読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

公と私

私人の「私」が、フェイスブックの書き込みで、証人喚問の証言に反論している。国家が代筆しているといわれる。書く主体すら閣議決定で「公」から追放されてしまったということ?

広告を非表示にする

法の支配

イギリスの最高裁のメンバーの選ばれかたでは、どうも法律家としての能力が重視されていて、私が知る限り、それほど"民主的"な感じがしない。必ずアカデミズムからこの点の問題が指摘される。だがジャーナリズムからはリベラルだと信頼されていた。政府が人権と法の支配を軽んじるとき、元長官の発言も大きな影響力をもつ

広告を非表示にする

証人喚問を読む

総理への侮辱を罰するというような問題のある証人喚問の様子をネット中継でみた。証拠となるものが既にネットで公にされている現実に言及した質問議員の当惑が印象的だった。証人のさりげなく語られた言葉の中から、日本会議から主張する究極の目的を読み取ることもできた。はっきりとしなかったその正体がみえてしまった、そう感じた。それは、'日本がどんな事態に陥ったとしても天皇国家として樹立していれば大丈夫'という大変危険なものである。この人物は、教育がこうであることが国民運動の救済神学的形からする必然性を指示していたというわけである。私はそれにゾッとした。日本は天皇国家でなければ危機だと繰り返し言うこと、この教説、これこそが、反証の精神が眠っているときに、危機を作り出しているのだから。 極右の訴える裏切られ感。その背景に、勝手に現れたトランプの登場と、いきなり敗北した安倍政権の危機がある。狼は仲間を呼ぶが、ヘイトスピーチ国家ではもうやっていけなくなったのだ

広告を非表示にする

「弁名」ノート‬ No. 20 ( 私の文学的フットノート)

「弁名」ノート‬ No. 20 ( 私の文学的フットノート)

子安氏の‪評釈によると、道が大であるとは、道が人間社会の全体としての存立にかかわる概念だからである。この人間社会の全体と等価の大きさを持つのは聖人だけだとされる。道とともに大である聖人に対して、人びと一般は小なる存在である。人はそれぞれの生まれつきの性質によって規定される特殊的存在である。さらに子安氏の説明によると、特殊的な存在とは、それ自体に全体性に至る契機をもっていない存在だということである。ここで間違いを恐れずに言うと、私の理解では、特殊性と全体性は切り離してはいけない。特殊性は全体性とは異なるから、特殊性は全体性に置き換えることはできない (近代主義者が同一化の可能性を読み取るようには...) さてこのことを前提にした上で、問題となってくるのは、いかに特殊的存在を人間社会の全体性に連なり得るかである。徂徠によれば、先王の道と教えによってである。「人はその教えにしたがい、学ぶことによって、自らを社会的存在たらしめるのである。それゆえ人びとがその特性に応じて、それぞれが一個の人材としての自己形成が可能なように、聖人は徳目のカタログを用意したと徂徠は言うのである。聖人が『徳の名をたてる』とはそういうことである。」(子安氏) ‬

女性すら女性に成ることが要請され、男性すら男性に成ることが要請された

‪日本は中世がなかったとする見方が面白いと思うのは、「源氏物語」と「徒然草」とが古代天皇制の同時代にあったと再構成できるというかね、プロに読まれるとヤバイような素人の私の考えだけれど。紫式部は当時男性が読んでいた「日本書記」も読んでいた変な女性だったという。これは何を意味するのか?女性は女性的点と男性的点を結合させることができる。だがこの結合の事実を指摘するだけでは、足りない。新しく古代は「源氏物語」からはじまったというそのその画期的な出来事。それが切り開いた多様性の方向性を十分に説明したい。物語を書くために平仮名に依拠することによって、女性すら女性に成ることが要請されるのだし、そのときあますところなく男性が女性に成るということがともなうのである。他方で、漢字仮名混合体で書いた吉田兼好の場合、男性は男性的な点と女性的点を結合させることができた。(「平家物語」は漢字で書いた物語だった。) 再び新しく古代は「徒然草」からはじまったというこの随筆がもつ多様性の方向とは何か?物語を書く為に漢字に依拠しなければならない。男性すら男性に成ることが要請されたし、そこであますところなく女性が男性に成るということがともなうのである。(おそらく謡曲の仮名を読むナレーションにおいて「女性」が「男性」に成ったのではあるまいか。) 最後に、思想史空間を横断していく古代の線は、超越性が定位する古代的点から自立した運動をもっている。武士は貴族と寺社の超越性を嫌った (本能寺を焼いてしまうほどだ。‪) 古代の死は内部に生じると感じられるが、その終わりは外部から来た。近代において、超越性の古代的点と、反超越性の近代的点との同時性が存在する。‬‪‪特に伊藤仁斎の近世において、「人」は「人」であるために要請される「学」の理念性が問われるとき、多様性の方向が経験知の方に舵を取りないしながら、男性と男性の、または女性と女性の関係が「人」を中心とした対自的的・対他的関係において縮約されることになるだろうととりあえず整理しておこう。まだ絡みとられてやまない超越性の痕跡が、彼の反超越性の思想闘争に、新たな方向性をもとうとしている漢字仮名混合体にある。‬難しいのは、こうした伝統を「脱アジア」のラジカルに切断していく明治の近代のあり方である。

アベノミックス

浜矩子氏が過剰な言い方で「安倍首相は幼児的凶暴性の強い人」と言うのは、そう言わなければわからないからそう言っていることなのでしょう。問題はデモクラシーにかかわること。つまり全体から人間社会を捉えるその必要を喚起しています。その意味では、グローバル資本主義から自立するために、財政に対する民主的介入の要請が言われるようになったこの時代に、「財政赤字」を否定しないというだけの理由で、その新しい経済理論に反発するようでしたら、この経済学者のために無条件には拍手できません。アベノミックスに義憤をもってはいても、理論に先行した、「プロ」ならではの市場に対するオカルト的依存の観念に等しいものがみえてしまうからです。人びとが依拠できるものは、「プロ」であろうとする理論のなかに依然としてもとめられるのか、このこと自体について一人ひとりが考えることが要請される時代です。4、「プロ」であるネオリベ経済学の時代にあってまだケインズを読む可能性があるとしたら、それは、彼が、知識人としてあることが「プロ」意識に対する距離からする必然性を喚起したことにあります。それはポピュリズムと異なる道徳的なあり方ー恐らく芸術と切り離してはいけないーに関わるとわたしは思います

広告を非表示にする

安倍共謀罪が閣議決定された

大袈裟といわてもこう言わないと分からないから言うが、共謀罪強行採決後に起きてくること、刑法が刑法であるために要請される市民社会など無くなる。安倍政権への根本的批判を危険視して心の中から洗脳されてくる一億の、安倍内閣への何となくするおもてなし。人類史をヘイトスピーチする国家の誕生