ゴダール

No.1ゴダール

ゴダールは、暗闇のなかの人生と色のなかの人生を媒介なく衝突させる。暗闇は高慢な理性を遠くに行かないようにするためにあり、色は説明の不在な豊穣さが羽撃くようにするためにある

 

No.2 ゴダール

気狂いピエロ』のロケーション地はポルクロール島。囲まれない映画の歴史と同じ大きさをもっていました

 

No.3ゴダール

『映画史』のゴダールの考えでは、収容所の映像なき映画の歴史は決定的な映像を持っておらず破綻しているが、失われた公理を求めるように、モンタージュによって収容所を再構成できると考えた。映画は過去に介入しなければいけない。水をかける映像こそはユダヤ人を救い出す

 

No.4ゴダール

ヌーベルバーグは、次々と盗んだ自動車で南へ行く若い男女の物語だが、アイルランドのヌーベルバーグはアイルランド一周して出発した所に戻ってくるという復古主義的なものである

 

No.5ゴダール

ゴダールのテーマに孤独というのがあります。映画の死と共に、ゴダールは孤独に直面しましった。失業したときのように、自分の力で変える力がないような外部にあるあり方を孤独と呼んでいます。浅田彰が言うようには、孤独の力はあったでしょうか?ゴダールも死にました。われわれゴダールを語る者はかれの「遺族」のようなものですが、映画の魂も、ゴダールの魂も、消滅したらどうなってしまうのでしょうか。「遺族」は存在する意味がないです。こういうのは1000年前に、朱子と弟子たちの間でこの議論をしていました。朱子唯物論的なので魂も肉体と同様に消滅すると考えていました。弟子たちは危機感を募らせます。魂が消滅したら魂を迎える儀式に意味が亡くなってしまいますと。ゴダールは書く画家でしたから、わたしにとって問題は、書く画家の魂の消滅と言えるでしょうか。映画(鬼神)の映画としての帰還は可能かわたしは毎日考えています。

 

No.6ゴダール

ゴダールは称えられても、彼が主張してきた映画を思考手段と考えるひとはほんとうに少ないのです。ゴダールは映画の「思考の形式」を問いましたが、彼の前にこれを言ったひとはいません。

 

No.7ゴダール

多分ゴダールは自分のライバルはファスビンダータルコフスキーだけだと思っています。彼らの女優達を自分の映画に登用して勝つというわかりやすさ

 

No.8ゴダール

ゴダールは一生懸命の近代ではない。一生懸命の近代とは何か?一生懸命の近代とは、例えば日本語の起源を探してインドとか遠くに行って調べるのである。ポストモダンは一生懸命やらない。不可避の他者の卑近を考える。日本語の成り立ちは漢字である。さてゴダールは卑近にあるものを利用して映画を作る。そうすると自分をテーマにすることになった。他人の映像を盗む『映画泥棒』だとする蓮實重彦ははっきり指摘するが、ゴダールは研究する権利を主張している。本『映画史』を見ると、暗闇のなかに他人の映像(写真)を絵画的に再構成している。映画=死者を精神として帰還できるかを探究している

 

No.9 ゴダール

ゴダールはスクリーンに投射する運動を映画と言うだけではなく、投射の運動を行うものはすべて映画だと名づけているようだ。ハムレットの最期、世界に自らを投げ出すのも映画、射影幾何学も映画である。映画と名づけることによって、思考不可能なものが思考可能になってくるこの問題提起は、ゴダールを死装束をスクリーンとみなしている極限までつれれいく。
礼記』祭義篇で「人が死ねば骨肉は地下に朽ちて、埋もれて土となり、気は上方に発揚し、昭明(あきらな)ものとなり、香気を放って、人の心をおそれおののかせる」という。ゴダールは映画の死の観念と共に、自己における孤独を考えら。映画も亡くなったら鬼神であろうか。
ゴダールにおいて映画は自然化され、その言説は自然哲学化されていく。ゴダール映画を語るポストモダン哲学(『リゾーム』)も自然哲学化される。

 

No.10ゴダール

ゴダールピカソの継承であるという評価があるのですが、ピカソゴダールも「巨匠へのオマージュ」があります。しかし差異があるようにおもいます。ピカソは<失ったものを取り戻せ>というような近代主義的「オマージュ」ではないでしょうか。そうして過去に惹かれながら、自己のシステムのなかで「ねじ伏せ」的に巨匠を再構成しました。これは、<失ったならうしなうことができる>というようなベケットの方向では無いですか。ゴダールの場合は、ベケットの継承だとわたしはおもいます。『映画史』による過去の映画の編集は、過去を称えていながら、<失ったならうしなうことができる>という感じです。「もっともはかない瞬間こそが、華々しき過去を所持するように」(エミリー・ディキンソン)

 

No.11ゴダール

蓮實は「語れたゴダール」を語っている面白さがあるのですね。柄谷も、蓮實が好きなようですが、語れれたものを語り続ける面白さを知っています。語られたものは表層的な感じですが、実は表層にこそ面白い多様性があるのでしょう。比べると、まだわたしは深さとか内部に絡みとられてしまうようで、当たり前ですが、めちゃくちゃ負けています。しかしゴダールを語るときいかにフーコ『言葉と物』を読めるかを語りたいですね。

 

No.12ゴダール

映画人ゴダールは知識人サルトルブレヒトをどう考えるかという『映画史』に到達した彼における位置が、21世紀から変わって、知識人ゴダールは映画をどう考えるかとなっていきました。『イメージの本』に明らかにサイードの影響を読みとることができます。ゴダールの影響は、映画ファンを超えて、現代芸術のアーチストに広がることになった理由ではないでしょうか

 

社会主義を問うゴダールが映画人として知識人をどう考えるかというと、それは『東風』における制作に結晶されるのだろうし、その彼が知識人として映画をどう考えるかは、バディウが出演した『フィルム・ソーシャリズム』を観て考えることになる。

全体主義としての社会主義の間違いは、サルトルの映像を意味ー万年筆によってギロチンにした間違いを語る言葉に示される。社会主義の世界資本主義に対する抵抗の正しさは、デモから感化された映像はプラトンイデアほどは永続しないと語るバディの言葉において示される。

 

『イメージの本』とはなにか?『映画史』のかくも膨大な断片はだけれど一生懸命調べれば典拠がわかる。見ることができるように、歴史が編集されている。しかし『イメージの本』では映像が暗かったり書き込まれたりくしゃくしゃにされたりしていて断片が断片化している。正確に典拠がわからない。見ることができない、思考の彷徨であろうか

 

No.13ゴダール

映像が立派でもイメージを支配する自分の言葉に気がつかないハリウッド映画は怖い。シナリオのような言葉が先行していてその言葉のために集めてきた映像を晒し首の如く晒している

 

No.14ゴダール

 

スピノザは精神と、神の如く唯一の無限大を一緒に考えた。発想の大転換を行って、ライプニッツは精神と共にある多の微小表象を考えた。ゴダールは、精神が依拠する、<一>であるクローズアップと<多>の部屋を考えた。ポンピドウセンターにおける展示は、ユートピアの忘れられた公理をそれほどには探してはおらず、氷壁のような忘却と廃墟と壁をぶち抜いたトンネルの水平的列挙であった。

 

No.15ゴダール

無限に豊かになっていくものと無限に貧しくなっていくものとが媒介なく結びついていたジョイスにおける美が、ゴダールにおいては、抽象的なものと具象的なものとが無媒介に結びつくあり方をもつ。モンタージュである

 

No.16ゴダール

引きこもり超人というのは、無矛盾で完全で決定的という感じですが、ゴダールレマン湖で修行した、矛盾を孕んだレインボーマンみたいでした。色々に変身しました。映画哲学の探究の時代、作家主義のヌーヴェルバーグの時代、パレスチナ映画の時代、芸術至上主義の時代、映画の歴史を探究する時代、ソシアリズムのグローバルデモクラシーを問う時代、文字で描く画家が語るネットの時代

 

No.17ゴダール

ヨーロッパを燃やした世界大戦のときに映画が存在したのはなぜか?映画は事件だったのか。事件とは言説である。つまり反時代的精神としての精神(鬼神)は燎原の火である映画として蘇ることができた。

 

No.18ゴダール

映画カラーで始まったのではなく、白黒ではじまったのはどうしてか。映画は生死を問う倫理的存在だからである。

 

No.19ゴダール

神が歩いた痕跡など目に見えるものを見えなくするのは詩人の想像力によるものです。そうでないと人間は神を殺しに行きますから。だから詩人は追放されるのではないでしょうか。ゴダールが愛したゴッホはそんな感じですね。

 

No.20ゴダール

私はプラトン的に考えますが、肉体も魂もいつかは消滅すると考えたアリストテレスの見方も考えます。無限の高さは地上に存在するものです。あるいは、あの世がこの世を支えてくれる最高なものだとしても、この世から見えるあの世が大切です。ゴダールならば、この世にあの世を映し出すスクリーンが必要だと言うでしょう。またあの世を包み返すこの世に、あの世を超えるものがなくてはいけません。何とか努力して、プラトンの洞窟に、光を入れなければいけません。それは何だろうか?
しかしそれは太陽ではなくてセザンヌの光です

 

No.21ゴダール

『万事順調』は、「安全神話」が「安全」でなかったように、それほど順調ではない。ジェーン・フォンダが友情出演した『万事順調』(1972)は、テレビ局のストライキを舞台にしている。はたして集団の声のテロリズム(フランス共産党労働組合)から、匿名化されている自分の声を取り返すことができるか。そして映画は、偶像ジェーン・フォンダの表象から自己のあり方を解放できるだろうか?計画したものは何もかも機能しない。微調整もうまくいかない。政財官司マが推進した世界の失敗の解決を、再び彼等に委ねることは倫理的に不可能である。壁を剥がして、ワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨする<繋ぎ間違い>が解決する。

 

No.22ゴダール

映画において語られる、言説「カインとアベルは映画とビデオである」で表象されるものは、政治組織に不可避的な兄弟殺しの暴力性である。
ゴダールは「勝手に逃げろ」(Sauve qui peut (la vie) 1980)で、人間不信に陥っている男性の顕著なマゾヒズムを表現している。理性的だけれど、野蛮かつ脆弱、また自己中心的かつ他人に攻撃的である。‬この映画にとって、ゴダールの父の名(”ポール・ゴダール”)は何を意味するのか?‪ 暴力の名なのか?
ゴダールは彼が生まれたスイスを撮っているが、何処の国のかわからないような観光地としてではなく、スイスの映画を作ることを課題としていた。スイスをヨーロッパにおけるイスラエルと考えてみたらどういうことが言えるか?ゴダールはスイスはドキュメンタリーかフィクションかと言説的に語る

 

No.23ゴダール

カルメンという名の女』(1982)は、病院の花壇にいるゴダール自身の姿から始まった。ビゼーのオペラは口笛だけ。寧ろ映画はベートーベンの音楽で成り立っている。銀行襲撃の場面で男女が出逢うが、彼らのこの絡みあいは彫刻を表象させる。そして二つの直進的系列。音楽の系列を為すベートーベン弦楽四重奏曲9番、10番、14番、15番、16番と、自然の系列を為す夜明けの波たち。彫刻的なものを映画と呼んでいるようだ。「カルメンという名の前は何だったの?」愛人は、存在や事物の単純さか、言葉が透明さによるのか、答えられず、失望されてしまう。「やはりあなたとは大したことができないわ」。起源があれば撮影できるし語ることだってべきだったのに

 

No.24ゴダール

ゴダール『パッション』(1982)。映画のなかで、『勝手にしやがれ』以来長年ゴダール映画のカメラマンを務めたクタールがレンブラントの絵を分析して、夜警はまるで昼警だと驚いたという。冒頭のメタモルフォーゼーの線。映画の冒頭の空を突き抜ける光の線が、絵画の光の線となる。絵画から人間たちがあらわれる。これらとパラレルな関係を以って、ストライキの場面が現れる。吃る工場労働者と咳する雇い主、映画監督と経営者、事物が舞うバレーの線、プラトー、自動車、経営者、監督、工場、女優、絵画、映画、身体、交錯していく線と線において天から意味を与えられていくような具体性の展開。‬

17世紀は外に出て行く危機の時代。『パッション』は17世紀絵画における光と闇の関係を再構成する映画である。  われら自身の鏡像 を求めて(On nous-mêmes      
L'image symétrique   de nous-mêmes  、Claude Lèvi-Strauss)

「映画『パッション』のシナリオ」(1983)は、ゴダールが自分の映画『パッション』について語る短編映画。ゴダールはスクリーンは語る人の背後にあるべきではないという考えをもって、スクリーンに向き合うー背後から光が突き刺す暗闇のなかにいる人間が振り返るように。暗闇のなかに光が広がる。と、海の広がりのなかにいるゴダールの姿。

 

No.25 ゴダール

‪『ゴダールのマリア』(1984)は、アンヌ=マリー・ミエヴィルの短篇映画『マリアの本』とゴダールの長篇劇映画『こんにちは、マリア』(Je vous salue, Marie)の二部構成で成り立っている。『ゴダールのマリア』は言説を考える映画である。原作は言うまでもなく聖書である。映画の関心は、力ー異なるものどうし(映像と音と言葉)の関係ーの生産にあると考えられる。つまり懐妊を映画作家はどう考えるかある。限りなく貧しい物は、映像と音に伴われて物語によって孕むと、限りなく豊かになるものになる。それが映画である。
この映画『マリア』は極右翼とフェミニズムの両方から非難された。前者はゴダールはアンチ・カトリックだとしてマリアの裸体像を公に晒した映像に反発した。パリの郊外で上映中の小屋が一軒焼き討ちにされたほどである。後者はゴダールカトリック神秘主義に陥っているとして映画の女性の地位を貶める物語に抗議したのである。映画がもたらしたこの波紋からなにを読みとるか?

