MEMO

‪上京してきた大学生ー特に女性ーはまだ投票先を親に相談した1980年代と、相談せずに親が投じる自民党に投じる現在。違いがあるの?これ以上悪くならないから野党も考えてみて


I go to school とI go to the school では分節化が違う。前者は「勉強する」の意で、後者は「その場所に行く」の意。日本語は「学校へ行く」


Wie weit diese in die Interpretation des λόγος und umgekehrt der Begriff des >Urteils<

mit Eminem merkwürdigen Rückschlag in die ontologie he Problematik hineinwirkt, zeitgeist das Phänomen der Copula. ーHeidegger



‪Tell the story ( an amalgam as absorbing as calzium choereydes and hydrophobe sponges could make it)‬

‪ - Joyce , Finnegans Wake‬

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‪「この私は時間か?」と問うたのはハイデガーが最初ではないですが、デカルトのように「わたしの存在は何か?」と問わず、存在者が存在する意味を問うたのは最初です。彼を批判したポストモダンのフーコは「言語は空間か?」「言語が存在する」とはなにかと新しく問い始めたのではなかったでしょうか?‬


「わたしは時間です」はわたしにおける内なる対話者から発せられた質問への答えです。彼は「あなたはなにものですか?」とは問わなかったのです。かわりに、「存在するとはどんな意味でしょうか」と問うてきたのです。時間が存在する意味も問われていますが、「存在」が論理的に先行します。同時にわたしも彼に問いていたのです。と、こちらからはその姿が見えない無の傍らにいる彼もこう答えるでしょうか。「わたしは時間です」と。しかしこれは存在の問題を時間のあやふやさに委ねているようにみえます。なにか、死である時間が永遠に延期されるという感じなのです。逃れられないこの有限性のなかで死から見られているのに、死は時間によっては克服されないのにです。さてポストモダンハイデガーをどう乗り越えていくのでしょうか?

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哲学は自ら枯渇する(か思考として自らを裏切る)ということを告白することーおそらく哲学とはこうした巨大な告白なのでありましょう...わたしは、恐怖のなかでしか、つまり狂人であると告白された恐怖の中でしか、哲学しないのです。

ーコギトと『狂気の歴史』。デリダエクリチュールと差異」)


‪Et la philosophie est peut-être ce gigantesque aveuー je ne philosophe que dans la terreur, mais dans la terreur avouée s'être fou.

ーDerrida


思想史は親不孝の始まり。おなじものは不可能だと告発するから。如何なる差異も権利を持つと考える狂気。歴史も、あり得ないと知っているが、知識を以って自らの狂気を隠蔽している


フロイトはどんな狂気にも差異の権利を与えた。レヴィストロースは差異としての部分は全体よりも大きい自立的構造を分析できた。構造主義の道は無意識と野生の思考が準備していた


野生の思考は、ヨーロッパの知と対等な自立的構造があることを教える。囲い込みできない海のようなこのような構造が、思想空間としての現代中国の言説に包摂されようとしている


聖徳記念絵画館の説明する饒舌な言葉は、日本人のなかで王政復古の幻想が国家祭祀の幻想を生んでいるだけ。公の俯瞰でさがしてもこの国家の何処にも絶対的価値はない(絶対的価値をさがす絶望的な試みは、三角形を四角形にするようなものだ)


マルクスは労働・土地・利潤のような価値を生み出す源泉を求めようと努力したが、不毛な企てに終わった。同様に彼は使用価値という用語を頑固に保持していた。交換市場に絶対的価値が存在しないという単純な事実を認めることは、誰にとってもやさしいことではなかったからである」(ハンナ・アーレント『人間の条件』22)


‪The reason for Marx’s stubborn retention of the term “use value”, as well as for the numerous futile attempts to find some objective source ーsuch as labor, or land, or profitーfor the birth of values, was that  nobody found it easy to accept the simple fact that no “absolute value” exists in the exchange market, which is the proper sphere for values, and that to look for it resembled nothing so much as the attempt to square the circle. ( Hannah Arendt)‬


Coronavirus in my area: Tokyo. Are Japan Covid-19 cases rising near me ?


