グローバル資本主義時代の大学の危機ー「国立大に国旗掲揚・国歌斉唱要請へ 首相答弁受け文科相」

「国立大に国旗掲揚・国歌斉唱要請へ 首相答弁受け文科相

劇団の憲法集会のとき、裁判をした都立高校の音楽の先生方からお話しをききました。歌わせたい文部省に電話しては、「君が代」の意味をたずねるのだが、毎回絶対に教えてくないのだそうです。もっと歌わせたいのなら意味を明らかにすればいいのに、これは大変奇妙な話だ、と語っていました。あえて、これを、思想的に、デリダ的に考えてみるのですが、国歌というのは、声を通してのみ自己触発として生み出される意味の秩序のことではないでしょうか。国家を自己から自己へと赴かせる歌というこの<意味するもの>の秩序は、(国家を触発する) <意味するもの>を、国家以外のものからは借り受けない。つまり歌う国家は「国家が=語るのを=聞く」のであると。しかし国家が自らを称える歌をうたう人間に、これほど自らを軽蔑させるような意味秩序のみじめな隷属がほかにあるでしょうか?スポーツの応援で歌うとかの話は問題の核心を曇らせるものです。そもそも学びの場というのは、近代国家よりまえに存在しました。学びの場を前提とするもの(=近代国家)によっては、学びの場を支配することはできないのだと考えることが大切になってきたとおもいます。今回の国立大学の問題の根底になにがあるのでしょうか?グローバル資本主義の大学のあり方が問われてきたと考えています。

安倍晋三は、この国を、次から次々へと、他からばかにされないような'普通の国'にしようとしていますね。たとえば彼が命じている国立大での入学式での国旗掲揚についてはアメリカの例をいうのです。しかし安倍が根本的に理解していない点は、たとえどんなに他からばかにされようが、または愚か者と呼ばれようが、この国の原点に、ファシズムの戦争を決定的に終わらせ将来再び同じような戦争を繰り返さないために敢えて'普通の国'であることをやめたという歴史的な出発があることです。安倍はこの原点を捨てるつもりならば、ではそのかわりとなるほどの普遍的に価値ある信頼できるものを与えることができるのでしょうか?答えは明らかじゃありませんか!