MEMO

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麻生は自明のこととして、「一つの民族」と言っているけれど、そもそも「民族」の語は百年前に出てきた‪近代の新しい概念。それ以前はどうだったのだろうか?言葉がなかったのだからそれが意味しているものを考えることができなかった。‬


‪• 明治に出たもので、これは1912年発行のもの。ヨーロッパの後期啓蒙(とくにイギリス功利主義)の影響を受けながら朱子学的に訳をつくっている。‬ (子安氏の配布資料)


井上哲次郎の訳語をみると、Nationality には、「民族」という言葉が出てこないことがわかる。‬Nature をどう理解するかが近代概念で問題となるが、たとえば、Law of nature は、「性法」とも訳されている。朱子学的な性理学の影響をたしかめてみることができる。‬ 「必然」という語も、朱子学的に(または脱朱子学的に)訳語が作られたことばの一つで、調べてみると、Necessity は「必至」、「必然」。井上哲次郎たちは、17世紀の伊藤仁斎の「童子問」(「天有必然之理、人有自取之道」)に依っていた。


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江戸時代は政治的自由はゼロだったが、思想論争は現在より活発だった。現在日本はそこそこの自由があるからかえって隅々まで議論がない。不平等は「前近代」よりも広がっているのに


天皇に人権がないことが問題なのか?解釈改憲的に、天皇の(象徴性を超える)大御心の象徴行為と交換に、国民主権を奪われようとしているわれわれは彼の人権を心配するというの!?


社会学ボット

【従属理論】周辺地域から中心地域への余剰流出という搾取関係に注目し、支配と従属の点から発展途上国を分析する理論。中心―周辺の二極構造理論という性格をもつ。世界システム論へ発展した。


和辻が物語る「日本の神々」の特徴に「限定せられない」あり方を読み出すが、だけれど神々における大御心の連続性は「限定される」ものである。「現人神」である「天皇」は「無の場所」であるとはいえないとおもう。‪わかっていることだが、常に、和辻は饒舌に語るが、西田は沈黙する、というか、和辻について語ることができるが西田を読むと語れなくなるのである‬..。だが敢えて語るとしたら、なにを語るのか?一般概念として限定せられないとはどういうことなのか?宣長からは、中国の神(シン)の相違としての神(カミ)の多元主義の概念が現れる。これは「無の場所」と西田が呼ぶものではない。一般概念の限定があるからである。また同様に、西欧の一神教的神の相違として再構成された和辻の「日本の神々」も「無の場所」ではないようだ。連続的な<一>かつ<多>における一般概念の限定があるからである。西田がいう一般概念として限定せられないとは、同一性と相違性の見方を棄てるものなのか?「無の場所」といわれるものは結局、無からの自己差異化なのだろうか? 西田についてまだよくわかっていないなあ...しかし和辻からみえてきそうなものがある



映画は、映画として成り立つためには、われわれの視線を、われわれの自己の欲望に適う世界と交換する(置き換える)。われわれとは身分的帰属を失った都市の大衆のことで その世界は、スターリズムなのかファシズムだったのか。否、夢の工場、ハリウッドだった?この百年間にだれでもなかったわれわれはなにを見たのか?なにも。20世紀としての映画を考えようとしても、21世紀からはその映画も忘却されて存在しない。思考を、思考における白紙の本のようなスクリーンに、死に装束に、一行づつ書き綴るだけだ...


もう明治維新が作った日本なんか無くなってもいいじゃないですか。荻生徂徠はわれわれは「東夷」だと言っていますし、今年から東夷の国になりましょう。「東夷」とは何でしょうか?『仁斎論語塾』(子安宣邦氏)で江戸時代の読みで『朱子語類』を読んでいます。朱子のコスモスロジーでは、天から物(人と物)に理が同一的平等に与えられていました。でも経験的に言って人間同士の間、人間と動物の間に相違があるようです。何故でしょうか?そこで朱子は説明します。理との関係において、人間は完全だが、(人間に似ている故に動物のなかで最も)霊性が高い猿は不完全です。朱子の知において‬透明性が記号を貫くのですが、だけれどまったく不透明な外部のものがいる、それが夷狄なんです。東西南北に夷狄がいますが、当時中国にとっては北夷が問題でした。面白いのは、孔子は道徳が廃れたとき東の海を筏で渡ろうと考えていたのですね、つまり「東夷」の国への亡命。いま風にいうと、「東夷」は中心に絡みとられないという意味で外部の思考です。幕末の尊皇攘夷は日本が中国でシナが夷狄だと言っていましたが、これが底無し互酬的ヘイトスピーチナショナリズムの原因です。むしろわれわれは地球とアジアを拠り所にする「東夷」の市民であることを選択します


‪推敲中

ゴダール『中国女』(La Chinoise 1967)に文化大革命の政治的災害はない。ブルジョワ学生のマオイズムの部屋で起きる偶像破壊は別の偶像を呼び出すのではないかという危ない感じがする。ブルジョワから生まれたイデオロギーを拒否した後に、「明確な映像に曖昧な言葉をぶつけよ」というような美学的原理の包摂の復活がくる‬ように


 ‪ゴダールの天と地の間を語る形而上学においては、天から平等に物にロゴスが与えられる。「映像」も「言葉」もロゴスをもっている。だけれど「明確な映像と曖昧な言葉」(『中国女』1967)といわれる。ここでは映像そのものと言葉そのものとの関係について考えられているとしよう。すると、映像(明確な秩序)は完全な同一性で、言葉(曖昧な秩序)が不完全な同一性とされているのはどうしてなのか?平等ではないではないか。同一性と相違性のフレームにおさまらない、意味作用をもった不透明な外部の思考が存在すると考えようとしているからではないか?‬それは映画と呼ばれる...