No.26 ゴダール

ゴダールにとってアルファビル的世界とは構造である。言語的命題論理(=カメラ)からみえる向こう側を、構造主義的数学の形式で示すよりも、言語のなかでわれわれに繰り返される言説的像とともに書く。沢山の部屋に通じる廊下で映画が表象される。

ゴダールの『アルファヴェイユ』(1965)はもはや思考できない映画となっているのはどうしてなのか?探偵レミー・コーションからみると、所有できない華々しい過去が蘇ることがない忘却の墓にのほうに断片化していくアンナ・カリーナの言葉ーOui かNonしか無いーに指示する力も意味する力もなくできなくなってきたからなのか?探偵はエレベーターで上昇していくとき、詩人的観察を以って、天の詩がなければ至上なものに依拠することができないし、外部なき国家悪を超えるものを卑近の地上世界に制作することもできないということを伝えるのである。

No.27ゴダール

キミが悪いことに、右翼ポピュリスムであれ左翼ポピュリスムであれ、彼らが想定している右翼政党とか左翼政党にちっとも似ていない。否、右翼政党も左翼政党も存在しないのかもしれないのだ。誰が誰を代表しているのか、誰が何を隠しているのか監視する探偵が必要だ。
ゴダールは探偵を送りこむときは政治を調べさせる。だが『アルファヴィル』のときとは違って、ゴダールの『探偵』(Détective 1985)は、部屋のなかだけで事件が解決されなければならないような映画である。望遠と広角の中間を為すレンズを使って撮影している。レンズが構成する空間の中からその内部に沿って空間自身を語るような、透明でない停滞。それは、真ん中の位置と機能を炸裂させようとする言説的レンズのようなもののなかに置き去りにされているわれわれの落ち込みと窒息しそうな疲労感である。と、いつものように、映画もそれが想定している探偵映画とすこしも似ていない。ゴダール映画は謎解きはなく、映像と音を愛している映画で、意義深い期待ハズレ

No.28ゴダール

 

視線が先行するか、観念が先行している。ゴダールの『離れ離れに』(Band à part 1964)‬が売り物にしているこの場面は、運動が先行している。パリの華やかと郊外の無味乾燥のコントラストにショック受けた。映画はダブリンで観たが、ベケットの小説の中にいるような番地も土地の名もないダブリン郊外で車で事故を起こして誰とも連絡が取れなかったときのことを思い起こした

 

No29 ゴダール

ゴダールリア王』(King Lear 1987)。ニ十世紀は映画の世紀だった。しかし21世紀にはいってからは、古典的傑作の名は急速な勢いで忘却される。『映画史』で映画の存在をたたえたゴダールの名は、デカルトの名が哲学それ自身を表すように、次第に、映画の存在を表すようになってきた。ある伝記作家が、ゴダールに、荒野を彷徨い続ける道化に、「リア王」の名をあたえた。道化は、魔術師が小さな箱を開けるように、映画論の言説の文を書き綴っていくために白紙の本を開けたら、光が溢れだすだろうか?この本は「スクリーン」と呼ばれる。「何もないことーNo thingと向き合うしかない二十世紀「芸術家」の不幸と孤独

 

No. 30 ゴダール

ゴダールの『さらば、愛の言葉よ』‬ (2014)さらば、人間の愛の言葉よ。こんにちは、万物の愛の言葉よ。‪<ノマド>犬はVaud ーレマン湖沿いにあるゴダールの故郷ーの森を彷徨う。犬は人間よりも人間を愛しているならば犬が一番「人間らしく真のヒューマニズム」と言えるのではないか?否、犬が彷徨うのは「他の岬」においてである。 「自己にあっての差違においてでなければ。おのれを同一化しえず、「わたし」あるいは「われわれ」と言えず、主体の形式をとることができないというのである。この自己にあっての差違がなければ、文化や文化的同一性は存在しない。」(デリダ『他の岬』) Goodbye to Language (Adieu au Langage)映画において、こんにちは、愛の言葉よ」と語られている。

 

No.31 ゴダール

ゴダールはヨーロッパにおける言葉の秩序は政治的に帝国主義の内部にあると考えてきた。その外部を求めて、ゴダールアルジェリアベトナムパレスチナを必要とした。外部とは何か?他者とは何か?母国語で話したり聞いても思考できないのはそこに外部がないからだ。英語と中国語ならば思考できるかといえば外部がなければ思考できない。外部性と他者である。言語的存在である他者である。フーコならば事件性と言われる言説と答えるであろう。人間は占有された不動の思考できない他者との関係において、思考が活性化されるというものである。しかし1970年代から、ゲームの規則が変わった。外部が消滅したのだ。そこでゴダールは、思考の形式としての映画をヨーロッパにおいて機能させることになった。その思考の形式の名はソーシャリズムである。理念的に自由と平等が語られたが、それを投射するスクリーンが民衆に存在しなかった。世界資本主義に抵抗して、またその分割である帝国に従わずに、貨幣が公共的善として、民衆が民衆のためにコントロールすべきとゴダールは主張する。哲学者アラン・バディウが出演しなければならない

No.32ゴダール

No.32ゴダール

気狂いピエロ』(Pierrot le fou 1965)。ゴダールの「東風」においてみられる東へ方向づけられる前に、南へ行く方向をもっていたことが言われるように、『気狂いピエロ』はロマネスク風ミュージカルに誘われる溝口映画を喚起する道行の旅がある。映画はルノワールの生き方を物語る。美学的な問題提起が映画を貫く。黄昏と透明を重ねあわせた、画家ベラスケスの言説が言及される。そして沈黙の交響曲が言説そのものを打ちまかす。映画のおどろくほど単純で純粋な詩は絶対を語る。
気狂いピエロ』のロケーション地はポルクロール島。囲まれない映画の歴史と同じ大きさをもっている。地中海の死と太陽の島が映画のすべての歴史と等価の大きさをもっている。必然として、アルチュール・ランボーの詩「永遠」が朗読される。と、いつの間にかわれわれは『山椒大夫』の島々にいるー

No.33ゴダール

ゴダールの『勝手にしやがれ』(À bout de souffle 1959 )では、手持ちカメラを使った撮影、照明ではなく自然光での屋外でのロケーション撮影などを通じて、またジャンピングカットや180度ラインにしたがわない編集によって、映画の文法のなかでそれとは異なるルールー電撃的な創造的間違い?ーがつくられたと語られる。他方で伝統的な心理主義的分割と呼ぶべきシンメトリーは擁護されている。『勝手にしやがれ』は、わたしの印象では、新しい世界と、数百と言われる思いだされている無数の過去の映画がすむ古い世界が調和できることを示したようにみえる。この調和は、ラディカルモダニズムの映画に対して、反時代的精神を構成していた。調和といっても、それほど調和していくのではない。古い時代は新しい時代を批判的に相対化する役割をもつから、反時代的精神として。古い世界は世界の半分でしかなくなったかもしれないが、新しい世界とて世界の半分なのだ。過去の映画がすむ古い世界は、時代と自立的等価の大きさをもつことが要請されるスクリーンを媒介にして、新しい映画を、新しい世界を支える可能性をもつ。われわれはこの映画論の言説をどう考えるのか

 

No34 ゴダール

‪『東風』( Vent d'est 1969 )では、ハリウッドと修正主義、西欧とブルジョア的表象を非難するのだけれど、そのネガティヴなイメージ(下の写真)を静かに本を読んでいる姿ー内部を形成する近代ーとして呈示している。ゴダールは映像と音への過剰な依存もブルジョアが生み出した所謂芸術至上主義だとして自己批判を迫られることになった。しかし新しく映像のあり方が問われるなかで、イデオロギーの問題を考えることになった。ドウルーズはこういう。「ゴダールはうまいことを言っています。『正しい映像ではなく、ただの映像さ。』哲学者もこんなふうに言いきるべきだし、それだけの覚悟をもってしかるべきでしょう。『正しい理念ではなく、ただの理念さ』とね。」(『記号と事件』より)

‪ No35ゴダール

ゴダールの『ワン・プラス・ワン』(One Plus One 1968)から学ぶことは、対立物(魂/身体、善/悪、内/外、パロールエクリチュール、等々)を相互に関係づけ、転倒させあい、移行させあう運動と戯れをなす働きである。
“Sovietcong”,”Freudemocracy”,”Cinémarxism” という映画のなかに示される造語を笑うしかない。ゴダール文化人類学構造主義の原点がある。構造主義は強力な物の見方を構成できるが、構造主義は世界の半分しかみていないから、映画は開かれた全体にすんでいる以上、別の世界の半分を足してやらなければ...。ワン・プラス・ワン のプラス<たす> は、重ね合わされて交錯する多数の中断をもつ系列を為している。

 

No36ゴダール

ゴダールとアンヌ=マリー・ミエヴィルの‪ 『ヒア & ゼア こことよそ』(Ici et Ailleurs 1974)。「ジガ・ヴェルトフ集団」の一部としてゴダールとジャン=ピエール・ゴランが1970年に作った親パレスティナ映画『勝利まで』のフッテージを使用して制作された。現代の国家はテレビのニュースが行う解釈のなかに存在する。これを解体するために、ビデオが積極的に利用されている。編集概念が政治化されている。理性が自己自身に関わるような、正しい理念、正しい映像が語られているが、他方で映像と音をめぐる言説<映像と音は関係である>で表象されるものを「ここ」と「よそ」と名づけている。ここからギリギリ思考可能なものが成り立つ。「ここ」を内部化してはいけない。思考と「よそ」にある思考できないものとの関係を切り離してはならないと。

No.37
ゴダール「映画史』は映画の起源はヒチコックかマネか、ゲルニカピカソかを考える。最初に言わなくてはいけないことは時間を守ってきたのは映画、20世紀の精神はそこに宿った

No .38 ゴダール

‪『偽造旅券』(Vrai-faux passeport 2006)は、”ユートピアの旅ー失われた公理を求めて”と題されたポンピドゥー・センターでのゴダール展である。それは、アーチストの間で大きな関心を呼び起こす「ゴダール」のシュールレアリストとしての再定義だった。しかし「世界の創造者」というブルジョァ的世界観を内部崩壊させた挑発的な展示は、ゴダールが国家による「失われた公理」の殺戮を拒むような、至る所微分不可能なゴダール像の提示だった。映画館の庭園化。フィルムの植物化。ポンピドゥー・センターは『偽造旅券』の買い取りを拒んだという。‬

No.39ゴダール

アジアは天が精神(鬼神)に影響する(朱子)。西欧は天から精神は自立した。ゴダールは精神に投射されるスクリーンを与えた。「精神(鬼神)としての映画の帰還」を私は描く

No.40 ゴダール

ゴダールは『ヌーヴェルバーグ』(1990 Nouvelle Vague)で、俳優アランドロンを登場させた。アランドロンはかつてヌーヴェルバーグの敵だったこともあって、ヌーヴェルバーグの批判家たちに嫌われている。映画のアランドロンはゾンビであると揶揄される。見方によっては、キスというのは死者との接吻。実存論的な問いかえしにほかならない。それ以上である。「前近代」では類似者は常に生まれ変わりとして現れた。死者が生者の近くに存在しなければならない。再び現れたアランドロンは類似されているものとそれほど類似していたか?
映画はエレナの自然ーもの(光と闇)で書かれたもの(光と闇)との同一化ーへの愛を表現した。自然が大切にされたのは書かれている自然が存在するから

 

No.41 ゴダール

‪『フォーエヴァー・モーツアルト』(For Ever Mozart 1996 )は、仏語の「pour rêver Mozart」(「モーツァルトの夢をみるために」の意)。

