破れ傘 (3)

破れ傘 (3)

「画家は絵から心もちさがったところにいる。モデルに一瞥を与えているところだ。あるいは、仕上げの筆を加えようとしているのかもしれない。だがもしかすると、最初のひと筆がまだおろされていないのかもしれない。(・・・) 彼はいまわれわれの眼の前にあらわれたところだ。しかし彼が一歩でも右に踏み出せば、ただちにわれわれの視線から消えて、彼は描きかけの画面とちょうど向き合うこととなろう。そうやって彼は、ひとときなおざりにされていた絵が、彼にとって影も省略もなく再び目に見えるものとなる、そのような領域にはいりこんでいくのであろう。あたかも画家は、自分が表象されている絵のなかに見られると同時に、自分が熱心に何かを表象している絵を見ることはできないとでもいうように。彼は、両立しがたいこの二つの可視性の領域に君臨している。」((フーコ「侍女たち」渡辺一民訳)。「言葉と物」のこの冒頭文はなんと奇妙だろうか。注意を要するのは、フーコが画家のことをいうときにそこで意味されているのは、思想という画家をいっていることだ。想像してほしい、この思想という奇妙な画家を。この画家は、再び表 (タブロー)に書いた近代の体系に依ることができないようである。しかし実はその画家とは、ほかならない、21世紀のわれわれのことなのだとしたら、生きようとして白紙の本を書くという必要に直面したかのように。白紙の本を書くわれわれはふたたび、20世紀の近代、ヘーゲルマルクスの呪縛にもどることは不可能なのではあるまいか?西欧の問題だけではない。アジアの問題でもある。中世神学的思弁の体系に対応するのが、朱子の思弁体系である。中世神学的思弁の体系を壊したカントの構図と仁斎の構図は似ていることは、子安氏が指摘している。たとえば、朱子は思弁的体系をつくっているが、この思弁的体系を崩すと、あおく天がみえてくる、と同時に、思弁的体系に含まれた「知」のあり方がみえてくることになった。仁斎の「天」は、朱子のイデーとしての「天」とはちがう。人を通して、「天」は「信」に対応するとされるのだから。つまり、「人を通して」が大切である。そこで、知ることが必要だ、私の知を超えていくために、という。そうして仁斎の古学は「論語」の孔子というその人を絶対化したのである。これは、近代の学問体系の構築性にたいする解体の運動を証言するものである。さてヘーゲルが為したことは、カントが壊した中世的思弁の体系を哲学的につくりなおす、語りなおす再構成であったといえよう。つまり「精神」を中心とした新たな思弁体系として語ることであった。「精神」とヘーゲルが語ったものを、マルクス唯物論的につくった。つまり「労働」である。(日本でこの作業をおこなっていたのは西田幾多郎。)20世紀の人間はマルクスに縛られヘーゲルに縛られる。20世紀の人間、近代は、ヘーゲルマルクスの呪縛にあるのだ。(たとえば子安氏が見抜くように、柄谷行人の「世界史の構造」はただのヘーゲルの再語りではないか!) いかに終わらせるのか?、いかに始めるのか?