進歩の感覚の囚人

進歩の感覚は、物語る特権を他人に与えます。だから経典に何が書いてあるかの質問に答える特権、「アイーダー」の神官の読むあの巨大な権力は、進歩が過去にあったと指さす。初めて言うことでもあたかも繰り返し同じ身振りとジェスチャーで指さなければならないのです。これと全く正反対の方向で、「資本論」を読む特権は未来を指すことに。特権の近代的形態は、繰り返しいわれていたことでも、あたかも初めて指すことを義務づけるのです。ところが、厄介なことに、いつの時代も、そもそも読むことができないのだ、と、見えてしまう者も稀に存在します。しかしその見える者は、その異常な力ゆえに、共同体に畏怖されて処刑されてしまう危険を負うのです。そうして、書かれた読めない映像が日本知識人の内部で繰り返されてきたはず。書かれた沈黙の映像が日本知識人をとらえて離さなかったのに、しかしヴェーユのように盲目の言葉を語る勇気がなかった?つまり読む特権を犠牲にしたくなかった?