紀元前5世紀の「聖なる時代」
われわれはどんな時代に生きているのだろうかと考えますと、グローバル資本主義の前に無力となってしまった時代のことをおもうのです。対抗的に、国家を作り直そうと一生懸命かんがえる人たちが少なからずいます。しかしその国家が容赦なく戦争法と共謀罪をつくるのですけれどね。リベラリズムも、話を聞いていると、情けないことに、ヨーロッパのリベラリズムしか考えていないんじゃないのかしら。確かに、17世紀から現在を批判的にみる見方をもつことは大切でしょう。だけれどヨーロッパのコンテクストからこの時代の意味を考えていただけでは、アジアに生きる現在の意味がはっきりみえてくるかわかりませんね。ふたたび、われわれはどんな時代に生きているのかという呟きにかえります。なにも依ることができなくなってくるだろうと予感させる時代。だからこそ、他者に依るしかなくなった実存的主体があらわれて来ざるを得ないと考えたりもします。九月末『論語塾』のときに言及されたことですが、これほどの末法の時代は、紀元前5世紀、人類史の「聖なる時代」に似ているかもしれません。この五百年間のあいだの時代に、例外的に、キリストと釈迦と孔子という存在があらわれました。伝説として語られる、これらの超越的な賢人たちはほんとうにそれほど超越的だったのだろうかとおもいます。寧ろ彼らが根源的に問うた「人とはなにか」は、実存的主体が発する行いとしてあったのではないでしょうか?
啓蒙主義
不思議なことは、外国に暮らした皆さんもまったく同じ経験をもっていることでしょうが、現地の人たちがわざわざ外国人の自分に道を聞いてくることですね。同じ国の人に聞くのが恥ずかしいからなのでしょう。でもわたし達は外国人に道を聞いたりはしませんよね。この非対称はなんだろうか?ひとつの仮説として、ヨーロッパには知っていなければならないことを知らないことを恥ずかしいと感じる啓蒙主義の伝統があるからではないでしょうか。17世紀の日本にも啓蒙主義があることはあったが、だけれど明治の近代によってヨーロッパ啓蒙主義に完全に置き換えられてしまった結果、まだそれを獲得できないままに、知っていなければならないことを知らないことを恥とするような感覚が身についていないのではないですかね?
指輪の力とは?ー ワグナー「神々の黄昏」
否定
左翼的ラジカリズムの否定し尽くす否定は自らを消滅させてしまう。切実な問題である。解体<近代>は自ら近代に絡みとられていたのだ。反省した(反省したはずの)左翼は、消すことができぬ差異(他者)を拠り所にする思想の形を求めた。ここから、市民的多様性へ行く。