東アジアの映画とその問題提起


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台湾語の『非情城市』(日本公開 1990)までは台湾映画は全部ふきかえ(北京語)だったということの意味をよく理解するためには、十年後にアイルランド語ではじめて作られた映画を見なければならなかったのです。アイルランド語台湾語に対応するというような単純な話ではないが、エスタブリッシュメントの見方を批判的に相対化するポストコロニアルな経験を考えるために比較することが私に必要でした。『非情城市』、『紅いコーリヤン』(1987)、『芙蓉鎮』(1987)よりも、1987年に陳凱歌監督が制作した中国映画『子供たちの王様』がわたしをとらえたのは、中国語のなかに覆い隠された言葉の存在を示していたからです。下の写真にある一場面はずっと記憶にとどまっています。映画のなかの黒板というか... これが繰り返しわたしの記憶に投射されてくるのです。この映画は、戸張東夫の解説の言葉をひくと、文革大革命の不条理を批判してはいるのだろうけれど、そういう状況の中でやはり歴史の歯車に巻き込まれて生きている人間像を描いた。『子供たちの王様』で子供たちみんなが歌をうたっていましたね。黒板に漢字が書かれていきます。どんな漢字を使用できるかは国家によって決められていて、ある漢字のクローズアップで「この漢字は国に許可されていない」というようなナレーションを読んでショックを受けました。これは、いくら明治維新の近代を批判しても、明治の近代が創り出したヨーロッパ語翻訳のための漢字に依存して、それを批判できるのかというわたしの疑問と繋がるのですね。アジア映画の専門家ではありませんが、イデオロギーに絡みとられないやり方で日本帝国主義を批判した1980年代の映画は、そこで映画のなかの東アジア漢字圏も可視化していったのではないでしょうか。2019年の現在から解釈することですが、これは二つの問題提起を行ないました。ひとつは、漢字は北京語だけではないということ。台湾語があります。広東語は香港の学校で学ぶのだそうです。もう一つは音声化の方向で近代化していく体制よって失われていく書かれるエクリチュールのことですね。ここで支配言語の中国語から自立した思想のことも書いておこうと思います。12世記の「朱子語類』も、現代中国語で読むよりも、17世紀の徳川日本の儒者たちの書き下し文を参考にして読んだほうがよくわかることだってあるのです。