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「弁名」ノート‬ No. 29 ( 私の文学的フットノート)

聖人の叡智と人の知について、『弁名』の徂徠は非連続性を導入した。徂徠は道『論語徴』などで子安氏の評釈によると、「聖とは作者の称」という定義にあるように、聖人とは「礼楽刑政」の道の制作者である。子安氏の評釈を読むと、「では何をもって聖人は道を制作したのか。徂徠は聖人の聡明叡智の徳にしてはじめて道の制作は可能であるというのである。その聖人の功は神明に等しいと徂徠はいう。」。その功と等しいとされる「神明」というのは聖人の「大きさ」をあらわすのであろう。思考不可能な「大きさ」から考えていくこの考え方の道筋が大変重要なのであろう。そうしてつぎのように展開する。「この神明に等しいと聖人の叡智は学ぶことのできるものではない。それは制作者聖人とともに超越性をもった叡智である」。ここで「とともに」という言葉で徂徠の議論が説明される。聖人と叡智は切り離してはいけない。われわれはそれを「叡智」と名付けるというのである。「それゆえこの叡智は「知」とは何かというわれわれの批判的解明の対象としてあるのではない。われわれの知とは、学ぶ‬ものの知である。君子とは聖人の道を学ぶものであり、また先王の礼楽を学ぶものである。したがって君子の知とは、その先王の道を知り、先王の礼を知るところの知である」。社会全体を見渡す知によって、自身を代表したいとする、支配層の武士が武士であるために要請される学問をもつこと、制作された世界における君子の知を我がものにすること。評釈の結論はこうである。「徂徠において聖人の叡智と一般的人士の知との間にはまったく連続性はない。制作者聖人の智とその制作された世界の中にいる人々の知との間は断然される。ここで解明されるのは聖人の智ではない。制作された世界における君子(在位の人)の知であり、世俗の知である。」(子安)‬

フランス大統領選

世の中は馬鹿しかいない。グローバル資本主義の無秩序に対して、それを推進した普遍主義の形を唱和し続ける馬鹿と、ファシズムの共感を隠しているかもしれぬナショナリストに秩序を期待する馬鹿である。私は第三の馬鹿だ。無秩序に対しては無秩序を以て抵抗していくような馬鹿がもっと出てこないものか

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トランプの後

‪トランプ大統領の出現を契機に、各国のナショナリスト候補者達に支持票がそれほど集まらなくなってきたという。ル・ペン候補も。極右翼の安部首相に対する支持増が際立っている‬ 安部内閣を支持しているのが6割近くもか。美しい国教育勅語を「日本人」のエートスの如く語りはじめた政権の7割の恐怖へ行く次の一手はなんだろうか? トランプに負けないぐらいの馬鹿でないとダメだろうと大きな支持を与えていたが、現在の問題は、あまり多くの人々がアベみたいになりたいと憧れる馬鹿それ自身になってしまったこと

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‪トランプ大統領の出現を契機に、各国のナショナリスト候補者達に支持票がそれほど集まらなくなってきたという。ル・ペン候補も。極右翼の安部首相に対する支持増が際立っている‬

‪「アジア」はどう語られてきたか

‪「アジア」はどう語られてきたかという問題は、子供のときにオーストラリアから帰ってきた「わたし」はどう語れてきたのかというオブセッションにつかれた私においては、高校生のときから自覚していた問題なのであった。アイルランドとイギリスから帰ってきたとき、この問題を自分のためにもかんがえておかなければならないだろうと予想していたが、二度目の帰還のときはもうすっかり自分のことはどうでもよくなってしまっていた。だけれど、まだ話すべき答えを出せないのだけれど、若い台湾と中国の留学生とともに考えようとしている。「わたし」の中では、「われわれ」はどう語れてきたのかという問題意識に移行している。「アジア」はどう語られたかについて大まかに整理すると、明治時代に芸術史が自らを中国から位置づけるときに現れたのが東亜概念である。政治上の問題を孕むその概念の限界を乗り越える為に、多としての普遍主義としての東アジアが指示されることになった。だけれどグローバル時代の現在では、帝国概念かその等価の概念に包摂されてしまった感がある。文化論的言説がデモクラシーを抑圧してきたのである。今年は、巻き返されたままではいけない、いかに巻き返すかというこの危機感の中で、子安先生が呼びかけた岡倉天心を訪ねるという思想史的遠足をおこなったとわたしはひそかにおもっていた。実際に、現地で、芸術史がいかに自らを喋りはじめたかを問うたかを超えて、思想史はどのように自らを語ることができるのかを考えることになった。西欧の線引きから自立しようとして、岡倉天心は白紙の本としての東洋の理想について語った、と同時に、白紙の本としての「アジア」はどのように語ることが可能なのかを問う思想であったことを発見した。芸術が芸術であるために要請されてくる普遍性とは何か?「アジアは一つ」(岡倉)といわれるとき、問題となってくるのは、日本をどう位置づけるかという問題であるが、それは、中国とインド、アジアの芸術作品が辿り着く到達点としての場として指示されている。ありうべきあらゆるものの理想の頂点にいたるとき、芸術作品たちが到達するのは日本という中心にではなく、日本を制限するところのものの縁である。そういう意味での人類が定位する場をアジアからさがせという方向性をもった思想を天心から読みとれるかどうか。まだ巻き返しとはいえない手がかりに過ぎず何もないかもしれないけれどそんなことは後の世代が判断すること、はじまった思想史的遠足は思想史的言説へ行く

だれがNationalityを語るのか?それはいつ始まったのか?いつ終わるのか?

‪世界はNationalityで構成される集合体であるのか?Nationalityとはなにか、それをどう定義するかは思想史にかかわる厄介な問題である。イギリスは「普通の国」になろうとしている"Brexit"で、このNationalityの問題が出てきた。それは、独立国家としての存在なのか?だけれどだれが「独立」を語るのか?この点について、「世界にいくつ国があるか?」の問いに対して、国連加盟国は193ヶ国であり、外務省(日本政府が承認した国家)のホームページは196ヶ国と記しているようだ。だけれど、世界とおなじ大きさをもつロンドンの大きさを知るとき、なんかこういう独立国家で数える指標はそれほど自明に依拠できるようなものではないと感じていた。アイルランドからロンドンに入ったからそうおもうようになったこともあるかもしれない。今朝、The New York Times 誌を読むと、写真の説明文に、London, a city of 8,7 million people representing 270 nationalities とある。わたしが抱いてきた疑問がそれなりに意味あることを確認できた。870万人の270のnationalities の滞在が問題となってきたというから、ここで言われる270という数は国連加盟国や外務省の公式承認している国の数よりも遥かに多いのである。‬だれがNationalityを語るのか?それはいつ始まったのか?いつ終わるのか?

「もっと別の近代」を

江戸時代のだれが天皇を知っていたというのか?百人に一人ぐらいしか天皇の存在を知らなかったのに、ずっと天皇に依存してきて今日があるとおもっている。天皇は19世紀の明治維新が発明したのに。明治維新から、辛亥革命からしか、われわれはわれわれ自身がどんな時代に生きているのかを語れないほど思考が近代に染められている。逆の方向から、応仁の乱から、宋から、現代を批判を以って相対化してみせる解体演算子「もっと別の近代」を呼び出したいとおもうのだけれど。ここで近代が応仁の乱とか宋から始まったと言っているのではない。われわれはドンキホーテではない。わたしはドンキホーテの狂気を愛する者だが