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 投射は二つある。<自然から人への投射>と<人から自然への投射>である。前者は国家的祭祀の方向をもち、後者は帝国のコスモスポリタンの方向をもつといえるのではないか。

「公式的な,中国の,国家的祭祀は,世界のいたるところと同じく,ただ共同体の関心にのみ奉仕し,祖先の祭祀は氏族の関心に奉仕した。純 粋に個人的な関心は,両種の祭祀に無関係であった。偉大な自然精霊を ますます非人格化し,これらの精霊の祭祀を官職的儀式に還元し, この 儀式のなかのあらゆる感動的要素を抜き取り,ついにはこの儀式をたん なる社会的な因襲と同一視するやり方は,―ーすべてこれらは高貴な教 育を受けた知識人階層のしわざであったが一民衆の典型的な宗教的要求を全く無視していた。」(マックスウエーバ『儒教道教』木全徳雄訳, 1971年,創文社)


‪ 常のこととして、和辻は饒舌に語るが、西田は沈黙する。というか、和辻について語ることができるが、西田を読むと語れなくなるのはどうしてなのか?和辻が物語る「日本の神々」の限定せられないあり方は、西田幾多郎からの影響もあるのだろうか?「私が無の場所というのは、一般概念として限定せられないという意味に過ぎない」と西田は語っていた。和辻は「日本の神々」の特徴に「限定せられない」あり方を読み出すが、だけれど彼がみとめる神々における大御心の連続性は「限定される」ものである。この意味において、「現人神」である「天皇」は「無の場所」であるとはいえないとおもう。ところで一般概念として限定せられないとはどういうことなのか?宣長からは、中国の神(シン)の相違としての神(カミ)の多元主義の概念が現れる。これは「無の場所」と西田が呼ぶものではない。一般概念の限定があるようにみえる。また同様に、西欧の一神教的神の相違として再構成された和辻の「日本の神々」も「無の場所」ではないようだ。連続的な<一>かつ<多>における一般概念の限定があると言わざるをえない。結局西田がいう一般概念として限定せられないとは、同一性と相違性の見方を棄てるものなのか?すると、「無の場所」といわれるものは、無からの自己差異化なのだろうか? わたしは西田についてまだよくわかっていない。しかし和辻からみえてきそうなものがある。何にしても、無からの自己差異化を読む思想史が意味をもつためには、それは天皇ファシズムをささえた国家祭祀を止めた無からの出発をかならず考えたものでなければならないだろうとおもう‬


記憶の中では、茂った所で姿が見えなかった、飼育係が抱かせてくれた、動かない、地球のリズム。オーストラリアはショックだろう。コアラこそ自分(東夷)にとっての外部である


<戦争に勝てば問題は解決する。文学は負けない>(昭和日本ロマン主義)+<大衆がやれ>(吉本隆明)+<戦争を終わらせるために戦争せよ>(三島由紀夫)= 0


何をしているか、何を言っているか。そして二つのあいだ、内容と表現のあいだにはまだ地層には見えなかった新しい関係が確立される。つまり言表または表現は非身体的変形を表わし、この非身体的変形は、このようなもの(特性)として、身体または内容に帰属するのである。――D=G(下)p305


論理に「国語」、文学に「国語」をどうしてもくっつけなくてはならないのでしょうか、嗚呼、「国語」というイデオロギーの呪縛よ



どうして学者が関心をもたないのか?近代のわれわれからするとただのお飾りの本じゃないとなるわけだね。しかしなぜ飾るのかを考えてみよう。近代のテクストは言語が透明になっている(解釈し尽くすとき言語は透明になる)。それとは違って、『ケルトの書』はルネッサンスの本みたいに、言語が透明でなかったからこそ飾ることができるんだね。ジョイスは『ケルトの書』を見ながら『フィネガンズウェイク』を書いたらしい(ホントか?)。『ケルトの書』を言語の存在を象徴している本と考えていたにちがいないんだ。アイルランドのときは『ケルトの書』と『フィネガンズウェイク』を以って言語の存在の象徴のことを考えた。東京では17世紀が読んだ『朱子語類』が新しい読み方を構成しようとした四書の漢文から言語の存在を考えるようになったのだけれど


‪ロンドン時代にバービカンセンター で’future city’という建築の歴史を考える展示を見学した。建築は、デリダ脱構築によって、壁も階段も無ければ床も屋根も無いないものが成り立ってくる(写真左)。Daniel Libeskind (写真右)の場合は、言語の存在の象徴であるジョイスのテクストを貼り付けた建築である。バベルの塔の再建ではないか?‬

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「フランス現代思想」はアジアのなかの解体日本思想史が喋るのをきいているとフーコを思い出したらしいが、わたしは逆だ。フーコが喋るとアジアの解体日本思想史の像が来ていた


東京タワーを眺める。その下で、350年前、荻生徂徠は落語で語られるようには民への思いはなく、国家しか関心がない。徂徠は思想史を語り出した。聖人による命名制作論の成立とともに武士のアイデンティティが確立していくだろう。武士の活動家的知識人としてのあり方は幕末と明治維新を待たねばならないのである


日本知識人の他の国にない『資本論』への拘りは日本ファシズムかもしれない。「自由に読み、語れる言語環境」(内田樹)も天皇のおかげとは言わないでね、愛国心が読む『資本論』?


MEMO

今週のお題「二十歳」f:id:owlcato:20200105125701j:plain

Noh theatre ‪

「さては昔の道しるべせし、人は朽木の柳の精」‬

‪「御法(みのり)の教へなかりせば、非情無心の草木の䑓に至る事あらじ」‬

‪ー『遊行柳』‬


初夢は、詩を語る誰かの言葉を心の中で解釈しようとしているのに、途中から口をパクパクしているだけになって音が届いてこないのでプレッシャーを感じた。余計なことだが、『古事記』が稗田阿礼について「目に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳にふるれば心にしるしき」と書いているのは、何を言っているのかはっきりとはわからない。ソシュールが示すような近代の音声主義のことをいっているわけではない。仮に稗田阿礼太安万侶における関係は下の図のようなAとBだったと考えるのは、もし冗談でなければ、ラディカルモダニズムの類いか近代主義のドグマかもしれないとおもうのだけれど



