MEMO

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" 向こう側にある『歎異抄』はみえる。朱子の『論語』はこうであるかもしれない" (子安先生の『歎異抄の近代』講義(板書)より)


「天」=「公」の記号=は何かと時々かんがえる。この等価記号によって、「天」の領域=「公」の領域とのあいだの距離がなくなるということであれば、「天」と「公」は互いに一致した<点>となった?そうして絶対無限と絶対的平等性は<点>である。この<点>は漢字を不可避の他者とする日本文化の他者性の平面にのっかっているのだろと私は考えてみる。するとどういうことが言えるだろうか。ところで対象的思考を構成しない思考(ノエシス)の球(これも平面にのっかっている)が国家祭祀に絡みとられると、日本知識人は「公」を超えて考えることができない(天皇の超越的視点からしか国家をみることができなくなる。その視点は絶対無限としての天ではない)。これが日本人の意識を与えながら意識から逃れる問題であるなどと色々勝手にかんがえはじめた。だけれど明治維新の近代の失敗を<一国>民主主義(結局帝国主義)だけで解決しようとするのはこうしたことによるのではないか。『歎異抄の近代』は、再び『伊藤仁斎の世界』と読むとともに、青土社三部作である『国家と祭祀』『近代の超克』『和辻倫理学を読む』を読みなおす必要を感じている。


JOYCEの’FINNEGANS WAKE’


これは、天と地のギャップ(上昇と下降)を書いたジョイス的表現です。



Sandhyasはジョイスの造語です。三つの言葉から出来上がっています。Sanctus(ラテン語で「聖なる」の意)、Samdhi (サンスクリッド語で「薄明」や「平和」の意)、Chante(フランス語で「うたえ」の意) 

「聖なる夜明け」と訳されますが、もっと形而上学的に、天の「至高者」ー絶対無限ーではないかとおもうようになりました。「至高者」は共同体に平等を与えます。

天は絶対無限、公は絶対的平等性。天は公より上にあるということです。


Sandhyas !Sandhyas!Sandhyas!


Calling all downs. Calling all downs to dayne.Array! Surrection. Eireweeker to the wohld bludyn world.O rally,O rally,O rally! Phlenxty, O rally! To what lifelike thyne of the bird can be.Seek you somany matters.Haze sea east to Osseania.Here! Here! Tass, Patt, Staff, Woff, Havv, Bluvv and Rutter 


聖なる夜明け!聖なる夜明け!聖なる夜明け!すべての邦に目覚めを。すべての邦に夜明けをもたらせ。一条の陽の光、復活せよ!エールウィーカーが善きダブリン世界へ誘われ、おお、光!おお、光!おお、光!あらわれよ、おお、光!吟遊詩人の比類なく素晴らしい人生。かくも多くのものがあらわれたのだ

東の海H・C・Eは、島々にその姿をあらわす。さあ、さあ、タス通信社、トン・ツートンと叩く一物が打電中、アヴァス通信社、パンに、牛乳に、ロイター通信


思想史は親不孝の始まりと言われる理由は?思想史では確立された物の見方が絶えず解体されることを学ぶから。思想史は自らも解体する。解体思想史= 別の見方+ 別の見方...


武器としての鋤。英国をやっつけるナポレオン海軍がアイルランドに上陸しようとしたが、迎えた反乱農民達の鍬を見てこりゃ駄目だと帰ってしまった。パブでこの時代の民謡をきいた


あの柄谷行人ですらカントを消去してまで『資本論』の読みへの拘りを示したが、日本知識人の『資本論』の読みへの拘りは日本だけに起きるという意味で日本ファシズムを構成する。歴史的に、日本知識人は、天皇(祀る神)に規定された視点の枠組みで国家を俯瞰してきたように、19世紀を見渡しただけの『資本論』を純粋に読んで他のものは考えないと言いながら‪『資本論』に書いていない21世記の国家を呼び出す。ここから、社会主義を理念としてもつ帝国としての国家像とか言いだすの?


民主主義とは統治するものと統治されるものとの同一性であると憲法の教科書がそう教えるようにその通りに理解すると、統治するものは腐敗するし統治されるものも腐敗してしまう


何でもかんでもカネがモノを言う社会ではやっていくなくなるんだから権利の無い社会に反対して自由に喋らせてくれをもとめる声、そして日本文化の他者性。この二つが黙らされるという危機感が検察庁法改正案に対する抗議という形をとる。「検察庁法改正案に抗議します」が単純に増える、それでいいんだ


推敲中

方法としての「歎異抄」- 子安宣邦歎異抄の近代」の感想文 (本多敬)


