なぜ、いま大正を読み直すのか?日本がつくった戦争をかんがえるためです

なぜ、いま大正を読み直すのか?
日本がつくった戦争をかんがえるためです

今日の日本人のなかに、自分自身をふくめて、日本帝国主義天皇ファシズムがもたらした戦争と植民地主義にたいして、自分がほんとうにそれほど一方的な被害者の立場と一体だったことをきっぱりと主張できるものが一人でもいるのかと問わざるをえません。この点にかんしては、無批判に、大正デモクラシーユートピア的に称えられてきたように、「本来的に日本は正常な民主主義の道を歩んでいたが、それが成熟する前に、残念ながら、戦争によって中断されてしまった」というような、自分たちの過去にたいする思い上がった過大評価があるのではないかと私は疑います。この大正デモクラシーは、「日比谷焼き討ち事件」から始まり「満州事変」に終わるとみるならば、それは治安維持法を中心とした統治体制を推進し、日本帝国主義を完成、(戦争に中断されたどころか)、戦争の方向を必然化した体制といえます。このような戦後民主主義大正デモクラシーの連続性を楽観的に主張してきた勘違いと、(今日自分が一方的な被害者の相続者であると言うものが)日本帝国主義天皇ファシズムがもたらした戦争と植民地主義を忘却する態度は、パラレルにおもえてしかたありません。なぜ、いま大正を読み直すのか?それは、日本がつくった戦争をかんがえるため、しっかりと歴史を相対化することによって戦争をふたたび繰り返さないためだとやっと気がついてきました。(早稲田大学小教室でおこなっている、「昭和思想史研究会」の市民大学講座で<大正>の読み直しを行っているところであります。誰でも参加自由)