子安宣邦「論語塾」のたたかいとはなにか?なぜ仁斎とともに読むのか?

運動としての、原初のテクスト

最初に、誰も言わなかった少し変わったことを「論語」について言いますと、この原初のテクストは運動です。無限の速さと遅さをもっています。象徴的にいうと、そのコンパクトによく統御された言葉は常に、彗星の如くあまりに速く過ぎ去ってしまうので後に何が通過したのか分かりません。またこれとは反対に、この原初のテクストは紀元前から実に遅い足取りでわれわれの現在のもとに届きました。この長い道のりの過程であまりに多くの媒介を包摂してきました。そうして、この一年間は、17世紀の伊藤仁斎が与えた注釈、さらに仁斎を読む子安氏の注釈を学ぶことによって、朱子的な本質と現象を重んじた注釈のあり方を批判的に読み直すことになりました。あえて、原初のテクストを読むことの無理を消し去らないこと。これは他者を消し去らないことにほかなりません。かくも、「役に立つ」実学偏重の方向とは異なる、反時代的な学びから得た大事な収穫のひとつは、漢字をもった東アジア文化圏という歴史的な空間の広がりを、「論語」の読みによって実感できるようになったことでしょうか。われわれにわれわれ自身のあり方を、外部から原初のテクストに即して、考えさせてくれる「遠方からきた友達」であります。


 

さて、柄谷独自のコンパクトな多義性の尺度では、宋はそれほど帝国的だったか?この時代に朱子は、アジア的社会構成体の互酬制から国家への移行を証言した「論語」を読んでいました。そして朱子の読みは、江戸時代の仁斎が京都の古義堂において、商業資本 G-G'の台頭の中で批判的に読んだのです。2014年現在、子安氏におけるこの仁斎の読みは、他でもないグローバル資本主義の危機がまさに促すものではないでしょうか?鍵となるのは、文献学と注釈学と、市民社会のマルクス主義的ポスト構造主義です。 このように原初的テクストの読みにおいては大きな歴史が互いに繋がり合っています。

伊藤仁斎が瞑想中心の知のあり方に限界を知るのは三十歳半ば。仁斎が部屋から廊下を横切って庭に出たとき、それは朱子の宇宙的精神主義の連続性を立ち切る流れ、言い換えれば、孔子の十余年間魯を去って諸国を歴遊した流れに再び繋がる流れを構成しました。17世紀の東アジアの知識革命はこの家から起きるのです。つまり、武士が台頭してくる近世に、朝廷・貴族・寺社が独占していた学問(儒学)に、商人をはじめとする民衆がはじめて接近することが可能となったということです。

今日書店に並ぶ現代語訳「論語」のハウツー的入門書や解説書はむしろ、"もう何も失うものがないからこそ、何かを獲得することができる"と期待する人々の為のものです。読者は、再び彼らが依った言説から内部の世界に何かを読み出すために、そうした身体の礼儀作法を教える功利的な言説を必要とするのであろうか。
呪縛してくる言説のあり方を問う意志というのは、"もう何も獲得できないときにも、なにかを失うことはできる' と、絶望しきった絶望感からしか到来しないのです。だから仁斎は「天道」を再び言ったのです。「論語」は専ら知的論争の方向に沿ってラディカル化しハイブリッド性を極大化していきました。一方礼の言説は極小化されていきました。

小林「本居宣長」も山口「文化と両義性」も、マルクス主義の貧しい単一的リアリズムを批判した問題意識から書き始めたにもかかわらず、再び単一視点に絡みとられた文学的読解・人類学的読解によって、二十世紀の「古事記」を祀る国家=戦う国家のために作り出していったのではないでしょうか。九十年代に「遅れてきた」子安宣邦の思想史転回は、七十年代・八十年代のそれらの知的へゲモ二ーの外部から現れて来たのであったー今日「論語塾」においてたたかいは継続中です。単一視点に絡みとられた文学的読解・人類学的読解にたいして、仁斎とともに読む「論語」の読みが織りなす、定義を避ける問題提起的な、文献学的視線を含んだ注釈学的思考が導入されてくることになります。このような注釈学的思考は、同じ重要な問いのもとに執拗に繰り返し帰っていく多孔性の抵抗の思考。「論語」のダイアローグの力はこの多孔性にかかっていたといっても言い過ぎではないが、この注釈学的思考は柄谷行人において決定的に見失われるものであろう。現在柄谷が行なっていることは、グローバル資本主義から起因する動乱を民族問題として整理し「帝国」の中心的役割をいう言説を蘇生させることに言い尽くされるが、このように彼が市民的抵抗を見ない態度は、古代のアジア的社会構成体の移行をみるとき、いかに、すでに注釈学的思考のノマド的問題提起の力が「国家」を植えないために戦争という形の多孔性をもたらしていたのか、そしてこれを時間的な発展の必然性に沿ってとらえなえなければならない観察を消去してしまったことにあわらていたのです。