小説大杉栄

  1. ・1923.9.16の出来事を客観的視点で構成してみた、大杉栄について書いた小説をネットで流したとき、どう読むかは読む側の自由だが、憲兵大尉甘粕正彦を描いた小説と思う人達もいた。驚いたが、この読みは正直なのかもしれない。現在なお、「自由」といわれているものが国家主義甘粕正彦の「自由」でしか存在しないことを考えさせる。
    大杉栄ボルシェビキウクライナアナーキズム抑圧の事実を知って、労働運動の意味を大切にしながら社会主義を批判し始めた。彼の思想は小田実が語る市民の思想の先駆だった

 

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小説大杉栄(第一部)

軍用トラック後部席の背後にある横長の窓は映画のスクリーンのようで、走り去る街の映像を次々に映し出している。国会議事堂の外観の如く長方形を重ね合わせてできたコロニアル様式の建物、似通った住宅の単調な色調、どことなく控えめに並ぶ地味な広告看板、公衆時計、横断歩道を無視し車の隙間をぬって強引に道を横切る人々。憲兵達はこれらのものが一つ一つ、遠ざかり小さくなっていくのを眺めている。1923年、東京市。運転手はカーブの手前だというのにいっこうにスピードを落とそうとしない。ぎしぎしと音を立てて車中が傾く度に、ばたばたと暴れ回る昆虫の背中から振り落とされるような居心地悪さである。と、突然、轟音がとどろく。激しい地震のため、急停車。関東一円を激震が襲い、東京市の至るところから火災が発生したという無線の連絡。
第一震の直後に、電信、電話が破壊され、通信システムも大きな混乱に見舞われ、汽車、電車も不通となった東京市は、荒れ狂う猛火を抱いたまま外部との連絡を断たれて孤立してしまう。再び、軍用トラックが発進する。今度は、車窓から眺める往来には位置や方角を示す標識が殆どない。

たまにみかける矢印は天空のようなあらぬ方向を向いていたりする。壊れたままで時を刻むことを止めてしまった公衆時計。憲兵達の表情は皆暗く、こわばっている。無線機から聞こえてくる様々な声。憲兵達は皆押し黙ったまま、一語一語に注意を払う。

 

朝鮮人討伐をするから協力してくれ。」

「暴動の事実などはない、デマだ。」

戒厳令下だ。斬捨御免、司法当局は手を引け。」

「余りに多数の朝鮮人が集まり、収容する場所も食料も無い」

「周囲住民が激昂しているので、いつ騒動が起きるかもしれない」

朝鮮人が保護を求めてきた」

「暴動の事実などはない、デマだ」

「主義者は?」

「暴動を企てた主義者多数が警察によって殺された」

「まだ残党がいるそうだ。」

「暴動の事実は確認できない」

「きっと暴動を起こす」

「一同を扇動して暴動を起こすかもしれない。ここでやってしまおう」。

「主義者は国家の害毒だ!」

憲兵Aは驚いて言った;おい、外を見てみろよ。往来には位置や方角を示す標識が殆ど無い。公衆時計も壊れたままだ。時を刻むことをやめてしまったみたいだ。

憲兵Bは隊長に言った;目的地に本当に到達できますか。到達できたとしてもですよ、大杉を捕まえられないんじゃないですか

憲兵Cは隊長に向かって言った;街には暴動が起きています。もはや警察だけに任せられません。軍と憲兵が協力して主義者達の陰謀を徹底的に根絶するべきです。隊長、今手をうたないと、手遅れになりますよ。命令を下さい。お願いします、甘粕大尉は現在どこにいらっしゃるのか

「皆、落ち着け。我々は自分達の任務を粛々と遂行するだけだ。いまは他の事を一切考えるな。」、と隊長は皆に言った。
憲兵達は皆、顔を見合わせるが、不安な様子を隠せない。「甘粕大尉とご連絡をお取りになるべきと思いますが。」、と憲兵Bは言った。

「その必要はないだろう。軍の無線機は正常に働かないようだしな。変更が生じれば本部から連絡が来るはずだ。」と隊長は言い聞かせた。

憲兵Cは隊長にきいた;甘粕大尉は一体どんな方ですか。「ふむ、大尉はお偉い方だ。大川中島の戦で活躍した上杉謙信のもとで功を成した武将のご子孫ときいている」。皆関心をもって話を聞く。当時先祖の話が非常に重みを持っていた。隊長は皆の不安を鎮めたいと考え、話を進める。

「大尉は少年時代、軍人になって靖国神社に祀られることだけを願っていた様な、純粋な愛国少年だった。しかし陸軍戸山学校で落馬し、その怪我のせいで歩兵としての前途を諦めてしまったという話だ。」憲兵Cは言った; ああ、それで、 憲兵隊に入ってこられたわけですね。

「そうだ。大尉は温和な方で中々教養も高い。ことに、好きな映画の話になると、止まらなくなってしまわれる。憲兵隊のことしか知らない我々に、外の世界のことに目を向けさせてくれる、という訳だ」憲兵Dはきいた;「赤い帽子の女」の様な風紀を乱す映画の話も話されますか」

「フランス映画は必ず観ていらっしゃる。社会主義の文献をよく読み、フランス語にも堪能らしい。ジャズのレコードを集め、邦楽なら浄瑠璃を好み、社交ダンスの名手。酒ならウイスキー。タバコはエアシップ・・」

と、憲兵Bは隊長の話を遮った;隊長、目的地に到達できるでしょうか。うまく大杉を捕まえられないんじゃないでしょうか。憲兵Dは言った;大杉には家族がいるんですか。「一応、妻と娘がいることになっているが、体裁だけだ。アナーキストを名乗る連中は家族制度を否定している。実際に大杉には何人もの女がいて、その一人から刺されるという事件も起きた」
憲兵Dは言った;なんてやつだ。家族の情が無いから、愛国精神がないんだ!必ずとっつかまえてやるぞ!!

