大正全体は、大正文学をはじめ、明治の大理想を非常に世俗化した卑小な精神で語る言説空間。この空間は矛盾だらけさ。

1918年は、シュペングラーSpengler [西洋の没落」(第一巻) 刊行の年。この十年代から十九世紀が終わり二十世紀が始まるとされるが、渡辺一民氏「二十世紀精神史」も、1910年代のヨーロッパと大正の日本の比較からスタートした。1910年代といえば、この時代のウイーンは、解体したオーストリア・ハンガリー帝国まで視野を入れると、二十世紀の大きな仕事が十年代にでてきている。ヴィットゲンシュタイン「論理哲学論考」、ジョイス「ユリシーズ」原稿執筆、シェーンベルクの無調等々。実際は理解して読めていなかった聴いてもいなかったのだが、二十代の間に読んだり聞いたりした本とか音楽だな。ところで大正の作家に尊敬を受けている連中が多い。補習校で教えて気がついたが、中学校の教科書が大正の作家ばかりとりあげている。(まだ騙されやすい年齢の時につまみ食いするから?)。大正というのは、この大正文学をはじめ、明治の大理想を非常に世俗化した卑小な精神で語る言説空間。この空間は矛盾だらけさ。例えば上流階級が所有している知を取り返せ!という大スローガンで、それを体現する形でコンパクトな世界文学全集なる矮小なものが現れてくる (笑)。大正デモクラシーという大スローガンのもとで、(明治から発展してきた)帝国主義体制ー植民地主義の剥き出しの欲望が完成してくる(汗)。今日における高い内閣支持率と絶対平和主義の集団的自衛権の「痛い」原型といえば原型かね、大正は。但し決定的な違いは、現在は教養の担い手である中流が不可逆的に急速に崩壊しつつある。これはなにを意味していくのか考えていく必要がある。