近代の超克について

近代の超克について

東京国際映画祭のいかにも自民党的なPRがいうようには「日本」そのものが称えられたのではありません。そんな話は一度もきいたことがありません。唯一の映画は存在しません。だから、多様性の方向に向かって、<日本的>映画を表現した監督たちの仕事が、フランスとアメリカの映画人によって、高く評価されたのです。ところで、思想界において、これらの溝口・小津・黒沢・大島に対応するのが、<日本的>近代を考えた福沢・清沢・和辻・時枝・竹内・三木・丸山・吉本・小田等の思想家だったのではないでしょうか。肝心なことは、この<日本的>近代に留まらず、更にこれを超えていくことです。現在この仕事はポスト構造主義の柄谷と子安が行っています。実は中国は中国で、現在の思想的な位置を定める為に(西欧モデルと異なる)'中国的近代'というものを、アジア研究の日本知識人の協力を得て理論化しています。アメリカの研究者たちが中心になって発展させたポストコロニアリズム研究に依拠した文化理論のことですね。現実の政治に無視できない影響を与えています。なににであれ、現在アジアの最大の関心は、近代の超克といっても過言ではないでしょう。ここを舞台に、思想のバトルが繰り広げられようとしていることをぜひ、知っておいてください。