プラトンの洞窟にセザンヌの光を」というゴダールの言葉は色々解釈できるが、映画のことしか語っていない。国家の公から完全な無限をみることができないから、天からみるために洞窟のなかで脱出の方法を考えよ、と。つまり思考としゅての映画は何処にも存在する。洞窟の原点に帰れと


フーコは魂と身体の間の曖昧な境界を書いた。『監獄の誕生』における言説的なもの間に成り立つと可視的なものの独立性は、現代映画を思い浮かべながらならば何とか理解できるものである。だけれど『言葉と物』における言語と表象(の表象)の間の関係はそう簡単ではない。‪言語は存在する。‬表象の傍らに存在する書き手は、裏側における境界にあって、画家が描く自身の姿を見られまいとするように、透明でない文において隠されている\現れている

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毎日数字だけを発表されてもね、毎日罰をうけているのか、何だろうか?国家は解釈の中にあるならば国が消滅したのか?国が自らを解釈できなくなったほかは何もかも同じなのだけれど


源氏物語』は仮名文字が書いた物語で、『平家物語』は漢字が書く物語だ。『太平記』も危機の時代に避難する三種の神器の正統性を書いた。21世紀国家像もgo to三種の神器


Das existenzial-ontologische Fundament der Sprache is die Rede. ( SEIN UND ZEIT Martin Heidegger)


The existential-ontological foundation of language is discourse.


投企が存在する?

投射が存在する?

言語が存在する?



逃亡した形而上学の痕跡に耳をすますべきだが、誰がその痕跡を明るみに出せるのか?体用(本体と作用)からは物理学を考える。だが理気から政治なき宗教的天しか読みとれないのに


嘗てフーコはマルクス主義教条主義に対して思考の横断する柔軟性を配置した。今日は思考の分割する理念性の配置が重要だー左翼における国家神道ヒューマニズム化の言説に対して


天皇に「人間であれ」とする象徴性を過剰に超えた象徴行為の容認は、フランス支那学の『論語』の読み、というか、オリエンタリズムー君主に「人間であれ」を説くーと全く無関係か?


フーコはハイデガーをどう読んだかをかんがえるためにはハイデガーを読む必要がある。だがわたしにとって、ハイデガーの一文一文が山道みたいだ。挫折するのは訳語である。標識を読めなければ道を辿っていけない。ドイツ語ができないから?それはそうだけど、出来が悪いけれど、長年英語を勉強した経験から言って、ドイツ語ができるようになれば読めるようになるというような透明な希望もない。訳語を読めないと読めない。だが他の言語訳されたものを参考にしていくら新しいわかりやすい訳が登場しても、結局西欧形而上学の知識がないと、どうして訳においてこの語が選ばれたか考えるのが大変難しい。朱子学を通してアジアの形而上学を理解してくると以前と比べて、なんとか西欧の形而上学も理解できてくるところがある。まあ、分かっている人達はこんなことは当たり前で、わざわざ書くほどのことでもないのであるが、ここで特に言っておきたいのは、アジアの形而上学を理解するときは、もちろん現代中国語でないと翻訳不可能なものが沢山あるようだが、江戸時代の漢文読解も大事にしたほうがいいのではということである。これは大切な認識だと思うのよね。明治の近代が翻訳した西欧思想を、江戸思想が理解したアジア形而上学の助けを介して理解すること。これは学問のプロ(専門家)がやることではない。アマチュアだからこそできることだ。そうしてなにが起きてくるか?それはわからない。ここで、再びハイデガーについてだけれど、言語の存在を表象することは、歴史(江戸時代)に投企(投射)された言語の姿を思い浮かべてこそ、可能となるとおもう。デリダに傾く言い方かもしれないが、言語は、差異が自ら差異化していくように存在する、そういう多様性を考え始めるのじゃないかしら


‪ ‪Bei der fortschreitenden Erkenntnis der Struktur des λόγος konnte es nicht ausbleiben, daß diese Phänomen des apophantischen >Als< in irgendeuner Gestalt in den Blick kam. ‬ーHeidegger


With the progress of knowledge about the structure of the logos, it was inevitable that this phenomenon of the apophantical “as” came to view in some form.


ロゴスの構造についての認識が進むにつれて、この命題的な「として」の現象は、なんらかの形態において視線に捉えられずにはいませんでした。

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Der Entwurf bertifft immer die volle Erschlossenheit des In-der-Welt-seins ーHeidegger


「投企はつねに、世界・内・存在の完全な開示性に相当します」(ハイデガー存在と時間』桑木務訳 岩波文庫)

Project always concerns the complete disclosed ness of being-in-the-world.

