東京オリンピック・エンブレムを読む - 法律問題を構成するために、ただ組み合わせの問題が論じられているだけでしょうか。明らかに法律問題を超えています

 「東京オリンピック・エンブレムはもう無理筋」という声も。著作権という法律問題を構成するためにただ組み合わせの問題が論じられているだけでしょうか。私は明らかに法律問題を超えてしまったと思っています。日本人の心が無理に統合されているために、外部を迎える隙間たちがなくなるなかで、シンボルは国家意識の記号としてしか感じられないのです。東京オリンピック・エンブレムを読む人々の間に、あまりにも時代遅れで無意味な、安倍の東京オリンピックを利用した国体イデオロギーの徴に対する嫌悪と反発が起きているのではないか。これが、無責任にやっているわたしの記号論的観察であります。

商業デザインのことは関心がありませんが、ただ、日の丸というナショナルなシンボルだからデザインに独自性があるという主張がでてきたようです。平和にどんな国も排除されないという参加のあり方ー同じ程度に個人参加の意味も大きい!ーを理念的に表す普遍精神のオリンピックの旗に、(梅干しのシンボルだというならまあ許してもいいですが)、アジアの人々の記憶の中では全体主義戦争と結びついた日の丸というナショナルなシンボルが公然と使用されるのでしょうか?しかしどうもオリンピックの旗に限った話ではありませんね。これは安倍談話についていえます。なぜ、開かれた多様性の普遍性を、普遍性を包摂する閉じた特殊性にふたたびもどしてしまうのですか?