「過去は死に切ったものであり、それはすでに死であるという意味において、現在に生きているものにとって絶対的なものである。半ば生き半ば死んでいるかのように普通に漠然と表象されている過去は、生きている現在にとって絶対的なものであり得ない。」これは三木清の言葉である。ゴダールにおいても死に切った過去を考えた。ゴダールはあえて映画の歴史は終わったと言ったその理由とは、伝統を固定するためだった。そうして此方に向こうに見える過去の姿を「ヨーロッパ」と名づけることになった。「ヨーロッパ」は依拠できる絶対の過去。モーツアルトの音楽と共に、われわれを見つめてくる本のような投射として構成されてくる。
この映画のなかで、オリヴェイラの言葉がひかれる。「ともかく私は、概して映画のそこが好きだ。説明不在の光に浴す、壮麗な記号たちの飽和」。映画はサラエボボスニアのイメージをもっている。だけれど「カラビニエ」(1963)のように、戦争と死が示されてはいない。大地の言語が湖を覆う。ゴダールの母の名を記した墓。廃墟の <オリジナル>無きイメージが成り立っている。寧ろそこで自己の人生を回想するのだろうか?モーツァルトは音楽によるヨーロッパの和解を体現している

‪ No.42ゴダール

ゴダールの『彼女について私が知っている二、三の事柄』(Deux ou trois choses que je sais d'elle 1966 )。
この映画は、パリ郊外の新首都圏拡張整備計画に従って建設された公団住宅で起きている主婦売春の話である。地球環境を破壊しながらパリ全体を包摂していく新自由主義グローバル資本主義の問題を構造的に理解することを試みる。何でもかんでもカネがモノを言う社会のイメージを構成している。そしてコーヒーカップの中で生成する、ミルクの渦を眺めながら、ウィットゲンシュタインの言葉を呟くゴダールの独白。イギリスでは高い評価を得ている作品。

No.43ゴダール

ゴダール『水の話』(Une histoire d'eau‬ 1958)から五十年後に、「貨幣は水のような公共的善であるべきだ」と語るのは『ソシアリスム』においてである。「水」のイメージとはなにか?それは包むものである。「水」は包むためには包むものをもっていなければならない。「水」のイメージの傍らに無がある。絶対差異としてある「平等」の理念...

No.44 ゴダール

ゴダール『中国女』(La Chinoise 1967) 
Ces jeunes gens représentent, comme autrefois les personnages des Bas-fonds de Gorki, 5 niveaux particuliers de la société. (JLG, 1967) ‪ ‪ゴダール『中国女』(La Chinoise 1967)。この映画には文化大革命の政治的災害は存在しない。ブルジョワ学生が集まるマオイズムの部屋で起きる偶像崇拝と、映画による偶像破壊ー確立された映画をみる見方のなかでそれとは異なる見方も含むー。68年前夜に現れたこの映画は「明確な映像に曖昧な言葉をぶつけよ」という。単に自己否定を呼びかけただけではなかった。観念的な自己否定の曖昧さを明確にするような、精神の従属させてくる社会に対するネガティヴなイメージをはっきりもつことの重要性を訴えていたことが大切であった。香港の学生が何を訴えているのかそれほど分からないが、彼らはもはや中国共産党のもとではやって行けなくなるとするイメージは明確に伝わってくる。

‪No.45 ゴダール

No.46 ゴダール

超越的なもの、天、音楽 は人間に内面化されない。収容所の弦楽四重奏団の映像とレンブラントの映像の関係を打ち立てるためには、これら二つの映像の関係を媒介する他としての映像(重ね合わせの状態)を必要とする。命題論理的に構成することによって言語の中から映像としての変数Xを作りだしている

No.47ゴダール

左翼と右翼の連立政権にたいして、ゴダールは、左翼政党に野党の立場を貫いて欲しいと考えていたといわれる。『右側に気をつけろ』(Soigne ta droite 1987)の物語のメインストリームは、ゴダール本人が演じる「白痴公爵殿下」。(『子どもたちはロシア風に遊ぶ』(1993年)でも同じ役柄を演じることになる。) 「白痴公爵殿下」はゴダールが手にするドストエフスキー『白痴』の主人公ムイシュキン公爵からきている。無能で売れない落ち目の芸人たちに率いられる国家は、反証の精神が眠りこけている。クルクルまわってめまぐるしく連続衝突しているだけ。

No.48 ゴダール

‪『ふたりの子供、フランス漫遊記』(France tour détour deux enfants、1979)‬
テレビとの関係改善に努力したときの作品。‪「子供というのは政治的囚人である」とゴダールはいう。撮影のときに子供と対等に喋っているとき、周囲からは子供にそんな質問するものじゃないと言われ続けた。ゴダールは大人と子どもの間の区別をみとめない。平等にたいする。そうして映画は、言語が差異を住処としているように、差異のなかに在る。

わたしにはもはや希望がない
盲たちはある出口について語っている
わたしは見る
(「映画史の本文の前に置かれた映像と言葉。ゴダールとマリーミエヴィルのテレビ番組「6x2」(76)のなかより)

No.49ゴダール

ゴダールの『フランス映画百年』(2x50 ans de cinéma français 1995 )

ゴダールは映画の歴史を生き抜いたミシェル・ピコリMichel Piccoliとともに、フランス映画百年を考える。
二度の世界大戦は、世界の中心としてのヨーロッパの危機意識を深化させた。戦争が起きたのは自国中心主義の結果だとしたら、サイレント映画の、国家の領土と民族に還元されない普遍言語としての意義がフランスにおいて認識された。戦後のフランス映画にとって、サイレント映画は、音声中心主義の近代にたいする批判の拠点として、サイレント映画以上の意味をもつことになった。
時間が映画をまもった。逆である。映画が時間をまもったのである。

 

No.50ゴダール

No.50ゴダール

“ 6 x 2 “ Six fois deux (sur et sous la communication) 1976 は、ゴダール自身の精神をつくりはじめるかのようなドキュメンタリー作品である。ゴダールは1972年に、ジガ・ヴェルトフ集団」(1968ー1972)を解散した。アンヌ=マリー・ミエヴィルともに映画製作会社「ソニマージュ」に設立するために、1948年以来25年間を過ごしたパリを離れた。‬スイス山岳の風景、失業者との出会いと会話、アマチュア映画監督、数学者とのトムの定理についての議論、精神病院の患者達‬との労働をめぐる議論。ゴダールによるインタビューの大きな特徴は、対等にだれともすべてのことが語られるところにあるとドウルーズがいう。スイス人が喋る訛りのあるフランス語が、多様な交差的中断をもった思考のリズム et...et...(and...and...)に宿る。

 

ゴダールのビデオドキュメンタリー作品"6x2"

 

No.51 ゴダール

50年代のコスモポリタニズム。
ゴダールは、「『男性・女性』(Masculin Féminin 1966)。この映画は『マルクスとコカコーラの子どもたち』と呼ばれたい」 と語った。これで終わりではない。今日だれが「マリリンモンローと毛沢東との結婚」の映画を作るのか?

 

No .52 ゴダール

ゴダールの「さらばTNSよ」 (奥村昭夫訳)

こんばんわマダム、そしてあなた、ムッシュ
 これはただの心優しい別れの言葉
こに宿無しの亡命者からの
舞台のうえであれば 言葉のなかに
心地よい安らぎの場が見つかると考えた亡命者からの

 おお、あなたがた若き大家たちと女大家たちよ
 だが受け取られんことを 腹立てずに
ある旅人の泣き言を
演劇のなかに 天よなんたる不満
お姫さまを追い求めた旅人の

 このばかじゃ考えた 恐怖にかられて
 われらのよく愛されないヨーロッパに
 まだ自由が残っているとするなら
 それは俳優の肉体からもれる
約束の言葉を介してのこyとだ、と

何通の手紙が、どれほど多くの映像が
 どれも見事に描かれた何冊の本が
嵐にめげず送られてきたことか
 しかしそのご褒美に与えられたのは
 ただ不在、沈黙、無関心のみ

 あなたがたは毎晩枕の下に
 クローデルを、アルトーを、モリエールを、それにまた
 アンティゴーヌとロレンザッチョを見つけ出しているのだが
 ときどきは考えよ もう一人の白痴のことを
三語を並べるのに四苦八苦している白痴のことを

私には分からない 聞き分けのいい同志たちよ
 なぜこれほど頼みこまなければならないのか
 そしてあなたがた 若く美しい女の友たちよ
 なぜしつこくせがまなければならないのか
船をおいてきぼりにしないでおくれ、と

 そもそもここでは可能なのか
 すてきな大隊を編成することが
山々を超え 他者の言葉を
 さがしにいく大隊を
他者に名を名のるよう強いたりせずに

 ロミオが椅子を投げ
 ジュリエットが自慰にふけり
 あわれウイリアムス(シェクスピア)よ、君はうちまかされたのだ
 エイズはいまだに負けを知らない

言葉は口からもれるもの
 でもひとは言葉に接吻できるのか いとしい君よ
君がむか腹をたて
 プライバシーは法的力をもっている、と
鼬の様に朗読しだす

 あなたがた 自分の肉体を見捨て
登場人物の魂を盗む者たち
 いま一度飛び立つのだ
軌道修正を無視し
例外的な並足で歩みながら

無分別もいくらか度が行き過ぎたというもの
 この魔法の場では
 いつか人間の魂の
科学的秘密が解明されるかもしれない なぜなら
 あなたがたと私が手に取っているのだから などと信じたとは

 さらばTNSよ そしてストラスブール
追放された者は それゆえ 足踏みをする
 しかし観客が間違っているのであれば
 カーテンコールでお辞儀するとき こういわないだろうか
 それではごきげんよう 思い知るのはあなたがたの方です

ADIEU AU TNS
 par Godard

 Bonsoir Madame et vous Monsieur 
 La suite n'est qu'un tender adieu
 Du réfugié sans domicile
 Qui sur la scène' pensa trouver
 Dans la parole un doux asile

 O vous jeunese maîtres et maitresses 
 Acceptez donc sans vous facher
 La complaine d'un voyageur
 qui poursuivit une princesse
 Dans un theatre ciel quell malheur

 Le con pensait dans sa frayeur
 Que s'il restait des libertés
 Dans notre Europe mal aimée
 C'était par paroles données
 Qui sortent du corps de l'acteur

 Combien de lettr' combient d'images
 Combien de livr' tous bien écrits
 Furent envoys malgré l'orage
 Mais ne reçur't en recompense
 Qu'absenc' silenc' indifference

 Vous qui chaqu' soir sous l'oreiller
 Claudel Artaud Molière trouvez
 Antigone et Lorenzaccio 
 Des fois pensez à l'autr' idiot
 Ramant pour aligner trois mots

 J'n' sais pouquoi doux camarades
 Faut-il tell' ment que je supplie
 Et vous jeunes et bell's mendie
 Que le navir' rest' pas en rade

 Est-il possibl' ailleurs qu'ici
 Se forme un joli bataillon
 Qui s'en irait de par les monts
 Chercher la parole d'autrui
 Sans l'obliger de dir' son nom

 Roméo qui lançait des chaises
 Et Juliette qui frotte son cul
 Pauvre William tu es battu
 La sida toujours invaincu

 La parole sort de la bouche
 Peut-on l'embrasse ma très chère
 Avant que tu prennes la mouche
 et dèclames comm' le putois
 Qu'la vie privée a forc'de loi

 Vous qui sacrifiez votre corps
 Et volez l'am' du personage
 Envolez un'fois encore
 Sans tenir compte des réglages
 Marchant au pas de l'exception

 Etait-ce peu trop dèraison
 De croir' que dans ce lieu magique
 Se puisse un jour de l'ame humaine
 Percer le secret scientifique
 Parc'que vos mains sont dans la mienne

 Adieu TNS et Strasbourg
 L'exilé marque donc le pas
 Mais si l'public est dans l'erreur
 Quand on salue ne dit-on pas
 A vous trés cher bien le bonjour

 Adieu mes amis.