「隊長の得意な話、センチコガネの話をしてくださいませんか。隊長のお話を聞けば、皆の気持ちもすこしでも落ち着くと思うのです。」、と、憲兵Cは隊長に懇願した。
憲兵Aはきく;なんだ、そりゃ、センチコガネというのは?

憲兵Cは言った;話を聞いた事がないのか。ああ、たしかお前は今年この金沢の部隊に入ったばかりだから、知らないのだな。憲兵Bは説明する;センチコガネはふん虫のことだ。地上のふんを片付ける虫で、もし世の中にいなかったら、大変だ、地上はふんの山だらけになってしまう。

くそ虫って呼ばれて嫌がられているけれどもな。憲兵Cは楽しげに言った; ミツバチマーヤの話の中では、ふんの掃除屋はコオロギのイソフィーからもとてもばかにされていた。
憲兵Dは呆れた調子で言う;東京が瓦礫の山になっちまった!?まさに、そのふんの山のようなものだ。今すぐに、くそ虫のような奴が必要だぜ。

憲兵Aは言った;モンゴル人は憎しみを込めて我々の事を「くそ虫」と呼んでいたっけ。

憲兵Bは言った;何を言うか!モンゴルの民衆は自分達の祖国をロシアと中国の支配から解放してくれた大日本帝国に、心から感謝の意を表している!

憲兵Aは納得しない;そうかな?もし本当に感謝されているのだったら、じゃなぜ、我々は「くそ虫」なんだ。おかしいじゃないか。憲兵Bは言葉を返した。;一部の民族主義者達がそう言っているだけだ。馬鹿なことを言うな!!

隊長、何とか言ってください!我々の仕事には大義があったと!!。「しかし、いつまでこのような事を続けるつもりなのですか?」と、憲兵Aが侮蔑した調子で言った

「ああ、そうさ。日本語のおかげで、アジアの民衆は互いに意思を伝え合うことが可能となるのだ。それまでは民衆はバラバラで、結局そのせいで西欧列強による好き勝手な支配を許してしまったんだ。もう勝手なことは許さない。これからはアジアは一つとなるのだ。」。

隊長は皆に呼びかけた。センチコガネの話を聞かせようとした。「もしこの世にふん虫がいなかったら地上は糞の山だらけになってしまいます。神様はセンチコガネに、地上の糞を片付けるようにいいました。それなのに人間たちはくそ虫といって馬鹿にし、汚い虫といって毛嫌いしています。センチコガネは自分達の幸せのために生きています。センチコガネはゆたかな心をもった虫です。夕日が西に沈んで風もなく、黄昏がせまる頃、薄暗くなってから巣穴からさっと飛び出します。ブンブンと音をたてて飛び回るのです。新しくおいしそうなラバのふんの山をみつけると、さあっと、とびおりて夕食にありつきます。そしてこの山の下に巣穴をつくります。工事にとりかかるというわけです。巣穴はいつもふんの下を掘ってつくります。土だけならまっすぐ掘れるのに、とちゅうで石や木の根っこがあると、曲がったりして、だから、きまった形はありません。」。

「面白いな。一体誰がこしらえた話ですか。」と、憲兵Aはきいた。「大杉栄だ。いや、正確には、フランス語で書かれたファーブルの「昆虫記」の話なのだが、大杉がこれを翻訳して出版した。」と,隊長は言った。

憲兵Bは隊長にきいた。「大杉とは、我々が連行しようとしている人物のことですか。」。

「そうだ。」。皆顔を見合わせた。と、憲兵Cは隊長にきいた。
「一体何者なんですか、大杉ってやつは?」。隊長はしばらく黙っていたが、皆に説明し始めた。

「大杉はプロの監獄人だ。三年前に上海へ脱出し国際無政府主義運動の晴れ舞台にデビューした。去年は女装して憲兵隊の監視の目から逃れてパリのメーデー集会で演説し投獄され、結局フランスから追放されて日本に帰国してきた。大杉は「一犯一語」というスローガンを掲げて捕まる度に獄中で新しい外国語を習得する語学の達人で、エスペラント語にも通じている。エスペラント語創始者はどの民族のものでもない、新しい言語を創り出す事によって、民族や国家に属さない一個人になろうとした。この考え方が大杉の様な主義者達の心をとらえるのだろうな」

エスペラント語は「アカ」の言葉でしょう。」と、憲兵Dはきいた。「そうとは限らん。北一輝エスペラント語の擁護者だ。」。
「そうすると、北一輝も主義者ですか?」と、憲兵Dが当惑して言う。
「それは分らんな。」と、隊長は答えた。

 

憲兵Bは隊長に向かって言った。「面倒臭い話です。エスペラント語も結局、世界中の言葉に、ただ新しい言葉を一つ、つけ加えただけじゃないですか。世の中は日本語一つで十分です。どんな国の人間も、皆が日本語を喋りさえすれば、ばらばらな心が一つになり、争い事もなくなる。そして国体を侮辱する主義者も現れないはずです」。

「そうはいかんさ。現実に、現在世界に普及している英語とフランス語の事を考えてみろ。果たして、日本語には、この二つの巨大軍艦に取って代われるだけの十分な能力があるかどうか、大いに疑問だよ。」と、隊長は言った。

隊長は話を続けた。「ふくろうのこころは、鍵がかかって誰も入ってこれない、ひとりだけの映画の部屋。ねこのこころは、鍵がかかって誰も入ってこれない、ひとりだけの映画の部屋。ふくろうのこころとねこの心。それぞれ、鍵がかかって誰も入ってこれない、ひとりだけの映画の部屋ひとりで映画をみても、その夢がかなうことはありません。ふたりでいっしょに映画をみることが大事なのです。そうすれば、きっと夢が実現します。さあ、バベルの塔から、カチカチにかたい宇宙卵から、なんとか脱出しなくっちゃ」。

