眠れない夜に考えること ー 貨幣、テクスト、映画

眠れない夜に考えること

‪『資本論』を読むと、貨幣(等価交換)を物語るテクストが存在することから、貨幣が存在すること(貨幣フェティシズム)へとマルクスの関心が移っていくようでありますが、一体これはなんだろうかとおもっていました。‬また、宣長は神々がいるかどうかよりも神々を物語るテクストは存在していることの意味がどうも大事らしいのですが、篤胤の場合となると、神が存在するという神学の一神教的見方をもちます。これはなんでしょうか?存在を語るテクストが存在するという思惟から、存在することを証明していく思惟が生まれてくるという展開。言説の差異化の運動でしょうか?‬

最後に、‪『昼顔』のブニュエルにおけるようなフェティシズムを物語る見方は、見ることに過剰な意味づけをもつとおもわれます。媒介なく直に神々を見ているという関係を敢えて物の語りによって語りを構成する見方もフェティシズムの見方かもしれません。それが、世界宗教的な一神教的見方(見えない神が存在する)を語る言説にとって代わられると、言説の差異化の運動のなかで、体系的構築性のもとにいくような物の見方が現れてくるのでしょうけれど、それと同時に、体系的構築性が救済論的同一化に壊されていく思考の不均衡は大変面白いというか...‬