パルメニデス

One cannot know that which is not - that is impossible - nor utter it ; for it is the same thing that can be thought, that is

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‪ One cannot know that which is not - that is impossible - nor utter it ; for it is the same thing that can be thought, that is ‪ホー、パルメニデスΠαρμενίδηςは実際こういう顔していたのかわからないのだからね、ふくろうねこの顔でもいいわけでしょう?それは別として、このひとを見たわけではないからパルメニデスが存在したかどうかわからないのであるが、このひとは20世紀迄論じられてきた。(ダブリンで読んでたでしょう?)『西欧哲学史』でラッセルが論じ、ホフスタッターのアリス・クワインが論じる。言説的にいまふうに言っちゃうと、議論されてきたのだから議論されているものが存在する。パルメニデスの言説が存在するからパルメニデスが存在しているということニャ。(そうなのー?) ま、いいじゃないか、考えかたが大事なのよ。古代ギリシャは神話から自立していく自然哲学的記述をもつことによって、形而上学が成り立つように、アジアも朱子学の魔術的思考とは異なる自然哲学的記述を展開したんだね。このことも念頭においてここで名の問題についてちょっと考えてみよというのである。言語的存在者は存在することの意味を考えるときは名づけられたそれを以って考えているといえるでしょう。と、問いがたつ。 誰が名を与えるのか?言語的存在者が名を与える。言語的存在者は言語的存在者であるためには名を与えることが少なくとも要請されるニャ。ホー、最低限度ギリギリの理念というところかな?(それでふくろうねこさん、結局なにが言いたいの?) 名を与えるものは「聖人」であると考えたのは、われらの荻生徂徠ニャ。「鬼神」という名も「聖人」が作った。(へー、そうなの?そのひとは江戸時代にどこにいたの?)ホホー‬、現在の東京タワーの下とか、千葉のほうにニャ、存在していたらしい...(議論が見えない) ..