と、この時、憲兵Aが隊長に言った。「バベルの党は崩壊しちまうんでしょ?」。

「黙って、最後まで話を聞いてろ」と、憲兵BとCは文句を言った。

隊長は続けた。「バベルの塔はもはやありません。そこは、いまや瓦礫の山です。ふくろうねこは、新しい塔をつくろう、と考え始めました。ふくろうねこは、大いなる宇宙の建築家になりたい、と思いました。人間は、整理し、表にし、地図を作る事ばかり考えていましたが、これらがバベルの塔の崩壊の原因となったのです。ふくろうねこは、気ままに歩き回るのが大好き、だから、新しい塔は彷徨う塔でなければなりません。彷徨う塔には、壁も床もいりません。強い柱も必要ありません。正義と美と思いやり、つまり、星と花と風が、建物の柱となるからです」。 

「正義と美と思いやり、星と花と風が、建物の柱となるのか・・・なんて素晴らしい世界なんだ」と、憲兵Dが呟いた。

憲兵Bは隊長にきいた。「世界中に六千の言葉があると聞いたことがあります。いつから、こんなに沢山の言葉が生まれたのでしょうか」と、憲兵Bは隊長にきいた。

すると、憲兵Cが言った。 「お前、バベルの塔の話を知らないのか。耶蘇の神様が奢り高ぶる人間を罰するために、互いの言葉を分からなくしたのさ」。しかし憲兵Dは言い返した。「民族の間で互いに言葉が分からないから、心が通じ合わないという話は尤もな事です。しかし、心が通じ合わないから争いが必ず生じるという訳ではありません。争いは他の理由によって生じるものなのではないでしょうか。隊長はどのように思われますか」。

「皆、ふくろうねこの話を知っているか。聞いてくれ。」と、隊長は言った。「昔々、バベルの塔と呼ばれた高い塔がありました。塔のてっぺんにはふくろうが住んでいました。塔の下にはねこが暮らしていました。ふくろうはねこのことを知りませんし、ねこもふくろうのことを知りません。黄色。ふくろうは座っています。黄昏。ふくろはごはんを食べます。本を読みます。時々ため息をつきます。ふくろうは歩いて、歩いて、そして、また座ります。ふくろうは待っているのです。青色。ねこは座っています。黄昏。ねこはごはんを食べます。本を読みます。時々ため息をつきます。ねこは歩いて、歩いて、そして、また座ります。ねこも待っているのです。ねこが聞きました。不思議だな、ここには、誰もいないのに、どうして、木が、どんどん高くなるんだろう。すると、風の神さまが 言いました。「おやおや、変な事に驚いているんだな。だって、私がずっとここにいるじゃないか。ねこが木が育つのはね、塔のてっぺんにいるふくろうが、君をみているからなんだよ。」。

その時、ホーホー、と誰かが戯れてみせた。

隊長は話を続けた。「さすらいの賢者スピノザが、村人に語って聞かせました。人々は熱心に、ふくろうねこの伝説に耳をかたむけました。スピノザは言いました。ふくろうはな、ねこが悲しむ原因となったのじゃ。それは、ふくろうがねこの憎むものとなんらかの類似点があったからじゃ。例えば、ねこはふくろうが話すふくろう言葉が外国語みたいで理解できなかったから、憎んだのじゃな。又、ねこが愛するものをふくろうがひとりじめしていたから、けんかが起きたのじゃ。ねこは空を飛ぶための羽をとても欲しかったのじゃが、ふくろうがひとりで所有していたのじゃ。村人は聞きました。結局、ふくろうとねこは仲直りできたの。ねえ、どうなっちゃたの。 」と、村人は聞きました。ねえ、反対に、ねこは、ふくろうが悲しむ原因とならなかったの。スピノザは言いました。ふむ、ふくろうは、ねこが話すねこ言葉が外国語みたいで、さっぱり理解できなかったから、やはり憎んだのじゃ。ふくろうが愛するものをねこがひとりで所有していたから、喧嘩が起きたのじゃ... ふくろうはおしゃれな髭を欲しかったが、ねこがひとりで所有していたから、喧嘩がおきてしまったのじゃ。 こうして、ふくろうとねこは、お互いに相手が嫌がる悪いことをするようになったのじゃ。 そして、ふくろうとねこは、わしのところに相談しに来たというわけさ・・・」

と、憲兵達が皆、隊長の話に耳を傾けているうちに、車のエンジン音が止まり、目的地に到着した。「隊長、目的地に到着致しました。」と、憲兵Bは報告した。

それに対して、「隊長の話が終わってからでいいじゃないか」と、憲兵Aは言った。

しかし、隊長は帽子に気がつかなかった。無言のまま、動かなかった ー バベルの塔の、砂漠に永遠にうち捨てられた石の如く

小説大杉栄(第二部)

 

伊藤野枝と新聞記者が向かい合って座っている。新聞記者が伊藤野枝の言葉をタイピングしている。

「野枝さん、よかったら、どうぞお座り下さい。最初から、状況をお話いただけますか。」と、新聞記者は言った。

野枝は動揺している。椅子に座った。 「栄さん達が捕まった。憲兵達が来て、連れて行ってしまった」。

憲兵隊が大地震の混乱に乗じて、大杉さんを逮捕しましたか。おかしいな。新聞社に対して、警察庁からの発表が何もありませんでしたがね。野枝さん、お気持ちを察します。一体いつの事ですか」と、新聞記者はきいた。