 

No.53 ゴダール

ゴダールの『JLG/自画像 』(autoportrait decémbre 1995)

ゴダールは長年、自分はどうやって喋っていいのかわからなかったと言っている。「この喋り方ではダメだ!」、「この喋り方ではおまえは存在しない」、「おまえはどこに存在していたんだ?」と自己自身に向かって言い続けてきたのだろう。ゴダールのナレーションは腹話術的といわれる。腹話術は、口を動かさずに唇を少し開けた状態で音声を出し、人形が喋ったり音を出したりしているように見えたり聞こえたりさせる技能。この場合、人形はゴダール自身なのだけれど。これは操り人形のテーマとかかわる。『JLG/自画像 』と題する作品のなかでゴダールは故郷であるスイスとフランスの両国に接するレマン湖畔で、フランスの方を指指している。場所的<と>のビデオ化。フランス人のフェミニズムの女性がこの作品をみてビデオをつかって作品を作ることをはじめたとわたしに話してくれた。プラトンゴダールはアンヌ=マリー・ミエヴィルのおかげで、テニスのラリーのようなリズムのある会話と優雅さを得た。

自画像、「『ゴダールによるゴダール』を撮るよう求められていたが、[JLG/JLG]の方がわたしは気にいっていた。[JLG/JLG]はひとつの自画像であり、自画像は原則として映画では作り得ないものだ。それは、なにか絵画に固有なものである。わたしはわたしにとって自画像を作ることがどういう意味をもつのか理解したいとおもっていた。映画において自分はどこまで行くことができるのか、どこまで映画がわたしを受けいれてくれるのか見たかった。作品のほうが人間よりも重要であると考えることは、かなり古典的な芸術観だ。それは「作家主義」と呼ばれてきたものだが、十分理解されているとはいえなかった。大事なのは主義ということであって、作家自身ではない。ピカソもまた、絵画において自分はどこまで行くことができるのか?とよく自らに問うた。画家が風景を描くことにうんざりしたとき、画家に残されていることはもはや自分自身を描くことでしかないのだ。映画はこれとはいささか異なり、ひとりで作ることはできないので、つねにその孤独な人間の周りにあるものを示すことができるのだ。わたしはずっと映画は思考手段だと考えてきた。(...)わたしは映画を構想しているときも幸せだが、物事が完成したとき以上に、なにか模索しているときの方がもっと幸せだ、(...)わたしは青年時代に読むことができた、ブランショバタイユの本に似た映画を一本撮ろうとしたのだ。たとえば覚えているのは、バタイユの『内的体験』、当時、わたしはアンリ・アジェルの講義に出ていた。彼はブニュエルの『糧なき土地』を見せてくれた。わたしは「これはまさに衝撃的な『歴史』の内的体験です」とかれにいった。要するにこういうことだ。映画は形而上学をするためにまさに存在する。そもそも、それは映画が行なっていることだが、ひとはそれに気がつかない、だからそれを行なっている人々はそれを公言しないだけの話だ。映画はそのメカニックな発明のために、何か極めて物資的なものであるが、それは逃避するために作られるのだ。そして逃避すること、それこそ形而上学にほかならない。‬
‪ー ゴダール (渡辺諒訳)‬

 

No. 54ゴダール

‬フーコ『言葉と物』、この一冊のなかには何冊つまっているのか?華厳教じゃないけど、無限だ、少なくとも1000冊以上だ。見つめてくる本の真ん中に鏡があり、本の傍らに無がある。
ゴダール『映画史』の中の映画を数える。フーコ『言葉と物』を構成する本達のように無限だ。
イメージの本はそういうものだ。映画を見つめてくる本にしたのは、他者の顔とその傍らに存在する無を創造したかったから。ロゴスは無を利用して自らを再構成する。映画『イメージの本』は、映画を思考手段とする思考のイメージ。

 『イメージ・ブック』は、『映画史』の中でポール・ヴァレリーに言葉をひいた言葉を呼び出す。「かすかな声、おだやかな、か細い声で、大それた、重大な、驚くべきことが、深く、そして正しいことが語られる」と。この言葉に新しく加えられることになった映像は、イスラムの女性とおもわれる人間の身振りとジェスチャーである。

 

No. 55ゴダール

ゴダールの『アリア』Armide (episode in Aria 1987 )で呈示される関係の相似をいかに読み解くか?ここで肉体はネガティヴなイメージである。抵抗する者たちの存在に気がつくことなく、大衆の究極のナルシズムの世界に溺れている肉体。世のために正しいことを善意でやっている行動が無意味にされている屈辱感が、殺意のナイフをもって、大衆を覚醒させようとしているのか?だが表現されている関係性はそれほど透明ではないのは、ナイフは編集をほのめかす観念だからである(切断、切り取り)。問われるのは、大衆である、と同時に、大衆がすむ映画である。言語が視線に、見られる物(肉体)が音楽になったかのような映画が織り成す時間の意味をそれほど明晰に解釈できるわけではない。

No. 56ゴダール

理性を構成するものとしてマルクス主義と西欧合理主義は一体とされてきた。それなのに、マルクス主義の失敗が自明視され、西欧合理主義の勝利が言われる。ブルジョア的なものにおしとどめられることに対する怒り。呪縛と憎しみと屈辱から、ロマン主義的な正義が、90年代以降のゴダール映画を覆うのである。『われらの音楽』はいう。戦争に勝った国に詩人はいない。敗れた国から詩人が出てくる。詩人をもたない民は敗北した民である、と。‬

 

No. 57ゴダール

‪『時間の闇の中で』(Dans le noir du temps “ episode in Ten Minutes Older : The Cello 2002)はゴダールによる短篇映画である。 ‪暗闇のなかでスクリーンに投射されたものに名を与えること、映画の世紀であった20世紀はこのことが問題だった。球を隙間なく覆う領域(=岬)が連結しあう同時性に、21世紀を支えてくれるような思考を可能にしてくれる他者の言語が存在していた。ハリウッド映画、ドイツ映画、ロシア映画、イタリア映画、フランス映画、日本映画、アイルランド映画、アフリカ映画、アジア映画などと名づけられた。映画は同時性の名である。非局所的視点において成り立つ世界の同時性は、危機の17世紀と、そしてヤスパースが枢軸時代と呼んだ紀元前500年頃に、起きた。同時に、言語的存在である人間は存在することの意味を外部にむけて問うたのである。

No. 58ゴダール

『愛の世紀』(2001)。ブルターニュを舞台とした、思考と起源とが絡みあう、映画のなかの若い映画監督エドガーは、現代パリの未来を思い出す「若き芸術家の肖像」として描かれているようである。彼は常に後から来るが先に行っている。レジスタンス運動の過去、ハリウッド的なものに占拠されている「われわれ」の現在。映画の語りは、照明がものを照らしだすように、フランスを発明していく。

「愛の世紀」のシナリオ。
かなり若い女。うなだれている。と、質問するテレビ・レポーターのオフの声。その質問を通して、この若い女は殺人未遂のための自分の裁判が始まる前に修道院にはいったが、期待した信仰をみつけることができず、そこを出たばかりであることが分かる。どんな類の愛惜の思いnostalgieが、神への愛をゆだねてくれるのか。若い女の物憂げなしわがれ声。私には心のあり方の問題はひどく無縁なものとなってしまい、だからそのことについては語りづらいのです。私は信仰をなくしたとき、自分がもはや祈ろうとはしないこと、もはや語りかけるだれかがいないことに苦しみました。私にはあれに相当するものとしては、ひとつの愛の終わりの、どうすることもできないまったくの絶望しか思い描くことができません。(奥村昭夫訳)

 

No. 59ゴダール

ゴダールの決別』(1993)は、ギリシア神話の神ゼウスと人妻とが浮気をするエピソードをもって、神と肉体について説話的に物語った作品であると解説される。夫が一晩家を空けた日、突然帰宅した夫シモン(ドパルデュー)が別人のようであった。シモンは妻ラシェルに「私はおまえの愛人であって、シモンの身体を借りた神である」と言う。最後に「Simon Donnadieu、シモン・ドナデュー」とサインをする。これは、Si m'on donne à Dieu、つまり「もしわが身を神に捧げるなら」を意味するというのである。さてゴダールはなにを問題にしているのか?問題となってくるのは、純粋に外部的な出来事とイメージの領域とのあいだの、いかなる関係または非-関係をうちたてるかを知ることにある。知は、肉体に宿った全知全能の神をもってしても思考なき表象のなかにとらわれていたままでは、関係または非-関係をうちたてることができない。出来事の力は失われていくばかりで意味を革命的に作り出すことも不可能となるだろう。知識をいくら増やしても仕方ない。要請される思考は、方法としての「思考の形式」である。ゴダールは神との目的合理性なき一体化(<GOD>ARD  DEPAR<DIEU>)を倫理的にもつことによって成り立つ「思考の形式」と表象の問題を『映画史』ー近代を問い直す3A “絶対の貨幣”ーにおいて論じていくことになる。

 

No.60 ゴダール

「映画『パッション』のシナリオ」(1983)は、ゴダールが自分の映画『パッション』について語る短編映画。スクリーンは語る人の背後にあるべきではないという考えをもって、スクリーンに向き合うゴダール。語り終わったとき、暗闇のなかにいるその彼の背後に向かって、暗闇のなかに広がっていたような光が溢れだすようである。と、海の広がりのなかにいるゴダールの姿が意味するものはなにか?内在性の観念と思考のイメージ

No.61 ゴダール

ゴダールの『女と男のいる舗道 』(Vivre sa vie 1962)は、ジャン・ドゥーシェによれば、溝口健二監督の『赤線地帯』(1955年)の影響なしには存在しなかった。アンナ・カリーナの渾身の演技をみよ。あらためて、ゴダール映画はこの女優がいなければ成り立たなかったことをおもう。ナナが場末の映画館で、カール・テオドール・ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』を観て涙を落とすショット(アルトーが出演している。) シャトレ広場。すでにしばしば彼女の眼がたどってきた、そして疑いもなくただちにふたたびとるであろう方向 、いいかえれば、そのうえに、もはや決して消されないであろうひとつの他者の肖像がおそらくはずっと以前から、そしてこれからも投射されつづけ、投射されたままであるにちがいない、不動のスクリーンの方向のことだ。カフェで見知らぬ男とナナは知識をもたずに哲学する。(place du Châtelet - l'inconnu - Nana fait de la philosophie sans le savoir)

 

No.62ゴダール

Tu me demandes si je suis heureuse depuis mon mariage. Oui, très. Mais là je suis très malheureuse; je viens de tromper mon mari, sans le faire exprès, avec un amant de passage. Voilà exactement ce qui s'est passé...
(Le Signe, Maupassant)

ゴダールモーパッサン、「コケテッシュな女」

ギ・ド・モーパッサン1886年に発表した短篇小説『Le Signe 合図』を原作に、当時24歳の映画青年ハンス・リュカスことゴダールが脚本を書き、撮影・演出した。ロケ地は、1作目の短篇ドキュメンタリー『コンクリート作業』に引き続きスイスのフランス語圏である(ジュネーヴ州ジュネーヴ)。
勝手にしやがれ』で長篇劇映画デビューする前のゴダールの発表した、5つの短篇映画の1本である。

 

  1.  

No.63 ゴダール
ゴダールの大きなテーマは娼婦だった。娼婦の物語を撮るが、ゴダールが愛していたのは映像と音だった。

No.64

‪『カラビニエ』(仏語 Les Carabiniers、「カービン銃兵たち」の意 。1963)は、年ロベルト・ロッセリーニの書いたブレヒト劇の戯曲をもとに、ゴダールが映画に翻案したらしい。銃殺される女性がロシア・アバンギャルドの詩を口にすると兵士達が発砲できなくなるシーン(ロッセリーニを喚起する)が印象的であるけれど、この映画にリアルな死体はない。リアルな戦争が見えない。兵隊カラビニエは強奪品として、観光客の絵葉書を掻き集める。芸術家レンブラントに敬礼している兵隊カラビニエの身振りとジェスチャーの意味は一体何だろうか。

 

No.65ゴダール

ゴダール映画史に、20世紀歴史と同じ大きさをもったスクリーンがある。ゴダールが究極的に依拠するものをそこに投射しないのは、カントが理の内に信を位置づけないのと同じである。
ゴダールは映画についてのイメージを作る。思考と共にあるイメージを成立させた。映画万歳に非ず。映画は失敗した。収容所は、収容所を撮らなかった映画史のブラックホールだと。

ゴダールは映画についてのイメージを作る。思考と共にあるイメージを成立させた。映画万歳に非ず。映画は失敗した。収容所は、収容所を撮らなかった映画史のブラックホールだと。映画史は解体映画史でなければいけない。

ゴダール「映画史』は映画の起源はヒチコックかマネか、ゲルニカピカソかを考える。最初に言わなくてはいけないことは時間を守ってきたのは映画、20世紀の精神はそこに宿った

‪ No.66ゴダール

ゴダールの『映画というささやかな商売の栄華と衰退 』(Grandeur et Decadence d'un Petit Commerce de Cinema 1986)‬
ゴダールは長年にわたってコミュニケーションが依拠できるものを映画において探求してきた。映画の芸術における尊厳をいうことになった。ゴダールによると、フランスの映画のなかには、芸術的になる前に消えてしまった映画が存在しているという。道徳的意識の消失の場合と比べられている。バザンとトリフォーこそは映画にモラルと美学の原理を与えていたのだとゴダールは主張している。

