紛争地域から生まれた演劇シリーズ; 「修復不能」(アフガニスタン)の感想文

 

東京芸術劇場アトリエウウエストで、

公家義徳演出「修復不能」(アフガニスタン)のゲネプロを観劇しました。

紛争地域から生まれた'わたし'に、誰にも似ていない誰かが近づいて来ます。意味を意味で刻むポストコロニアリズムではなく、重大な事は対立する民族の秩序の背後にもう一つの秩序があるということをわれわれが知っていることです。それは、正義と人間にほかなりません。存在感のある小山萌子氏による朗読のパフーマンスが素晴らしかったです。

アフガニスタンの芝居「修復不能」(朗読劇)は、後藤さんが素晴らしい翻訳を与えてくださいました。翻訳監修の、ヒンディ・ウルドゥー語の専門家でいらっしゃいます村山さんによりますと、歴史的には、沢山の国に囲まれたアフガニスタンは「廊下」のような場所だと教えていただきました。ところが、芝居のなかでは、「氷の中に」閉じ込められたように、身体的には互いに離れることができなくらい密着し合っているのに、人々の間にはコミュニケーションの「廊下」が失われてしまっているのですね。芝居は、真の'一体性'とはなにかを問うています。やはり日本の現実について考えず済ますことはできません。'いくら過去を忘れるなといっても正義がなければ意味がない'という言葉は、非常に重いことばです。まさしく、大日本帝国憲法に回帰する安倍自民党に向かって突きつけたい言葉だと思いました。
芝居はルソーを思い出させてくれました。私は専門家ではありませんけれど、やはりルソーはまず政治的・社会的な'一体性'の意義を訴えたのだと思います。それから、'我々は一つになるためには我々は等しく平等でなけれならぬ'というふうに考えたのではないでしょうか。だからといって、その'一体性'を民族主義と狭く解する必然性などありません。'一体性'とは、いま風にいえば、誰もが等しくアクセスできる公共空間のこと。公共空間の代表選手はことばです。ちなみにわたしがいたアイルランドは、19世紀にことばを奪われた国でした。言い換えると、公共空間を奪われた国です。さて、われわれが考えなければならない公共空間としては、等しく教育を受ける権利とか、公共放送のことがありますね。現在その教育を受ける権利も公共放送の経営も、政教分離を超える国家神道権威主義と資本主義的市場万能主義によって、日々破壊されています。とくに強制採決された秘密保護法によって、「氷の中に」閉じ込められはじめたという思いです。演出家の公家さんは、できることなら、この芝居を福島に持っていきたいとおしゃっていました。