柄谷行人のカント

1、「それ〔「目的の国」〕は現実的・経済的基盤を欠いたものではありえない。カントが「目的の国」を統整的理念としてみたことは、資本制経済への批判をはらんでいる。資本制経済は「他者の人格における人間性を目的として扱う」ということを致命的に不可能にするからである」(柄谷行人)。
2、確かにその通りだ。柄谷の画期的な視点はカントから語り始めた点にある。「トランスクリテイーク」は、道徳批判として資本制経済への批判をもつカントから、マルクスへ行く。カントが問題提起したこと、それは、ほかならない、マルクス資本論』に答えが書いてあるからである。
3、W-G-WとG-W-G'、この両者は、資本主義経済において相補的に存在する。グローバル資本主義の問題は、究極的に、G-G'に統合してしまうことにある。このグローバル資本主義の限界は労働力の商品化の無理に起因するが、これを解決するために、世界帝国の構造化が現実化していると見抜く。
4、そこで、(それぞれの)世界帝国における文化多元主義があたかも世界史的に正当化されているように語り出す。だけれど、柄谷行人が決定的に分からなくなるのはここからなのである。柄谷のカントから語りはじめたその画期的な視点は一体どこへ消えてしまったのだろうか?柄谷がいう帝国の構造におけるような文化多元主義もまた、「他者の人格における人間性を目的として扱う」ことを不可能としてしまわないだろうか?政治的多元主義からはこの問題が問われるべきなのである。

紀元前5世紀の「聖なる時代」

‪われわれはどんな時代に生きているのだろうかと考えますと、グローバル資本主義の前に無力となってしまった時代のことをおもうのです。対抗的に、国家を作り直そうと一生懸命かんがえる人たちが少なからずいます。しかしその国家が容赦なく戦争法と共謀罪をつくるのですけれどね。リベラリズムも、話を聞いていると、情けないことに、ヨーロッパのリベラリズムしか考えていないんじゃないのかしら。確かに、17世紀から現在を批判的にみる見方をもつことは大切でしょう。だけれどヨーロッパのコンテクストからこの時代の意味を考えていただけでは、アジアに生きる現在の意味がはっきりみえてくるかわかりませんね。ふたたび、われわれはどんな時代に生きているのかという呟きにかえります。なにも依ることができなくなってくるだろうと予感させる時代。だからこそ、他者に依るしかなくなった実存的主体があらわれて来ざるを得ないと考えたりもします。九月末『論語塾』のときに言及されたことですが、これほどの末法の時代は、紀元前5世紀、人類史の「聖なる時代」に似ているかもしれません。この五百年間のあいだの時代に、例外的に、キリストと釈迦と孔子という存在があらわれました。伝説として語られる、これらの超越的な賢人たちはほんとうにそれほど超越的だったのだろうかとおもいます。寧ろ彼らが根源的に問うた「人とはなにか」は、実存的主体が発する行いとしてあったのではないでしょうか?

啓蒙主義

不思議なことは、外国に暮らした皆さんもまったく同じ経験をもっていることでしょうが、現地の人たちがわざわざ外国人の自分に道を聞いてくることですね。同じ国の人に聞くのが恥ずかしいからなのでしょう。でもわたし達は外国人に道を聞いたりはしませんよね。この非対称はなんだろうか?ひとつの仮説として、ヨーロッパには知っていなければならないことを知らないことを恥ずかしいと感じる啓蒙主義の伝統があるからではないでしょうか。17世紀の日本にも啓蒙主義があることはあったが、だけれど明治の近代によってヨーロッパ啓蒙主義に完全に置き換えられてしまった結果、まだそれを獲得できないままに、知っていなければならないことを知らないことを恥とするような感覚が身についていないのではないですかね?

指輪の力とは?ー ワグナー「神々の黄昏」

ワグナー「神々の黄昏」では、<指輪>がジークフリートに、現在の王権を正当化する作り物語の語り手としての権力を与える?英雄(彼自身)がブリュンヒルデを救うという、主神ヴォーダンの統一を阻むに等しい行為を思いだす所で、ジークフリートはハーゲンに殺されてしまうのだ。
‪「神々の黄昏」のブリュンヒルデは世界の端にいる。ジークフリートの忘却の悲劇。世界秩序の存在すら知られない末法の世。だけれど、末法の世だからこそ、神々の支配する秩序がなくなる。そこでは目覚めは死。夢を発明し続けなければならないのかもしれない。と、新しく無から創造されてくる世界は、驚くべきことに、無であったその起源と非常に似ている。終わりから始まる反復。だがブリュンヒルデの神々の領域から書いた脱出線は無に至るとき、ヴォーダンを反復することはないだろう‬。

否定

左翼的ラジカリズムの否定し尽くす否定は自らを消滅させてしまう。切実な問題である。解体<近代>は自ら近代に絡みとられていたのだ。反省した(反省したはずの)左翼は、消すことができぬ差異(他者)を拠り所にする思想の形を求めた。ここから、市民的多様性へ行く。

普遍主義

‪現在は、グローバル資本主義から自立した、新しい普遍主義の再構成を為すまでは、過去の衣装('リベラル')を借りているようにみえる。どうも、一国主義の悪い形に規定されながら、新しい普遍主義の再構成を行うことを余儀なくされる。外部の新しい経験よりも、一国主義に希望があるーその形も約束もないままに。‪いきなり希望が奪われる、いきなり希望を与えられたときのように