「帝は是れ理を主と為す」

‪「帝は是れ理を主と為す」‬(陳淳)

子安先生の訳と解説 (『朱子語類』を読む)

「天が帝であるとは、理を主としていうのである」

• 人間が自らに判断できる主宰性(主体的、自立的)をもつのは、人間は心をもっていることによる。

MEMO

(不勉強な私の現在から古言を解したモダンな理解から出てくる問題提起なのだけれど)

主宰しているという心の感覚は、‬まだ心ではない。‬それは直感的な感覚であり、‬心の中で、‬ただし心なしで生まれる‬。思考するためには、心を絵画にする必要があるとおもうのである。何かを見ることそれ自身が疑われる究極の果てに、見ることが優先されるから。映像が先行するから、思考が優先されるとは別のやり方で

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時代のスピードがはやくなってきたとは、物の見方が大きく変化するようになってきたということ

時代の支配的見方である「正しい」ことにこだわる<教条主義>の倫理的問題が理論的に分析されるようになったのは、1970年代からのポストモダンの時代にだとおもう。あれから50年、テクノロジーの進歩とともに、加速していくように時代のスピードがはやくなってきた現在の問題は何だろうか?時代のスピードがはやくなってきたとは、短期間に物の見方が大きく変化するようになってきたということ。だけれど約十年前のネットの原発体制に異議申し立てて街頭に出る自発性についての見方も変えさせられてくるとしたらこのような事態は倫理的なことにかかわるようにおもう。歴史修正主義が語る「正しい」ことに沿って、依拠できる物の見方を変えさせられてしまうことをゆるしてしまう現在の問題の存在を昨夜は語り合った。やはりこのことは、<教条主義>から反<教条主義>へとと二項対立的に直線的に自由に揺れ動く近代の問題を構成しているのではないか

時代のスピードがはやくなってきたとは、物の見方が大きく変化するようになってきたということ

時代の支配的見方である「正しい」ことにこだわる教条主義の倫理的問題が理論的に分析されるようになったのは、1970年代からのポストモダンの時代にだとおもう。あれから50年、テクノロジーの進歩とともに、加速していくように時代のスピードがはやくなってきた現在の問題は何だろうか?時代のスピードがはやくなってきたとは、物の見方が大きく変化するようになってきたということ。だけれど約十年前のOccupy Wall Streetの見方も変えさせられてくるような事態は倫理的なことにかかわるようにおもう。歴史修正主義が語る「正しい」ことに沿って、依拠できる物の見方を変えさせられてしまうことをゆるしてしまう現在の問題の存在を昨夜は語り合った。やはりこのことは近代の問題を構成しているのではないだろうか。

時代のスピードがはやくなってきたとは、物の見方が大きく変化するようになってきたということ

時代の支配的見方である「正しい」ことにこだわる教条主義の倫理的問題が理論的に分析されるようになったのは、1970年代からのポストモダンの時代にだとおもう。あれから50年、テクノロジーの進歩とともに、加速していくように時代のスピードがはやくなってきた現在の問題は何だろうか?時代のスピードがはやくなってきたとは、物の見方が大きく変化するようになってきたということ。だけれど約十年前のOccupy Wall Streetの見方も変えさせられてくるような事態は倫理的なことにかかわるようにおもう。歴史修正主義が語る「正しい」ことに沿って、依拠できる物の見方を変えさせられてしまうことをゆるしてしまう現在の問題の存在を昨夜は語り合った。やはりこのことは近代の問題を構成しているのではないだろうか。

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』

‪今日は宮沢賢治の命日なんだそうである。『銀河鉄道の夜』は芝居が先だった。小説は芝居のあとに読んだ。そういうこともあって、ジョバンニはわたしのなかでは沈黙しがちである。本を読むと、ジョバンニ‬がもっている自分自身の言説というか、「じぶんの考え」がある。‬

‪「自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなってそしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけ、あらゆる世界がそなわり、すっと消えると、もうがらんとしたただもうそれっきりになってしまう」。‬

