なぜ美術館は存在するのか?

なぜ美術館は存在するのか?

フランスの美術館の絵の数に圧倒されます。ルーブル美術館での空港並みのチェックのとき、「なぜ美術館は存在しているか?かつては帝国が自らの力を示すため、現在は(その帝国を打ち倒した)近代国家が自らの力を示すため」と苦々しく悟ります。21世紀は「帝国」が自らの力を示すために、ということになっていくのでしょうか?(ちなみに、柄谷の「帝国」は、帝国主義の「帝国」を言おうとしているのではなく、イデオロギー的な文化帝国主義のこと。例えば、「表現の自由」がヨーロッパのイデオロギーとして人権とは別の新たな意味を持ちはじめてくるのか、アジアの「新儒教」のように?) さて芸術の歴史感覚をもったフランスの充実ぶりと比べると、ロンドンの美術館の数はみすぼらしいものと感じます。が、驚くほど出入りに関しては自由なのです。(2005年のテロのときは検査を敷きましたが厳重なものではありませんでした。) 多分ナショナル・ギャラリーもルーブルと同じ目的で存在していますが、街道を歩く感覚で内部化された長い廊下に沿って絵をみるのは、無責任な旅での散歩の、視線が観念に先行する如きゆるふわ感。絵の解説も工夫されており独立した価値をもつとおもわれるほどです。(いまでこそカラバッチョはレンブラントフェルメールなどのバロック絵画の巨匠とされていますが、ロンドンにいる間、実はかれの評価は戦後からだったということを知って吃驚しました。評価が分かれていたカラバッチョの絵の意義を見出し積極的に買っていたのは、ナショナル・ギャラリーでした。) そうして散歩しながら、映像から言葉へ行きます。思考に常に映像が介入してくる散歩は、イメージの注釈学を歩くと喩えましょうか。絵が映像の無次元空間を解き放つ悦びですね!スピノザは肉体が滅んだあとも魂(心)は完全には消滅しないといっていました。物をみる精神として残るものは残ると。絵を見る批判精神は常につくられていくー美術館はなぜ存在するのかという問いのように