冤罪事件の裁判はなぜ、かくも時間がかかるのでしょうか?

冤罪事件の裁判はなぜ、かくも時間がかかるのでしょうか?昔、免田事件を解決した人権弁護士 (倉田氏) から直にきいたことがあります。途中で、裁判を引き継いでいく検察官達が無罪だと気がつくのであるが、(犯人を処罰しなければ気が済まぬという)世論の反発を恐れて取り下げることができず、裁判官に無罪を言い渡してもらうのを待っているようなのです。ところが裁判官の方は検事の言葉をずっと信じ切っていますから有罪ときめつけたまま、非人間的に何十年が過ぎてしまうというのですね。
裁判官が検事にたいして、ある種の誠実さを感じるのも大変危険なこと。選ばれた国家意識 かもしれませんが 、プライドをもっている自分自身の'潔癖さ'(?)を検事のなかにみているという態度、これは、冤罪をもたらす原因のひとつとしてあるかもしれませんね。(死刑制度に賛成してしまう国家意識が定位するのも、処刑を行う国家に対するある種の幻想)。3・11以前の安全神話との類似性はないでしょうか?一考の価値があります。それほど明確な根拠もあるわけでもないのに、国が国であるというだけの理由で国ならばそれほど不誠実なこともしないだろうと勝手に思い込んでしまい、または思い込まされたあげく、疑う声や反対する声を安易に異常視してしまう一方で、多数派に属す自分自身だけを潔癖に正常とみなしてひたすら安心するという'普通'の感覚に染み込んでいった、こうした安全神話がもたらした現実の結果は一体何であったかということです。もういい加減、冤罪を容認していく構造から、また根拠なき安全神話および新安全神話からも卒業したいとおもいます