石田梅岩を讃える  「第四章 形は直ちに心と知るべし  梅岩心学をどう読むべきなのか」

石田梅岩を讃える


「第四章  形は直ちに心と知るべし  梅岩心学をどう読むべきなのか」


 

江戸の武士政権によって、天皇・貴族・寺社が独占してきた学問にアクセスできるようになった農民や町人の中から、心学とその運動を創始した石田梅岩(1685‐1744)のように、形而上学を構築するものが出てきた。こうして、17世紀にアジアの知識革命が起きたといえる。これは特筆すべきことである。しかし、この「学び」の脱階級的な意義を明治国家と和辻哲郎の人倫国家は理解しなかった。その理由は何であろうか。

この問いには、なぜ「明治維新の近代」の考察で石田梅岩を取り上げるのか、という問いが答え得る。近代は、前近代をして自己を実現するぐらいのものとしか考えないが、これは自己正当化の認識のとんでもない傲慢かもしれない。

例えば、薩長の王政復古のクーデターによって天皇にすべての権力を集中させて成り立った明治維新の近代は、江戸時代の理想を実現することに失敗した、と考えてみたらどうだろうか。実際、明治維新は新権門体制を確立して不平等を拡大させたのではなかったか。では、江戸時代の理想とは何か。差別のない世の中という理想である。一方、同時代の西欧のように差別を無くしていく社会的方法を具体的に論じることは、政治権力をもつ武士政権を批判する危険な行いであったから、商人出身の伊藤仁斎はそれを道徳的に議論した。また、形而上学的に平等とその意味を考えたのが、農民・商人出身の石田梅岩であった。江戸という時代は商人と農民が学問をした時代である。特権階級である天皇・貴族・寺社から奪った学問を、武士は商人と農民に与えたのである。

 

農家に生まれて、京都の商家へ奉公に出された後に心学を創始した石田梅岩は、「形は直ちに心と知るべし」と説く。ここでいう「形」とは、「真の<人間的平等>への心学的苦闘」を続けた石田梅岩が、商人の人間的・倫理的価値主体の確立を意図したときに出てきた概念であり、「社会的存在としての人の具体性」をいう。「その存在の具体性において、その存在に求められている行為を端的になすことを『形ヲ践(ふ)』むというのである。」そして、「心ノ工夫」という精神をいうことによって、「現に、<形>としてある自己を、自然必然的な存在と観ずる自己否定の能動性が、その<形>に対応する<則>を没我的に遂行する主体、一個の倫理的主体を成立させるのである」。朱子は「気が直ちに道理だ」と言った。つまり、形とは、具体的な存在のあり方であり、天から与えられた、と子安氏は読む。伊藤仁斎のように、(ただし朱子の思想的枠組みを棄てることなく)石田梅岩朱子の「克己復礼」を彼なりに解釈したらしい。「形は直ちに心と知るべし」は目覚めの契機を指示しているのが、その心学の面白さである。

 

「武士的主従関係における献身的な<臣>のあり方を一般化し、『総ジテ重モ軽モ人ニ事ル者ハ臣ナリ』と商人の実践的な主体のあり方をも<臣>ととらえるのである。そしてかく商人を<臣>ととらえることによって、献身的な臣の能動性と倫理性とを商人的主体に保持せしめようとするのである。」

「私がここに見ようとするのは、この<心学>としてはじめてなしえた商人の人間的価値主義の確立である」。

 

「梅岩が商工業者を『市井ノ臣』ととらえたことはよく知られている」。

「梅岩は士農工商をいずれも<臣>ととらえ、商人が臣として相事するのは<天下>であるという」。

 

ここで、子安氏は葉隠の武士道のパトス(家光の死以降殉死が禁止される)に注意を促す。武士道のパトスの知が商業の取引の場で実現していくのではないかというのである。ここで、パトスが武士から商人へ移動する関係のダイナミズムを観察できるかもしれない。「君ニ事(つかえまつ)ルヲ奉公ト云、奉公ハ我身ヲ君ニ任セテ忘レタルナリ」(『石田先生語録』巻八)という献身の忘我性の強調は、武士と商人の間に共通のパトスがあることを読み取ることができる。

 

「『維新』的近代の幻想」における石田梅岩論は、和辻哲郎は梅岩をどのように読んだのかという問いから始まるといえる。石田梅岩は「商人ニ商人ノ道アルコトヲ教ユルナリ」と言っているが、和辻哲郎によって語られる昭和の時代精神という「日本精神」は超克という視点であるため、石田梅岩に否定的だったという。和辻哲郎にとって、石田梅岩の心学は「町人根性」として表象され、「質の悪い切り捨て的な言葉」で一掃された。人倫的国家日本はこの「町人根性」を超克しなければ真の国家共同体に非らず、と和辻哲郎はみた、と子安氏は説いている。