ピカソ(1902)はどのようにグレコの作品(1607-1614)を解釈したか?これは、グレコピカソをスケッチした私の勝手な解釈の解釈によることなのだが、ピカソグレコにおける類似性のイメージを同一性と差異性のイメージにかえているようにみえる。グレコは外部を示している(稲妻が闇を裂いている世界が世界自身に巻かれている、と同時に、世界は巻き返す。)。ピカソにおいては二人(私と私のなかの汝?)が共通のもの(彼らが立っている場所)をもっている。抱擁されているのは、私と私の中の汝の下で、微かに呟き続ける即自的に影のように私につきまとう身体ー何処にも属するがどこでも部分になることのないーかもしれない。

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イギリスでは、啓蒙主義は議会制の拡充をもとめていく比較的穏健な政治運動として展開したといわれる。『ガリヴァー旅行記』のジョナサン・スウィフト(1667ー1745)はアイルランドからこのイギリス啓蒙主義を痛烈に批判した。1976年から発行されていたアイルランドの10ポンド紙幣に肖像が使用されていた

スウィフトは彼自身の墓碑銘を書き、それをウィリアム・バトラー・イェーツラテン語から翻訳した。

Hic depositum est corpus
JONATHAN SWIFT S.T.D.
Huyus Ecclesiae Cathedralis
Decani
Ubi saeva indignatio
Ulterius
Cor lacerare nequit
Abi Viator
Et imitare, si poteris
Strenuum pro virili
Libertatis Vindicatorem

イェーツの翻訳

Swift has sailed into his rest.
Savage indignation there
cannot lacerate his breast.
Imitate him if you can,
world-besotted traveller.
He served human liberty.

日本語訳

スウィフトは休息に入った。
そこでは激しい憤怒に
胸を切り裂かれることもない。
もしできることなら彼を真似てくれ、
世界に夢中になっている旅人よ、
人間の自由のために尽したこの男を。

イギリスでは、啓蒙主義は議会制の拡充をもとめていく比較的穏健な政治運動として展開したといわれる。『ガリヴァー旅行記』のジョナサン・スウィフト(1667ー1745)はアイルランドからこのイギリス啓蒙主義を痛烈に批判した。1976年から発行されていたアイルランドの10ポンド紙幣に肖像が使用されていた


FW7ページから


本がウインク😉してきた?FWを開いてジョナサン・スウィフト(1667ー1745)について調べていたら、「フクロウの球体世界に見えてくる若い槍持ち..」ではじまる何度も見ていた文だが、HCEと伸びすぎたバベルの塔が類似していると物語っていることに気がついた... (ここでは認識が重要ではなく言語が大切なのである)。1976年から発行されていたアイルランドの10ポンド紙幣に肖像が使用されていた、『ガリヴァー旅行記』のスウィフトはイギリス啓蒙主義を痛烈に批判したのであるが、FWはイタリア(エーコ)からみると普遍言語の探究なのだけれど、アイルランド(カイバード)からみるとデリダ的普遍合理(!)がもたらす迷路である。

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‪「記号の成立は、分析と不可分のものである。分析なしに記号が出現しない以上、記号は分析の結果である。同時にまた、記号は、ひとたび規定され分離されると新たな印象にも適用される以上、分析の手段でもあり、その場合には新たな印象にたいしていわば格子の役割を演じるのだ。精神が分析するから記号があらわれる。精神が分析をおこなうがゆえに、分析は際限なくつづく。」(記号の表象作用 フーコ『言葉と物』)‬

‪• このフーコの文は『鬼神論』における「精神」の意味を問うた子安氏の講座のおかげで何とか読めるようになったかもしれない。ここからゴダールがやったことも考えられるようになったのは、ゴダールにおいて成立している映画における形而上学的視点によることのようにおもう。撮影のためのクローズアップと編集のためのモンタージュを分析したうえで記号としたのである。そうして『映画史』においては精神が分析するから際限なく分析がつづく。ここで敢えてゴダールをフーコに関連づけると、差異が差異化されていく‬運動として映画のあり方が再構成されていくときゴダールによってそこで問われているのは、近代における(古典主義時代における)記号の表象作用ではなくて、外部の思考が外部の思考としてあるポストモダンの思考する記号の作用である...

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罪刑法定主義推定無罪原則という近代における基本中の基本もわからないのかという非難を利用して、近代をわからないふりをしてどんどん権利のない社会にしてしまう。この国はそのぐらい怖いところにきているかもしれないよ



ネオリベ的似非ポストモダンは多様性にヒエラルキーを与えかねない多神教の様相をもつ。一神教は平等を構成して近代国家を創ったが、一神教的近代の永久革命は多様性を否定する。わたしの理解では、和辻哲郎一神教多神教の問題を乗り越えたつもりでも、「祀る神が祀られる神である」の天皇を物語る言説は多様性も平等性も破壊し尽くしたようにおもわれる昭和ファシズムの経験をまったく反省していない。『日本倫理思想史』の和辻がいう最高の祭祀者としての天皇のもとでは、「倫理」ー個人にして同時に社会であるところの人間の存在の理ーが成り立たないことは明らかではないか。明日の講座で考えてみたい


FILM 曖昧な本質 

a region of vague and material essences ‪

死にきったときから、絵と詩がはじまる。死が終わりつつあると、それは生きる間が始まるということで、絵を描き詩を書くことが終わろうとしている。

‪「生きている間は人間で、死んでから芸術家たるべきだ。」コクトー『雄鳥とアルルカン』‬



それは絶対者をノエーマ的に把捉した意味での神ではなく、ノエーシス的な絶対者がおのれを現わしてくる特殊な通路としての神なのである(和辻哲郎)


正しく理解するはit sounds good だが、ファシズムにすら純粋なファシズムにこだわる態度(大抵ナチスしか念頭にない)は、天皇ファシズムを逃してしまう危険がある


ノエーシス的絶対者が自己顕現する特殊な通路としての神は尊いのは、超自然的超人間的だからでなく、媒介者であるからだという(和辻哲郎)。よろしい、そうだとしよう。どの人も媒介する物であり得る。そして沢山の通路が存在する。国家に独占されるひとつの通路(伊勢靖国)が特別のものである理由がないではないか


