる葛藤に惹かれることはないですが、しかし望む本をもっていないこと、これほど不名誉なことはないだろうということを、『気狂いピエロ』の島ポルクロールでウロウロウヨウヨ、ワイワイガヤガヤしたことによって気がつきました。説明を要しますが、『気狂いピエロ』の若者たちはこの島にやってきたときは映画は死んでしまいました。そして究極の本を書く詩人ランボーみたいに放浪したのですね。だけれど書くことができないでいます。気狂いピエロとは、ほかならない、映画のことです。表象<映画>ー表象の表象ーは本のかわりとなることによってしか蘇ることができないとはじめて語り出されていくのです。新しい言説ですね。再びヴェルディのオペラですが、ワグナーの大地のなかに吸収してしまうものを保っているように感じられます。名誉と評判が宇宙のリズムと連結している面白さがあります。そうして非帰属性のリズムに成るというか...。その点に関して、階級と身分なき大衆社会の電子化のことをちょっと考えています。かつて大衆からファシズムスターリニズムの全体化が生まれたとしたら、ネットの時代からは何が生まれてくるのかとおもいますが、その点についてそれほど悲観的ではありません。12世紀に極まる垂直的全体性(宇宙的無限の非差異的同一性)と17世紀から始まった水平的全体性(卑近の非同一的差異性)とが斜線において19世紀20世紀において存在しなかった多様性を観念化してみたいです、と、簡単にそう書きましたが、ま、わたしには無理でしょうけれど。最後に、非帰属性だけを拠り所することもできません。たえずヨーロッパのことを考えなければいけないとするアジアの距離の観念ですかね、自分がもちたいと願うのは。本当に願ってる?わかりませんが、その距離が住処とする島は一体どこにあるのでしょうか!?‬