SUMMARY <No.1> ー 沖縄の三つの日付、戦後日本論ー沖縄から見る、子安「帝国か民主か」より

 

子安宣邦「帝国か民主か」をいかに読むか

「第9章 戦後日本論ー沖縄から見る」の前置きの冒頭の言葉は、「沖縄とは」から始まっている。「中国(清)と日本と政府的には等距離の関係をもっていた琉球」と書いてある。「等距離をもっている」といわれる、ほかならない、この沖縄を語るときに、再び中国から語ることも、あるい...は再び日本から語ることも不可能である。そこで、中国か日本かの二項対立から逃れるために、あえて台湾で語ろうとしたことの意義を強調している。これは他者としての沖縄を方法論的に語る上で重要な視点であるに違いない。(本多)

「沖縄とはもともとの日本ではない。中国(清)と日本と政府的には等距離の関係をもっていた琉球が、日本の沖縄県になったのは1879年4月4日であった。沖縄は日本帝国の地理的だけではない、政治的にも辺境の位置を担い続けていた。その沖縄は1945年から現在まで、米軍の極東における最重要な軍事拠点であり続けている。この沖縄を視点としての戦後日本の解読は、現在の「帝国」的世界の解読への換喩的な意味をもつであろう。中国本土に対する台湾の政治的位置をふまえながら、私はあえて日本にとっての沖縄の問題を台湾で語ろうとした。台湾・交通大学社会与文化研究所での講義が行われたのは2008年4月9日である。」(p.141、子安)

 

SUMMARY <No.1>

-沖縄の三つの日付、戦後日本論ー沖縄から見る、子安「帝国か民主か」より

 

・沖縄にとって歴史上大きな意味をもった日付が三つあるという。それは6月23日、4月28日と5月15日である。 まず最初に、6月23日で終わりが意味される?しかし終わりは本当にそれほど終わりを意味したのか?沖縄の人々にとっては終わっていないし曖昧な抑圧すらはじまっていたのである。
・アメリカか日本かという国民の国家的視点から語るある日本現代史の記述に、固有名詞(沖縄)が消えていることの意味はなにか?日本にとって「独立」を「回復」した日であっても、この日は、沖縄にとっては自分の意思が問われることもなく自らを代表できず、日本で自らを代表するしかないような「屈辱の日」にすぎない。...
沖縄は米軍の「基地の島」としてあったが、「再び日本になった日」のあとも、米軍の「基地の島」でありつづけていることの意味はなにか?
国家の日付というものは、沖縄自身と沖縄の人々の生を消去してしまう。沖縄それ自身を考えるために、まず6月23日を8月15日から差異化しなければならない。4月28日、この国家の独立を称える決定的記述の日付は、沖縄にとっては無に等しい日付であった。5月15日は、「終わった」と一方的に記述される語りの対象の側に置かれるだけの「欺瞞の復帰記念日」。この「祖国復帰」で言われる「復帰」の意味とはなにか?「復帰」は終わりを意味したというのか?終わりは本当にそれほど終わりを意味したのか?「わが国の戦後が終わった」という5月15日の国家の日付は、「基地の島」沖縄の人々の「基地の島」としての抑圧に生きなければならない新たな始まりを隠蔽してしまうものである。

 

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 沖縄にとって歴史上大きな意味をもった日付が三つあるという。それは6月23日、4月28日と5月15日である。 まず最初に、6月23日で終わりが意味される?しかし終わりは本当にそれほど終わりを意味したのか?沖縄の人々にとっては終わっていないし曖昧な抑圧すらはじまっていたのである

「六月二十三日とは、「沖縄戦が終わったとされる日である」。なぜわざわざ「終わったとされる日」というのか。1945年のその日は厳密にいえば、日本軍の牛島司令官が自決し、日本軍が組織的に壊滅した日であっても、沖縄戦が終わった日ではないからである。「これからは直属上司の指揮の下に最後の一兵まで戦え」という命令を残して勝手にさきに死んでしまったこの司令官の死後に、むしろほんとうの地獄ともいうべき最後の怖るべき日々が沖縄の人々に待っていたのである。この最後の凄惨な地上戦に巻き込まれた人々にとって戦いが終わった日は異なるのである。この戦いに巻き込まれて殺された日か、自決に追い込まれた日か、米軍の捕虜となった日か、戦いの止んだことを知った日か。沖縄戦の終わった日は人々によって異なるのである。六月二十三日とはとりあえず決められた終わりの日である。その日を沖縄の「慰霊の日」と定められた。八月十五日が本土の日本人のだれにとっても一様に終戦の日であるのと異なった終わりの日を沖縄の人々は持たされたのである。この終わりの日のタイムラッグは何を意味するのか。なぜ本土の日本人と異なる終わりの日を沖縄の人々は持たされたのか。」

