なぜ、ツイッターの掲示板に現れるかくも多くの匿名の意見が、スケープゴートに嵌まるのか?

誰からも見られず、誰にも聞かれたくない心の中の内部は、驚くほどの多様性を生産する。そもそも芸術はこの<私>の領域がなければ成り立たない。さてこの<私>の領域を敢えて<公>の領域に、(ネットは半ー公か?)、接続するときに、自分が何者かを開示する努力が大切とされる理由はなにゆえか?ツイッターの掲示板に現れるかくも多くの匿名の意見の多くが、スケープゴートに嵌まるのは、書き手が他を排する私の領域から書いているからではないだろうか。他を排するのは、<私>の領域の性質、すなわち、誰からも見られず,誰にも聞かれたくないという心の性質に由来するように思われる。一方、芸術家ならば自分が何者かを開示することに重いオブセッションがあるが、それは自らを、スケープゴートという貧しい表現に陥らないようにするために欠かせぬ努力だからに相違ない。しかし現実には、痛々しいことに、この努力が実ることが少ないのは、やはり事柄の性質上、その芸術家が定位する<私>の領域 (誰からも見られず,誰にも聞かれたくない)と、<公>の領域(未来の人々を含めて誰からも見られ誰にも聞かれたい)は一致するものではないし、根本的に反発し合うからだ。つまり無理が生じるということ。芸術のなかで例外的にうまくやっているのは、演劇だ。おそらく演劇が他の芸術と比して一番長く続くことができた理由もここに。