1、方法としての「歎異抄


 世界資本主義の誕生は12世紀に遡る。富の蓄積は教会に。逆に貧困の進めが貴族に大流行した。聖書の字面から貧困を学んだフランシスコは、平等を説くマルキシズムよりも遥かにラジカルだった。同時代の親鸞は、往生還相へ行く。教行信証の学問僧の教えは、ウィットゲンシュタインにおけるラジカルな哲学復帰を喚起する。「言葉と物」「外部の思考」のバタイユブランショアルトークロソフスキーの読みの問題は、二十世紀の解釈学に、17世紀の注釈学的視線がいかに遅れて批判的に介入してくるかを考古学的に考える問題であった。ポスト構造主義の「歎異抄の近代」では、二十世紀の昭和思想に、十二・十三世紀の「歎異抄」、「教行信証」が介入してくる。やはり、子安氏の親鸞にアプローチする方法は、仁斎の「論語」にアプローチしてきた方法を踏襲している。「歎異抄」という<読むことが不可能な>テクストを、近代がいかに解釈し、そこのとによって自らの言説を構成してしまうことになるのかを子安氏は検証してきた。つまり、「歎異抄の近代」とは、方法としての「歎異抄」になっていく必然性があったのである。


2, 三木清を称えよう

 ー死を徹底的に観念化する世界思想性から疎外されている日本人の限界をみた


滝沢ー西田の「弥陀本願」は、超越者を侵犯していくために必要とされた超越者の思想的な措定であった。その措定は、日本の土着的な汎神論的自然観とは鋭く対立した。が、倉田百三 (「出家とその弟子」) と 丹羽敏 (「菩提樹」)、この非常に大正的であり自然主義である故に'日本'的な作家であるこの両者が、滝沢ー西田の超越者の思想的措定を台無しにしてしまう。それは、テクスト「歎異抄」の内部に、'親鸞'という超越的な<起源>を見出すことによってである。このことは、「歎異抄」の暁烏敏の発見とは無関係にあらず。暁烏の「歎異抄」の発見はひとつの神話としてあったから。その正体とは、近代が発明するー自己の肖像画の為にー''親鸞'を実体化する言説だった。滝沢ー西田の超越者の思想的措定が真に意味をもったのは、三木清においてである。そのラディカルな批評精神は、<戦う国家として自らを自らの為に祀る国家>を拒む。戦争国家が自らの栄光を称えるために自らを一体化していく象徴的な<過去>を拒む。そのために三木は「末法」を導入する。「末法」を自己と世界との間に介入させる。他者としての「末法」は、<死に切った過去>しかもたないから、そこにおいては国家が自らを永遠の超越者として勝手に祀る余白が許されないだろう。「歎異抄」の三木の「末法ー内ー存在」は、ハイデガー的和辻の「世界ー内ー存在」を超える。子安宣邦歎異抄の近代」の課題は、この反時代的な三木においてまだ書けなかった問いの部分を書くことにあった。即ち、絶対的他力者は現実の社会でどう生きていくか?


"もう何も失うものがないからこそ、何かを獲得することができる"という人々は、原発憲法を失ったかわりに何かを獲得できるとばかり安倍内閣を支持している。それによって限界なくグローバル資本主義に絡みとられていく。それにたいして、"もう何も獲得できないときにも、なにかを失うことはできる'というのが、私の他力的な構成。原発と軍隊とグローバル資本主義から何も獲得できないときにも、失うことができるそのなにかとは、自己のなかで、息苦しい全体主義に対してなお捨てきれずに抱いていたかもしれぬ、再びかれらがなんとかしてくれるのではないかという曖昧な僅かな希望である。

 「末法」とは、安倍の集団的自衛権原発体制の近代である。無力な無数のひとりの人間が、われ=われ。いわばこの絶対的他力者について小田実「世直しの倫理と論理」(1972)が語っていた。小田実が生きていたら何を言うか?永遠に巻き込まれることに、STOP ! 巻き込まれながら巻き返していく。


3, '精神主義'の清沢満之エピクテトス的抵抗


 日本軍の慰安娼婦の問題は、日本の戦争責任の問題である。「他国にも同じようなことがあった」は、日本の戦争責任を曖昧にする許し難い態度です。これと同様に、今村仁司等のオタク知識人達ーいわゆる'フランス現代思想'ーが、日本の暴力の問題についてレヴィナスの暴力論(ナチズム)を援用するとしたら、やはりそれも日本の暴力の問題を曖昧にしていく許し難い態度ではなかったでしょうか?例えば、今村は清沢満之を語ったとき、清沢が直面した暴力の問題を語るべきでした。明治時代は国家の時代でした。したがって必然として清沢満之が衝突したのはまさに、この国家だったのです。具体的には、国家が教員制度を通して宗教(真宗)を管理しはじめたことに、清沢は激しく抗議したのです。「精神主義」の清沢満之エピクテトス的抵抗は、たとえば鈴木大拙における浄土の国土的表象からはかけ離れたとものです。しかしこの清沢の怒りは、今村のようなヨーロッパとの同時代性を誇る'フランス現代思想'の知識人たちには決して共有されることはありません。いかに国家の暴力が'無限'(清沢)を囲い込んでいくかということにかくも鈍感であること、これは近代から現代の日本知識人たちの立ち位置を端的に示すものです。


