18世紀のネットワーク ー 商業の大阪、政治の江戸、学問の京都

18世紀のネットワーク ー 商業の大阪、政治の江戸、学問の京都

私は専門家ではないので間違ったことをいうかもしれませんが、幕藩体制の構造から、ヨーロッパ社会史では「所有権」と意味されるはずのものが、二つのモメントに分裂していきました。いわば公的なモメントの統治権と、私的モメントの所有権へと。前者に関しては、江戸幕府のこの統治権による支配は、鎌倉幕府のそれと比べて、地域的普遍性がありました。後者については、統治権と所有権の間に成り立っていった交通が大変重要な意義をもちました。つまりモノとともに知識も流通したからです。興味深い話ですが、自然哲学の三浦梅園や教育学の広瀬淡窓という、現在大分県にある、当時は辺境だった場所にいた儒学者は、豊後水道によって、商業の中心にあった大阪に、懐徳堂(大阪大学の前身)に、交通的に繋がっていました(子安氏)。梅園は外に出ませんでしたが、知識を媒介とした学問的交流があったことが確認されています。さて政治の中心は江戸でしたが、思想と文化の中心にあったのは京都です。(武士が排除していく)天皇・貴族・寺院が独占していた学問を、京都の伊藤仁斎のような町人出身の儒者が広めていくことになりました。例えば古義堂に貴族・商人が学びに来ました。仁斎はこの古義堂の前を歩いていた農民を中に招き入れて教えたというエピソードも。今の大学のようなマス的な教授ではなく、一対一で教える方法をとりました。なんといっても、思想界の東の横綱伊藤仁斎と、西の横綱・カントは、18世紀に生きた同時代の思想家であります。ところでこれについては、貴族が町人出身の学者に学ぶというようなことはヨーロッパではあり得ないか、非常に例外的なのではないでしょうか。これはわたしの勝手な説ですけど、もし武士があつまった堀川にあった山崎闇斎の塾が尊王攘夷の源流を形成したとしたら、仁斎の古義堂こそは小田実の「でもくらていあ」の原点だったといえないかな?