「お昼過ぎです。どうしよう。栄さん達が捕まった。」と、野枝は訴えた。

「いま、奥さんの言葉を書きとっていますから。なぜ政府は黙っているんだろうか。大杉さんは、本当に逮捕されたんですか。なにかの間違いじゃありませんか・・・?」

「私は自分の目で見たんですよ。政府と警察よりも、どうか、私の言葉を信じてください」。新聞記者は野枝にきいた。「憲兵隊を何人見ましたか?」。 「大勢でした」。 「正確には何人でしたか。」 「分らないわ。六人、七人、いえ、もっと多かったかもしれない・・・」 「落ち着いて思い出してください。確かに、憲兵隊でしたか。」と、新聞記者は言った。 「だから、栄さん達が捕まった、と、言っているじゃないの!」と、野枝は繰り返した。 「分からない、では困りますね。警察でしたら令状を示すはずですから」

と、新聞記者は苦笑いした。「陸軍の可能性もありますし。確かに、軍ではなかったのですか。内務省警保局の仕業かもしれない。大杉さんに裁判所の令状を示しましたか。どんな制服だったか、はっきりと覚えていませんかね。」

伊藤野枝は「分かりません・・・」と答えた。

「分からない、では困りますね。警察でしたら令状を示すはずです」。

野枝は説明した。「本当に突然の事で、はっきりと覚えていないんです。家の外でトラックのエンジン音が聞こえたと思ったら、大勢の人達がどかどかと侵入して来て、栄さんを取り囲んで連れて行ってしまったんです」 。

新聞記者はきいた。「なんの目的で?」。 野枝は立ち上がった。「そんな事分からない。とにかく、栄さん達が捕まってしまった」。

新聞記者は短い溜息をつき、野枝に説いた。「それじゃ、なにも分からないですよ。野枝さん、あなたの言うことを信じたいのですが、なにせ、政府からの公式の発表がないので。今のところ、警察からの情報もありませんしね。どうか、頭を整理して論理的に喋ってくださいませんか。一体何が起きたのですか」。

 

「栄さん達が捕まった。憲兵達が来て、連れて行ってしまった!」 「逮捕の容疑は?」。 「分りません!」 新聞記者はきいた。「なんて、令状に書いてありましたか。」伊藤野枝は首をふった。 「令状。そういうものがあったか覚えていません。あっという間のことでしたから。どうしよう。栄さん達が捕まってしまった」。

「野枝さん、ここに、なにしにいらっしゃったのですか?」と、新聞記者は問いただした。 「だから、憲兵達が来て、連れて行ってしまったといっているじゃないですか。なぜ、あなたはわたしの話を聞いてくださらないの!」

「ええ、さっきから聞いていますよ。こうして、あなたの話を記事にしようとしています。大杉さんは手錠をかけられたのですか。それともロープなんかで縛られていましたか。捕まった事を、どのように証明なさいますか。」

「証明・・?」

 

新聞記者は溜息をついた。「大杉さんが捕まったという事実の証明ですよ」。

「一部始終目の前で見ていたのよ。わたしの目の前で、栄さん達が捕まったよ。私の目が証明です」。

「しかし、政府と警察は新聞社に一言の説明もないのですよ」。

と、野枝は再び立ち上がり、記者に指差した。「政府と警察が事実を隠しているだけのことでしょう。ジャーナリスト達は、政府と警察から貰った情報がなければ、新聞記事を一つも書けないのかしら。あなた達が自分達の力で取材しているものといったら、スポーツと芸能話だけじゃない。新聞の名に値しないわ。恥を知れ!」。

記者は不快に感じ顔を背けた。「帝国のジャーナリズムを侮辱するつもりですか」。

「侮辱と感じる良心がまだある様だけど、大正デモクラシーといっても、政府と警察の発表を右から左に流しているだけでは、本当の言論の自由とはいえないわ」

「しかし、大杉さんが捕まった、と判断するには、令状とか、手錠とか、ロープといった物を見ているはずではないですか」。

「その時二人の男達に力ずくで押さえつけられていたから、分らないのよ。栄さん達を、憲兵が連れて行ってしまった。どうか私の言葉をその通りに書いて下さい」

「我々の仕事は理性を必要とするのですよ。あなたがいくら叫んだとしても、支離滅裂な話だと読者には意味が伝わりません」。

野枝は動転した。「どうしよう、栄さんが捕まる!」。

新聞記者は冷静に言った。「正確な文法は「捕まった」と言うべきではありませんか?」。

「栄さん達が捕まる、捕まった。同じことだわ」。

「大杉さんの他に、誰が連行されたのですか」。

「自宅には、わたしと栄さんの二人しかいませんでした。」。

「大杉さん一人でしたら、"栄さんが捕まった"と言うべきではないでしょうかね。"栄さん達が捕まった"という日本語は間違っていますよ。説明になっていない。それで、誰が捕まえたのですか?」と、新聞記者は言った。

野枝は声を振り絞って訴えた。「大勢の男達が栄さんを取り囲んだ。憲兵隊どもが!」。

憲兵隊と判断なさった根拠は一体何ですか」。

「軍隊だったかもしれない、そんなこと、はっきりと分からないのよ。とにかく、国家権力の豚どもが栄さん達を捕まえに来たのよ」。

「なぜですか?容疑は?」。

「分からないわ」。

「いや、困りましたね。果たして、文章にできるかどうか。」と、新聞記者は嘲笑った。

「なぜ、あなたはわたしの言葉を聞いてくださらないの!?」。

「いまタイピングさせますから、この文で正しいか、おしゃってください。‘大正十一年九月十六日正午、自宅にて大杉栄、逮捕されると、友人からの通報あり"」。この文でよろしいでしょうか。」と、新聞記者は言った。