4, 「歎異抄」は近代の知識人を惹きつけたように、野間宏吉本隆明をは惹きつけたのだろうか?否・・・


吉本は親鸞から宗教を差し引いたとき全部が無になる危険性を避けるために、「思想詩」「思想劇」で条件づけたのではないだろうか。詩のモローグ性と演劇のダイアローグ性は異なる。しかし「思想詩」といえ「思想劇」といえ、吉本自身の声を語っている上で両者に大きな違いはない。かくも他者の名で、ずーずーしく(笑)、自己自身を物語ったのは、ほかに、「本居宣長」の小林秀雄ぐらいだろう。が、この思想は他者を語れなくなる。これが「最後の親鸞」の吉本のパラッドクスだった。詩人はいかに、自分の思想の壺の中から親鸞という他者の名の蠅を脱出させるか?それが問題だ。

ところで、野間宏「わが塔はそこに立つ」の場合は、近代国家という壺の中にはめ込まれたものをただ「民衆」と呼んでいた。マルクス主義的な歴史観の内部に見出した「民衆」が文学の語りの内部に再発見した父的'親鸞'の固有名において重ねられていくのは、和解できない<過去>を大地に埋めていくようなカタルシスというほかないのである。

それにたいして、「最後の親鸞」の吉本隆明は、自らの思想を自己移入的に「信」と「民衆」(野間)の内部に根拠づけることはしなかった。知識人の「俗」(「大衆」)に寄り添いながらも「俗」(「大衆」)でない、「信」と「不信」の間への脱出を考えていたからである。そうして外部の愚者と成った蠅は、<往相>と<還相>を行き来するだけである。


 「吉本が親鸞についていう<衆生>は、服部や野間がその親鸞論でいう<民衆>の対極にあるというべきだろう」(子安)

「戦後思想としての吉本の発言をほかならぬ吉本のものとしたものが<大衆の原像>であったとすれば、吉本の親鸞を吉本の親鸞論にするものは<衆生の原像>であるだろう。'親鸞にできたのは、ただ還相に下降する眼をもって<衆生>のあいだに入り込んでゆくことであった'という言葉には、吉本にしかできない親鸞の読み方がある。(子安)

「<非知>とは親鸞において<非僧>;である。<非僧>とは寺院的知識の体系を負った僧における自己否定の運動である。知識人が己の知識の自己否定を続ける知識人の運動を<非知>と見れば、最後にうたる親鸞をこの<非知>の運動を貫き通したものとみなされなくもない。」(子安)


近代知識人が語る「歎異抄」の言説しかないのである。思想の問題とは、言説の交通の中に囚われた人間が、これに巻き込まれても永遠に巻き込まれないようにと、いかに批判的な外部性に存在するかにかかっている。その外部性は、自己自身の声からは見ることが不可能なほど外部にあるに相違ない。吉本のレトリックがいうようには、思想が自己称賛の詩と演劇の声に依存するのは無理だ。思想を読むこととは、外部から自己自身を規定してくる読むことができないエクリチュール性を見ることであるー他者の眼差しのうちに、壺から脱出した蠅の眼差しのうちに(外から窓をたたいている)


5、「歎異抄の近代」を読むことの倫理性


 最後に、「歎異抄の近代」について自分が書き綴った感想文について顧みる。本というのは、作家のこだわりに座礁していると中々読めないもの。これは‘異様なもの'をまえにした直観の揺れかもしれない。そういう場合は、この子安氏の本の感想文のように、何とか諸々の要素に分解して分析していくと読めるのかもしれない。しかしそうして本の出口に立ったとき、最初の悍ましい違和感がすっかりと消えている。最後の最後に来て、分析そのものが無意味に思われてくる。本当に読んでいたのかと疑いはじめる。(この空白感は、直観と分析は共通のものが無いことを告げているのかもしれないーカントがいうようには統覚的な枠組みがない)。「歎異抄の近代」についても、やはり序章で引いた言葉にかえっていくのである。結局、原初的テクストの言葉を提示するだけで十分だったのだ。感想文などは余計な解釈である。原初の言葉を称えよ!なにも変えるなーすべてを変えるために!!


 「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」


 「念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜のこころ、をろさかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらふやらんと、まうしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、ただ唯円おなじここりにてありけり」


政治に抗議するときは、別にその人を芸能人だと考える必要がないでしょう。政治評論家のプロは知らないかもしれないが、市民は自分の頭で考えて正しいことを言うことができます


ポストモダンの70年代と80年代に近代主義批判が展開された。国家から自立した人民peopleの方向をもって、国家と対等である自立的私を確立するという課題があった


「それぞれの近代」を方法としてもたなければ、「世界史的な近代」に埋没してしまうこと、埋没してしまっては、近代を批判的に相対化できないし、文学を読むことも難しい


芸能人がかくも尊敬されるのは彼らが難しいこととされる私のプライベートな感覚を公に伝える大きな力をもつからだろう。尊敬と軽蔑は一体である。尊敬は、抗議する市民にたいする軽蔑から、軽蔑の言葉を口にするのかもしれないが、「歌手は歌だけ歌っていればいい。」と言ってくる政治評論家のプロが出てくる。



