先行する項は常に無限である。常にその無限は卑近にある

前近代といわれることにすでに隠蔽がある。近代がいくら言葉と物の統一を以って迷宮として描きだそうとしても、隠蔽しようとも、けれども、言語が集中する方向で、世界は言葉と物の分裂が起きているのだ。先行する項は常に無限である。常にその無限は卑近にある。その意味で同じことは繰り返されない。近代に先行する時代に、近代の終わりが始まっている。そうだとしたら、どういうことが現在において言えるのか。たとえば、国体の問題の議論をやめてはいけないとおもう。どんどんやって欲しいとおもう。しかし考えておかなければならないこともある。それは、国体は天皇である。今日は国体はアメリカである、等々においていわれるような、AはAであるというトートロジー的等価は、言葉を拡散させてしまう一方で再び構造の方に人間を集中させる物の見方を作ってしまう危険もなくもないということ。一生懸命天皇の代わりのものを器用にさがそうとしても、戦前のような全体国家の拠り所としての天皇そのものが象徴天皇制のもとで消滅しつつある時代にあって、それは意味があることなのか?(現状維持では同化主義の問題を解決できないので最終的には象徴天皇を、あるいはマイノリティーを統一する国家を、やめなければいけないときがくるだろう)。アメリカはアメリカのままではありないだろう。哲学的にいうと、世界は無限から成り立っている。その無限は卑近なところにある。事物は変化していく。どうしても「国体」と言わなければ何かを言ったことにならないと感じるのなら、課題は、アメリカと中国の間にある位置と機能を活かすことにある。「国体」のアメリカの側からは公民権運動デモクラシーの理念を、反「国体」?の中国の側からはアジアへの共感を、引き出すことではないか。問われるべき問題は、安倍政権のままで、これができるかどうかである。アジアにおける市民の運動にかかっているとおもうよ