古代天皇と中世天皇と近世天皇はそれぞれ違うのだから、戦前天皇と現在の天皇においても違いがあるはずだといえるだろうか。だが古代天皇と中世天皇と近世天皇はそれぞれ違うのは自明なことだ。問題は天皇の構造がなくならないことにあると子安氏は言う。和辻は戦前に日本の神々のあり方を分析して天皇の構造をはじめて明らかにした。媒介者として「祀る神は祀られる神である」の祀る戦前天皇と、(象徴性を過剰に逸脱して) 象徴的行為をなす大御心を以て媒介する祈る戦後天皇の間に違いはないのである。おそろしいことではないか。否、おそろしいこともわからないままに、祈る、祀る天皇における「私」の否定を国民が思い込んでしまって結果として国民の主権が危機にある。と、われわれはまったく天皇の構造を脱構築していないことに気がついたのである。



朱子は同一的平等性があるが多様性の方向がない。古学は多様性があるが平等性の方向を欠く。二つの間に線を引くことー近代のノエーシス的絶対者の自己顕現のブラックホールを避けて


ゴダールの映画の捉え方に、沢山の部屋に繋がっている開かれた廊下として考えてみようというのがある。部屋が偉いのではない。部屋と部屋を媒介する廊下が偉いのである。これと同様に、沢山の通路のあり方を考えることができるのではないか。国家におけるただひとつの通路が特異ではない。ノエーシス的絶対者が自己顕現する特殊な通路を差異化していく天(宇宙)における複数の通路を考えてみたいf:id:owlcato:20200112153337j:plain



学問と文化は明治維新から50年後にピークに達した(1930年代)。戦後の人文科学。近代という虚構を隠蔽できなくなったその50年後の1980年代に近代知の解体が始まった


外国では色んな人から話を聞いた。目的がないほうが続く。東京でもただ話を聞く。「大学」の知から何の価値もないとみられても、もしかしたら市民としては失格ではない気がしてきた


seq1 人称や主体、あるいは事物や実体の個体化とは違った個体化の様態がある。われわれはこれを指して<此性>hecceiteと呼ぶことにする。
―Mille Plateau (中)p208


書紀をよむには、大に心得あり、文のまゝに解しては、いたく古への意にたがふこと有て、かならず漢意に落入べし、次に古語拾遺、やゝ後の物にはあれども、二典のたすけとなる事ども多し、早くよむべし(うひ山ぶみ

和辻哲郎は近代日本の学問と文化のピーク(1930年代)の人。同時代に三木清九鬼周造がいる。ヨーロッパへ行くときはすでにヨーロッパと対等だった。ヨーロッパから戻って期待されたのは、彼の世界文化の歴史をヴィジュアルに(視覚的に読ませる)編集する力である。ここで、倫理学における岡倉天心の継承、和辻監督による映画『倫理』を読んでみようではないか。問題は、和辻のマルクス主義から始まったラディカルさは最後まで貫かれたか?否、和辻は映画の冒頭をカットしてしまう。映画の最後に、復古主義の恐るべき偶像再興を呈示する。そうしてラディカルモダニズム津田左右吉がインチキと考えた「王政復古」(明治維新)の近代の虚構を見事に隠蔽してしまったのである。国民主権なき「祀る神は祀られる神」の誕生を、天皇を利用する歴史修正主義の長期政権の時代に考えることほど幸せなこともない...

こんな世の中にした壇上のお偉方さんに自慢話させる成人式なんかで税金を無駄にするよりも、20歳全員に無料でパスポートを支給してあげてください


二十歳の皆さん、おめでとうございます。国家祭祀を止めた歴史を考える頭をもたない人間の一生をあらわした鶏の丸焼き、<ひとり立ち>を描いてみました。肉体に美しい野菜が刺してあります。テレビで高笑いしている右翼大臣に喰われる最後に、乾杯!

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市民的不服従の曖昧な観念が、台湾と香港がもっているネガテイヴな社会に対する明確なイメージにともなわれる。開発が進んでも政治的多元主義がない。精神的自由を編集できない

彼らは訪ねてもいいと思うその国がマイノリティーをどうあつかっているのかがやはり気になるー自分がどうあつかわれるのかを知りたいから。始まりはそこ。われわれもそうなんだから


ポスト構造主義の知は近代批判として知られる脱普遍である。議論はあるが、デモクラシーの政治多元主義に理解を示す。ポストコロニアリズムの知は、立場の多様性があるが、グローバル資本主義を推進しているポストモダンの「普遍」を批判することになった。ポスト構造主義とポストコロニアリズムから影響を受けた、マルチチュードをいう帝国理論のマルクス主義アメリカ帝国を批判する。アジアから、世界資本主義の分割である帝国(米中露拡大EU)を批判する言説を展開する注目すべき思想も現れたが、ヘーゲル的というか現状肯定的で、アジアにおける政治多元主義を十分に重視しているようにはみえない。ポスト構造主義、ポストコロニアリズム、帝国理論の知は世界の全体をみていた。間違いがあったらそれを議論した。しかし「天安門事件」から事件性を消去している日本知識人の言論に影響力をもった一部は世界の半分しかみていない。その意味で彼らの視野は外部の思考を伴わず構造主義的である。アジアにおける独裁政権を擁護していているのではないかとみられても仕方ないのである。‬その中に天皇に共感をもっている論客が多く目立つのは偶然だろうか?