17世紀近代の芸術の原点は、表現の外に依存しない鏡の中の如き表現(一つの包摂原理なき多様性をもつ表現)を追求して成熟していった。現在アーチストは「職人技」と呼ばれるのを恥と感じる場合があるのは、官僚的反復とみなされたくないからかもしれない。(しかしこの点については、現代のアーチストは、中世の職人の仕事は神わざだったという記憶もあるし、文化人類学によるブリコラージュ的な視点も知っているので、単純ではない。) 問題はもしもし官僚的反復ならば作品は表現の外に依存しているということだ。ところでナチスは退廃芸術展をやった。ファシズムによる「政治の美学化」は表現主義の芸術を酷く怖れたのはなぜだろう?わたしは関心がある。これといった答えはわたしにないけれど、やはり表現主義の作品には起源というものが感じられない。爆撃の悲惨を描くときは、そこに起源なき廃墟を表現できるアーチストたちは多くはユダヤ系であった。ナチスは起源ある廃墟にこだわった。連中は起源をもたないのにネットワークをもっているではないか?これが、根無し草の大衆を一つの起源に向かって組織化したいと望んでいる「政治の美学化」(全体主義)を畏怖させたのだろうか..?


‪5年前に、子安宣邦氏の著書『帝国か民主か』(社会評論社)を書いた。これを読むと、現在は、5年前とくらべて、アメリカ一辺倒だった安倍政権は大国中国との関係も築こうとしているが、理念をもたず、アジアへの共感もない方向は変わることがないようにみえる。2020年を考えるために、ポストコロナのアジアのあり方を自分で考えるために、子安氏の『日本人は中国をどう語ってきたか』(青土社、2012年)との関係で現在考えていること、そしてこのあとに5年前の書評をそのまま投稿することにした。わたしにとって、外部であるアジアから、戦後を読み直すことの意義を考えた書評だった。


ポストモダンの70年代と80年代に近代主義批判が展開された。国家から自立した人民peopleの方向をもって、国家と対等である自立的私を確立するという課題があった。‬

子安宣邦氏の言葉によると、「それぞれの近代」を方法としてもたなければ、「世界史的な近代」に埋没してしまうこと、埋没してしまっては、近代を批判的に相対化できないし、文学を読むことも難しい。‬

‪この課題からみると、溝口の「公と私」は官僚資本主義の成立と共にある構造主義的思考で、所有権の特殊日本的曖昧に対抗する明確なイメージ。思考にもとづく思考不可能なもの(「天下的公」)を追い遣る。‬

‪また、多様体の内在平面は一つの包括的原理ではあり得ない。しかしポストモダンモダニズムへ行くと、儒教文化における帝国の構造を物語る柄谷行人のように、内在平面を一つの包括的原理で理解していることがみえてしまう。‬

‪あの柄谷行人ですらカントを消去してまで『資本論』の読みへの拘りを示したが、日本知識人の『資本論』の読みへの拘りは日本だけに起きるという意味で日本ファシズムを構成する。歴史的に、日本知識人は、天皇(祀る神)に規定された視点の枠組みで国家を俯瞰してきたように、19世紀を見渡しただけの『資本論』を純粋に読んで他のものは考えないと言いながら『資本論』に書いていない21世紀の国家を呼び出す。ここから、社会主義を理念としてもつ帝国としての国家像とか言いだすの...?‬


以下は5年前の書評


「21世紀にみえてきたのは、グローバル資本主義と<帝国>と民主主義です。グローバル資本主義の分割は、<帝国>を中心に推進されています。具体的には、新自由主義新保守主義アメリカ<帝国>、(EUから) 第四帝国へ行くヨーロッパ<帝国>、スターリン主義=ボルシェヴィキズム=ツァーリズムに戻るロシア<帝国>、そして官僚資本主義の新儒教の中国<帝国>、であります。これに関して言うと、安倍自民党は日本をなんとかアメリカの側に位置づけようとして必死に、対抗・中国帝国としての危険な役割を引き受けているようにみえます。東アジアは、この安倍が原因をつくった、民族主義的憎悪を互酬的に交換するという危険な権力ゲームに囚われています。このゲームの内側で、民主主義の形骸化は、安倍をはじめとするこうした1%のネオリベの新貴族たちによって推し進められているではありませんか。一方、非暴力の抵抗であるオキュパイ運動からalternativeの民主主義が現れてきたことは、注目したい動きであります。民衆的自治・自由論・民衆的直接的行動論を「民主主義」の真の再生の力にしていく語る民主主義。そこで、市民の思想史は、東アジアのグローバル・デモクラシー=白紙の本になにを書くことができるのか?「帝国か民主か」が問うているのはまさに、このことなのです。」


現在は、アジアにおける「バベルの災厄」について考えるようになった。『朱子語類』は原初的言語(四書)も再建だったかもしれない(全く違う発想で読み直した)。古学の荻生徂徠命名制作論も原初的言語の再建か。本居宣長が「神」をカミと読んだことはこれらの再建を解体することだったのか?8年前は、丸山真男を読んでいたが、実際はなにも知らなかったが、色々面白くなってきた。


