ショスタコーヴィチを聴きはじめた17歳のとき、<政治に関心を持たずに道徳的にふるまうことはできるか?>ということについて考えました

<政治に関心を持たずに道徳的にふるまうことはできるか?>については、ショスタコーヴィチを聴いたとき常に考えました。

<政治に関心を持たずに道徳的にふるまうことはできるか?>Peut-on agir moralement sans s’intéresser à la politique ? これは、2013年に、理系 (scientifique; S) の生徒に課されたバカロレア(baccalauréat) の哲学の問題ですが、一定の多くの人からRTされていましたから、多分きっと現在の共通の関心事といえるのではないでしょうか。ところでこの共通の関心は何を意味するかです。はたして単なる知的なものにとどまるのか?既存の政治の行き詰まり感から、道徳のなかに回復したいと望んでいるのだろうか?否、もうこれ以上道徳に絡みとられてしまう事態に危機感を?それとも、もっと他の大事なことがあるのでしょうか?一...考の価値があります。<政治に関心を持たずに道徳的にふるまうことはできるか?>というテーマは、最近では、(BFIで五年前?) 、大島渚「愛と希望の街」を観て考えました。しかしこれについてはもっと遡りますと、高校生のときです。ショスタコーヴィチを聴きはじめた時代 (たしかバーンスタインの演奏でした) 。作曲家が遺書のなかで説明したように、スターリニズム体制によって殺された多くの人々への鎮魂歌としてつくったのだとしたら、なにがしか、音楽作品をとおして、かれの道徳性をきいていることになります。悲痛なロマン主義の音楽。しかし単純ではありません。他方、ジャーナリズム的に、音楽アカデミーの最高責任者として政治犯でつかまった仲間に対する処刑を承諾した事実のことを考えると、安泰に聴き浸っていたショスタコーヴィチの音楽がそれほど透明ではなくなります。<政治に関心を持たずに純粋に音楽をきくことができるか?>ですね。当時こんなことを周りにいた音楽好きの先生たちに問うても、'何を喋っているんだ?'という反応しかなかったのが、非常に失望させられたことでした。音楽史のなかにしかショスタコーヴィチは存在しません。それも政治的なんだと気がつくのにそれほど時間を要しませんでしたが。嗚呼、17歳。
<政治に関心を持たずに道徳的にふるまうことはできるか?>というテーマは、大島渚「愛と希望の街」によって、考えることができます。大島が最初につくったのは、靴磨きの母と少年をえがいたこの映画でした。簡単に紹介しておきましょう。仕事をする母の横で少年は鳩が入っている籠をもっています。少年は鳩を売っています。ところが客に売られた鳩は少年のもとに戻ってくるように訓練されていたのです 。ところでアリストテレス倫理学」を近代的に超える探求として、アダムスミス「道徳感情論」は、主観的な心の痛みの分かち合いから、富者と貧者の間の道徳的和解が成り立ちうると考えました。このアダム・スミスといえば、レッセフェール的な「国富論」とだけ結びつくのですが、それを補うような、こんないわゆるヒューマニズムの本を書いていたことはもっと知られるべきだとおもいます。さて、これにたいして、大島渚「愛と希望の街」は、このようなアダムスミスが考えたヒューマニズムを、ブルジョアにとって都合がいい体制協調主義として弾劾しました。これは大島による戦後民主主義批判ですね。かれの処女作であった「愛と希望の街」というタイトルは、アイロニーに満ちています。映画の決して忘れることができないラストの場面では、貧しい少年のもとに飛び立っていく「和解」の象徴となるはずの「鳩」が、金持ち(少年の先生の兄) によって、無慈悲に!ライフル銃で撃ち落とされてしまいます。