現在石井さんたちのお仕事と研究が多くの人々に伝わっていますこと、喜んでおります。まだ本を読んでおりませんが、わたしは市民社会の近代という見方で具体的歴史を整理なさった石井さんの投稿されたコメントを読んで成る程とその通りだと思いました。ここでは、かならずしもわたしが理解していない「事件」とは何かということをできるだけ明らかにしてみようとしました。それはやはり市民が介入する思想史の特異点というかそういうものではないかと考えています。事実をどう解釈するかという支配的な物の見方とその中からそれとは異なるどのような見方が出てくるのかがわたしが考えたい事柄なのです。こういうことを最初に書くべきでした。残念なことに、わたしを「彼ら」に近いと感じたのは、わたしが市民社会の近代という見方に全面的に立っていないからかもしれません。現在進行形の歴史ですが、不十分ながらわたしの観察では、(わたしをわれわれにいれてもらえればの話ですが)われわれと彼らとは同じものをみているのに、(もしそうだとしたら)、市民の立場に立たないゆえに彼らが依存してきた近代の構造主義的理解のままでは事件をとらえることができないのではないかと考えています(事実を意味づけられないというか)。市民から考えるわたしの「方法」の努力が足りないことを反省しつつ、「事件」的に、方法的に、市民がそこに生きる具体的歴史の事実を十分に考えることが思想史を考えるうえで必要だとおもっています。

‪「わたしのエクリチュール」というのは、母国語の中で外国人になっているような...何だろうな。「母は流れいくエクリチュールとなった」とかいう一文があるのですが、これは何だろうかとおもって、30歳ちょっとぐらいのときでしたか、フランス語は超あやしい独学一ですから、一か月かけて本を書きうつして訳文を考えてみる必要があったのですが、結局わからないままだったことを思い出しています。バベルの災厄以降、言語は崩壊したのですが、人間の顔が崩壊したように、だけれど、エクリチュールを傍にたえずおいておかなければ自分のものとして存在させることができないというかーあれほど高くて遠いものが存在することなんて不可能でしょうが。『言葉と物』を30代で訳した渡辺一民なんかは晩年、驚くべきことに、「フランス語は日本語だ」と言っていて、大丈夫だろうか?と本当に啞然としたときがありましたが、まあレベルが違うでしょうが、やはり大先生も森や田んぼのなかで彷徨っていたエクリチュールの片割れだったのかなとやっと気がつきました。(<ー意味不明)

フッサールの「曖昧な本質」は、意識のあり方のように、曖昧だが厳密に規定されているものであるという。ドゥルーズの<母国語のなかで外国人に成れ>はこの場合の「曖昧な本質」なのか。母国語というのは自立的一言語の近代。12世紀『朱子語類』は母国語の部分を為さぬが書き下された文は母国語に属するとかんがえられようか?ならばそこは母国語のなかの外国人の領域(外部)ではないだろうか...結局漢字仮名の書き下し文は日本語の基礎を作ったことをかんがえると、母国語が母国語であるためには不可避の他者をもたなければならないのである

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いま考えていることをやはりAlain Badiouが書いていた。分析哲学からは数学ではないと非難されることがあるが、別に構わない。Badiouも言っている、自分のは詩なんだと。外部の思考としての(絶対)差異(同一性と相違性の枠組みを超える空集合の意味)と固有名の問題

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アジアの詩

此の物性は本質なき流れいくものを本質なきままに分節化するあり方で、固有名が無から自己差異化するのは、固有名における此の物性による。アジアは即ち無。無は国家祭祀の集合をもたぬ。アジアは即ち固有名。固有名として、中国とヨーロッパとの同一性と相違性に還元する物の見方を棄てる危険をおかす



die Gründung‬
‪der Grundervater‬
‪der einzige Sohn‬
‪(Les enfants terribles)‬
‪und es muß einfach so sein‬
‪das diese Geschichte hier l'assiette
‬ ‪(After Godard, all the histories)‬

推敲中
LES MOTS ET LES CHOSES
‪フーコ『言葉と物』のどの章が一番大事ですかときいたとき渡辺一民氏は「最初と最後」が大切だと語ってくれた。その「最初」は「序文」のことだったのだけれど、わたしは「第一章 侍女たち」のことだと長い間勘違いしていたことにひどく呆れた。「あんなものは訳せないことはないんだ。」と。あのときは何も言えないままに黙っているしかなかったが、今なら少し何かを言えた。「第一章 侍女たち」は絵を解説している文ではない。画家をあたかも文字で描く画家の如くロゴスとしてとらえている変な文なのだ。ロゴスはトータルに自らのあり方を説明するときどうしても言葉を必要とする。これがわからないのである。‬ ‪「画家は絵から心もちさがったところにいる。モデルに一瞥をあたえているところだ。あるいは、仕上げの筆を加えようとしているのかもしれない。だがもしかすると、最初のひと筆がまだおろされていないのかもしれない。画筆をもつ腕は、パレットの方向、左にまげられている。いま彼は、画布と絵とのあいだで身動きもしない。その馴れた手は視線み吊られ、視線は逆に、静止した動作にささえられている。画筆の鋭い先はとはがねのような視線とのあいだでは、光景がその立体的空間を解き放とうとしている。」(フーコ『言葉と物』第一章 侍女たち、渡辺一民訳)‬

推敲中
日本人は『朱子語類』を中国研究者による訳文を読むが、江戸時代の書き下し文で読もうとはしないという。ところが講座に参加なさっている中国人留学生から感想を伺うと、書き下し文が面白いという。この感想が面白かった。このとき、日本近代というのは、近世が行った朱子の書き下し文を消した白紙の本で成り立っているようなものなのかと考えてみた。近代は本を書くゲームに喩えると、それは空隙のスペースがひとつある規則によって構造の多様性が成り立つゲームを発明したわけだけれど、しかし明治維新から150年、近代のゲームは失敗だったことはもうわかっている。漢字の前近代を消し去ってしまった白紙の本に書かれていく多様性は本当にそれほど多様なのかということを考えざるを得ない。この点について子安氏によると、荻生徂徠以降、外国語として中国語をよむことが課題となり、近代において書き下し文で考えられた思想が忘却されていくことになったというのである。横井小楠をはじめ、明治維新を批判した朱子学的批判も含めて


