構造

中心からは考えることができない。周辺(端)においてでなければ考えられない。あえて中心はそれを考えるならば、中心は周辺がいかに考えたかを必要とする。他者を不可避とするその中心は中心でなくなり、周辺は周辺でなくなるだろう。構造がかわるということだ

* 子安氏の『漢字論ー不可避の他者』の中国語版の刊行についての申し出でが来ている

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エクサンプロバンス駅の窓口で喧嘩してしまい、あとで気がついたらスペインに近いCarcassonneは四時間で行けるのに八時間かかる切符を買わされてしまった。おかげでボルドー地域を見ることができたけれど、到着は夜遅い。夕食ぬき。罰せられているとはおもわず、旅だからこその偶然とかんがえることにしよう。フランスの側からスペインへ接近していくとき、スペインの側からフランスに接近してくるものは何だろうかと思案する。いつの日かポルトガルに行ってみたい...

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地域紛争を考える

‪正しくは「資本主義が」という主語をつかうべきかもしれないが、19世紀のイギリスとフランスが其々地球の半分もつことができたのは、ポルトガルとスペインそしてオランダの失敗を克服したということがあったかもしれない。問題は、帝国主義者の子孫たちが旧植民国に訪ねて行くとき、今日アメリカ人観光客のそっくり同じ口調で、「今日この国があるのはわれわれのおかげなのに」とさりげなく告げるときである。もっと問題なのは、奇妙なことに、ナショナリズム植民地主義者は、帝国主義者の失敗を指摘して自分達ならば祖国を救えると約束するとき、ーそれは破産し尽くした約束なのにー、それは帝国主義者の言葉と違わないのである。帝国主義と<対抗>帝国主義に先行したのが、近代的測量で為された地図の制作である。(イギリスは最初に近代的方法を以てアイルランド測量を行なった。1980年前後の演劇が問うたアイルランドの地名が二つできてくる。) 知的であるためには、大きな広い円のなかで地域紛争を考えること、そして大きな時間的な広がりのなかで考えること。グローバル資本主義の問題が根底にあることを見逃してはいけないこと、地域紛争の解決のために全世界が介入すること、人類史的な視点をもつこと‬

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‪ 劉暁波とはだれか?

劉暁波とはだれか?

「西欧ではバッハが教会で演奏してからカラヤンがベルリンのホールで演奏するまで三百年ぐらいかかっている。日本では西欧音楽が輸入されてからわずかな時間で現代まで来ちゃっている。」(武満徹)。音楽家ならば直に音に依って自由の意味について考えることができるのだろう。政治と思想が言葉をともなって接近していく果てに囚われて停滞する「境」なんかないのだろう。厄介なことに、言葉というやつは対象に近づいて見えない「境」を超えると転倒が起きるらしい。よく指摘される通り、西欧は自由を規定する方向に自由を読み取るのにルネッサンスから五百年かかった、アジアではそれを百年とか二十年とかで獲得しようとする。それほど時間の流れが圧縮したならば、西欧において長い時間を以て保たれていたような、基底的な方向と方向との関係が入れ替わるという「境」があるかのようだ。そしてこの「境」を超えると、自由を否定する方向に自由を読んでしまうとか、逆に、自由である方向に自由の否定を読んでしまうとかね。例えば、「文革」とその熱狂が前者の場合で、「天安門前広場事件」の歴史の抹殺・忘却と「08憲章」に対する非難が後者の場合。だから学ぶことによって、自由を規定する方向にその通りに自由を読み取るように正しく研究するしかないわけだし、このことの自覚から、アジアの民主主義への希望の名という風に報じられるようになった、劉暁波とはだれかという問いが立つ。(旅行中で列車で移動する暇な時間があるが、このクニの民主主義について考えるほど暇人じゃないが、いまこのときに何かを言うとすれば、) 劉暁波からする中国の新しい普遍主義なくして、日本の民主主義は大きな広い円のなかでものを考えること、そして大きな時間的な広がりのなかで考えることができないとおもう。もしできなければ?注意深く考えるべき構造の問題である。安倍政権に有利に「彼ら」と「我ら」との間の分割的線引きが為す底無しの意味にいつまでも絡みとられることだって。こうしたことは、フランス・ドイツ・イギリス (そして常に私はアイルランドを加えるのだけれど)の普遍主義の新しい再構成なくして、ヨーロッパ諸国の民主主義が十分に成り立っていかないことと同じであると考えられるかもしれない。一人ひとりが学ぶことから始まるのだとおもう。‬

外国へ出ると常に思うこと

便利じゃなくなる外国へ出ると常に思うことー変だと思ったら同じ質問を繰り返しくりかえし言うことが大事で、どんなに時間がかかってもいい。彼らはそうして長々と話す。日本人はスマート過ぎるんだよな、簡単に"わかっちゃう"から日常生活の隅々まで強行採決化されちゃっている

沖縄

‪どこにも属する地中海、だが何かの部分として構成されることのない、囲い込まれないようなネットワーク、それは何と呼ばれるのでしょうか。中国大陸・朝鮮半島と繋がっていた瀬戸内海の歴史を、また琉球の歴史を考えようとしています。さて公害裁判の運動に関わった者ならば誰でも「和解」の言葉に苛立ちを覚えます。国家に「和解」などないのです。そもそも国家の近代は沖縄と命名したものとは「和解」しないでしょう。ただ自己にとって都合よく自分の部分としか「和解」しないのではないでしょうか。安倍のスピーチに対する知事の反発、セレモニーのときの野次の言葉がこのことを伝えているんじゃありませんか

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マルセーユのアルトーを読む

マルセイユは初めて来ました。元々は石切りの街だったそうです。‪調べると、マルセイユの歴史は古く、小アジアから来た古代ギリシアの一民族であるポカイア人が紀元前600年頃に築いた植民市マッサリア(マッシリア)にその端を発すると記されています。1720年には大規模なペストの流行で10万人程度の死者が発生したが、18世紀後半には復興したとも。マルセイユは小さな丘がたくさんあります。アルトーは、メキシコからヨーロッパに帰ってくると、アイルランドに来ます。なんというか、文学的に喩えていうと‪アイルランドというのは巨大な遺失物収容所で、ダブリンに、アルトーは(アムステルダム闇市で手に入れた)杖を聖パトリックに返しにいきなりやってきたのです。現地の人々には頗る迷惑な話で、big nameなのに、アルトーその人が引き取り手なき遺失物となってしまうというのが皮肉というか。フランスに強制移送された後になってですが、どうもこのときに放浪したアイルランドの風景を描写しています。よく統御された文体を以て詩を書きますが、その中で全く意味を伝えるつもりのない音の連なりがいきなり現れるとき、悍ましくも外部からきたものが止めようもなく広がっていくのは衝撃です。ギリシャ系の両親をもつアルトーはここマルセイユに生まれ、二十代はじめまでこの地にいたのですね。ラシーヌの演劇を好んで、ボードレールなんかを読んでいた時代ですね。それからパリに行ってシュールレアリスムと関わったり関わらなかったりします。全集にかれが手紙で書いた詩があります。この「古代の都市で」目覚め、「永遠の自己自身の不在」である、「円環する精神」が、(マルセイユの)「丘たちがつくる環」へ行くのだ、というような手紙を書いていました‬、中々面白いと思います