魂(心)の不死 ー カントはいかに考えたか?

魂(心)の不死 ー カントはいかに考えたか?

パリでのあの巨大な追悼デモは、「敵」(ヨーロッパの排他的他者イスラム)をペンで殺した魂の不死を祀る靖国的なものを感じました。遠い国での出来事のようにはおもえません。国旗をみて正直嫌な気持ちになりました。が、いくらあれほどの大人数で祀っても、結局は、死者の魂(心)は散逸して消滅してしまうものでしょう。ところで憲法を住処した魂(心)も存在します。しかしこちらの魂(心)が不死とならなければならない理由とは一体何でしょうか?一考の価値あり。この点にかんして、憲法は自己の道徳法則としての完成を、過去の魂(心)に委ねるだけでなく、現在・未来の魂(心)にも委ねていますね。国家がつくる排他的他者との戦争。愚かにもこれをくりかえさないような平和の理念がなければわれわれはやっていけません。だから、憲法の平和原則こそは、永遠に時間がかかっても実現する価値ある理想にちがいありません。これが、現実(例、戦争)と理想(例、平和)のギャップを無限に埋める責任を果たすために、魂(心)が不死とならなければならない根拠です。私の理解では、多分カントはこういう風に考えました。ここでパリの話題を利用して魂(心)の不死について書いたのは、自民党案がこのことに関係した憲法第97条の削除を求めている現実を知って欲しいからです。安倍自民党はアベノミックスだけじゃありませんよ。日本人は戦争の道しかないとばかり靖国の魂(心)を呼び集めるつもりでいるのです。諸君は死んでも靖国に祀るから安心して行け!などと約束して徴兵制を立法化し、もし集団的自衛権が「地球の裏側」まで行くとしたら、これは悪夢にほかなりません。(第97条は「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」)

 

追記

追悼デモには死者に同情しいたたまれず街道へ出た人々のほうが多かったでしょう。色々な動機があったとおもいます。ここで、フランスの追悼デモを靖国的と決めつけるように書いたのは、平和と相互友愛の共和国を愛する人々を傷つける書き方だったかもしれず、その点は大変申し訳なかったとおもいます。が、ただ、フランスでも日本でも、国家と一体となって、あるいはなったつもりで<祀る>ことによって、<闘う>ことに巻き込まれていく<祀る>ことの危うさについて指摘したかったからです。一般論としては、国民国家帝国主義の19世紀と20世紀は、どの国家も、植民地をもたなければゼロなのであり(と自らそう思い込んだ)、靖国があろうとなかろうと、<祀る国家>、<闘う国家>となっていく必然性がありました。また同化政策について、渡辺一民氏に確認したことがあるのだけれど、天皇の同化主義は基本的にフランスの同化政策とおなじもの。だからこそ国家の排他的他者を揶揄していくことが何をもたらすのか心配します。的外れだとか、本当のフランスを知らない無知といわれようとも、やはり他人事とは思えないので黙ってはいられなくなったということもありますが、集団的自衛権の時代、(アメリカのように)ヒューマニズムの正義を理由に他国をともに爆撃する危険性が現実的にもあるのです。どうかご理解していただきたいと思っております。