MEMO

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Chaosmos of Alle 

万物のカオス(コス)モス


ーFinnegans wake  James Joyce



‪映画というのは、方法としての神話だ。フレームは操作による(世界の)変形だ。フレームのなかに世界をとらえようとすると、世界は全体であると同時に枠づけられた世界は部分である。全体は全体である。全体を部分にすることができないのだから、これはフレームにおける矛盾だ。(スクリーンへの投射はこの矛盾を隠蔽してしまう。) そこでレヴィストロースが言うように、フレームに起きる矛盾に仮面を被せてみよう。何がみえてくるか。カオスがコスモスに先行していたのだ。ロゴスはギリギリ要請されるとしても、統一などできやしない。フレームから考える映画の方法としての神話的思考は、デリダ脱構築論、ドゥルーズリゾーム論‬とおなじ物の見方をなすとおもう


ダブリン時代のピンタの映画の特集を10日間やっていたときの話ですが、インテリがユダヤ人問題を考えるという映画だったので私は全部みたのですが、映画としては耐えられないほどつまらないものでした。わたしはいつも映画における構図を考えるので大抵は同じ席に座るのですが、毎日ガラガラの映画館のなかで毎日自分の前に同じひとが座っていました。体格がよく帽子をとらず行儀悪く前の席に足をのせて映画を最後まで見ています。ある日、観客は、私とその彼だけでした。とうとうこの日が来ました。多分浮浪者だろうこの男に、「あなた、こんな映画、一体何が面白いの?」と顔をのぞいてきく日がきました。だけどそのときは帽子をとっていて、頭に包帯を巻いていて、何か聞く気がなくなりました。思い出の中では、この男からみると毎日同じ背後の席に座っているこちらのことも怪しいと感じたのだろうけれど、彼はアイリッシュにしては外国人慣れしている。それから二人は闇のなかに...あとで、そのときは彼がダブリンに来ていて映画館の男がピンタその人だったことを知りました。ピンタはノーベル賞受賞がきまったことをこのダブリン滞在中に知ったようです。


Être de gauche c’est d’abord penser le monde, puis son pays, puis ses proches, puis soi ; être de droite c’est l’inverse.  Gilles Deleuze


恵比寿の「去年マリエンバートで 」L'Année dernière à Marienbad


‪「去年マリエンバートで 」とは何か?それは、自己のまわりから外部を考えることができるかという問いかけである。われわれはフランス風の庭園から彫刻と共に立って建築を見る。その中では、長い廊下に沢山の類似しあった部屋があるのに、もはや記号はものを引きよせ結びつける力が失われていることを知る。記号は認識でなければならなくなっている。過去における類似物と相似の意味世界は認識にとって周縁となってしまった。それにたいして、映画は、記号を、ラディカルに記号が記号として成り立たたない認識の体制から脱出させた。そうして今度は記号が外部から自分のまわりを考えようにできるために。外部からなにが自己のまわりに見えてくるか?ここから、不可避の他者が立つ外部における卑近から、「去年マリエンバートで 」とは何かを問うことの意味がでてくる‬


トリエステまでいくと南ヨーロッパとトルコが感じられたものだ。ブルガリアの女性が、スペインから排除された人々をオスマン帝国が助けたと喋っていたのを思い出す。ヨーロッパのイスラムとの関係についてこれを一体的にすることは難しいのは何故か?問題は、スペイン行った「ホロコースト」の16世紀に遡る。イスラムは自分たちを排除することによって成立した「近代」を全面的に受け入れることは不可能なのだ。‬この排除された人々ースペインのイスラム人ーの歴史を忘れてしまっては、新しい普遍主義を再構成していくことはできないのじゃないかね


アルチュセールがやったように、マルクス剰余価値の理論を国語という思想に適用できないか?日本語は一国的自立言語であると教えられる。それは記号であるかぎりにおいて内部に普遍的な表象能力をもたなければならない。透明な自己自身のために整えられているとする音声主義の言説の極端において、漢字には豊かな文化を実現してくれる表象能力がないのである。しかしほんとうにそうか?この思想の問題は、漢字圏の言語から、「多様的漢字受容世界」(子安氏)から、意味作用の配置を盗んでいる点にある。一国民主主義の思想と共に、ヘイトスピーチナショナリズムを生み出している。


「ラジオになること」、「エレクトロニクスになること」、「分子的なものになること」といった万人の生成変化に武器を提供するものなのだ。これらすべての決定不可能な命題を通過しない闘争は存在しない。すべての闘争は、公理系による接合に対して、革命的な連結を構築するのである。―D=G (下)p245



‪かつてオーストリア帝国に属していた、ハプスブルク家別荘があるトリエステに、カフカの城みたいな城跡がある。ジョイストリエステにいた。ダブリンから行くときは、ドウルーズのマイナー文学の意味を考えた。動物に成ること、イデッシュ語を以て、ゲーテ普遍主義を解体する、周辺の普遍主義を政治的に書くマイナー文学の意味。脱出ならば、それと同様に、他者('学者さん')に成ること、17世紀の漢文読みを以て、徳川ジャパンの普遍主義を書くという、解体朱子学の古学にもあった、そう考えることができないだろうか。



もう人間とはおさらばだ、

妖精と共同生活しよう

とりあえず現在もっているものと

できそうなことをクレヨンで書き出してみた...

国際便で何ヶ国も彷徨う19箱の本たち、

マイナーなものづくり、地下茎のように

共通の部分が腐ったガラクタ学問、

そして思想史的遠足


The Logic of the Place of Nothingness and the Religious worldview (1945)

ーKitaro Nishida (trans. David A.Dilworth)


Not everyone is an artist. But to some extent at least everyone can appriciate art. Nor is everyone a theologician, and rare is the man who experiences a religious conversion. To some degree, however, any person can understand religion. There is probably no one who does not feel a strong resonance in the depths of his heart when he reads the fervent confessions of belief of the great religious figures. Moreover, upon falling into condition of extreme unhappiness, there is probably no one who does not feel some religious sentiment welling up from the depths of his own soul. Religion is an event of the soul. Philosopher cannot fabricate religion from their own thought system. They must explain this event of the soul. To do so、they must experience religious in themselves to some degree