「緊急事態宣言」の解除のあとも一億の「目」が罰してくる世界では、法はどこにもないのに、理由も告げられずに、いつ地図にない監獄に連れていかれるのかわからないようなものだ


今回は、「検察庁法改正案に抗議します」の下に自分の意見を書く人が多いみたいね。反原発デモが二千人程度のときも自発的に自分の意見を書いたボードをもつ人が多かったのを思い出した。外国のデモではみかける長文もあらわれた。携帯電話でどうしてここにいるのかを友達に実況放送する女の子もいた



ジョイスほどアイルランド文化の他者性を知った作家はいない。だからこそ彼は自分で決めた亡命を行うことになった。リアリズムはどん詰まりだし、神話もそれほど期待できるのだろうか?『ユリシーズ』の挿話『テレマコス』という名は、ギリシャ神話と植民地都市の現代との交錯をほのめかす。リアリズムにとって神話は不可避的な他者である。奪われたものを取り返せるかという叙事詩ギリシャ神話は現代の植民都市の無意識を構成している。しかしそうであるならば、土地を求めて一つの確立した包摂的原理を求めるという点で反帝国主義帝国主義者ではないか?作家の思考は、リアリズムか神話かという対象的思考から逃れていく。アイルランド文化の決定的な他者性は、神話的リアリズム、ここにある。


ジョイスユリシーズ』の書き始めはマーテル塔から。あの形は、思考の優先順位としての形而上学的円か?リアリズムはどん詰まりだし、神話もそれほど期待できるのか?ストーリーテラーのコスモスは反ロゴスを利用して自らを再構成しなければならないときがきた。そうしてジョイスにおける神話的リアリズムが誕生していく。『ダブリンの人々』では最も従属している人々から書き出した。『ユリシーズ』では、ジョイスは、土地を求めて一つの確立した包摂的原理を求めるという点で反帝国主義帝国主義者であることを批判して、万物を絶対的平等とみなす視点のもとに行く。ジョイスほどアイルランド文化の他者性を知った作家はいない。だからこそ彼は自分で決めた亡命を行うことになった。

翻訳した丸谷才一氏は大学時代の悪友だったと渡辺一民氏から聞いた。退屈な講義を抜け出しては、喫茶店で丸谷氏は英文学、渡辺氏はフランス文学について熱心に語ったという。お互い話を聞いていたかはわからない?丸谷役のバック・マリガンは体育会系みたいで面白くないのだけどね、いま読み直すと、この場面は、旧制高校の寮の通過儀礼のSturm(嵐)-先輩達が不潔な部屋に来た新入生を歓迎して朝まで容赦なく議論をふっかけた-の雰囲気をもって訳しているのかな。


しかしこれはダブリンというパリから遠く離れた田舎で、アナーキスト系のボヘミアアン知識人と芸術家が集まるカフェを真似ていて、アイルランドだとナポレオン海軍にたいする砲台がカフェのかわりである。ゲール文芸復興運動の時代。バック・マリガンは時代をリードすると期待されたその知性ゆえにアイリッシュからは大変尊敬されているのだけれど、現在もね、ジョイスは彼のキャラを漫画っぽく描写している。バック・マリガンたちは若いジョイスをやっつけなければならないと危機感をもっている。『テレマコス』という名のこの章は、ギリシャ神話と植民地都市の現代とが交錯している。奪われたものを取り返せるかという叙事詩ギリシャ神話は現代の植民都市の無意識を構成している。リアリズムにとって神話は不可避的な他者である。作家の思考は、リアリズムか神話かという対象的思考から逃れていく。アイルランド文化の他者性はここにある。ジョイスは、この章では彼の視点を反映している登場人物のスティーヴンに、「アイルランドの芸術は召使いの割れた眼鏡だ」と言わせている。議論のボクシングがはじまる。暗闇のなかの銃声。場面は、その翌朝...


Bygmester Finnegan, of the Stuttering Hand, freeman’s mairer, lived in the broadest way immarginable in his rushlit toofarback for messuages before joshuan judges had given un numbers or Helviticus committed deuteronomy ( one yesterday he sternely struxt his tete in a rub for to watsch the future of his fates but ere he swiftly stook it out again, by the night of Moses, the very water was eviparated and all the guenneses had met their exodus so that ought to show you what a pentschanjeuchy chap he was!) ー Joyce FW‬


検察庁法改正に抗議します」は、投票でもないのだから、選挙集票マシーンの自民党にとっては「大したことはない」のかもしれないけれどね、「検察庁法改正に抗議します」は何でもかんでもカネがモノをいう社会にたいするネガティヴなイメージをはっきり持っている。このことだけはたしか!