ーHeidegger


Und als geworfenes ist das Dasein in die Seinsart  de Entwurf  geworfen 

ーHeidegger


「そして、投げられたものとして現存在は、この投げる働きの在り方のなかに、投げ込まれているのです」(ハイデガー存在と時間』桑木務訳 岩波文庫)


拘束するな!天下に好きなことをもっと自由に喋らせろ!!を言う近代はフランス革命から始まると思う。サドにおける非言説的言説、文学的な無限に端緒を為す本源的呟きは、言語の存在を要求した。この欲望は、命名に忙しいルネッサンスのいかにも文法的な表象的秩序からは生まれてこなかった。

文法といえば、屈辱的に?ジョイスは最後まで外国語の文法を勉強した作家である。これはシュールレアリスムからみたら拘束だろう。たしかに拘束だが従属ではない。アナーキストのワイルドから影響を受けて、ジョイスは普遍の脱構築を考えた。50ヶ国語を利用して書いた『フィネガンズウエイク』における普遍言語なき普遍言語が生まれた。フランス革命モデルのグローバル近代からはみえてこないが、地域的にみると、多様な差異がみえてくる。帝国主義の国家と対等でそれからの自立的私をつくる戦略のヴァリエーションがある。江戸思想の朱子学の取り組みの意義も位置付けることができるのではないか


法律の理想はまことに社会民主主義なり。(国体論及び純正社会主義)ー北一輝


朱子学をどう読むのか?形の上にある理は見上げる他者で、形の下にある気は見下げる他者か?理は先行し、理と気は互いに離れない。常に二つの他者をもつべきだー起源なき廃墟へ行く



植民地化された国の思想・文化が見上げる他者は西欧である。モダニズムの時代は、西欧をみながら、どうして自己がオリジナルでないのかとアジアは自らを問い続ける。帝国主義が見下げる他者はアジア。ポストモダンの時代は、アジアをみながら、なぜ自分がオリジナルでしかないのかとヨーロッパは自らを問う。二つの他者をもつことによって、どこへ行くか?


アイルランドからの物の見方では、ヨーロッパは19世紀アイルランドの植民地化によって自己自身を植民地化したというのである。しかし自己自身を植民地化するとはどういうことか?わたしはよくわかっていない。マルクス主義の見方は単純過ぎるだろう。兎に角もしそうだとしたら、明治維新の近代が受け入れたヨーロッパは、帝国主義のヨーロッパでありまた自らを植民地化したヨーロッパであると言わなければならない。

考え方として、近代日本は明治維新によって植民地化を免れたといわれるのは嘘で、帝国主義として確立した限りにおいて他国を植民地化しただけでなく自らを植民地化したのであると。伝統をゼロにして近代化に対する抵抗をできなくしたと



ネオリベにおける何でもかんでも解決してくれる市場の概念を表象するためには、完全な知を思い浮かべなければならない。例えば何人かわからないが大勢集まったので、全員前向きで一列に一直線に並べる。全員が先の指示に従って「定理!」と叫ぶ。‪これが完全な知である。しかし一列のなかで他のことを喋るロゴスは魂と身体を奪われないでおこうとする‬


何でも解決してくれるネオリベ的市場の概念を表象する為には完全な知を思い浮かべる必要がある。そこでは死に場所もない。だから魂と身体を奪われまいとするロゴスは他のことを喋る


権利のない社会に反対するというときの権利は、人は人としてあることの意味を言語化した筋道としての理(ロゴス)は言語とともにあること、理(ロゴス)と言語なくしては人間はやっていけなくなるということを黙らない権利も含むとわたしは考えようとしています。もう未来がないかもしれないと言っても大袈裟ではない今日ほど、演劇とは何か?音楽とは何か?が社会との関係において問われることは無かったでしょう。演劇も音楽もそういう活動的在り方として社会において成り立つどんな権利であるかと語る理(ロゴス)が要請されているではないかとおもいます


ネオリベを批判するときは経済学が語る労働の内部にいるのか?また国語批判のときは言語学・文献学が語る諸言語(ラング)の内部にいるのか?死に場所が無いと考えるときは生物学が語る生物の内部にいるのだろうか?『朱子語類』における<理(ロゴス)は考える、故に言語と共に人は存在す>は自らを、経済学と言語学と生物学に投射する。方法として、投射される限りにおいて経済学と言語学と生物学の間に分節化はおきてこない。ネオリベと国語と死に場所が無いことは後期近代において一体としてある構造だから、この構造の批判が可能なのは「として」の理(ロゴス)によってである。今日理(ロゴス)にもとづくのは、知識人的士大夫か?否、現在は21世紀である。知識人的士大夫でないとすれば、専門は何ですかと問われても困惑している、何をやっているのかわからずワイワイガヤガヤと外部からやってきた市民かもしれず‪(“市民主義”ではない!)‬、そうであればこそ文学という孤児が大切であると言わなくてはならない


理(ロゴス)は筋道。人間の生死に筋道を与えて言語化する。理は理について言及する(形而上)。理は気(形而下)から離れない。知識人が基づくのは理であり、祀られる国家ではない


日本人はこだわりだすとつまらない。『徒然草』はこだわりのない和漢混淆文が書いた随筆で面白いね。隠遁しているが後醍醐天皇の政治をただす国内亡命のイメージをもっている?


