ネット小説福沢諭吉

 

1 福沢諭吉の西欧とは何か?

母は髪を整えてやり、諭吉の頭のシラミを取ってあげた。諭吉は母がなぜそんなことをするのかわからなかったから、ある日のこと、なぜチエのシラミを取ってやるのだと諭吉が母にたずねてみた。と、母はこのように言った。「チエはシラミを取ろうと思っても取れない。ならば、できる人がそれをしてあげればいい。それが当たり前のことでしょう?」諭吉はこの言葉でハッと気がついた。
諭吉は神様が怖いだの仏様がありがたいだのということは一切なかった。卜筮呪詛一切不信仰で、狐狸(きつねたぬき)が付くというようなことは信じない。試しに、諭吉は、御神体を他の石に置き換えてみた。ほんとうにばちがあたるのだろうか。と、神社の境内の中で眠り込んでしまった。夢をみた。越境して、白人の国にいた。「ここはどこだ?」。諭吉は、家の中に飾ってあった、中国で描かれたオランダの街のなかにいた。オランダ語を喋っている自分をヨーロッパ人と思った。白人は諭吉を見つけて棒を持って追いかけてきた。「中国人だ!」。自分はヨーロッパ人なのに。朱子学の学問の宗教化に嫌悪したし、冊封体制にこだわって西欧化しない中国のあり方に失望したが、中国を侵略する自分達ヨーロッパ人はなんと罪深い存在かと考えた。平等を訴えるグラッドストーンは中国の植民地化を非難したのに、どうしてこんなことが起きてしまうのか?諭吉は神社の石を置き換えてから、絵のなかのヨーロッパに入ってきて、自由と平等のヨーロッパはおかしくなってきたのだった。日本も聖人の国と称えた中国と朝鮮をとってこいと言っているあり様だ。このままでは西欧と日本の両方が中国を侵略してしまう。西欧はその日本を植民地化するかもしれない。諭吉はどうしたらいいのか。ヨーロッパと江戸との境がなくなった通路を取り戻さなければいけない。否、日本はアジアを脱して、ヨーロッパになればと考えてみたが、しかし中国をゼロにしてしまっては精神的価値のあるものは残るのか。陽明学と共に学んだ徂徠のことを心酔者として見下げていたが、しかし中国への尊敬のことはその通りだと思った。と、肩を掴まれた。巨大なシラミだった。ここで夢が覚めた。夢が覚めた。

2 福沢諭吉とはだれか?

「今の世の中に宗教は不徳を防ぐ為めの犬猫の 如し。一日も人間世界に缺く可らざるものなり」(福沢諭吉)
必要があれば宗教は「犬猫」(あるいはマルクスが言ったアヘン)の同じように役に立つし、なければ役に立たないということか?啓蒙主義者・福沢の無神論はヨーロッパ啓蒙主義者の無神論あるいはヘーゲル左派のフォイエルバッハ無神論にちかいのか?ちなみに、福沢は「徳」よりも「智」(慧)を重んじたのは、まだ靖國神社は無かったが、「徳」の靖國化(民衆の安心)を恐れてのことであったとする説がある。「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」(福沢諭吉)。つまり、「智」のほうが、後期水戸学の政治神学の道徳化ー国民道徳論ーとか、戦争神社である靖國神社の「徳」より大切だと彼は考えたであろう。
福沢諭吉について最初に言っておかなければいけないことは、彼の思想形成の最初にきたのは白石昭山である。中津時代の福沢は陽明学と徂徠派の学者から学んだ。儒学が先行したのである。平等を語る思想はどこにあったか。平等を語る思想は華厳教などアジアの思想にあった。しかしヨーロッパのように平等を実現する方法が語られることはなかった。福沢は横浜に来てオランダ語が通じないことを知って英語を学ぶ。植民地の国々の人々が生活のために母国語を捨てるあり方と同じである。
ミルと共に、福沢が尊敬したグラッドストーンは、アイルランド自治と選挙権を訴え、また西欧列強の中国の植民地化に抗議した人物である。
福沢にとってオランダは何であったか。福沢は大阪へ行って適塾蘭学を学ぶ。彼はそれについては書いていないが、福沢の無信仰は、懐徳堂の無鬼神論の言説の影響も考えられることである。福沢はオランダ語の存在で何を表象したか?
今日オランダの運河を見ると、リベラルのエンジニアリングのことを思う。運河にはどんなものが入ってくるかはわからないが、先ずは他者を信頼すること、そうでなければ運河は成り立たないのである。アムステルダムは天理人道の運河化である。福沢はこう言う。「天理人道に従って互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴にも恐入り、道のためにはイギリス、アメリカの軍艦をも恐れ ず」[『学問のすすめ』)

儒教の天・地・人の表象が、ヨーロッパ語の存在と共にある運河の表象に置き換えられて、他者と交通する人間が登場するとき、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と語られることになった

 

3 福沢諭吉は何を教えたのか?

