ジョイスは無実

なぜ、言葉遊びがジョイスに起きてきたのでしょうか?彼の言葉遊びは、言い間違いに類似しています。ただしフロイトはどの言い間違いも例外なく、故意に行われていると見抜いたように、言い間違いも言葉遊びも、<未来からの回帰>というべき現象と関係しているのです。例えば、言い間違いというのは、未来に向かって喋るとき死に切った過去が話者の意識に介入するときに起きるということなのです。ならば、ジョイスの<ギリシャ精神のユダヤ人>という造語で、作家はなにかを言いたいのであります。それはなにか?歴史に即して考えますと、ジョイスの時代にアイルランドのナショナリズムの言説は、体育協会の古代スポーツの継承者という国家的身振りによって、古代ギリシャとの連続性を演出していました。これに対して、ジョイスは、ギリシャの過去を、<死に切った過去>としてとらえます。そうしてこの(称えられた) ギリシャの過去が、近代国家の発明物である(排除された)'ユダヤ人'を住処にしているという恐るべき反時代的なアイロニーで対抗してみせたのですね。三木清の場合も、過去を、死に切った過去と構成することによって、末法の時代の抵抗の意義が考えられました。この三木の先駆性は、靖国英霊を消滅させた戦後の憲法的構成において明らかであります。つまり象徴天皇制のもとの政経分離の原則のことですね。'英霊'は憲法の言葉を住処にするようになりました。ほかでもない、憲法に依る以上ー憲法の外に存在するのようにみえてもー、首相の憲法違反の靖国参拝はまさに'英霊'をホームレスにするということを首相ははっきりと知るべきなのです