「友人って、どういうことですか。なぜ、私の名前を書かないのですか」

「しかし、あなたと大杉さんとの関係がはっきりしないじゃありませんか。」と、新聞記者は言った。

野枝は大声で、新聞記者にむかって告げた。「私は大杉の妻です! 」

 

すると、新聞記者は呆れた。「冗談じゃない。大杉さんには過去に同時に交際していた女が沢山いたんです。真の意味で、妻と呼ぶに値する女は結局存在しなかったのです。そういう、あなただって、二人の子供もいた他の方の妻でした。しかし、そのことによって家族の倫理を犠牲にすることには、私は反対です。すべての女子は彼女が所有する処女を、それを捨てるにもっともな時に達するまで、大切に保たなければなりません。さらに言えば、不適当な時において処女を捨てるのを罪悪であるが如く、適当な時にありながら、なお捨てないのもまた等しく罪悪です。処女を捨てるに値するに最も適当な時はいつかというと、各自の内的生活の経験から見る時は、それは恋愛の経験において、恋人に対する愛情の中から官能的欲求を発し、自己の人格内に両者の一致結合を真に感じたです。こう考えると処女の価値は誠に大きい。日本婦人の中心生命である恋愛を成就させることが、日本婦人の全生活を幸福にする第一条件です」。

野枝は軽蔑の眼差しで反論の言葉を返した。「しかし、私達女は、そんな天使のような処女の捨て方をのみ想像することはできません!」。

新聞記者はしばらく間をおいて促した。「皇室に範を求めるべきではありませんか」。野枝は自分の考えを語った。「処女とか貞操とかいうことのほかに、もっと根本的な思索と行動があるはずです。それは真に人としての自覚です。女性達は、自己と自己との全周囲との関係を自覚しなければならないのです。栄さん達こそ、そのような自己と自己との全周囲との関係なのです。私達が主張しているのは、この関係に他なりません。そして、そして、栄さん達が捕まってしまった!」。

「それじゃ意味不明だ。主語の文法が間違っている。単数形でなければならない。新聞の読者は頭を使わないんですよ。単純明快なものを求めているんです」と、新聞記者はペンを置いた。
「栄さんが捕まった。栄さんが捕まってしまった。栄さん達が・・・」と、野枝は繰り返した。

君が代が朝鮮を侵略したとき、私は黙っていた、なぜって、私は朝鮮人じゃないから / 君が代が中国を侵略したとき、私は黙っていた、なぜって、私は中国人じゃないから / 君が代共産党を弾圧したとき、私は黙っていた、なぜって、私は共産党員じゃないから /君が代が国会を停止したとき、私は黙っていた、なぜって、私は民主主義者じゃないから。/ 君が代労働組合を解散させたとき、私は黙っていた、なぜって、私は組合員じゃないから。/君が代が抗議する先生達を辞めさせたとき、私は黙っていた、なぜって、私は先生じゃないから。/君が代が私のところに来たとき、助けてくれる仲間はひとりもいなくなっていた。

 

 

 

小説大杉栄(第三部)

大杉栄と甘粕大尉がテーブルを挟んで対峙している。他に憲兵Dが大杉栄を見張っている。甘粕大尉による取調べが進む。テーブルの上に、伊藤野枝と神近市子が座っている。テーブルの前に置かれた、真ん中の椅子に、堀保子が座っている。
三人は大杉栄を見ており、時々言葉を交わすが、甘粕大尉と憲兵Dには、それらの姿は見えない。甘粕大尉は大杉に煙草を勧めた。大杉は黙って首をふった。

甘粕大尉は大杉に告げた。「"自由","平等","博愛"などという言葉を、日本から駆逐せねばなりません。主義者達は、わが国に於いて、国家が主であって個人が従、すなわち、個人あっての国家ではない、すなわち、国家あっての個人だということを忘れてしまっています。しかし、日本が西欧列強と肩を並べるにも、科学と技術を軽んじるべきじゃありませんよ。だから「昆虫社会」という本を発禁にしたのは、明らかに行き過ぎです。純粋に自然科学の本なのに、"社会"という言葉が当局にひっかかりました。生憎、大杉さんの昆虫記の方は大丈夫だったようでしたが」。

しかし、大杉は黙っていた。沈黙。

小説大杉栄

「 "自由"、"平等"、"博愛"などという不埒な言葉を、日本から駆逐せねばならぬぞ。主義者達は、国家が主であって個人が従、すなわち、個人あっての国家ではない、すなわち、国家あっての個人だということを忘れておるぞ。」と、心の中の保子は大杉に語りかけた。

「国家なんてものは、なまけものの思想にすぎない。僕のまわりを見渡すと、そうしたなまけものばかりだ。なまけものは、鎖を造る事と、それを自分のからだに巻きつけることだけには、すなわち他人の脳髄によって左右せられることだけには、せっせと働いているが、自分の脳髄によって自分を働かしているものは、ほとんど皆無である。こんな奴等をいくら大勢集めたって。」と、大杉は保子に答えた。

小説大杉栄

「なまけものは大勢で自動車を造ることができますよ」と、心の中の市子は言った。大杉栄は首をふった。「なまけものに飛躍はない。なまけものは歴史を創らない」。
「なまけものは大勢で、戦争に強い国家をこしらえていますよ」と、心の中の野枝は言った。

大杉は苦笑した。「戦争に強い奴は、そういう野蛮人達だよ」。

甘粕大尉は大杉に告げた。「社会主義はその根本は間違っていても、学者の中には真面目に研究する者もあり、傾聴に値するものがあります。しかし無政府主義に至っては、国家の権力に対し、根本からこれに反発し、延いては我が国体を罵倒し、大和民族の帰結を害う危険思想であると言わざるを得ません・・」

