‪‪‪「弁名」ノート‬ No. 6 (私の文学的フットノート)

‪‪‪「弁名」ノート‬ No. 6 (私の文学的フットノート)

‪未来を思いだすということは、書記言語的に書かれている過去を参照することによって現在のあり方〜未来の生き方にかかわるーに距離をおく批判的方法に存する。それが批判精神であるとすれば、現在の枠組みのなかで翻訳的に等価物をさがすことは批判的方法ではないだろう。現在の投射から、現在のスクリーンに向かって、過去に失われてしまった不可能な名と物を指示することは、恣意的な分節化と言わざるを得ない。完全にみえる「理」の存在論的言説によっても、過去との連続性は回復することはあり得ない。だからこそ、「弁名」という、言語・言説の古今の変化の認識に立った徂徠学という「先王の道」の古学の思想方法論が必要なのであるという。‬

子安宣邦氏の訳と評釈からの引用を示しておこう。「今の言語の世にあるものが、今の言語のままに古えの名辞を明らかにし損なうだけではなく、むしろ己の臆見をもって名辞を解することになってしまうと、徂徠は彼らの名辞解の恣意性を批判するのである。さらに理に根拠を取る彼らの言説に対して『理は適(ゆ)かざることなきもの」として、理を助けを取ること自体の恣意性をいうのである。すでに名も物も失った彼らの言説における道とは、程子・朱子の道であっても、孔子の道ではない」‬