‪ダブリン時代にハロルド・ピンタの映画の特集を10日間やっていたときの話ですが、インテリがユダヤ人問題を考えるという映画だったので私は毎日映画館に通って(IFC)、全部みました。問題提起がありました。ただ正直、映画としては耐えられないほどつまらないものでした。わたしはいつも映画における構図を考えるので大抵は同じ席に座るのですが、毎日ガラガラの映画館のなかで毎日自分の前に同じひとが座っていました。体格がよく帽子をとらず行儀悪く前の席に足をのせて映画を最後まで見ています。ある日、観客は、私とその彼だけ。とうとうこの日が来ました。多分浮浪者だろうこの男に、「あなた、こんな映画、一体何が面白いの?」と顔をのぞいてきく日がきたのです。だけどそのときは帽子をとっていて、頭に包帯を巻いていて、何か聞く気がなくなりました。思い出の中では、この男からみると毎日同じ背後の席に座っているわたしのことも怪しいと感じたのだろうけれど、彼はアイリッシュにしては外国人慣れしている。アイリッシュではない。沈黙。それから二人は闇のなかに...。あとで、映画館の男がピンタその人だったことを知りました。ピンタはノーベル賞受賞がきまったことをこのダブリン滞在中に知ったようです。‬彼の『ハッピーバースデー』をロンドンで観ました。闇のなかで誰が何を喋っているかわからない場面があります。パッと舞台が明るくなると、死体があります。と、この芝居の闇によって、あのときの闇は何だったろうのかということを考えていました。わからないままですが、「黒板」のようなものではなかったでしょうか?誰が何を喋っているかわからない外の暗闇に書き続けるしかないわけで、「意味」がでてくるまで...‬


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昨年から脚を痛めてもう遠くにいけないかも...痛いと知らない暗いところに歩くのが大変とおもってしまうのだね。わたしはこの芝居を知らないのだけれど、面白そう。「指令」「察知」「不安」かあ、なるほどね、ハロルド・ピンタの世界かもね。中々字がうまい!「外部」もあるとおもうよ。それから「意味」。ところで、「指令」「察知」「不安」と「殺し屋」との間に共通なものはなに?

わたしも、手も足も出ずという感じで彼の『ハッピーバースデー』をロンドンで観ました。今回投稿された写真を見て、「指令」「察知」「不安」と「殺し屋」に共通しているとみえたものは...「黒板」でした。誰が何を喋っているかわからない外の暗闇に書くしかないわけで、意味がでてくるまでね


Becoming walk of Duchamp's bachelor-machine, becoming girl and plant, becoming process itself, becoming space of...

ー D=G


アレンジメントは内容と表現の区別に従属しているかぎりでは、まだ地層に属している。(…)しかし内容-表現の区別が新しい形象をおびているかぎり、厳密な意味ではすでに、地層とは別の要素にわれわれは直面しているのだ。――(下)p306


彼(三木清)の言う修辞学というのは、つまり社会を分析するんじゃなくて、社会をいかに動かすか、いかに変えるか、というような手だてとしての学です。そういう修辞学がわれわれには欠けているということを三木氏は力説しているんです。

小田実『対話篇(中村真一郎との対談)』1973


「アジアになること」も、「分子的なものになること」と同様に、万人の生成変化に武器を提供するのだろうか?『漢字論』のあとに、だれが良質なアジア主義の修辞学を書くのか?


ヤジは自由であるが、やじってきた相手に「ヤジるな!」とただすときは先ずは自分をたださなくてはね。安倍の問題は、隣国を批判するときはまずは自分をたださなくてはいけないのに


‪昨日は高田馬場の喫茶店で象徴性をめぐってワイワイガヤガヤと話し合う時間をもった。これは、国民に主権があるということは国会に議論があることであるはずなのにー選挙制度によらずー、国民の間で危機に感じられていない危機を考える視点を与えてくれた。今朝思い出しながら不十分ながらも私なりに理解した仕方で整理してみた。あるものの見方が一度確立されるとそのなかでそれとは異なる見方をするのが困難となるこの意味で、戦前において確立した国家祭祀と天皇機関説は両立しないように、平成から確立した祈る天皇の象徴性がつくりだす統合と国民主権は両立することがないのである。象徴性の代償としてこれからわれわれはなにを犠牲にしなければならないのか?これは民主主義の問題である。これに関してきちんと思想史的に子安氏が12日に大阪で、14日東京でお話しするので、そこで考えを深めたいとおもう‬


The idea that free-trade imperial states use informal controls to secure their expanding economic influence has attracted Marxists trying to avoid the problems of earlier Marxist interpretations of capitalism. The approach is most often applied to American policies. (Wiki)


Reviewing the debate from the end of the 20th century, historian Martin Lynn argues that Gallagher and Robinson exaggerated the impact. He says that Britain achieved its goal of increasing its economic interests in many areas, "but the broader goal of 'regenerating' societies and thereby creating regions tied as 'tributaries' to British economic interests was not attained." The reasons were:


the aim to reshape the world through free trade and its extension overseas owed more to the misplaced optimism of British policy-makers and their partial views of the world than to an understanding of the realities of the mid-19th century globe.... the volumes of trade and investment...the British were able to generate remained limited....Local economies and local regimes proved adept at restricting the reach of British trade and investment. Local impediments to foreign inroads, the inhabitants' low purchasing power, the resilience of local manufacturing, and the capabilities of local entrepreneurs meant that these areas effectively resisted British economic penetration. (Wiki)


国事行為ならば儀式である。しかしその逆は真ならず。それは国事行為でなければ、無限定に国民を統合する象徴性をつくり出して国民主権を破壊する危険があると憲法は抗議している




seq2 事物(もの)のあいだとは、相互に一つのものからもう一つのものに及ぶ定位可能な関係を指すのではなく、一つともう一つを両方ともまきこんでいく垂直的方向、横断的運動を指すのだ。始めも終わりもなく、両岸を侵食し、真ん中で速度を増す流れなのだ。p.61