‪ジョバンニは歴史の孤独を物語る。だけれど歴史の孤独を物語る「じぶんの考え」の中に、この自分自身の言説の中に、宿りたいと欲していただろうか?ジョバンニが言葉を発するのをあれほどおそろしいことにしていたのは何か?ジョバンニが言葉を発したこの場所は、カムパネルラの話をジョバンニが聞いた場所であり、ただジョバンニの話を聞こうにもカムパネルラはもうそこにいないのだから。フーコが書いていたように、わたしが言葉を発するのをあれほどおそろしいことにしていたものもこれである。わたしはわたし自身の言説のなかに定位したくない。それはこういうことである。わたしが言葉を発したこの場所は、彼の話を私が聞いた場所であり、ただ私の話を聞こうにも彼はもうそこにいないというのである。

MEMO

‪どこの国の誰でも自分の国について喋り始めるといきなりつまらなくなる。あれはなんだろうね?国家哲学を語るからだと思う。だけれど国家は言論のなかにしか存在しない。例えば誰と誰が語った日本とか、誰々が語った明治維新しか存在しない。日本とか明治維新が実体として存在しているとずっと思ってきた‬

映画の感想とおんなじで、どう語られるかという語る人の視点のなかにしか映画は存在しないと思うのですが、同じように明治日本もそう。演劇のロゴスみたいに日本国家が存在していると思われてきました

人と視点の関係を、思弁的に物として考えるとどういうことが言えるかがわたしの関心を占めるものです。時間の流れに先行した、不透明で、漠然としていているところを更に沈めてしまうもの、思考としかいえないもの。哲学的に言って、実体というのは、統合されたものとされるのですが、そうではないと思うのです。実体は分裂しているというか、他と共通なもの、他によって成り立つもの、他を排した<一>によっては統合できないものだと理解しようとしています。このような実体概念はポストモダンに依拠するのですけれどね。ところでこのような実体概念にたいする反発が常に起きてくるのはなぜかと今考えています。

反発しても構わないのですが、ポストモダン思想が受容された80年代に酷く反発されました。ポストモダン思想の正体は、主体が形成されていない前近代の右翼的な思想だというような点を指摘してくるのですね。しかしもしそうであるならば、国家を批判したヨーロッパ左翼思想が右翼とされてしまいますね。<一>の国家を内面化した立場から多元主義にたいして行うような非難は、後進国市民社会が国家と同時に成立した歴史について考えさせられます。ややっこしいですが、国家を批判する市民社会の左翼に対して、国家を批判すると同時に国家を内面化している左翼が批判するという...。グローバル資本主義の時代に、再び同じ国家に戻る必要もないし、そもそも不可能なのに、一所懸命国家を作り直そうとする言論に疑問を感じます。

漢字

‪大活躍のトゥランドット姫。写真は、舞台のスクリーンで映し出される舞台裏の姫の姿‬。ちょっと本音が出るネット発信のくつろいだ雰囲気を思わせる。やはり大切な場面だとわたしはおもっている。自由に振舞っているようにみえて、隅から隅まで皇帝の姫を演じなければならない。勝手に、二つのことを考えた。人は疲れるときに自らの限界に直面するが、そこではじめて有限性を哲学するようになる。不完全ゆえに人間だけが哲学できる(わたしはいかに考えることができるのか?わたしはなにを望んでいるのか?)と、トゥランドット姫は哲学をもつことによって、無誤謬性を演じているだけの無限の力が宿る皇帝の世界を、もしかしたら別の見方をもってとらえなおす視点が成り立つかもしれない。もう一つは、この漢字が書かれている衣装は何を意味するのだろうか?台詞で説明されていたが、これとは別に、長い歴史の間アジアの人びとが住処としてきた漢字が存在している意味について考えた。戦争を導いた天皇ファシズムの祭祀国家をやめた憲法のこと、敗戦後の誓いのことを思った。他ならない、ここに依拠していく究極的な主体は、この1500年間の漢字を不可避の他者とするアジアと共存していく、また今現在言論の自由を尊重した政治的多元主義へ行くことが要請されている