巻き込まれながらいかに巻き返すか

巻き込まれながらいかに巻き返すか

日本会議というのは、左翼の手法をまねした右翼全共闘運動だからすごいんだと分析されていますが、新聞広告・署名・講演会という左翼のやり方はもう時代遅れになってきているというのに、まだそれをまねしているようでは日本会議も大したことないなと思います。恐れることはありません。日本会議にかぎらず反文明的権威主義がわれわれを捉えて離さないのは、彼らが得意げに「本能」を物語るときに生じます。だがたとえば在特会の言う通りにしていると、外部からの接触によって豊かになる文化を拒んで、ただ動物のように生存するだけの生活手段に執着する惨めな人間の姿しか見られなくなるでしょう。ここで、「本能」について考えることは無意味だとは言おうとしていません。死を恐れる「本能」が「精神」のあり方を規定することがあるでしょうから、意味のある「本能」ならば無視できません。このことはFbの友人のおかげで考えるようになりました。ただ反文明的権威主義の問題は、「民法出来て忠孝滅ぶ」というような彼らの主張をあたかも不可避的な「本能」の側から語るその教説の形成にあります。徳川日本では石田梅岩のような儒者達に平等の観念はありましたが、それを実現する方法が検討されることがありませんでした。「民法出来て忠孝滅ぶ」という場合、普遍的な次元での平等が実現されないそんな「忠孝」ならば、たとえ「本能」でもそれを復活させることに意味がないでしょう。権利のない社会にたいして、私は反対します。今日的問題として、そのまま市場主義という意味で「民法」に任せておくと、資本主義が地球生命を終わらせてしまうということは考えなければならない問題です。近代の根底にある、「民法出来て地球滅ぶ」という問題、私はこれを「民法出来て忠恕滅びる」と言おうとおもいます。「忠恕」というのは、人類的他者への思いやりのことですが、ここに未来の世代も含まれなくてはなりません。だからこれは意味ある「本能」にかかわる事柄です。とくに現在の若者の貧困化を緊急に防ぐことの要請といかに両立させるか?安倍や小池が考えていない難しいこの問題を共に考えるものー特に左翼と呼ぶ必要もありませんーのもとに、人びとが集まって来るのではないでしょうか。これが、巻き込まれながらも巻き返していくやり方だろうと思います。