保子は大杉にきいた。「あなたは社会主義者。それとも、アナーキスト?」

社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々嫌になる。僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのものの爆発だ。しかしこの精神すら持たないものがある」。市子は大杉に言った。

「あなたの思想は?」。

「思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ」と、大杉はきっぱりと答えた。

小説大杉栄

甘粕は言った。説明した。「家族制度と、皇室と、国との関係を考えると、日本国はありがたい国と思います。反抗を恐れない子供達よ。なんと気高い精神なのでしょう。しかし、哀れむべきことには、あなた達、無政府主義者には家族も故郷もない。家に在りては己を空うして家長に仕え、この間に不識の間にも犠牲的精神を養い、君国の事に当たりては、民族の長たり、政治の首長たる皇室、皇室の有たる長たる日本国に、凡てを空うして仕ふのです。族長、統治の長の一致せる国は、我が日本のみです、大杉さん」。

「正に、それが、自己保身と安楽を好むなまけものの思想だ。それと野蛮人の感情だ。国家は野蛮人の勇気によって建設され、またそれによって発達し、そして、ついにそれを失うことによって滅亡に近づく」と、大杉は呟いた。

甘粕は大杉に質問した。「大杉さん、思想の計画について伺います。それは、つまり世界に革命の力を導入する事ですか?」。

「そういう思想の計画は結局、同意の現実とイデオロギーをもたらしただけだ。反抗が生じることがなかったし、美が誕生する事もなかった」と、大杉は言った。

「それでは、あなたの計画は何だったのですか?」。

「自分の計画をつぶさに検討してみると、実現は不可能だ。これが僕の計画ならざる計画なのだ。ははは」。

「女性についてはどうですか?権利と思想の自己主張の挙句、三度夫を変え、二人の子供を捨てた西欧かぶれの女もいます。しかし潔癖たる真の日本婦人ならば、皇室の有たる長たる日本国に、道徳の王国に、凡てを空うして奉仕するべきです。」と、甘粕は言った。

「法律は随分女を侮蔑もしているが、それでも子供扱いだけはしてくれる。道徳は女を奴隷扱いにする。」と、野枝は言った。

小説大杉栄

大杉は呟いた。「法律は父なし児を認める。ところが道徳は父なし児およびその母を排斥し、罵詈し、葬り去る」。

「自由恋愛。フリーラブの実践。第一条、お互いに経済上独立すること。」と、保子は宣言した。

「保子との間の長い愛、捨てがたし。」

「あたしのお金だけだったの。保子さんはともかく、野枝さんは嫌いよ。」と、市子は言った。

「僕はもう、こんな醜い、こんな事は飽き飽きだ。いい加減に打ち切り時だぜ」。

市子は大杉にきいた。「ええ私も。だけど本当にもう、駄目でしょうか」。

「駄目と言ったら、駄目だ!」。

「そう。私いま何を考えているか判る。」と、市子は言った。 

「わからんね」。

「あなたにお金のない時のことと、ある時のことを考えていたの。」

「どういう意味だい?」

「野枝さん、綺麗な着物を着ていたわよね」と、市子は言った。

保子は宣言した。「自由恋愛。フリーラブの実践。第二条、同棲しないで別居生活を送ること」。

大杉は呟いた。「市子の知性と経済力、捨てがたし」。

「自由恋愛。フリーラブの実践。第三条、お互いの自由と性を尊重しあうこと。」と、保子は宣言した。

野枝は保子に言った。「あたしだけの男よ。誰にも渡すものですか!」。

大杉は呟いた。「野枝の性的な力、圧倒的な生命力、捨てがたし」。

 

「たとえ、栄さんに行く幾たりの愛人が同時にあろうとも私は、私だけのものをあなたに与え、欲しいだけのものをあなたから奪って、ずんずん進んでいけば、自分の生活が広がって行きさえすれば満足なのです。」と、野枝は言った。 

 

甘粕は質問を続けた。「大正九年、あなたは上海に着いた時、港からそのまままっすぐ朝鮮人居住区に行っています。警察が押収したあなたの日記には、フランス租界内「何とか路の何とか里」と書いている。大杉さん、正確には場所はどこだったんですか?Lは李東輝、Rは呂運享、Cは陳独秀、Tはチェレンだということはわかっています。その会議には他に誰が出席していたのですか。しかし、鎌倉の自宅で見張っていた大勢のベテラン刑事達を煙に巻いて、まんまと国外へ脱出しました..」

 

「腕利きの刑事達誰一人もあなたの姿を見ていないというから本当に奇跡です。一体どうしてそのようなことが可能だったのでしょうか。あなたは、どうも変装の天才らしい」。

「変装の秘訣を知りたいか。僕が聞きたい事に答えると約束するなら、教えてやってもいい」。

甘粕大尉は頷いた。「いいでしょう。変装の秘訣は?」。

「ひげを剃るだけだ。すると、女性の姿にみえる」。

大杉は甘粕を睨みつけた。「今度は僕からの質問だ。約束だから答えてもらいたい。今度の地震で、憲兵と軍隊はいったい何人の人々を殺害したのかね!?」。

社会主義者朝鮮人のことですか。三百人程度か、ある報告では四百人、七百人という数字もあります。正確な数字はわかりません。民衆の自警団が殺害した人間の数はまだ、把握できていませんし。第一震の直後に、電信、電話が破壊され、通信網も大きな混乱に見舞われ、汽車、電車も不通となった東京市は、荒れ狂う猛火を抱いたまま外部との連絡を断たれて孤立してしまいました。恐怖心から"井戸に毒が入れられた"といったデマが広まってしまったのです」。