‪ No.67ゴダール

ビデオ『ソフトとハード』‬(Soft and Hard 1985)‬

ゴダールは鏡を見ずに髭を剃るという。「顔を見たくないし、髭の場所も分かっているから」とアンナーマリー・ミィエヴィルにいう。彼女は言う。「コミュニケーションの映画ですって?あなた、自分が嫌いでしょ、そこが根本の問題なのよ!」と。ラカンセミナーに参加したこのパートナーとの間で言葉のラリー(テニス)をしているみたいである。この他者のおかげでゴダールと彼の映画は詩とアイロニーと優雅さを身につけたことはたしかである‬

‪No.68ゴダール

ゴダールの『女は女である』(Une femme est une femme 1961)‬ 理性の笑み?Anna = nAna = Nana
映画はコスモポリタン前衛と大衆との折衷を住処としていた。正義を求める理性の怒りは70年から。

‪ No.69ゴダール

ゴダールの商業コマーシャル (Closed 1988)‬発想の大転換。中国系モデルが脱いで下着姿になる映像を逆回した。女性の” Amour “というナレーションとともに、服を着たのである。MOMAの回顧展でこのゴダールの商業コマーシャルを観た人の話によると、一緒に “Amour “と叫んでいた観客もいたと聞いた

‪ No.70ゴダール

ゴダールのコマーシャル。街頭を歩く女性達の映像とロココ絵画の女性の映像を交互に組み合わせた運動と音と言葉が一緒に増えていく単純さに驚く

‪ No.71ゴダール

ゴダールの『男の子の名前はみんなパトリックっていうの』(Charlotte et Véronique ou Tous les garçons s'appellent Patrick 1957)‬ ‪
ロメールが脚本を書いた、ロメール的‪ゴダール。伝記にしたがって記すと、この時代のゴダールは、政治的コミットメントからの離脱、大義の忘却、社会変革に無関心、美のスタイルだけを追う芸術至上主義。速度を享受し、優雅に、ワインを飲んで、饒舌と美女と車を愛する...

 

 

 

No.72ゴダール

ゴダールメイド・イン・USA』(’ Made in USA’ 1966 )‬ ゴダールが録音機によって喋った最初の映画。ブルジョアが作った都市はなんと疎外されているのだろうか。「世界を創造する」というブルジョアと共有するものがなにもないアナキズムの芸術は、‪まだ夢を発明する可能性が街頭にあった、60年代において、本のスクラム、恋人との匿名の場所、ホテルの部屋、バー、プール、郊外の車庫へ行って撮影した‬。ゴダールが初めて自分の声を映画に利用した

 

‪ No.73ゴダール

『怠惰の罪』La Paresse (episode in Les Sept péchés capitaux) 1962‬ ‪
怠惰な人間こそは、たたえられるべき視覚的人間である(「監督ロッセリーニは動かなくてもいいように望遠レンズを発明した」?)。『怠惰の罪』は自らそういうふうに作られた映画なのである。殆ど準備をしない即興演出、同時録音、自然光を生かすロケーション中心の撮影。人間といえば、倦怠、茫然としていて、現実感も乏しく生気もなく、幻想というほどのものでもないがある感覚にとらわれているような...

No.74ゴダール

ゴダール『シャリオットとジュール』( Charlotte et son Jules 1958)

わたしは映画から、裏道の唄声を聞きとりたいと願っている。
路上に置かれたクルマのなかでシャルロットを待つ彼氏を撮影している。ほかはひとつの部屋のなかで撮られている。

 

No.75ゴダール

ゴダールの『小さな兵隊』(Le Petit soldat )は1960年に制作された。映画は検閲にあったので、1963年に公開された。『小さな兵隊』は、鏡のなかに映る自分の顔が、自分の内面に思い描いている自分の顔と一致しないことに気づく男の物語である。‬
‪«Le Petit Soldat est l'histoire d'un homme qui trouve que son visage dans une glace ne correspond pas à l'idée qu'il s'en fait de l'intérieur.»‬

 

No.76ゴダール

ゴダールの『たたえられよ、サラエヴォ』 ( Je vous salue,Sarajevo 1993 )

写真家ロン・ハヴィヴ(Ron Haviv)とマグナム・フォトに所属する写真家ルック・ドラエ(Luc Delahaye)による一枚の戦争写真をもとに製作した映画で、1992年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争について語る2分少々のビデオエッセイの形式をとっている。のちの『アワーミュージック』(2004年)でも、サラエヴォの問題を扱っている

‪ No.77ゴダール

『モンパルナスとルヴァロア』(Montparnasse et Levallois 1964)‬
ゴダールは、「監督」クレジットを「réalisation」等ではなく、「film organisé」(作品組織化)とクレジットした。ゴダールというと、偶像破壊の革命児のステレオタイプだが、実際にトリフォーほどには、映画制作におけるゲームの規則を破らなかったとみる見方もある。改良すべき規則がどこにも無いと悩み続けたか?

No.78ゴダール

インドネシア、トーマス・ワインガイのために』(Pour Thomas Wainggai, Indonésie )
オムニバスのドキュメンタリーテレビ映画『忘却に抗って』(Contre l'oubli)の一篇として、1990年製作、ゴダール、アンヌ=マリー・ミエヴィルが共同監督したフランスの短篇映画である。 wikiによると、非政府組織 (NGO) アムネスティ・インターナショナルが、良心の囚人の救済、啓発のためのテレビ映画を製作するにあたって、ゴダールとミエヴィルは、トーマス・ワインガイ博士を選んだ。

ワインガイ博士は、1984年、ニューギニア島の西半分のインドネシア領イリアンジャヤに「西メラネシア共和国」を樹立した指導者で、1988年に妻の日本人テルコ・コハラとともにインドネシア政府に逮捕され、懲役8年の刑を受け、投獄された人物である

 

No.79ゴダール

リア王』制作のための対話。1986年製作。ユーモアを必要としたゴダールにとって、ウデイアレンは不可避の他者。インタビューの進行に従い、「NORMAL MAN(ノーマルな男)」、「STRUGGLE(闘争)」、「TITLE(題名)」、「HANNAH KARENINE(ハンナ・カレーニナ)」、FLASH GORDON(フラッシュ・ゴードン)」、「THE ANXIETY OF THE MAN IN THE BOOTH(ブースの中の男の不安)」、「SUMMER IN NEW-YORK(ニューヨークの夏)」、「AUTUM CHILL(秋の凍え)」、「THE BIG LEAP(大いなる跳躍)」、「LUCKY I RAN INTO YOU(あなたにあえてわたしはラッキーだ)」といった文字がインサートされる。

No.79ゴダール

ゴダール『恋人のいる時間』(Une femme mariée 1964)
白いシーツと皮膚、手、愛撫。卑近なものとしてのスクリーン触れる

 

No.80ゴダール

『イタリアにおける闘争』( Lotte in Italia 1969) は、ゴダールとゴランが「ジガ・ヴェルトフ集団」の名で制作した。ブルジョア出身の女子大生の矛盾している抑圧された感情とともにある反復が揺れる、揺さぶられる...

 

No.81ゴダール

Un film comme les autres  1968
ゴダール Godardがジャン=ピエール・ゴランと結成した「ジガ・ヴェルトフ集団」名義の第1回作品とした。出演しているのは、ナンテールの3人の学生闘士と、ルノー・フラン工場の2人の労働者闘士である。

 

No.82ゴダール

ゴダール『言葉の力』Puissance de la parole 1988  
フーコ『言葉と物』 の一文をおもう。‪「しかしまた、言語(ランガージュ)の存在と人間の存在とを同時に思考する権利は、永遠に排除されているのかもしれない」 ‪「さしあたりまったく確実なこととしてわれわれの知っている唯一の事柄といえば、西欧文化のなかで、人間の存在と言語の存在が、共存して互いに連接しあうことはけっしてできなかったという一事にほかならぬ。二つのもののこの非両立性こそ、われわれの思考の基本的特質のひとつであった。」ーフーコ『言葉と物』‬(渡辺一民訳)‬ But the right to conceive both of the being of language and of the being of man may be forever excluded ... The only thing we know at the moment, in all certainty, is that in Western culture the being of man and the being of language have never, at any time, been able to coexist and to articulate themselves on upon the other. Their in compatibility has been one of the fundamental features of our thought. ーFoucault

No.83ゴダール

フランスのモラリスト(文学的な哲学者の意)の人間探求の特色は、その探求の結果、単に抽象的、概念的に羅列することではなくして、必ずそれを一つの可及的に生きた具体的な像に再構成して見せることであるという。
ゴダールの映画を思考手段とする探究が言語の存在とともにある思考の像を構成している。映画はわれわれを見つめてくる本である。

No .84ゴダール

ゴダール『古き場所』
(The Old Place 1999)

ニューヨーク近代美術館MoMA)の要請により、20世紀の終わりにおける諸芸術の役割についての試論としての映画

ソクラテスプラトンの対話の如き、映画の中での対話が途切れる事なく続き、親しいテニス仲間同士のラリーを喚起する。maïeutique(ギリシャ語で、meɪˈjuːtɪks/と発音する)がキーワードで、質疑応答を通して人間の隠された心を明らかにする知的な方法だ

 

No.85ゴダール

バザンは普遍言語のプロジェクトをもっていた。世界大戦の原因は民族主義の全体幻想にあった。だから、映画の限りなく純粋な映像で構成される構想は、戦争の全体幻想に陥るどの民族語への依存を拒んだのである。人間は政治的存在であり、同時に、言葉が与えられている。しかしまさにここから排除されてしまうのが、言論で覆せないほどの絶対権威から自立しようとする不明瞭な発声(感覚)の領域である。教説の中からその内部にしたがって語ることを拒否した沈黙 'Verschwiegenheit'(秘密?)。ゴダールはここを可視化しようとした。マイナーな、スイス訛りのフランス語とか創造的どもりとかいわれるが、自分が語らなければならないと気がついてそれを実行するために30年かかったのだとわたしはおもう。

 

No.86ゴダール 

 

17世紀は芸術も外に出はじめた。差異が価値を生み出すとマルクスがはじめてこのことを言った。空間の差異が価値を生み出すのである。しかし差異としての空間が世界から消滅したとき、差異としての時間がとってかわった。ゲームの規則が変わった。これからは時間の差異が価値を生産する。ここでマルクスが言っていたように時間と時間との差異が価値(剰余価値)を生み出すのである。しかし1970年における近代の終焉と共に、その時間的差異も消滅してくる。ポストモダンの同時代性の時代を迎える。さて萩原朔太郎が憧れたパリは舟で二か月もかかったが、飛行機で9時間で行けることができてパリは消滅してしまう。20世紀の大衆は失われた差異をリュミール兄弟の映画において読みはじめた。しかしあらゆる映画の表現は50年代までに消滅してしまう。もともと映画には未来がないといわれていた。1950年代後半から人々は過去の映画ー過去の映画を利用して制作された映画ーを発見した。かくもブルジョワが創造した都市は疎外されているおか?ゴダールの1990年代からの再構成ではあるが、アナーキスト系アーチストの「ヌーヴェルバーグ」と名づけられた感化の大きな運動は、ブルジョワが創造した世界の外部であったと言わざるを得ない。それは危機の時代と呼ばれた17世紀が帰結した博物館としての映画の意義であった。

「僕たちはみんな、博物館museumのなかに生まれ落ちてきたんだよね」(ゴダール) 

シネマテックの世界化?

 

No.87ゴダール 

‪『軽蔑』( Le Mépris 1963)についてまず言わなければならないことは、これはゴダールの映画である、と同時に、ゴダールの映画ではないということ。プロデューサーは彼の映画にブリジット・バルドーの裸体の映像を求めたとき、ゴダールは映画から自分の名前を消すことを条件に了解した。
『軽蔑』はブリジット・バルドーモラヴィアである。映画のラストは、ギリシャ悲劇の何の必然もないような不条理な死がバルドーに起きる。映画は『軽蔑』と名づけられたが、この映画のなかで一体なにが軽蔑されているのかさっぱりわからないプロデューサーと共に、事故死の最後であった。ゴダールは、「恐竜」であるラングが語るヘルダーリンの詩とブレヒトの言葉を「赤ん坊」のゴダール自身のために朗読させていたか?

