恐怖の誕生 - いつ恐怖が誕生したのか?

 恐怖の誕生


公共放送の大切な報道番組の一つが、自民党への配慮から来年3月に打ち切りになるという。それもNHK職員の証言では、安倍友達の財界の人間が決定したというではないか。酷い話だ。ジョットの地獄図をみると、言論の自由に平然と干渉する安倍自民党と財界の鬼達の姿をみる思いだ。また自ら高い支持を与える恐怖のメカニズムに引き回される'国民'の惨めな姿もここに?そもそも、ヨーロッパではうまくいくのに、日本の市民運動が挫折してきた根本の理由に、国が市民が言うことに耳を貸さないことが指摘される。また人々が'国に逆らっている'とみなされたらもうおしまいだという恐怖感をもたされたことも関係しているのではあるまいか。いつこの恐怖が誕生したのか?明治エスタブリッシュメントの<国家に向かって行進せよ>の民主主義とは他の民主主義の観念的意義を思考することが、'国に逆らう'という禁じられた徴とされてしまったのは、明治末、またデモクラシーが成立したと祝福された時代に大杉が殺害された大正においてである。国が隅々まで調書と起訴状と判決文を通じて一方的にそれを物語ってきたし、皮肉にも、正義感あるイノセントな左翼作家達がそれを神話化・実体化してしまった罪がある。ここから、'国に逆らっている'とみなされたらもう終わりでどこにも生きていけないという恐怖感が誕生した。なにもかも全体主義の体系内部に取り囲まれるときに極大化したのはこの恐怖感だった。さて今日、「この道しかない」の安倍に対して「他の道がある」をいう抵抗を非国民の危険思想として烙印し恐怖を生産するのが日本会議の鬼達に委ねられた役割だ。この連中と、歴史修正主義に共感する「美しい日本」の文化人達の危険な国家主義の文化論的言説を相対化すること。もし市民革命の近代化が不十分だったと歎くならば、ほかならない、現在がグローバル資本主義の危機の中ではじまった東アジアの市民革命のたたかいじゃないだろうか。神話に巻き込まれながら脱神話的に巻き返していこうよ