たくさんの言葉を住処とするたくさんの真理。(切断された) たくさんのフィルムから多方向に繋げられていくたくさんの真理、

ひとつの真理しかない、したがって、ただひとつなのだから分けることができないような真理しかないという思い込みは案外、根強いものがありますが、それにたいして、別に考えることはできないでしょうか?たとえば、真理はどこを住処にしているのでしょうか?真理は言葉を住処としていることをデリダは強調しています。つまりそうならば、言葉を分けるという状態は、自ずから真理を分けることを意味します。この場合、だれが分けたかなど考える必要がありません。現実に、たくさんの言葉、たくさんの真理が存在していることをみれば十分ではありませんか。もっと抽象的にこのことを示すために、ゴダールのようなラジカルな思想家は、モンタージュというフィルムを切断し繋げる身体的ジェスチャーを発明しました。(切断された)たくさんのフィルム、(そこから多方向に繋げられていく)たくさんの真理、を示したのです。さて、なぜこんな話をしているのかというと、靖国問題を考えるためです。実は中国は日本にそれほど強硬な?要求はしていません。寧ろ妥協していて、靖国神社を廃止することも公式参拝に目をつぶろう、ただA級戦犯を含めた合祀さえやめなさいと言うのです。ところが、これにたいして、日本側は、<魂は分けることができない>などと反論しています。が、このような主張は、上に述べたように、ひとつの真理(=魂の声)しかない、ただひとつなのだから分けることができないような真理しかないという勝手な解釈でしかありません。

 

 「差違は世界に住みつくことができず、その超越論的な不安のうちに、ただ言語にだけ住みつくことができるものなのだ。実をいえば、差違は、言語に住みつくだけではなくて、それどころか、それは言語の根源、言語の住まいなのである。言語を守る差違を言語は守っているのだ。」(デリダ『声と現象』)

A polemic for the possibility of sense and world, it takes place in this difference, which, we have seen, cannot reside in the world but only in language, in the transcendental disquietude of language. Indeed, far from only living in language, this war is also the origin and residence of language. Language preserves difference that preserves language.
 (Jacques Derrida; Speech and Phenomena)