偶像破壊的な大島、脱構造的なゴダール・・・

偶像破壊的な大島、脱構造的なゴダール・・・


もう27年前のことかあ。当時野坂昭如と対談した大島渚が「あの方(ヒロヒト)は大変苦労なさった」という発言を知って失望した、怒ったという声があるが、多分それは一般的なヒューマニスティックな同情心からの言葉で、それ以上でもそれ以下でもなかっただろう。戦争責任は終わっていないことに対する自らの苛立ちをキャンセルしたわけでもなかろう。当時はそれよりも、テレビの大島が丸山真男を再評価するという言葉を繰り返し口にしていたことに驚いていた。大島は反骨の偶像破壊の監督といわれる。その意味はなにか?偶像破壊者というのは、偶像を破壊するだけでなく、新しく偶像をつくるのである。<近代>という偶像にいかに挑むのか?近代はヨーロッパだけに起きたのではない。啓蒙主義が多様であるように近代は多様なのだ。18世紀以降に西欧対アジアという歴史に規定されながら、近代は離れた場所で同時に起きることになった。偶像破壊者大島は近代を乗り越えるために(偶像破壊)、日本的近代へ行く(偶像の再興)。ただしそこに留まることなく、更に日本的近代を乗り越えていく(偶像破壊)。と、そのように大島を理解していたので、近代主義者を称えた言葉は意外だった。大島の仕事はゴダールと比べられる。ゴダールは偶像そのものを拒む脱神話的(物語嫌いの脱構築的)ではないか。現代アートゴダールを認めないが、彼にスター崇拝はない。ゴダールの偶像それ自身への無関心は彼の俳優嫌いから説明できるかも。ベルモンドは街頭で野良犬の如く撃ち殺されたし、アランドロンは二回も!溺れ死んだ。またゴダールがライバルと思うほどの監督ならばその主演女優を奪ってくるという嫉妬深い?やり方がある。タルコフスキーを打ち負かすときは、タルコフスキー映画の女優を自分の映画に使うのである。楽園から追放されたアダムとイブの未来を象徴するかのように、大島「愛のコリーダー」の映像が「映画史」に引用されていた。その意味は何か?