No.88ゴダール 

‪『 ブリティッシュ・サウンズ』 (British Sounds 1969)は、ジガ・ヴェルトフ集団(Groupe Dziga Vertov )による最初の作品。「プロレタリアート」という名が与えられる映画?マルクスフロイトが行う注釈。<政治=セックス>論の言説が生産されていく

‪ No.89ゴダール 

ゴダールは、『新ドイツ零年』(Allemagne année 90 neuf zéro、1991)によって、「歴史」の領域にはいることになった。『アルファヴィル』(1965)のレミー・コーションを、探偵として、かつて東西を分断した境界を超えていくドン・キホーテの分身として呼び出している。『新ドイツ零年』はニューヨークで見た。衝撃だったのは、戦争という国家悪を外へ追いやるのではなくて、映画と現実とが溶け合う映画の諸々の断片によって形づけられた回想を通して、戦争国家を自己の内部に掘り起こすかのような編集である。国家が個人を超えて実在するのではなくて、逆に個人が国家を超えた実在である、そうでなければ、国家悪を超える思想領域と精神領域へ歩み入ることができないと訴えるかのように。‬

No.90ゴダール 

ゴダールのスイスで撮ったデビュー作は、『コンクリート作業』(Opération béton 1955)である。
ゴダールにとってどのページも嘘だらけの伝記によると、ゴダールはモノー家追放に帰結した、混乱のパリ時代の後、ダンデイな青年となる。この青年はブルジョア両親の厳格なモラルと、時代の進歩的息吹に背を向けて無為に過ごしたという。このデビュー作から、人間の創造のエネルギーを読みとるのか、あるいはその反対に、永久革命の新しく作り出す近代に絶望しきっている破壊のエネルギーを読みとるのか?

 

No.91ゴダール 

‪『プラウダ』(Pravda 1969)‬。三十年代のスターリンヒトラーの接近は東欧の活動家達の粛清をもたらし、左翼から右翼までの知識人が連帯した人民戦線を崩壊させてしまったが、戦後も、ソビエトは左翼のオブセッションとしてあり続けたので、サルトルですら、五十年代ハンガリー動乱まで批判できなかったほどである。思想的自立性の問題が問われなければならない。言葉遊びの畏怖すべき意味の凝縮をもって、政治学-精神分析-批評を書いた、「ジガ・ヴェルト」集団の「プラウダ」は、言説「チェコとしてのソビエト」をかたる。いかに神話への反抗、<解体> オイデプスが可能であるか。世界資本主義の分割である帝国ロシアはー皇帝的一国社会主義ーはかつて、ソビエトと呼ばれていた。これにたいして、「チェコとしてのソビエト」は映画の名であった。

 

 

No.93 Godard 

Comment ça va ? 1976

書くことは手がおこなう活動

 

ゴダール100本ぐらい作品あって、一応全部観たがあまりわからかった映画が2割ぐらいある。チューリングの表のように空欄としてここに記録しておこう

 

No.94

ゴダール喪中」とは何か?

セデック・バレ』はほんとうに面白く見ました。台湾の電車に乗ると、北京語と台湾語と原住民の言葉を含み4つの言葉でアナウンスされるのですね。興味深く思ったのは、現住民の言葉が日本語のように聞こえる時があったことです。植民地時代に日本語の影響があったのでしょうが、柳田國男の「南島論」が仄めかすように、それ以前の時代に共有されていた言語があったのじゃないかと勝手に推理しています。
荻生徂徠的にいうと、原住民こそが「聖人」ですが、われわれはこれは無理筋とおもっています。
悲情城市」とか「千と千尋の神隠し」のロケーション地に行くと、沢山先祖崇拝の逃げ場のような寺があるのですね。多分過去の中国がこんなかんじだったとおもわれます。近代主義者は朱子学を祖先崇拝がなかったように言われますが、たしかに朱子学は今日の統一協会のような淫祠邪教を禁止した宗教改革でしたが、官僚となった知識人の原始儒教からあった先祖崇拝がなくなったわけではないようです。17世紀の徳川日本でも儒者たちは自分達の祖先と孔子を先祖霊とするようなプライベートな私廟が存在したようです。文化大革命のラディカルな無神論によって、儒教と祖先崇拝の全てを否定し切ったので、どんな異端的隙間を許さないような今日の事態が起きてしまっているのではないでしょうか。わたしは先祖には関心がありませんが、向こうもないでしょうが(笑)、ゴダール喪中Godard Deuilという投稿を毎日やっていて、ゴダールを先祖霊にしようとおもっていなす。ゴダールは映画監督たちを先祖のように祀っていたとおもうのですが、ゴダールを持ち上げるインテリはそういうことを語りませんね。儒教は聖人である祖先と共に本を祀る宗教ですが、ゴダール『映画史』も過去の監督たちと一緒に、本としての映画を祀っているところがありますかね。
掲示板に飛び交う現代中国語を少しでも読めるようにちょっと勉強しようかとおもっています

 

No.95

ゴダールは『映画史』の冒頭でブレッソンの映画論をめぐる方法論を呈示することによって、映画史の語られ方を問題にする。例えば、ハリウッドはクローズアップの映画だったのにたいして、ソビエトモンタージュを発明したという言説を批判して行く。「夢の工場」とは映画の語られ方である。ハリウッドに対抗して映画を作った「レーニンは疲れ果ててしまった」のであった、とゴダールはだれも言わなかったことをはじめて語る..

NE CHANGE RIEN
POUR QUE TOUTE SOIT DIFFÉRENT(Godard/Bresson)

CHANGE NOTHING
SO THAT ALL CAN BE DIFFERENT

Ne va pas montrer tous les cotes des chose. Garde-toi une une marge d'indéfini.
 (Don't go showing all sides of things.Keep a margin of the undefined.)
 (物事のあらゆる側面を見せようとしないこと。未定義の余白を残しておくこと)

 

No.96

...l'image devient pensée, capable de saisir les mécanismes de la pensée, en même temps que la caméra assume diverses fonctions qui valent vraiment pour des fonctions propositionnelles.
ーDeleuze 

(カメラが命題関数と同等の様々な機能を果たすようになれば、それと同時に映像そのものが思考となり、思考のメカニズムをとらえられるようになる...)

ハリウッド映画は映像を実現するためにシナリオが必要なのですが、これとは反対に、ゴダールの場合は、書くために映像が必要です。68年5月革命を予言したと言われた『中国女』では、「明確なイメージと曖昧な言葉を衝突させよ」という命題的に言説が書かれました。これが意味するところは、台湾や香港の学生がたたえた日本の70年代は自己否定がすごいのですけれどね、これは曖昧な言葉によるものだったと思いますが、香港の学生にような政府を否定する明確なイメージがなかったです。存在論的な曖昧な自己否定と比べたら、自民党批判に関心がそれほどあったわけではないことは今日の事態をつくっているのではないでしょうか。互いに自己消滅に導いた結果を考えると、残念ながら、彼らが参考にするものは何もありません。しかし70年代は全然無意味だったわけではなくて、彼らから近代への問いが始まりました。

 

No.97

ゴダールにおける顕幽論とかんがえてはいけないだろうか

No.98

ゴダール『映画史』より

No.99

Godard deuil

言葉が崩壊するのは、言葉が存在を託した何かとしての他者への贈り物でなくなったときだ。先ず愛である人間性が崩壊する
ゴダール『映画史』より

No.100

ゴダール『映画史』のスケッチはプルーストの書き方ー本質は個体的であり個体的になって行くーである。光と闇で包む全体を投射させた細部の増殖が包むものを包み返していく

 

 

ゴダールをたたえる

ゴダールは、50年代と60年代は何処の国を撮っているかわからないようなフェミニンなバロック、エリートの絵画と大衆の写真を組み合わせたような理性の笑みのような映画を作っていましたが、60年代後半から怒りのロマン主義へとなって、パレスチナ映画と毛沢東主義の70年代があるわけです。80年代に政治から映画に復帰して来て、黄金の80年代と言われる大変充実した作品群を世に送り出しました。ゴダールの言説を語る映画は、ポストモダンの言説を語る思想として、あります。90年代は、自画像と共に成立する、映画の歴史を作ります。21世紀からは、有名な映画の名が忘れられていくなかで、ゴダールは映画を象徴する名となって、世界資本主義に抵抗するグローバルデモクラシーの言葉をかたるゴダールは、映画以外の芸術家に影響を広げて行くことになりました。

 

No.101ゴダール
フーコ『監獄の誕生』では互いに独立している映像と言葉が分析されている。デュラスとかゴダールのように映像と音とが独立している映画においては詩的に語られている。散文ではない

102 ゴダール

表象と表象なきものに共通なものは存在しない。ゴダールにおいて両者は無媒介に繋がっている。闇の投射と空のスクリーンとは違うのか?思考不可能な映画の歴史を<外の思考>として、書く画家は空を活性化した。闇が占拠した映像と音の向こう側に見える空ーラングロワと彼の博物館が救ってくれたーは絶対無限である。

 

No.103 ゴダール

ゴダールの言葉で謎とされているのは、映画は作られていたのに、「映画は終わった」というものである。仮に映画は亡くなったとしたらどういうことが言えるか。映画は鬼神であるGod-art

 

No.104ゴダール

海外ではゴダールは難解とされていて彼の作品(『東風』)を観た人が五百人しかいないが、日本人はゴダール好きである。これは発想の大転換であるが、あえて、日本人は映画はゴダールしかわからないのかもしれないと考えてみよう。どうしてか?

No.105ゴダール

『映画史』のゴダールがそうだ

・「一人の人間の夢は、万人の記憶の一部なのだ」ボルヘス

No.106ゴダール

わたしは文系だったので、正確には理解できなかったでしょうが、ペンローズとホーキングの特異点定理に関心がありました。ペンローズ特異点して考えるブラックホールは西欧のコスモロジーの再構成だと思うのですね。何十億年かけて未来からやってくる信号だというようなことを語っています。西欧の思想はコスモロジーと共に発展してきました。朱子学のアジアの思想もコスモロジーと共にありましたが、明治の近代化のもので亡くなってしまいました。わたしはこれから新しい普遍主義を再構成する新しい思想はペンローズ宇宙論と映画論から出てくるような気がしています。映画の本質は投射にあると思うのですが、波動関数の収縮は重力によると考えているようですが、投射されたスクリーンから意識が成り立つのも重量によるものと考えたらどうかとわたしは思っています。詩的インスピレーションでは、スクリーンの映像は全宇宙の影ですね。ゴダールの映画史は実は宇宙史として語られているとわたしは思います。映画史は暗黒物質に覆われているが、プラトンの洞窟の如き映画館のなかにおけるように、至る所に標があります。

 

No.107ゴダール

新しい時代を切り拓くとき、過去を反復しなけれないけないのはどうしてでしょうか。フランス革命のときは暦もコスチュームも古代ローマのものでした。ゴダール映画も過去の映画を呼び出しました

No.108ゴダール

ゴダールの遺品である本としての映画の歴史を祀ることが起きる。テクストと映像に思考できるイメージを与えた映画史が亡くなった。表象は復活しなければ祀る共同体の意味がなくなる

No.109ゴダール

映画史においても、何が先、何が後かを決めくてはいけない

 

No.109ゴダール

ゴダール映画のカメラは命題論理だといわれます(Deleuze)。両者は類似しあっています。ここで、ゴダールのカメラをどう理解するかです。議論のルールはただ一つ、それは議論に解決を与えるなです。映画は、そのことによって、思考の自由の覆い尽くせない広がりをもっていることはたしかです

 

 

No.110ゴダール

映画批評はメタ批評である。そうである限り、映画批評は経験的ではなく理念的である。映画批評とは経験と理念の分裂である。

映画批評とは書くこと。問題は、映像は言葉が分析できるようにはつくられていないこと。言葉は言葉が分析できるようにつくられているのとは異なっている(言葉が言葉の対象となるのは近代からであると『言葉と物』はおしえる。) 厄介なのは、書くことは、映像を分析できぬ自らの限界に無自覚に、映像について語ろうとするときだとゴダールは溜息をつく。映像を作るために言葉を必要とするのは映像の言葉への従属と読まれるかもしれないが、従属を非難しているというようなそれほど単純な話ではないようにおもう。たしかに、ゴダールは書くために映像を必要とするのが自分の方向であると言う。だけれどそれも従属であるに違いない。あえて従属にゆだねることを前提に、問われているのは、文字を、文字でないものに従属させてみようとすることの意味である。文字でないものとは、映像または音に限られるか。否、文字を沈黙に従属させることが考えられているかもしれない。近代の成立が可能にしている表象<映画>を沈黙させる言説を書くこと、これが1970年代後半に「映画史」を構想したゴダールの映画批評。‪はじめて近代批判が行われることになった70年代‬

 

No.102ゴダール

『フィルム・ソシアリスム』(2010)では、何でもかんでもカネが喋れば喋るほど分裂が深まる世を証言する。ヨーロッパのアメリカ化。二人は夢が必要だ。そのときひとりは二人でなければいけない。この映画でゴダールはイタケの代わりにスイスに帰還した。人間のことを人間以上に考える犬が迎えるであろう。

 

No.103ゴダール

言説家としてのゴダールは権利のない社会に反対している。何らかの人間の共同体に属する権利、 一つの塊に還元されない権利、余計者にされない権利、 向かい岸をもつ権利したがって二重国籍である権利、帝国に属さない権利、そしてグローバルデモクラシーが成立するまでそして無国籍や無権利にされない権利

 

No.104 ゴダール

ゴダールは映画におけるピカソジョイスの継承である。セザンヌの美の理念=ヨーロッパを超えるのがゴダールが探究したゴッホ。そして書く/ 描くひとはゴダール前に存在しなかった。現代アートゴダールとの対立とはどういうものか?デュシアンは表象の否定だ。ゴダール偶像崇拝に見えるか、何も表象するものを残さない戦争様態、最悪の映画に抵抗したのだ

 

No.105ゴダール

ゴダールは映画を投射する思考の形式ととらえて、この抽象的構成が高く評価された。ゴダールは表象可能なものと不可能なものを媒介なく結びつける。この表象可能なものと不可能なものとの間の闇が覆い尽くせぬ余白ーリーマン射影空間の特異点におけるものとして表象できるーといったら、無限に広がるスクリーンの広さしかないであろう

No.106 ゴダール

古い映画を観ただけでも、「いまはああいうことが描かれない」と自然に口にするときは、わたしは前の時代に属したままの死者の如く精神の眼で呟く、反時代的精神ではないだろうか?