大杉は怒った。「軍と警察による扇動と容認があったんだろう。とはいえ、民衆自身が朝鮮人虐殺に手を下した責任はつぐなわなければならない!」。

甘粕は答えなかった。懐中時計を取り出した。「大杉さん、その話はそれくらいにしておきましょう。残された時間があまりないのです。今回はすでに覚悟をお決めになっていることと、お心を推察しています。もう外国語を学ぶこともできないのです。だから、いまどうしても、あなたから聞きたい話があるのです。もはや、会合の場所や会議の主席者の話はすべて、忘れようじゃありませんか」

大杉は野枝に向かって言った。「宗一は無事だろうか。誰があいつの面倒をみてくれているのかい?」。
 
野枝は答えなかった。憲兵Dが甘粕大尉に耳打ちをした。憲兵Dは甘粕に敬礼をして、そのまま部屋を出た。

 甘粕は大杉に最後の言葉を告げた。「彼らが戻ってくる前に、是非とも聞いておきたい話があります。大正十二年二月、あなたはフランスに中国名で到着しました。パリ放浪中の日本人画家と連絡が取れて、モンマルトルに移ります。あなた達二人はバル・タバラン劇場の裏手にある、芸術家や俳優の連れ込み兼用下宿旅館"ヴィクトル・マッセ"に落ち着きました。リヨンの中国人同士と謀って、官憲の裏をかきロシア入りを企てる前の事です。バルタバラン劇場の踊り子ドリイ"赤い帽子の女"と出会っています」

甘粕は婦人用の派手な赤い帽子を取り出した。「勿論覚えているはずです。Faire l’amour, ce n’est pas tout.Tu es trop jolie pour cela. Je t’adore.. 大杉さんは彼女に長い文章を送っています。しかし、残念ながら、フランス日本大使館が入手できたのはこの一文だけでした。文章の全部を入手することはできなかったのです。そこで、是非とも聞きしたい話とは、この空白のテクストなんです」。
と、野枝は、甘粕大尉の手から帽子を取りあげ、大杉栄に向かって投げつけた。

大杉は弁解した。「モンマルトルで創作した話のことだ。バル・タバラン劇場の踊り子にプレゼントしたのさ。ふくろうねこの話の続きをね」。と、大杉は微笑した。それから、野枝に語りきかせたーふくろねこの物語を。

昔々、バベルの塔と呼ばれた高い塔がありました。塔のてっぺんにはふくろうが住んでいました。塔の下にはねこが暮らしていました。ふくろうはねこのことを知りませんし、ねこもふくろうのことを知りません。黄色。ふくろうは座っています。・・・

「黄昏。ふくろはごはんを食べます。本を読みます。時々ため息をつきます。ふくろうは歩いて、歩いて、そして、また座ります。ふくろうは待っているのです。青色。ねこは座っています。黄昏。ねこはごはんを食べます。本を読みます。時々ため息をつきます。猫は歩いて、歩いて、そして、また座ります。猫も待っているのです。もしも、ねこが、もしも、ねこが、夢の中の原っぱを彷徨い、自分がどこにいたかを知るため、花を手にとって、それから、目覚めたときに、その花が もし、手の中にあるとしたら・・ぼくは 
その花を持っているよ」

大杉は話を続けた。「ねこが聞きました。不思議だな、ここには、だれもいないのに、どうして、木が、どんどん高くなるんだろう。すると、風の神さまが言いました。おやおや、変なことに驚いているんだな。だって、私がずっとここにいるじゃないか。木が育つのはね、塔のてっぺんにいるふくろうが、君をみているからなんだ。さすらいの賢者であり、スピノザと呼ばれている犬がいました。この犬は変わり者で、世間から姿を隠して生きていましたが、友達はいました。ふくろうねこです。ある月夜のことです。林のなかを、なにかがさっと、通り過ぎて行きました。友達のふくろうねこが会いに来てくれたのでしょうか。スピノザには、わかりません」

雲が空を覆い 
月が見え隠れする、こんな夜だと 
ふくろうねこの姿はなかなか見えないのです 
慈悲深き白壁の宮殿に 
向かっていくこの降下には苦い欺瞞がともなう 
百万の監視箱にとりかこまれた人々 
雲の軍勢が 
東に指差した超越者の時計台をこえて行進する

と、風である、このわたしに 
激痛がもたらされた 
「愛するひとよ、雨粒に撃たれてはいけない」 
と、降下してきた裸の人が告げる 
ここで祈っても無駄 
もっと下にむかって降りていこう 
無調の氷のエクスタシーに誘われて 
アイロスの避難所のもとに降りていく

自由な思想と自由な行動の避難所のもとに
ひとびとの言葉である貨幣のもとに
貨幣は水のように公共の所有物、正義のために在る
事物の内在的原因のもとに
魔法である詩の息吹となるために 
バベルの塔の天辺と底がひとつになり 
ふくろうねこが生まれた

 