 

アメリカか日本かという国民の国家的視点から語るある日本現代史の記述に、固有名詞(沖縄)が消えていることの意味はなにか?日本にとって「独立」を「回復」した日であっても、この日は、沖縄にとっては自分の意思が問われることもなく自らを代表できず、ただ日本で自らを代表するしかないような「屈辱の日」にすぎない。

「四月二八日とは、1952年四月二八日である。その日を本土からの歴史記述をもってすれば、「1952年四月二八日、講和条約の発効とともに日本は独立を回復した」(藤村道生「日本現代史」)となる。もっともそれに続けて著者は「しかし、中・ソとの戦争状態がつづいていたから、講和は半講和であり、独立は半独立であった。独立と同時に発効した安保条約と行政協定は、新たに在日アメリカ軍と呼称を変更した占領軍が、日本全土に拡がってきた基地にひきつづき駐留することを承認していたから、国民の占領終結の実感は薄かった」と、講和が半講和であり、独立が半独立に過ぎなかったことを付け加えていっている。だがこの日本現代史の記述は沖縄に触れていない。沖縄はこの日をもってアメリカの合法的な支配下に置かれることになったのである。アメリカの占領下にあった沖縄は、この日発効した対日平和条約の第三条によって、「行政、立法、および司法上の権力の全部および一部を行使する権利を有する」合衆国の支配下に入ったのである。「沖縄修学旅行」は「四月二八日は、日本にとっては独立を回復した日であるが、沖縄にとっては、自らの意思を踏みにじられ、日本から切り捨てられた日である」と書くのである。だからその日は「屈辱の日」と呼ぶこともあるという。」

 

 沖縄は米軍の「基地の島」としてあったが、「再び日本になった日」のあとも、米軍の「基地の島」でありつづけていることの意味はなにか

第三の日付は1972年の五月一五日である。その日は、「沖縄が再び日本になった日である」と「沖縄修学旅行」は書いている。これは修学旅行生注意しなければならない大事な日付である。沖縄を訪ねる修学旅行生は、ここが1945年から四世紀を超える長い間、米軍の統治下にあり、日本ではなかったことをこの日付によって知らなければならないのだ。米軍から選ばれた高等弁務官がすべての権限を握っていた沖縄では、住民を「銃剣とブルドーザー」で追い立てるようにして基地拡大が繰り返され、米軍絡みの事件が相次いで起こっていたのである。そしてこの沖縄の米軍基地から北ベトナムに向けてB52爆撃機は飛び立っていったのである。沖縄とは米軍の「基地の島」であったのである。そしていまもなお沖縄は「基地の島」である。」

 

国家の日付というものは、沖縄自身と沖縄の人々の生を消去してしまう。沖縄それ自身を考えるために、まず6月23日を8月15日から差異化しなければならない。4月28日、この国家の独立を称える決定的記述の日付は、沖縄にとっては無に等しい日付であった。5月15日は、「終わった」と一方的に記述される語りの対象の側に置かれるだけの「欺瞞の復帰記念日」。この「祖国復帰」で言われる「復帰」の意味とはなにか?「復帰」は終わりを意味したというのか?終わりは本当にそれほど終わりを意味したのか?「わが国の戦後が終わった」という5月15日の国家の日付は、「基地の島」沖縄の人々の「基地の島」としての抑圧に生きなければならない新たな始まりを隠蔽してしまうものである。

「日本本土にとってもこの三つの日付は、ただ六月二三日を八月一五日に置き換えれば、現代史を区切る重要な日付であるだろう。沖縄の六月二三日と本土の八月一五日という戦いの終わりの日に、なぜこの時差があるのか。本土の人間の考えねばならない問題がそこにあることを私はすでにいった。四月二八日と五月一五日という二つの日付は、日本の国家的主権の恢復にとってまさしく記念日とすべき日付であるだろう。だが沖縄にとってこの二つの日付は何であったのか。四月二八日とは沖縄にとって米軍統治下に放置された「屈辱の日」であった。五月十五日とは、日本における米軍基地の75%の基地をなお負いながら沖縄が本土復帰を遂げた日であった。沖縄の返還交渉を進めた日本の佐藤栄作は、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後は終わっていない」といった。だが1972年五月一五日の本土復帰をもって沖縄の戦後は果たして終わったのか。それは「基地の島」沖縄の新たな始まりに過ぎなかったのではないか。沖縄の人びとはこの日を何というのだろうか。おそらく「欺瞞の復帰記念日」というだろう。」