人文科学の私達はまだ同調しない自由がある ー 曽野綾子の発言を読む

人文科学の私達はまだ同調しない自由がある ー 曽野綾子の発言を読む

「人文科学の対象は、それによって彼が取りかこまれている言語 (ランガージュ)の内部から、話しつつ、みずからの言表する語 (・・・) をみずからにたいして表象し、最終的には、言語 (ランガージュ) それ自体の表象をみずからにあたえる、あの人間という存在にほかならない」
(ミッシェル・フーコ「言葉と物」、渡辺一民訳 p.374)

コメント ; 「話しつつ、みずからの言表する語」とは、難しくきこえますが、例えば、「人種ごと居住区を分けたほうが良い」という言葉をかんがえてみてください。ここで曽野綾子はこの言葉をあたかも自分が初めて喋るように語るのですが、「人種ごと居住区を分けたほうが良い」などは、海外見聞した旅行者の間で繰り返し言われてきた (最初にだれが言ったか特定できないような流通性の高い) 匿名的な言葉なのです。「ゲットー」という意味を読んでもそれは過去に言われてしまったことだから、いまさら「居住区」の意味をもう一度明らかにしても仕方がありません。しかしこの作家が、人々の共同体をつくる意志を完全に無視した上で、堂々と「生活習慣の違う人間が一緒に住むことは難しい」とまで予言してしまうとき、さて、その言葉を反復する人々の間に新しくなんの意味が生じてくるかは決定的に重要です。フーコはこの意味を人文科学の対象としなさいというのですね。古い言葉で新しく初めてなにが意味されるのか? 曽野の言葉を言う人々 (「人間」) は、それを言うたびに、自らを自らから切り離していく境界線のような鎖となることが起きてくるのではないでしょうか?つまりこれこそは、新しい21世紀のナルシズム的な収容所のあり方です。このように人文科学は、「人間という存在」が取りかこまれている言語 (ランガージュ) の内部から新しく生まれてくる意味をしっかりと分析しなさいとフーコは主張しました。絶えずファシズム的に発明される意味 (「言説」) を相対化すること。そうして人文科学の私達は「まだ同調しない自由がある」のです