ジャーナリズムは文学と互いにどんな関係をとったのか?

ホーキング、かく語りき?子供が一番尊敬する人はホーキングという時期があったが、ベッカムにかわられてしまうとき、詩のワークショップに来たイギリス人男性にきいた。物理学者もサッカー選手も出版資本とマスコミが作った資本主義的偶像だと言う。こんな覚めた見方をするのは、国民性によるものか、寧ろ19世紀ジャーナリズムが培った懐疑精神によると思う。▼詩のワークショップでイギリス人たちの書く詩はなんというか、ジャーナリズム懐疑精神が書くような文明批判的な詩だった。アメリカの詩人のようには「私」の経験を主張しない。ジョイスの到達した地点からみると、微妙だが貴族上流階級の価値観がみえ隠れするエリオットとパウンドは中途半端におもえるが、文体に凝った彼らに倣う、新聞社説見出しみたいなアイロニーの、だが行き過ぎのない良心の叫びの調子の詩がワークショップで賑わった。▼ジャーナリズムは近代文学と互いにどんな関係をとったのか?たとえば新聞の社説を読む中流読者は同時に、夏目漱石の心理小説「明暗」も読んでいたのだが、これはいったい何を意味していたのだろうか?▼ワークショップではバイロンもどきオリエンタリズムの退廃的夢も意外にも女性からあわれるが少数派。スコットランドの故郷を思う心は理解されない。ヨーロッパの外の内戦・亡命を書いた詩にジャーナリズム的関心が行く。▼当時英語が難しくて近づけないでいたが、新聞付録のおかげで、マルクスの社会意識とフロイト精神分析を以て病める現代イギリスを診断したオーデン(Auden)を読んだ。詩人は神秘的象徴的になるが、カンタベリー大司教R. Williamsが解説文を書いている。ゲイの知識人である権利を確立していると彼らが自慢するだけのことはあると思った。▼最後に、英国ロマン主義の貴族的種は、「敵」のアイルランドが吸収しナショナルアイデンティティーの神話的想像力の源となっているというからややっこしい、否単純なのかも。Bernard ShowやO'Caseyのリアリズムはその解毒剤。両者の折衷がアイルランド演劇のメインストリートを構成することになるという