伊藤仁斎『語孟字義』は、ドイツ留学生達の医学論文を保管する中之島図書館に展示していました。わたしは大きな関心をもちました。なぜこの書物が尊敬をもって大阪のここに堂々と展示されているのでしょうか?だから、近世・近代ー商業の大阪から学問文化と政治が立ち上がってきたーを証言する図書館をfor sellにしてはいけないのです。維新の橋下は、彼ら自身の為にも。東京中心主義に対する異議申し立てだったとしても、歴史の感覚ー学問文化の京都と商業の大阪と政治の江戸が形づくるネットワークのなかにおいて大阪が自立的な知をもちはじめたーをもっていないために、結局大阪を東京中心主義にしてしまうような明治維新の罪深い幻想に絡みとられてはいないでしょうか?


ジジェク知名度ないの?私はズレちゃっている。ロンドン時代は何処にでもいたように感じた(笑)。現在日本は知識人が出ていないのは議論できるポストモダンの思想誌がないから?


資本主義の交換様式は貧富の格差をもたらすが多様なものを生み出すと教える言説がある。アングロサクソンの国をまわると、何処の街も同じにみえるけど?他方で国家の交換様式は奪って与えると教える言説があるが、資本主義に対抗して実際に富の再分配をしているか一度見にきてよ、go toアベノマスク日本


交換様式・互酬的Xのユートピアを言うけれど、互酬の機能が常に正とは限らない。(安倍からはじまった)ヘイトスピーチにおける負の互酬構造の危険を知らないの?


二十代のときに頼まれて家庭教師した台湾人が話していたのだけれど、彼女の兄が李登輝さんに招かれて彼の自慢の書斎に入ったら置いてあったのは殆ど日本語で書かれた本だったという


先づ自然の言語は鄕土の方言ありて、五方各同じからず、又時世に隨ひても移りかはるもの也。然るに字音は、他國の音をうつせる者にして、もと此方の自然の者に非るが故に、方音の差たがひあることなく天下同一に天はテン地はチにして、異音なし。(漢字三音考)


東京裁判』は、映画史に残る作品なのか知らないけれど、わたしはどうして大川周明の映像しか覚えていないのだろうか?あれは実は、身振りやジェスチャーの映画なのかもしれない。映画史とは何か?映画史は思想史よりも知られていない。ゴダールによると映画の編集はアルバムの写真をどう並べるか考えるときのようなものだと言っていたが、そんなアルバムは、見取り図みたいなものを前提にしていて、可視的なものに光を置く博物学的空間である。ここから、映画史というのは映画と映画をどう並べるか考える考古学的時間といえようか。問題は映画史の編集をどう読むかにある。ここが大事。この映画を無関係に思っていたあの映画に向かって直線を引く。互いに遠いものどうしを近づけよだ。そうして目に見える表層にどんどん多様性が増殖していく一方で、奥深いところに目に見えないびっくりするような大きな統一性が成立していくことになる。否、そんな統一性は一瞬あるようにおもうだけだ。映画のように儚い...


他者の空間の基本的配置(形而上の見上げる他者、形而下の見下げる他者)は、地球環境と言語がともに存在する可能性の空間である。だけれど21世紀において現れてきた大きすぎる他者をどうしていいかわからずに、ここの中心にどんどん巻かれていき、この僅か数年のうちに、生存条件がモノを言う生活条件の現実の空間で覆い尽くされるかもしれない。1970年代からはじまった、逃げろや逃げろというスローガンは楽観的過ぎたかもしれないが、巻かれたら巻き返せ、トータルに確立した物の見方のなかで別の見方を構成する知のあり方を一緒に考えるときがいまではないか


前後の順序を正しく問う。政治的独立の「後」に、独立運動だけが存在したという植民地時代が表象される。ナショナリズムの「前」に、帝国と対等で自立した精神的反逆が存在していた



前後の順序を正しく問う。明治維新における政治的「独立」の後に、反幕の独立運動だけが存在したと表象される。ナショナリズムの前に、西欧と対等で自立した普遍性に依拠する言説が存在していた(横井小楠等)


20世紀精神史に書き記すことがあるとしたら..