 

福沢諭吉は明治初年に三田に塾を移し、その敷地の一角に住まいのための建物を普請したが、その際、床を尋常より高くし、押入の所に揚板を作らせた。刺客に襲われた際に、其の揚板を持ち上げて床下に逃げる算段だったのである。ことほどかように、福沢は暗殺の脅威を日常的に感じていた。

江戸の中津藩の蘭塾とは違って、三田の学校で諭吉は教えるつもりはなかった。しかし塾生の子供達と出資してくれた父兄達に一度何か話てくれと頼まれた。何を話そうか。と、適塾を思い出した。

適塾にいた大村益次郎が死んだという。長州藩内の抗争のあおりを食らって、一部の藩士に襲撃され、それがもとで死んだ。諭吉は適塾時代を思い出した。緒方洪庵の通夜で村田と同席した福沢は、長州藩が外国艦隊に向かって大砲を撃ったという事件に触れて、「何をするのか気違いどもが、あきれ返った話じゃないか・・・この世の中に攘夷なんてまるで気違いの沙汰じゃないか」というと、村田は怒り心頭に達したという顔つきで、福沢を罵り、「防長の士民は悉く死に尽くしても許しはせぬ、どこまでもやるのだ」と応えた。その権幕に接した福沢は、村田は気が狂ったに違いないと決めつけて、以後一切近づかないようにした。

よし決まったと諭吉はつぶやいた。

諭吉は教室に入ると、塾生と父兄達が待つ教室にはいると、哲学の重要な意義について喋りはじめた。皆に問いかけた。哲学はphilosophie の翻訳語だが、自分は哲理が良いと思うと述べた。理、すなわちロゴスが先行するのであるからだと。そこで、諭吉は塾生達に討論してみようとこのことを問うた。「相手から殴られたとき、カーッとなって殴り返して良いのか?」と。

一人が手をあげた。諭吉はその子を指して発言させた。「殴られたら殴り返せと父が言いました」と言った。

別の子供が手をあげた。諭吉は指した。「仕返しされた者は、はじめにぶたれた者とおなじようにかんがて

えて殴り返したら、終わりません」と。

諭吉は頷いて聞いた。日本近代の幕開けの舞台に、まさに、この子供が言うような憎しみの連鎖が存在したのだ。。佐幕派横井小楠武装した攘夷の薩長を私闘と呼んだことを諭吉は思った。長州はイギリス艦隊に砲撃した。そうやって長州がイギリスを攻撃したら、イギリスも長州に攻撃する。これはマイナスのご互酬と呼べる憎しみの連鎖だ。こういう憎しみの連鎖については子供でも考えることができるのに、長州の人間はわからないのか。銃の政治で始まった明治維新は正しい始まりをもたないと、諭吉は前途を思って深い溜息をついた。

「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」と諭吉は皆に向かって語った。そして諭吉は塗板に、用意した「天地の文」をはって、塾生達にこれを書きうつさせた。朗読した。

「天地日月。東西南北。きたを背に、南に向かひて右と左を指させば、ひだりは東、みぎはにし。朝は東より、次第にのぼり、暮れはまたにしに没して、夜くらし。一昼一夜変わりなく、界を分けし、午前午後、前後あわせて二十四時、時をあつめて日を計へ、日かずつもりて、三十の数に満つれば、一ヶ月、大と小にかかはらず、あらまし分けし、四週日、一週日の名目は日月火水木金土、一七日に一新し、一年五十二週日、第一月の一日は年立ち回るときなれど、春のはじめはなお遅く、初めて来る第三月、春夏秋冬、三月づつ、合はせて三百六十日、一年一年又一年、百年三万六千日、人生わづか五十年、稚きときに怠たらば、老いて悔ゆるも甲斐なかるべし。