「資本論」の思想史、への招待 ー 日本知識人における知のひび割れた肖像画を批判的に記述すること

資本論」の思想史、への招待 ― ー 日本知識人における知のひび割れた肖像画を批判的に記述すること

グローバル資本主義に抵抗していく世界同時的に起きている市民運動、これをいかに思想にしていくかが現在の課題です。ところが日本知識人ほど「資本論」にこだわる知識人はいません。この意味で資本論」は日本の知のひび割れた肖像画に対応します。知識人の資本論」へのこだわりから見ることができなくなった自己と世界の関係、それを問うのが「資本論」の思想史。日本の市民運動がこの「資本論」のいかにも九条的な純化に依拠できるかということが思想的に問われます。少し具体的に説明しますと、子安氏の指摘によれば、柄谷の過大な構造論的読みにおいて、(「資本論」が解けない) 資本主義の時代が消えてしまいました。「世界史の構造」の記述か市民運動の語も消えます。(市民運動の全部の可能性が消費者運動に置き換えられる)。最終的に帝国の経験が解決の糸口と説くのです。が、ウオール・ストリートのオキュパイ運動が起きる、グローバル資本主義の時代に不可避的にあらわれてきた一連の動乱、天安門事件からアラブの春は、再び民族問題としてとらえるとしたらアナクロニズム。ところがこれらの市民運動を民族運動として執拗に置き換えていくのが、モダニズムのモダニズムの所以か?(マルクスは「ユダヤ人問題」「経哲草稿」で見抜いていました)。近代のこの置き換えに沿って、反動的な言説をつくる知識人のネットワークが現れてきました (「帝国・儒教・東アジア」)。モダニズムの言説とそれに抵抗していく言説は、「資本論」の思想史が記述していかなければなりません