知識人'は本当にそれほど、「死語」なのか?

'知識人'は本当にそれほど、「死語」なのか?

間違いのリスクを負いながらもあえて専門外のことについて発言していくこと、たんに抽象的な思想の羅列ではなく具体的な人間像の呈示を通して(その意味で思想に即して) 文学的に語ること、その結果生活のあらゆる事柄に介入してくるほどの体系的'上から視線'であるということ。こんな古典的な意味の'知識人'は、(<日本村>のなかでは)、「死語」となっているかもしれません。もはや「知識層」しかおらず、柄谷以降知識人は中々出てきません。とはいえ、現実に原発問題のような生命にかかわる危険が生じてくるとき、知識層がただ中立的傍観者的に、専門でないことに甘んじて、科学者の判断に任せればいいのかというと、それは果たして倫理的にゆるされるかどうかです。3・11以降、理念としての知識人のあり方が新たな形で問われてくたのだと思います。現実に、安倍のネオリベ経済政策については、もはや専門家の高度な数学に通じた特権的な知識に委ねることはできないと考えた人々が、知識人的に、発言してこなければならなくなってきました。OWSの前と後の違いです。憲法の死を前にして、理念としての知識人のあり方も'死んだ'とき、ではいったいだれが喜びだれにとって有利になるのかということです。それは言う必要がないほどあまりにも明らかではないでしょうか