嘗て近代主義ポストモダン天皇擁護の前近代と見做した。近代主義はいつまで国家祭祀の近代を問題にしないから天皇ファシズムの近代がみえない。近代主義ポストモダンが批判するスターリズムの近代も反近代的文革の近代も無かったことにするわけにはいかないだろう。今度は、多分おなじところから、近代主義のなかでネオリベの思想と等置する見方が出てきた。だけれど今日ネオリベの物の見方が確立しているならば、そのなかからそれにたいして別の見方をするのがポストモダンの構成である。議論すべき日本ポストモダンの問題は近代主義に戻ってしまったことである。これをどう考えるか?近代主義永久革命が停滞している自己の深い絶望にしか関心がないとき、愛国者とおなじものに接近しているようにみえるのだが、もし本当に愛国者になってしまったら近代主義でもないのだろう。丸山真男は専門の政治学以外のことを語らなかったのは近代主義における否定の力を自己に対しても厳しく適用していたからだろう(そうして言論によっては覆されない絶対権威になった問題はある)。国家と対等で自立的な私を構成するポストモダンの肯定を棄てて、近代主義に戻っていきながら、しかし近代主義の国家から独立している永久革命的否定の力に依らないようでは、世界の半分しかみていないのにトータルに何でもかんでも喋るという構造主義的になって、そうしてオリジナリテイを再発見したと錯視して天皇にもとづくあり方になるのか?これも明治維新の近代がもたらすことになった痛い精神的従属ではないかと、20世紀精神史に書き記すことをわたしは考えようとしている


トイレはですね、『ユリシーズ』のなかでの描写ー広告の仕事をしているブルームがおもいついた広告のキャッチフレーズを新聞紙に書き留めてはくだらないという感じで水に流してしまうーを思い出すのです。トイレこそは魂の秘密を考える洞窟的闇だおもうのです。トイレこそは物(うんこ)と身体との境界の印象がうまれる場所でもあります。その洞窟的闇において、言語(ランガージュ)はおのずから透明となりますから、本も集中して読めますね、iPhone で映画を観るのもよし。わたしは大昔、トイレット博士が好きな友達の気持ちがなんかわかって来ました。

追記. ゴダールのスイスへは何度か旅行しましたが、ほんとうに面白くない国ですが、ルソーが流離ったところ行くと、魂と身体の曖昧な境界についての印象がうまれる場所がありますね


『書を捨てよ町へ出よう』はポジティブでアグレッシブだったが、コロナ禍を契機に、「これでいいのか?」と芸術は自らを問う。初めて世界と一緒のおなじ苦しみに立つことになった


中江兆民はphilosopheを「理学」と訳す。漢文の伝統は抵抗の拠点だ。実際に幕末の知識人的活動家の流れを汲む自由民権運動は漢文的思考に頼っていた。「本当は大したことがない」のは「哲学」と指示した井上哲次郎。翻訳において朱子学の語彙を利用してきたくせに、philosopheに関しては、「哲学」と読んだら何のことかわからなくさせる武装解除である


推敲中

BLACKBOARD 黒板 32

 Foucault

‪「言葉と物」を読むと、単純なものは、互いに切り離せぬ関係を以て、複雑な表象をもつものから自立している。此処から、思考を構成する四つのもの(分節、主辞-属辞関係、指示、派生)へ展開するというような書き方をフーコはする。画家がそいうふうに描いていくことになったというべきか。ネグリ帝国論(世界資本主義v.s.マルチチュード)から、恰も世界史の必然性を以て(?)、柄谷グローバル帝国論 (アメリカ、ロシア、ヨーロッパ、中国)が展開する今日の言説は、画家の描き方を反復しているだけだ


推敲中

ジョイスの多言語テクストの翻訳(日本語)を指さして、どの国の言葉からの翻訳かと問う者は、翻訳が全部オリジナルだと気がつかない。書記言語としての「古事記」についても、近代主義者はどの国の言葉からの翻訳と考えるが、コピー(翻訳)が先、オリジナルが後!コピーの前を起源と考える必要なし!


BLACKBOARD 黒板 32

 Foucault

‪「言葉と物」を読むと、単純なものは、互いに切り離せぬ関係を以て、複雑な表象をもつものから自立している。此処から、思考を構成する四つのもの(分節、主辞-属辞関係、指示、派生)へ展開するというような書き方をフーコはする。画家がそいうふうに描いていくことになったというべきか。ネグリ帝国論(世界資本主義v.s.マルチチュード)から、恰も世界史の必然性を以て(?)、柄谷グローバル帝国論 (アメリカ、ロシア、ヨーロッパ、中国)が展開する今日の言説は、文字で描く画家の描き方近代を反復しているだけだ。‪沈黙する映像のカオスに対しては無秩序の言説で対抗すべきなのだ‬