大杉栄は話を続けた。「ふくろうのこころは、鍵がかかって誰も入ってこれない、ひとりだけの映画の部屋。ねこのこころは、鍵がかかって誰も入ってこれない、ひとりだけの映画の部屋。ふくろうのこころとねこのこころ。それぞれが鍵がかかって誰も入ってこれない、ひとりだけの映画の部屋。ひとりで映画をみても、その夢がかなうことはありません。二人で一緒に映画をみる事が大事なのです。そうすれば、きっと夢が実現します。さあ、バベルの塔から、カチカチにかたい宇宙卵から、脱出しなくっちゃ。バベルの塔はもはやありません。そこはいまや瓦礫の山です。ふくろうねこは、新しい塔をつくろう、と考え始めました。ふくろうねこは、大いなる宇宙の建築家になりたい、と思いました。人間たちは、整理し、表にし、地図を作る事ばかり考えていましたが、これらが、バベルの塔の崩壊の原因となったのです。ふくろう猫は、気侭に歩き回るのが大好きでしたから、新しい塔は、彷徨う塔でなければなりません。彷徨う塔には壁も床もいりません。強い柱も必要ありません。正義と美と思いやり、つまり星と花と風が、建物の柱となるからです。さすらいの賢者スピノザが、村人に語って聞かせました。人々は熱心に、ふくろうねこの伝説に耳を傾けました。スピノザは言いました。ふくろうはな、ねこが悲しむ原因となったのじゃ。それは、ふくろうがねこの憎むものとなんらかの類似点があったからじゃ。例えば、猫はふくろうが話すふくろう言葉が外国語みたいで理解できなかったから、憎んだのじゃな。また、猫が愛するものをふくろうがひとりじめしていたから、けんかが起きたのじゃ。猫は空を飛ぶための羽をとても欲しかったのじゃが、ふくろうがひとりで所有していたのじゃ。村人は聞きました。反対に、猫は、ふくろうが悲しむ原因とならなかったの?スピノザは答えました。ふむ、ふくろうは、猫が話すねこ言葉が外国語の様で、さっぱり理解できなかったから、やはり憎んだのじゃ。ふくろうが愛するものを猫が一人で所有していたから、喧嘩が起きたのじゃ。ふくろうはおしゃれなひげを欲しかったが、ねこがひとりで所有していたから、けんかがおきてしまったのじゃ。 こうして、ふくろうとねこは、お互いに相手が嫌がる悪いことをするようになったのじゃ。 そして、ふくろうとねこは、わしのところに相談しに来たというわけさ。村人は聞きました。結局、ふくろうと猫は仲直りできたの。ねえ、どうなっちゃたの?スピノザは答えました。まあ、静かに、わしの話を聞くのじゃ。猫は、自分が愛するものを、つまり羽を、ふくろうが所有していると考えている為に、ふくろうを憎むようになったと、わし話したじゃろ。村人は聞きました。うん、そういった。ねこは、羽を愛していたんだって。それから、ふくろうは、自分が愛するもの、ひげを、ねこが所有していると考えているために、ねこを憎む、とも言ったよ。 スピノザは言いました。そのとおりじゃ。ところで、よく考えて御覧。ふくろうとねこは同じものを愛するから、つまり本性上一致するから、お互いに、相手が嫌がる悪いことをするようになっただけなのじゃ。ここに、仲直りの秘訣があるはずなのじゃ。つまりだな、両者は同じものを愛するかぎり、まさにそのことによって、両者はおのおのの愛を強めることができるし、またまさにそのことによって両者おのおのの喜びを強めることができるのじゃ・・・」。大杉はふくろうねこの話を終えた。

と、今度は、野枝が、自分でこしらえたふく猫の話をしはじめた。「ふくろう猫は、賢者の犬スピノザの話を聞いたあと、仲直りしましょうと話し合いました。それから、木である門のところに、掟の言葉をかかげることになりました。掟は、ふくろう言葉と猫言葉の両方で書かれています。地球は丸くてギュギュウだから、お互いに譲り合って、限られたスペースをいっしょに生きなければならない。外国人だからという理由で、外から来た人たちを憎まないこと、が友好において一番大事な心がけである」。 
大杉は野枝に言った。「それから二百七十二年が過ぎました。不寛容と地球規模の戦争の時代です。さすらいの犬のスピノザも老人になりました。遠く長い旅から帰ってきて、かつてバベルの塔が建っていた場所をたずねて来ました。もう、子供時代のときの村はすっかり変わってしまいました。誰も彼も、知らない人たちばかりでした。でも、門があった所には、まだ花が咲いていました。昔と変わらない、同じ花です。風にゆれる花の香を嗅ぐと、子供のときの思い出がよみがえって来ます。ふくろう猫との幸せな出会いの日々を思い出したスピノザは、村の若い人達のところに行き、いつまでも語り聞かせたといいます」

小説大杉栄 (最終回)

野枝は大杉に告げた。「あなたは木みたいな人だ。ふくろうねこは、あなたから生まれた生命なんだわ」。
「木も、ふろうねこも、私達のことだよ。新しい市民社会の辞書には、単数形の言葉は存在しないからね。「私」という言葉も無いし、「あなた」という言葉も見つからない。僕が心に決めている事は、市民社会の新しい概念をつくることだ。僕はパリで行われた反戦集会に参加した自分の経験を、なんとか表現しなくてはならないと考えている。ふくろうねこの話は、僕の思想を反映したものにほかならない」と、大杉は言った。

「青年マルクス市民社会を論じている」と、野枝は言った。
大杉は最後の言葉を告げた。「市民社会の思想を、マルクスが措定した欲望の交換関係と混同してもらっては困る。僕が考えているのは、相互関係、互酬的な依存のことだ。この依存という概念は、物質的な次元における関わりから、鳥がひなを抱くように、モラルを抱くイメージとして思い描くことができるだけでなく、平等な相互関係のあり方を喚起させるだろう。と同時に、それは、政治的なものだ。僕が目撃したのは、自分達と直接かかわりがない事柄に同情と憤りを感じて、パリ街頭に繰り出した十万の人々である。民族と言葉の違いを乗り越えて、一人一人が抵抗の主体となり、一緒にパリの街頭、いや世界史の街頭を歩いた。権力が自己正当化する麻痺してしまった神話を爆発させるためにね。そうさ、精神そのものの爆発だった。たとえ、戦争を止めさせる事に失敗したとしても、未来に於ける飛躍のために、市民社会の歴史を創る、画期的な第一歩だった。これが、僕が見た十万のふくろうねこだったのだ。将来において必ず、国家の境界を超えて、世界中の都市で、人々が同時に自発的に行動を起こすことになるだろう。精神の行進が目撃されることとなるだろう。思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ!」。

T,H
2011
ダブリンーロンドンー東京