野党が900万の抗議ツイートをどう活かすか


映画とテレビの時代の終わりと共に成立してきたビデオを利用した思考がこのネットの時代に実現してきているのかもしれないとおもう。国家から自立した人民peopleの方向をもって、国家と対等である自立的私を確立するという課題。反原発デモと安倍戦争法反対デモの撮影ばかりではない。オンラインで好きな本と映画を書くというような試行錯誤をしているうちに、わたしのような者でも気がつくこともでてきた。問題は、公の権力の言論的領域よりも、日本文化の他者性が殺戮されている構造や無意識の言説的領域かもしれないと。他者の問題、ここをフォーカスしなければいけない大事なときに、日本知識人の天皇への期待を過剰に語る言説に絡みとられてしまうことを警戒しているのだけれど


ネットの世の中はデモ一人の背後に百人いる。国会前にアベ辞めろで十万人は来るから900万の抗議ツイートは自民党が言う「一人で百万をつくりだす」という数字ではないだろう


外国語に翻訳できぬような母語は仕方ないねと言って、頭の中で常に正しく読んでくれる西欧人と向き合うが、私の母語を仁斎と徂徠は読むかと問わなくなった明治維新の近代の貧しさよ



‪Deshil Holles Eamus ‬ 


‪"太陽神の牛"(『ユリシーズ』)が好きだと言っていたルーマニア人がいた。トリエステで出会ったが、奥さんが妊娠中らしい。”太陽神の牛”は産婦人科病院を舞台としている。ブルームはピュアフォイを見舞い、そこで医師ディクソンに誘われて、医学生の宴会に加わる 。書き出しの言葉は、アイルランド語Deshil, 英語の地名Holles とラテン語Eamus で構成されている。呪術的雰囲気で、どうも、Let's go south to Holles Streetと言っているらしい。"南行保里為佐"と訳した丸谷才一によると、「『保里為』は地名ホリスに動詞「欲りす」の(『古事記』)万葉仮名をあてる」という。訳者が『古事記』の言語に対応していると思ったのはなぜかはとくに説明がない。わかるひとはわかる、わからないひとはわからないということ?私はわからない。‪ ‪ ”太陽神の牛”の多様な文体を書き分けた丸谷訳。まあ大変な努力だろう。歴史感覚も必要だ。英文学史平田篤胤の登場では彼の文体で書いた。現代の文学的難産と神学的救済論。文学史の最後に、起源が不明の、ダブリンの乱痴気騒ぎの英語が生まれ出る。バベルの災厄以降、言語はアイルランドにおいて見事に復活したのである。



推敲中

中国知識人と朝鮮知識人と(彼らが育てた)日本知識人の三者が一緒に書いた、国家のアイデンティティー『日本書紀』。だけれど『古事記』、『万葉集』にしたがって、"変な"中国語になっていくという。どうも、Deshil Holles Eamus のいかがわしさは、むしろ、文字を与えられた現地知識人が中心となって書いていく『古事記』において対応をみることがよいとかんがえたか?‬何にしても、このように翻訳されると、ああそうかと読めるのである。媒介として成り立つ解釈の働きを観察しよう。ジョイスは『ユリシーズ』が翻訳と解釈によって完成していくとかんがえていたようである。原文と翻訳の関係は、オリジナルとそのコピーのそれとしてと表象されるけれど、そんなに単純ではない。コピーがオリジナルに先行するように、翻訳が先行する本を書いたとしたら、その本はなんと奇妙であることか!?挿話‪"太陽神の牛"の説明文によると、「古代英語からマロリー『アーサー王の死』、デフォー、マコーレイ、ペイターなどを経て現代の話し言葉に至る英語散文体のパロデイーで書かれている」という。古典ギリシア語とラテン語という他者との関係において、近代語が自己との関係を再構成していった歴史を追うことになるわけだけれど、それだけのことだったら『ユリシーズ』の後に、『フィネガンズウエイク』は登場してこなかっただろう。逃げ腰だけれど近代に挑戦したジョイスは異常なことを本に行なっている。ヨーロッパの言語だけでなく、世界中の言葉の助けによってしか完成しない本を書いたというわけである。究極的には、出発をなすとされてきた作者も翻訳としてある。他者しか存在しない。世界の創造に語るべき中心などはない...


ルイ14世の少年時代は毒殺を恐れて犬達に囲まれるようにして寝ました。犬だからルイ14世を思い出すのでしょう。‬「首相は「朕は国家」のルイ14世を彷彿」(検察OB)‬


「コロナ自警団はファシズムか、自粛要請が招いた不安」。心配するな!コロナ以前に既に安倍政治から日本人の4割は政治に全く関心がないのに政府を信用しきっているファシスト


シェアさせていただきました。必要な文化支援がなく、公演ができないという困難な時ですが、わたしは活動のあり方について別の物の見方も考えてみるチャンスだとおもっていましたから、大鷲さんのお話を伺えてほんとうによかったです。ありがとうございます。やはり、観客という場は文化の他者性にかかわるという意味で大切だと思います。感染は永久に続くのではないでしょうし、ワクチンが開発されたら、また同じように経済がどんどん進むのでしょうけれど、経済ばかりが進んでもね、人間中心の世界の限界を感じていないひとはいないでしょう。しかしそのときに、文化の他者性を支える言語の体制が無くなってしまってはですね、問題ですね。ご指摘の言葉の通り、コロナを契機に、ただ怖がってばかりいるのではなく、もっと地球と関わるコスモスをトータルに考え直すロゴスのために、反コスモスを利用できるかもしれません。

