書評: 子安宣邦 著、<古事記>講義  「高天原神話」を解読する (作品社) 本多 敬

 

 

書評:

 

子安宣邦 著、<古事記>講義  「高天原神話」を解読する (作品社)

本多 敬

 

戦後憲法を考えることは、先ず、天皇主権を否定したその理念性を考えることである。そして、戦後民主主義の問題は、民俗学的に、天皇を、われわれのなかにおけるものとして水平化しようとすることである。つまり、「古事記」の書かれた歴史を、語られた文学にしてしまおうとすることである。

しかし、それが記された古代において、国家日本を確立した権力者として、事実のままに、明確にとらえるべきではないか。そうすることによって、「古事記」とは、国家アイデンティティをつくるために天皇の編集によったものであった事実が、より明らかになる。日本列島に存在していたといわれる大和言葉とか大和民族が語り伝えてきた神話というような、昭和10代に教育がやったウソを、現代のナショナリズムの時代に復活させることは、どのような意図があるにしても、大変危険だといわざるを得ない。

17世紀に本居宣長の読みによって「古事記」は再発見された。にもかかわらず、上野千鶴子氏と口語訳を手掛けた三浦佑之氏は、「古事記」が連綿と読み継がれてきたテクストであるといってはばからない。書かれた言語とともにある思考する人間が、どこまで遡っても日付もなく文字も無い思考できない存在がなにを考えたかを考えること自体に、はたして意味があるのだろうか。上野氏と三浦氏の主体の言説に絡み取られる言語が、たとえ消滅しつつある構造主義の存在主張だとしても、戦前の「古事記」解釈とそれほど異ならないとしたら、疑問を呈する必要があろう。

プロの知に絡み取られて思考不能になったものを、われわれは巻き返して思考できないだろうか。本居宣長が「古事記」の根底にひとつの民族が存在すると解釈することに対して、「いま、古事記を読む。これは、もうすぐれて現代日本をめぐる問題なのだ」と述べる子安宣邦氏は、「古事記」の基点にそれを書く他者が存在する思考のイメージを打ち出しているのである。子安宣邦著、「<古事記>講義 「高天原神話」を解読する」は、氏が前著において日本における論語の読み方を問題にしたように、日本における「古事記」の読み方を問題にした、ナショナリズムを解体する脱構築の本である。この本によって、われわれは思考不可能なものを思考する時間を手にする。

 

 「ここは伊邪那岐伊邪那美の二神による神生みの長い行りである。次々に神名を連ねてなされるこの行りをどう読むべきなのか。この神生みの神話の原初的なレベルには精霊的な自然の名づけによって人間の自分たちの自然、すなわち国土をなす山・河・海・草木などなどになっていく段階が想定される。この命名的段階というのはあくまでわれわれの想定である。山がわれわれの山になったとき、それはすでに山の神の語りをともなってである。つまりはじめから人の語りのなかに山とその神たちがいるのである。そしてこの語りは幾層にも語り直されていく。ある時から文字をもって語りは記され、記し直されていく。その時から語りは文学的な語りとなっていく。すなわち文字的表象をともなった語りが文学的想像力を喚起し、新たな文学的表象をもたらしていくのである。」

 

古事記」の序文を読むと、中国知識人と朝鮮知識人の影響のもとに、彼らに育てられた日本知識人が書いたものであることは明らかである。にもかかわらず、宣長は「直毘霊」において、その序文を否定しはしないが、そのような外部的なものによる成立のあり方を隠蔽し、漢字を借り物とした上で、日本人の道は大和言葉で伝えられてきた声の独立性に支えられている<>に存する、と強調するのである。

他方で、「古事記」を読み進めていくと、宣長には神に対して絶対的に服従する注釈がある。神の生成を語る「古事記」は多神教的な<>を語っている。神と言っても、そこで救済が語られることはない。死んだら女神である伊邪那美が行った穢らしい黄泉の国に行くだけである。宣長の思想において、<><>とが両立しているが、これはどのようにして可能となるのか。

稗田阿礼は女性だったと絶えずいわれている。宮廷女官だったのか。「古事記」を完成させた女帝の元明天皇に加えて、中国知識人と朝鮮知識人、太安万侶という日本知識人のサークルの中心に女性がいたことは特筆すべきであろう。

 

本居宣長は「古事記」の神の意味を明らかにすることは諦めたが、その代わりに神の名の正しい読み方をとらえることに腐心した。現代の音声学的アプローチは、神の名に含まれているm (両唇鼻音)、および、b (有声両唇閉鎖音)が大事だったと考えているようだ。しかしながら、神の名は漢字で書かれているので、漢字の表意性(意味作用)をゼロにはできない。このことを考えるだけでも、漢字を不可避の他者とする日本語の面白さを知ることができるのである。

 

書くことは並べること。神を、中国思想独自の「神」字で解釈し、「カミ」の訓読みで解釈することは、同時的なことなのだ。言語の集中が起きる同時性は、思考の主体を表象する内部の秩序を炸裂させる

 

天照大御神スサノオの対決は混乱の様相を呈するのである。スサノオは謀反心がないことを証明するための誓約(うけい)を行ったにもかかわらず、スサノオから生まれた男神天照大御神は自分の後継者としている。この点について、子安氏は津田左右吉の議論を用いて解説している。

スサノオ天照大御神に示そうとする「清き明るい心」は、「古事記」にある天皇への忠誠を意味する宣命的言葉であるが(これが日本人の原初的倫理だとされたらたまったものではない)、これによってスサノオの子孫が天皇皇位権を獲得した。誓約(うけい)に勝ったスサノオ天照大御神が統治する高天原で暴れまくる。弟を庇っていた天照大御神は、天岩戸に隠れてしまう。天照大御神が石屋戸から出たとき高天原だけでなく葦原の中ツ国(人間世界全体)も明るくなった。天の主宰者の支配の拡大を伴って、カオス(スサノオ)がコスモス(天照大御神)に回収されたのである。

神話は、吉本隆明が指摘するように、支配の正統化・正当化であるとされるが、そうだとしたらかくも支配が簡単にはいかなかったことを「古事記」が伝えるのはなぜだろうか。

宣長は序文の意義を認めながら、漢字借り物論を展開する。宣長エクリチュール論が何であったにせよ、大いなる他者である中国との関係を消去してはならない。エクリチュールとは「古事記伝」への回帰である。これは宣長という思想家の思想の言語の外に出て理解してはいけない。宣長との対話において読み返す時間が必要である。