言葉について考える

意外にも、「フィネガンズウェイク」にエスペラント語を利用した造語があまりみつからない。理由は分からないが、やはりいくらエスペラント語が社会主義原理の民族語を超える構築性をもつとしても所詮、国家モデルのバベルの塔的な野心。(ジョイスのような) アナーキストの目覚めぬ夢の言語の発明が依拠するに値するほどの参照系にあらずということか。
ここで、理論的にかんがえてみよう。仮に民族語をなるべく平等に利用した人工言語Xをある国家がもつとしよう。Xのつくり方から、国家の民族語を超える構築的普遍性が証明されるか?Xという特殊から特殊でないものを導き出すのは矛盾。こうして結論が成り立たないとすれば、それは、そもそも国家に先行して民族語が実体的に存在するという前提が偽なのだ。
最後に「階級という便利な言葉をもってきても、いくらでも、ひとりひとり、はみ出してしまうのである」、と語る小田実は、ジョイスに近い民衆史批判だ。ところでスターリン主義者なのに、(だからこそ?) 靖国公式参拝に曖昧な人もいる。それは彼らが近代以降の産物の靖国に古代的起源を見ようとするからだ。愛国的民衆史が、民族語の幻想だけでなく、こうした遠近法の転倒を起こす原因である。