ベランダは気持ち良さそうですね。うちも、屋上でテーブルと椅子を用意してコーヒー☕️を飲もうと準備しています。


無観客の舞台をネットで配信するか、これからは役者はマスクせよという。仕方ないね、役者は仮面を被るか?もう舞台上から人間の叫びも泣き声も段々聞こえなくなるのか?言葉なき身振りとジェスチャーが語るそんな無声映画としての舞台は可能か?物で書かれているものー嘗て存在した、その沈黙している自然とともに即自的に一体としてあるーに対する宗教的尊敬の感情が、書記言語が輝く空間に成り立つのだろうか?


法をまもる暴政のことも私は疑っている。軍国主義国家神道が事実上復活したのは解釈改憲によってだし、多分憲法25条にも解釈改憲が起きている

こういうことも起きなければ、ジャン=ピエール・レオ(Jean-Pierre Léaud)の演じた「ルイ14世」を観ることもなかったなあ...


パラジャーノフは目を開けた夢ならば、タルコフスキーは狂気の夢のなかの覚醒。物で書かれたものをたたむパラジャーノフと比べて、映画の中に映画の他のものがないわけではない


ダブリン公演に来た平田オリザの「東京ノート」の舞台撮影を頼まれたときは、舞台における内在する水平方向に働く力を媒介なくそのまま捉えることができるかが課題だった


‪『Dubliners』は”ダブリンの人々”と訳されるようになったが、以前は”ダブリン市民”という訳で通っていた。”ダブリン市民”の訳語は、共和主義者は反帝国主義ナショナリズムを意味するのでヒューマニズムの立場からは「ジョイスが望みそうにもない」とされていた。さて前に書いたように、反帝国主義ナショナリズムが領土のように土地を取り返そうとして一つの民族を表象するかぎりにおいて、帝国主義v.s.反帝国主義は、ジョイスにとって曖昧な観念である。だから、思考は二元論的分割なしに不可能だから、二元論の対象的分割(”ダブリン市民”の曖昧な観念)から出発して、これを脱構築する非対象的思考(“ダブリンの人々”の明確なイメージ)が要請される。読者がこのことをきちんと分かっていれば、‪『Dubliners』は、”ダブリン市民”でも”ダブリンの人々”(共和主義者=反帝国主義=ナショナリズムに対して明確にネガテイヴなイメージをもっている)でもいいのであるまいか。



推敲中

それは<一>的多様体ではありえない。<一>でしかない<一>的多様体の読みほど、<多>の仁斎を台無しにする解釈はないだろう。それでは柄谷(行人)的な<帝国>の<ー>と違わない。強いて<一>を言うならば、そこから、多数の穴が開いたような<一>の状態と考えてみる必要があるだろう。なぜ穴なのか。人の歩み行く道の外に道はあるのかと問われるときに、「公」を介さず「天」と直に向き合う「私」にとって目の前の他者との関係だけが、破れ傘的に、多孔性の「生生一元的世界」なのである。


