思想史とはなにか

思想史とはなにか

わからない!しかし思想史とてわれわれ人間が語るのである。さてその人間といえば、二つの物をそう簡単に切り離すことに躊躇するものだ。だから思想史もきっと同様の仕方で、アイデンティティアイデンティティの間の交通をみるのだろう。ところでこれらに関して、アイデンティティだけがあり非アイデンティティがないとか、逆に、非アイデンティティだけがありアイデンティティはない、ということは起きない。認識的な保存則といえるかもしれないが、思想史がこの保存則を政治的にみようとする理由は、われわれがわれわれとして意識されてくるのが政治においてだからだ。思想史からみると、政治は、反・新植民地主義復活の68年からマィノリティー的な非アイデンティティにある。思想史は、ソビエトが崩壊し「脱政治化」がいわれる80年代以降は、政治が、市民社会的な<われ=われ>のアイデンティティに依拠し始めたことを語るだろう。

オーストリア帝国の崩壊は、ノマド的集団において脱領土的な理念性として回復していく。そうしてドゥルーズは、反普遍主義マイナー文学に、カフカ文学の孕む動物の如きイデッシュ語的ノイズに期待したのである。しかし、ドゥルーズは、かれを継承した米国ポストコロニアリズム理論と柄谷のように、諸文化の固有性(民族が主体)に、または「儒教」という「帝国」の理念(国家が主体)に、抵抗を委ねただろうか?私の整理ではあるが、ここでいうポストコロニアリズムとは、ポストモダニズムのモダン化のこと。そしてこの言説は、歴史の終焉を終焉させる主体として世界資本主義を正す民族と国家を指差しす。しかしイラク戦争反戦運動とオキュパイ運動以降に現れてきた、青年マルクスが理論的に言った市民社会の政治化を見ようとはしないのである