No.107ゴダール

私はアイルランドにいたのでスコトゥスを尊敬しています。彼が考えたように、茅ヶ崎の海岸を歩く私は眼を閉じたら世界が消滅するし、眼を開けたらその度に宇宙が誕生するとおもいます。宇宙は無限回消滅します。映画館のスクリーンが真っ暗になると闇の無ですが、これは宇宙が映画に類似しているからなんです

 

No.108 ゴダール

映画は何も恐れはしなかった、他のものも自分自身も。映画は時間から守られていたのではなく、時間をまもっていた。レマン湖は、20世紀と同じ大きさをもった映画が横たわる墓地

 

No.109

詩人とは,書物の偉大な開かれたページを盗み去る人物であり,書物はそののち実体を失って空白となる.」(マラルメ)。その空白はゴダールにおいてスクリーンと呼ばれた

No.110ゴダール

ソクラテスの弁明』においてソクラテスは、自分の裁判官達に対しては、まさしく自己への配慮に関する達人として自分を紹介している。彼は神によって委託されたので、人々に、配慮すべきは自分の富でも名誉でもなく、自己自身について、自分の魂についてであることを思い起こさせる。(フーコ『自己への配慮』)『映画史』のゴダールにおいても、配慮すべきは、自己自身について、自分の魂についてであった。

 

No.111ゴダール

ポストコロニリズムの普遍(🟰植民地主義)批判は普遍批判のポストモダンから来た。パレスチナは土地を奪われた赤いインディアンだ。このナショナルアイデンティティは意義深い。ゴダールは、映画はパレスチナをどう考えるかを語った。コミュニケーション問題とは、彼方を語る此方の問題である。『想像の共同体』のベネディクト・アンダーソンによると、現代国家はテレビのニュースがいかに解釈するかという解釈の仕方の中に存在していると言う。しかしフランスのテレビのニュースの中に国家は存在しても、パレスチナの国家は存在しない。それが言及されていても存在していない。それはなぜか?これは頗る言説と思想闘争も問題なのだ

 

No.112ゴダール

l’amour est le comble de l’esprit
et l’amour du prochain est un acte

愛は精神の高さである。愛は高さをもっているからといって、愛は遠くにあるということではない。至上なものは卑近にあるからである。この関係は言語との関係においてこそ問題となる。言語とは共通の記憶を負おうとする。他者を常に自分のまわりに置く行いによってでなければ、どうしてこのトータルに世界とかかわる言語が成り立つというのだろうか?

 

No.113ゴダール

ゴダールほどの芸術家らば、自己過去のイメージ発明してしまうものなのだ。死ぬ前に死装束を着る。死装束を着ても死なない。ゴダールの前に誰もそんなことをした人はいなかった。無のイメージである

j’étais déjà en deuil de moi-même, mon propre et unique compagnon. ーJLG\ JLG

 

No.114ゴダール

ジョイスの世界とは直線と斜線で構成される抽象的な世界で、イメージの思考を名づける原初性が成り立っている。ゴダールは作家になりたかったが、ジョイスがいたので諦めた。しかしゴダールジョイス的造語がある。ゴダールは自らを書く画家としている。ベケットは、そのジョイスの世界の何処にも属するが部分とならない名づけられないものがある。

 

No.115ゴダール Godard 

ゴダールが登場した後は映画はゴダールの前に戻れないのは、ピカソが登場した後は絵画はピカソの前に戻れないのとおなじである。ベートーヴェンが登場した後は音楽も彼の前に戻れなかった

 

No.116ゴダール

ゴダールほどの芸術家らば、自己過去のイメージ発明してしまうものなのだ。死ぬ前に死装束を着る。死装束を着ても死なない。ゴダールの前に誰もそんなことをした人はいなかった。無のイメージである。
j’étais déjà en deuil de moi-même, mon propre et unique compagnon. ーJLG\ JLG

生の世界に理が先行する最高なものがある。生包み返すためには死装束にそれを超えるものがなければいけない。それは、死に耐え死の真っ只中に自らをよく保つ精神の生しかない。問題は、精神(鬼神)を映画として帰還できるかである。物が無限に後退してしまえば、精神は投射できない。

Pourtant, ce n’est pas la vie qui s’épouvante devant la mort et se garde pure de la dévastation, mais celle qui la supporte et se conserve dans elle est la vie de l’esprit.
Nicht das Leben, das sich vor dem Tode scheut und von der Verwuestung rein bewahrt, sondern das ihn ertraegt und in ihm sich erhaelt, ist das Leben des Geistes.
ーHegel

 

No.117ゴダール

収容所のなかの囚人たちの弦楽四重奏の演奏をレンブラントは見ていたというゴダールの『映画史』における編集をどう解釈するのか。これを他者の問題として深めなければいけない...
レンブラントはドキュメント映画を撮るようにはじめてゲットーに入って行った。そこで旧約聖書の世界が投射されていた。ゴダールにとって、レンブラントが描いたユダヤ人たちは死装束を着ている精神の生である。自らを発明しようとして、遡って精神は物に起源を求めるが、物は無限に後退していく。ユダヤ人たちのあいだには、ナチスが公の場で退廃として糾弾した、国籍のない日付しかない。ユダヤの歴史が書かれ始めたのはホロコーストを経験した戦争の後からである。百年も経っていない

 

No.118ゴダール

ゴダールほどの芸術家ならば、自己過去のイメージを発明してしまう。死ぬ前に死装束を着る。死装束を着ても死なない。順序を反対にして死を観念化している。映画は死に切った絶対の過去からくる信号かもしれない

No.119ゴダール

プルーストが見出した芸術のシーニュは本質を呈示する。ポストモダンの本質の語られ方をドウルーズは作る。本質は見方なのだ。本質は固体的であるし固体化していく。本質に包摂された生成する多元的世界。プルーストゴダール『映画史』において語られる。書く作家は並べる。世界とは、吠えているもの、硬張らしたまま弛めるもの、動くもの、顔の輪郭、物で書かれたもの

No.120ゴダール

ゴダールは未来の映画を思い出すときは、同じ衣装と身振りでも、反復が起きない。過去は絶対的死だから。死は観念である。そのときはじめて死は生命をもつ。名はわかっても意味が失われている。衣装と身振りの意味がわからなくなっている

 

No.121ゴダール

ゴダール映画を生きているか死んでいるかとはかんがず、死にきったと考えていた。実際には映画は作られていたが、そう考えたらどんなことが言えるか敢えて考えた。スクリーンの闇からの応答。映画は絶対的死である過去からの信号である

 

No.122ゴダール

書くことは接ぎ木なのだから、映画史の編集は接ぎ木だろう。他者の岬における<存在ー接ぎ木>は、化石にならないように絶えず発明される、オリジナルー映像であるかもしれない。

 

No.123ゴダール

ギリシャ悲劇がヒントになったゴダールの映画『カルメンという名の女』のなかに、「カルメン」という名の前は何なのという台詞がある。同じくらい重要な問題がある。それは「映画」と呼ばれるまえは一体何だったのか

 

No.124ゴダール

小津安二郎は芸術家であることは彼映画お最初に観たときから今日まで疑ったことがなかった。問題は、芸術家であり言説家であるゴダールは思想家なのか。彼の映画史は思想史なのか?

 

No.125ゴダール

18世紀『舞台は夢』は、「秘術によって自然を支配する魔術師」は「言葉で支配する魔術師」と書き改められている。だが20世紀における映画の夢において、言葉こそ錬金術である。世界とは、卑近なもの。隣どうしのもの。招待されないもの。頭を埋める暗闇に浸るもの。沈黙の無限宇宙。言説無き沈黙が沈めるもの

 

No.126ゴダール

イスラエルは最後のヴィクトリア朝の要塞である。ゴダールが真摯に取り組んだパレスチナ問題をラデイカルに根本的に考えることは自分にとって難しいと思って、代わりにアイルランドで考えることができるのではないかと思った。カイバードが語った言葉にハッとした。アイルランドの植民地化はヨーロッパがヨーロッパ自身を植民地化したことを意味した。この植民地主義アイルランド人は疎外されていた。そしてアイルランドの中で「ジョイスのときはユダヤ人がもっとも疎外されていたから彼等を『ユリシーズ』の主人公にした。ジョイスが生きていたらパレスチナの人々を文学の主人公にしたことは間違い無い」と

 

No.127ゴダール

ゴダールはそうして過去の魂と出会ったかもしれない。鬼神となったゴダールの魂との出会いも偶然による。

「私はケルト人の信仰を、きわめて理にかなったものだと思うが、それによれば、死によって奪い去られた者の魂は、なにか人間以下の存在、たとえば動物や、植物や、または無生物のなかにとらえられている。なるほどその魂は、私たちがたまたまその木のそばを通りかかり、これを封じ込めているものを手に入れる日まで、多くの人にとってけっして訪れることのないこの日までは、私たちにとって失われたままだ。しかしその日になると、死者たちの魂は喜びに震えて私たちを呼び求め、こちらがそれを彼らだと認めるやいなや、たちまち呪いは破れる。私たちが解放した魂は死に打ち克って、ふたたび帰ってきて私たちといっしょに生きるのである。私たちの過去についても同様だ。過去を思い出そうとつとめるのは無駄骨であり、知性のいさいの努力は空しい。過去の知性の領域外の、知性の手の届かないところで、たとえば予想もしていなかった品物のなかに(この品物の与える感覚のなかに)潜んでいる。私たちが生きているうちにこの品物に出会うか出会わないかは、それは偶然によるのである。」ープルースト(鈴木道彦訳)

 

No.128ゴダール
ゴダールは人民戦線を考えた世代である。

精神の歴史

‬スペイン市民戦争を考えることは、20世紀において連帯の国際性と普遍性を我がものとして獲得していく、精神の歴史を考えることである。人民戦線のことは、80年代の公害運動の座り込みの現場でそれを語る人から知ることになった。さて人民戦線は、33年にフランスで、36年にスペインで成立した。37年7月にフランコ将軍の反乱、スペイン市民戦争が起きる。8月及び9月にナチスポーランド侵攻チェコ侵攻。ミュンヘン協定の締結。ケン・ローチ『大地と自由』(Land and Freedom、1995)はスペイン内戦を舞台として、ジョージ・オーウェルカタロニア讃歌を思わせる設定となっている。(カタロニア讃歌は、人民戦線側を内紛へと導いたスターリン主義と非人間的な政党政治への強烈な批判が語られている。そんな中でも人間味を失わないスペイン人とカタロニア人に対する、オーウェルの愛情と尊敬も語られている。) ケン・ローチは映画を通して、ファシズムに対する抵抗が組織化されていくなかで自発性というものが抑圧されていく問題を明らかにしたとわたしは考える。そしてこの問題は、『麦の穂をゆらす風』(The Wind That Shakes the Barley、2006)においても貫かれている。『大地と自由』から、『麦の穂をゆらす風』で描かれたアイルランド独立戦争とその後のアイルランド内戦の意味をよく理解できるのだとおもう。(ちなみにアイルランドからスペインに行った人々の半分が人民戦線に、半分がフランコについた。)‬

 

No.129ゴダール

ヨーロッパではファシスト支持者と指さされる危険があるので発言できないことですが、たしかに、ナチスユダヤ人にやった同じことをユダヤ人はアラブ人にやっていると言われてもイスラエルは仕方ないでしょう。