宋代朱子学も中世神学も、天理のような理念性、すなわち、人間の生がもつ本来性を理念的に体系化したが、これに対して、天と人との間の本来性よりは運動性を見出したのが、18世紀の仁斎とカントなのである。ここで本来性とは、人の不在において成り立つ、意味するものと意味されるものとの間の近さをいうのではないか。つまり秩序の静的な同一性の意である。他方、私の理解では、運動性とは、人を介して天地の間の無限の距離に自らを委ねていく行いである。よって、運動性は事件性と言いかえることもできる。この場合注意しなければならないのは、天が排他的にただ一つあるという思想よりも、天が多数あるという思想のほうが運動性の概念にとっては大切となるということである。さて、西欧の近代思想史は、カントの後に、ヘーゲルマルクスが、カントが壊した中世的思弁をもう一度哲学的に再構成することになったことを教えている。新たな思弁体系をつくるために、ヘーゲルはそれを「精神」と名づけ、マルクスは精神を唯物論的にとらえて「労働」と名づけることになった(日本でこれに取り組んだのが西田哲学である)。つまり、そこで「人」の持つ意味がふたたび認識の側に中立的に客体化されたのである(例えば、マルクス主義唯物史観に個別的な貧困問題はなく、ただシステムのなかの抽象的、一般的な貧困問題があるといわれる。和辻哲郎の「人と人との関係によってなりたつ道」でいわれる意味も、抽象的、一般的な概念性である。和辻はマルクスの「ドイツイデオロギー」を最初に日本へ紹介した思想家である。この和辻と比べて、仁斎の「人」は目の前の他との関係をいう点でもっと具体的、直接的である)。つまり、「人」の消去から二十世紀的人間は(十九世紀の)ヘーゲルマルクスの呪縛に入っていくことになり、二十一世紀になっても脱出できずに囚われたままなのである。例えば、ヘーゲルと言おうとマルクスと言おうと、柄谷行人のいう<帝国>の理論のどの部分に視点を置くかの問題であって、氏の朱子学的ロゴス中心主義の<帝国>の思想の本質的な理解に大きな違いはない(朱子学的ロゴス中心主義とは、まさに仁斎が解体しようとしたものである!)。21世紀の<帝国>論は、ヘーゲルの客観精神としての「礼」の展開と呼べるかもしれない。このような世界史的教説は、徂徠がいう先王の道が礼楽論的な人民教化の道術、社会統治論的な外部的言説体系に構成して行かざるを得なかったこととパラレルであるところの知の停滞にしかみえない。最後に、首相靖国公式参拝、国民道徳、吉田松陰を伴奏にして安倍晋三が繰り返す「この道のほかにない」という言葉ほど、アジアへの共感を持たぬ彼の国家主義を露わにする言葉もないが、彼が間違っているのはその言葉から肝心な「人」の漢字が抜け落ちてしまっているということだ。絶望的にも、誰もこうしたものを批判していく役割を止めてしまったのか。二十世紀的人間の呪縛を破る外部は存在しないのか。「仁斎講義学」で子安氏が指したのが、「人」をいう仁斎とカントの方向だったのである。「もう何も獲得できないときにも、なにかを失うことはできる」というほどの絶望感、つまり、天に向かって絶望しきったような絶望感、にもとらわれた我々が、「天道」と仁斎が呼んだ運動性としてみなしえる台湾の太陽花運動や香港の雨傘運動に大きな希望を持つことになった理由もここにある。「人」の思想性とは、グローバル資本主義に抵抗すると同時に、東アジアの民主主義を求めるグローバルデモクラシーの市民的「人」の直接行動の思想性のことである。「帝国か民主か」、この問いこそ「仁斎学講義」の前に書かれた中国と東アジア問題を論じた子安氏の本の名となる必然性があったが、「仁斎学講義」と、昭和思想史研究会で進行している未完の講座「<大正>論を読む」とともに、氏の三つの仕事は、戦後民主主義近代主義の言説に対してだけでなく、前述した世界史的教説の一部である民衆史、日本ポストコロニアリズム天皇制構造論の諸言説に対する批判も可能にする、思想ラジカリズムを構成していくものである。この思想ラジカリズムの中心にはただ「人」の思想が存在する。あらためて、仁斎がいう「人の歩み行く道の外に道はあるのか」でいわれる「人」のもつ意味は大きいといわなければならず、ここから離れることなく、「近代」を乗り越える「人」の思想について根本から考えるべき時がきたのではないか。伊藤仁斎が「人」を発見したのは、幸徳秋水大杉栄小田実が「でもくらていあ」の市民を発見したのと同じほどのラジカルな意義をもっていた。ここから、管理された、一瞬一瞬の、システム的組織の利益のためなら、他を全部消し去る、地球規模の抽象的な、グローバル資本主義と帝国の時代、そして、それらの対極でそれらに逆らおうとするオキュパイ運動を契機に市民が蜂起し始めた動乱の時代に、「仁斎学講義」を読むことの意義は大きい。おそらく、今こそ仁斎と共に「論語」を読み直すべき時であろう。


朱子は理は只気の上に佇むという。すなわち理は論理的に先行するのである。朱子学を純粋に継承した朝鮮儒学では、一の原理による包摂として理に気がもとづくことになった。理にオリジナリティがある。日本儒学の方は、古学派は、朱子学の曖昧な観念に対して、『論語』の自己の学問を継承する顔回の死に絶望して天を仰ぎ見た孔子の明確なイメージをもっていた。朱子学の性の概念も放棄される。朱子学の正統派からは日本は朱子学を間違えて理解していたと非難される(今日において、日本はヨーロッパを間違えて理解していると言われるように。) 真相は、思考は二元論的分割なしに不可能だから、朱子における二元論の対象的分割から出発して、これを脱構築する非対象的思考が要請された。そうしてはじめて、無限は人という有限性から再構成される。つまり「学ぶ」ことが無限である。ここで中世の存在論的物の見方から、理念性の見方へ転回することになった。


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日本人は検査の結果次第では携帯電話の履歴を調べられて国の権力が家の中に入ってくるのはやめてくれなのに、デモに参加せずとも外に出たらどんな口実でも逮捕できる警察と黙認している検察を怖いと思わないのかしら... 非常に緩い非常事態宣言を望んでいることは事実だが、だからといって、「自由」を求めるからと躊躇いもなく言いきっていいものなのかどうか疑問におもう


推敲中

Noam Chomsky denied entry into Israel and West Bank.Marie Combesque,my facebook friend,says; c'est vraiment très bête de la part des autorités israéliennes. Très bête et très 

révélateur de cette mentalité type "forteresse assiégée". Vont-elles bientôt dire que Chomsky est antisémite? And they should stop treating Palestinian as prisoner.