ウンベルト・エーコの'トマスーダンテ'の線でとらえなおされた普遍言語としてのepiphany(顕現、本質は現象するという考え方)

「フィネガンズウエイク」」(1939)を読んではじめて、「ダブリンの人々」(1914) がわかちゃったというアメリカ人がいた。「ダブリンの人々」はジョイスの脱神話化の仕事だからだ、ということをいいたかったのだろう。(だが、そうだからといって、「フィネガンズウエイク」を、そこでジョイスが現代世界というテクストを神話の形式によって読み解いた仕事かといえば、そう明快単純に片づけてしまうことはできないとおもうけどね。) さて「ダブリンの人々」(1914)については、いわゆるトマス主義のepiphany(顕現、本質は現象するという考え方)のテーマがいわれる。ただしここでトマス主義でいわれるのは、寧ろ、スコラ哲学後期スコティスが行ったトマス主義の解構的仕事であろう。例えば、ラテン語を根底にした一元的世界に抗して、ダンテがいかに、(地上世界の表層に存在する)世俗言語の多様性をたたえたのか?(ただしデリダ的に言うと、書記言語である、古典ギリシャラテン語の文法性が近代人の語る言葉を規定したのであろうけれど。)世俗言語の多様性の観念がいかに近代文学ジョイスに継承されることになったのか?そうして、ウンベルト・エーコの'トマスーダンテ'の線でとらえなおされた普遍言語としてのepiphanyが、エーコが新しく見出したジョイスのテーマだといえよう。多様性としての普遍主義、というアイルランド時代の私の探求もここからはじまった。ちなみに、朱子学的一元主義に対する江戸思想の解構的注釈学は、この多様性としての普遍主義と深い関係があるけれど、そうして知的にラジカルに進んでいった儒学内部解体から、宣長の仕事ー中国文明からの自立ーが立ち上がってくるという思想史はほんとうに凄い。江戸時代は幕府を直に批判する言論の自由がなかったし危険なことだったことはたしかだけれど、ギリギリこれを行った。自発的に学ぶ人々の間に活発な交流があり論争と思想が盛んだったんだね