No.130ゴダール

レミー・コーションは17世紀のパスカルの言葉を喋った。ずっと昔に語られたことをはじめて語るように語った。あるいは語られなかったのにずっと前にパスカルが語ったように語った。

No. 131ゴダール

書くことはアルバム写真の整理のように並べること。映画の世界とは、動かないもの、善意で世の為に戦った敗者を嘲笑うもの、闇と光の神話、死者から奪った声なき声を返さない生者への復讐

 

No. 132ゴダール

Trisolanisans (トリソラニザンス)「三つの太陽の島人」。『フィネガンズ・ウエイク』が定位する言語の端は収縮している歪んだ異空間である。そこでは、三つの言葉(トリスタン、イゾルデ、太陽)が一つの語を作る、反コスモスを経た本質なき分節化が起きる。ジョイスを意識したゴダールにおいても縮約が起きる。

 

No.133ゴダール

人生を振り返るとき、何処かで必ず映画を見ている自己がいる。それは芸術を欲望するただ中に自分の姿なのだ。思い出は思考の形式である投射と共にある。しかしテレビを見ている自己の姿は滅多にない。

La television fabrique de l'oubli...Pourquoi  veulent-ils oublier (Godard)
テレビは忘却をこしらえる。連中はなぜ忘れたがっているのか。

 

No.134ゴダール

人間を人間が成立した時代から無限に遠ざける、起源の無限後退を語る言説とはなにか?漢字が伝わってきた以前に、古代人は貝殻と共に喋ったのである。漢字は借り物だった。この言説が政治化するとコワイ。本当は19世紀に作られた近代建築なのに、諸君の立つ大地を掘り起こせば靖國神社と日本人自身が存在するという。しかしそんな筈ないじゃないか。戦前はこれがリアルに存在すると感じられたのは皇国史観が支配していたからだ。現在実在について安直に語る言説がかつての皇国史観にとって変わることが起きないだろうか?
現在から過去に向かって無限に後退していく日付のない起源を考えることも、投射が可能する思考の形式であることには違いない。しかし問題は、人間を人間が成立した時代から無限に遠ざける起源の無限後退を語る言説に、自己自身を投射していないことである。それは、映像を背後にして語るテレビのニュースキャスターのようであある。ゴダールは映画『パッション』においてこの問題を語った。No.60 ゴダール

「映画『パッション』のシナリオ」(1983)は、ゴダールが自分の映画『パッション』について語る短編映画。スクリーンは語る人の背後にあるべきではないという考えをもって、スクリーンに向き合うゴダール。語り終わったとき、暗闇のなかにいるその彼の背後に向かって、暗闇のなかに広がっていたような光が溢れだすようである。と、海の広がりのなかにいるゴダールの姿が意味するものはなにか?内在性の観念と思考のイメージ。
『パッション』は17世紀絵画における光と闇の関係を再構成する映画である。  われら自身の鏡像 を求めて(On nous-mêmes )
L'image symétrique   de nous-mêmes  、Claude Lèvi-Strauss)

 

No.135ゴダール

ヌーヴェルバーグ+思考の形式+Son-Image +絵で書く画家+映画史における自己自身の肖像=ゴダール

 

No.136ゴダール

映画の世界とは、異端なもの、贋物、鋭く職業的に刺したもの、i の空間にアナを開けること、表面上の時間の観念、近づくものとそれを遠ざけるもの、白紙も署名ではないだろうか、無の

 

No.137ゴダール

映画の世界とは、世界から逸れるもの、世界の外にすむもの、世界とわれわれ自身に無関心なもの、有音と無音とのペアを失ったもの、自己の美しか関心がないもの、世界が暗闇包まれたプラトンの洞窟、天岩戸

 

No.138ゴダール

映画世界とは、情報がはいっていないもの、コミュニケーションが成立しないもの。芸術作品は情報もコミュニケーションもない。抵抗は情報のためでもコミュニケーションのためでもない

 

No.139ゴダール

映画世界とは、鍵がかかっていて私のほかにだれもはいってこれない墓跡。いかに脱出するか?人間が佇むのは、「巨石の如き多言語墓跡」の下に広がる海においてである。鯨。天に通じる

 

No.140ゴダール

映画は白紙本である。

 

・空の思想が書く白紙の本

ジョイスにとって署名は大きな意味をもっていた。アイルランドの1日を書いた『ユリシーズ』の最後に、本の署名と言うべきように、トリエステチューリッヒ、パリと本を書いた場所を記してある。アイルランドでは原稿を書かなかったとはいえ、しかしアイルランドのことしか書かれていない本の署名としてダブリンが現れないのは何というか、ジョイスの相当な屈折を感じる。
もし屈折でなければ、あえて言うと、ジョイスはダブリンを思想として考えた。おそらくは空の思想が書いた白紙の本であろう。そうならば署名は要らない。

So why, pray, sign anything as long as every word, letter, penstroke, paperspace is a perfect signature of its own ? ( Joyce , Finnegans Wake)     
こうして一つ一つの単語、文字、筆の動き、紙の余白それ自体の完璧な署名なのだからサインの必要などあろうか。(宮田恭子訳)

No、141ゴダール

世界とは、無矛盾なもの。哲学者は絶えず矛盾を以って世界に問題提起してきた。解決しないことが議論の規則。普遍か普遍でないか?深さに絡みとられず、新しい普遍を制作すること

 

142ゴダール

石が私を外に出してくれと詩人のような彫刻家が叫ぶというインディペントの映画作品があっ、た。これはアイルランドの本質は個体的であり個体化することを表現していたと思う。ハリウッド映画から外に出してくれと主張した映画の本質もおなじではあるまいか

 

143ゴダール

世界とは、砕け散るもの。顔、鏡のなかに映る自分の顔、自分の内面に思い描いている自分の顔と一致しないことに気がつく男は鄙びた裏道の唄声をきく、鏡と窓、鏡の裏側に立つもの

 

No.144ゴダール

「類似者が類似者をつつみこみ、つづいて後者が前者をとりかこみ、その前者はまた無限につづきうる二重化作用によって、おそらく再びつつみかえされるであろう。」ー世界という散文 フー


此方の類似者が此方から見える彼方の類似者を包みこむことが終わるときは、イメージは純粋なものとなる。映画は純粋なイメージである

 

No.145 ゴダール

ゴダール「あなたがたは映画作家であるよりは作家なんだが、それでも、映画作家と対等に映画をつくることに成功した。しかも、映画の世界から締め出されていた。あなたがたはわれわれが映画を信じるのを助けてくれたんだけど」‬

‪デュラス「書くことの原則となっていることのなかには、一方ではあなたの心をひきつけ、もう一方では、あなたをたえがたくさせて逃げ出させるなにかがあるの。あなたは書かれたものを前にして、前にして、もちこたえられなくなるわけよ」‬
‪(1987年のテレビ対談より)

 

No.146ゴダール

Wittgenstein 1936
(ウィットゲンシュタイン「確実性の問題」1936」)

hast du zwei Hände , fragt der Blinde

aber nicht indem ich hinblicke vergewissere ich mich dessen 
ja 
warum soll ich meinem Augen trauen wenn ich ohnehin zweifle 
ja 
warum sind es nicht meinen Augen die ich durch meinen Blick überprüfe wenn ich meine beiden Hände sehe

あなたには手が二本あるのか、盲人がたずねる。
けれども、私はそのことを、目で見て確かめようとはしない。
そうだ。
そこまで疑わねばならないくらいなら、如何して自分の目を信頼できよう?
そうだ。
見えるかどうかと両手に目をやるとき、私が確かめようとしているのがどうして自分の目ではないと言えよう?

Est-ce que tu as deux mains demande l'aveugle
mais ce n'est pas en regardant
que je m'en assure 
oui
pourquoi faire confiance à mes yeux
si j'en suis à douter
oui 
pourquoi n'est-ce pas mes yeux 
que je vais vérifier en regardant 
si je vois mes deux main

ウィットゲンシュタイン
語り得ないことは
沈黙すると言ったが
盲人とはベラベラ喋った

手は友情
手に最高のものがある。
世の終わりだというとき、
先に友情の手が崩壊している

あなたには手が二本あるのか、と盲人がたずねる

眼が手を包み返すためには
眼はそれを超えるものをもっていなければならない
夜の静けさを打ち砕く
背後から突き刺す光もごとく

わたしは見る、故にわたしは存在する

 

No.147

何の後で、何の前か?
ー思想史の語りと映画史の語り

わたしは自分のことを考えると、哲学は、思想史と一緒に勉強することをお勧めします。哲学は思想史と一緒に学ぶとおもしろくなるのですけれどね。哲学は一人の思想を深く掘り下げていくと必ず難しい壁にぶつかりますが、思想史はそれぞれの哲学者を浅く表層的に勉強すればいいので、挫折は起きないのですね。しかし表層だからと言って馬鹿にできません。深層よりも、表層に豊かな知があるのです。思想史の課題は、この思想は、誰の思想の後で、誰の思想の前かを決めることです。流行している思想でも、例えば新実在論ポストモダンを批判していても(?)、18世紀ですね。そもそもポストモダンは17世紀的だったので、これを批判して乗り越えようとする哲学が18世紀的であるというのはわかります。思弁的になって何でもかんでも喋りはじめた柄谷はヘーゲル的で19世紀ですね。こうしてわかるように、思想史のキーワードは反復です。ちなみに、映画史は思想史を参考にしています。あらゆることを試みた映画の可能性は1950年代に尽きました。それ以降は、新しい映画はなくて、反復なのです。そこで映画批評の課題は、映画史の視点を以って、この映画は、どの映画の後で、どの映画の前かを決めるのですが、それほど簡単ではありません。ゴダールというひとは、映画の歴史において、白黒がカラーに先行したのは何故かと問います。技術の進歩によることだと考えるのが普通でしょうが、あえてゴダールは別のことを考えます。戦争の後に、必然として、喪である白黒の映画が来たというのです。こうしてゴダールの映画史では、絵画史にないような語り口で、美の歴史が倫理的に再構成されます

 

No.148

他者の手

ハーレントによると、近代の問題は根なし草の大衆の問題。都市に流れてきた人達をスターリンが世話して労働者階級にした。他はファシズムが世話をした。ヒトラーアメリカとの闘いをハリウッドとの闘いと考えた。だからラジオと共に映画は欠かせないとおもった。だがどうして戦争が起きたのか?ここでも手で考えるゴダールが語るように互酬の話が役に立つ。映画から与えられたものを人々は映画に返さなかった為に復讐を受けたのだ。映画から与えられたものは、他者の手にほかならない。決定的な崩壊は、飢えから来るのではなくて、友情の喪失からくるものなのだ

 

No.149 ゴダール

ゴダールがイメージと呼ぶものはモナドライプニッツが呼んだ鏡である。顔とか眼差しとか暗闇の光の境界とかで書かれたものー映画史ーを映し出す鏡。20世紀精神の鏡。これらが読めなくなったときにはじめて20世紀は終わったのだろう。二十数年前から21世紀なのに、まだ20世紀は終わっていない

 

No.150

『映画史』の冒頭はゴダールのタイプライターで書く姿を示している。まさに書く画家のように、打ちながら20世紀初頭のイメージがよびだされるように次々に現れる。ゴダールがイメージと呼ぶものはモナドライプニッツが呼んだ鏡をおもう。顔とか眼差しとか手とか暗闇の光の境界とかで書かれたものー映画史ーを映し出す鏡。20世紀精神の鏡。ゴダールのタイプライターで書く姿の映像の後を見ると、ハーレントについてわたしは考える。ハーレントによると、近代の問題は根なし草の大衆の問題。都市に流れてきた人達をスターリンが世話して労働者階級にした。他はファシズムが世話をした。ヒトラーアメリカとの闘いをハリウッドとの闘いと考えた。だからラジオと共に映画は欠かせないとおもった。だがどうして戦争が起きたのか?ここでも手で考えるゴダールが語るように互酬の話が役に立つ。映画から与えられたものを人々は映画に返さなかった為に復讐を受けたのだ。映画から与えられたものは、他者の手にほかならない。決定的な崩壊は、飢えから来るのではなくて、友情の喪失からくるものなのだ。ソビエトはハリウッド映画に勝る国家のイメージを作らなければ存続の危機を意味した。しかし「夢の工場」に疲弊してしまった、と、『映画史』の中で神話的に語られる。書く画家において、記憶の彼方に読めなくなったものを読むためにパロールとものとが豊かに絡み合う。

 

No.151

16世紀から物で書かれたものが隠れる。読まなければいけなくなった。映画のゴダールはカメラで現れとしてのものを捉えることが可能だとした。実際のところそういうことはない。だからこれは理念的なことなのだ。カメラはウィットゲンシュタインの命題関数である