‪Kleist, Lenz ou Büchner ont une autre manière de voyager comme de se mouvoir, partir au milieu, par le milieu, entrer et sortir, non pas commencer ni finir. ... C’est que le milieu n’est pas du tout une moyenne, c’est au contraire l’endroit où les chose prennent de la vitesse. Entre choses ne désigne pas une relation localisable qui va de l’une à l’autre et réciproquement, mais une direction perpendiculaire, un mouvement transversal qui les emporte l’une et l’autre, ruisseau sans début ni fin, qui ronge ses deux rives et prend de la vitesse au milieu.‬


D=G





土曜日の子安氏の講座で、尾崎秀実の、ひとつともうひとつの両方を突き動かす為に先ず日本が自らを変革する横断的運動、世界革命としてのアジア主義の透明な意味を考える。津田左右吉におけるラデイカモダニズムは「シナ」を消去するが、尾崎のアジア主義の言説は中国を書いたのだ。だが尾崎の知的誠実さは、明治維新の近代が極端へ行く昭和十年代にとって不透明である


統合の象徴性は憲法の分裂する力を奪ってしまう。「立場を超えて皇室に共感」(大澤真幸)という。No!それは意味があるのかと問う分裂が人間であるかぎりにおいて必要である


明仁天皇が実現していったのは「解釈改憲」的象徴天皇像である。」「そして今、新たな象徴天皇の即位に当たって歓呼する国民は、新たな「ノモス的主権者」たる象徴天皇に真の主権者たる自負も自覚も譲り渡してしまったことを知らないのである。」

(子安宣邦氏 天皇の「象徴的行為」について)


ナルちゃん、ピンチ!君のパパの象徴的行為(清宮説)は解釈改憲的で、意図せずに戦前との連続性もあるかもよ。この天皇のあり方を継承してはならない。賢いマサコさんが教えてやれ


それゆえアレンジメントにおいては、これらの表面よりもなお深い何か、前提しあう二つの形式、つまり表現の形式あるいは記号の体制(記号的体系)と、内容の形式あるいは身体の体制(物理的体系)とを同時に考慮するような何かに達しなければならない。それをわれわれは抽象機械と呼ぶ。――(上)p289


宮沢は天皇機関説を支持していた。象徴が象徴となるのは宮沢説がいう憲法の定める国事行為のうちにおいてであって、清宮説がいうような象徴行為のうちにおいてではない。令和天皇はex天皇の象徴行為的天皇像を継承するという。万歳三唱!未来を思い出す悪夢ー戦前からノモス的主権の言説が国民主権を奪ってくる


権利のない社会に反対!象徴行為的天皇像と共に、戦前からノモス的主権の言説が国民主権を奪ってくる時代において、新しい転向というものを考えるとしたらが誰が転向しているのか?



‪ ‪現在は『朱子語類』と宣長を読んでいるのだけれど飯田橋『仁斎論語塾』の二次会のワイワイガヤガヤのお喋りのときだったのだけれど、最近「思想史研究会」講座から参加してきた洋書翻訳をよく読んでいる仲間と喋っていると、「注釈」についてのイメージが彼と違うことに気がついた。その人がもっている「注釈」は語の説明なんだね。点と点との翻訳的対応をおもいえがいているように感じた。‪わたしは思想史アマチュアだが‬、私の考える「注釈」はむしろ線と空間との関係である。思想は自らをあらわすためには言語を要する。命題が言語となっていく時代がある(フーコはこれを「古典主義時代」という。はじめて言説が命題のかたちで言明されるようになった) 。命題とは、自らをも分析する、分析の順序をもっているという線的構成である。それに対して思想というのは平面なんだね。われわれは空間を考えるときは絵をみるときのように同時的に全体をみる。そうだと考えると、問題は、線はいかなる権利にもとづいて、平面をあらわすことができるかということ。言語は分析の順序をもってみていくかぎり、空間を同時的にとらえることができない。線は不可能性をいかに解決するのかである。おそらく解決できないだろう。そこで注釈の出番ということになる。空間の普遍的なものは存在しているのではなくて線において要請されているのである。「注釈」はこのことを書くのである。それは「注釈」を超えた思想かもしれない。語というよりは、言説への従属を拒む<言葉>なのだ。そうして『童子問』の仁斎は、中国における言語支配者の垂直的に遠く高くある普遍主義に対して、水平的に自分のまわりにある卑近なものにこそ普遍主義があると考えたとき、<言葉>から「理念性」を発見したのである。中心は言う。思想の普遍性を書くためにはその言語に普遍性がなければいけないと。 その普遍性は周辺において存在しないからこそ要請されるのである。 17世紀のその「理念性」は垂直と水平から成る新しい思考の斜線であったとわたしは理解している。‬儒者たちはこの斜線において多様性の思想を権利として自分たちのものにしたのである。



‪古典主義時代における「語ること」は命題の線的構成によって可能となる。それは分析の順序をなす。そこに言説がはじめて成り立つことになったとフーコは言う。さて思想は絵画のように全体を同時的にみなければみえてこない平面であるとき、思想は自らをあらわすとき命題すなわち順序の分析である線的構成において可能なのか?不可能だと答えることは単純すぎる。渡辺一民氏がやったように多分『言葉と物』の絵画分析をかんがえながら第四章『語ること』を読むときは、そう単純にはならない。問題は、問いが前提としている全体の概念である。よろしい、還元され得ない思想の空間は普遍主義であるとしよう。だけれど思想はそれほど全体性なのかという問題がある。どうしても全体性というならば、それは線が関わるのはベラスケスの絵画において構成されていた全体性なき全体性ではないだろうか。全体性は魂のように消滅し切るかといえばそうではなくて魂の如く現れるのだ‬ね。わたしは思想史アマチュアだからこんなふうに考えるのだけれど、普遍主義という名の全体性なき全体性を多様性と呼ぶことはやはり急ぎ過ぎた理解なのだろうね


17世紀の知識革命‬ 

近代においては、価格が価値をきめる。ネオリベラリズムの思想が席巻する現在、何でも彼でも金がものをいう。そこでは社会と市場とが 、価値が価格と同一視される。そういう物の見方が確立したのは、そう遠くに遡らない。500年前からの17世紀、交換の時代から始まること。だけれど、この時代の支配的思想は、価格と貨幣に先行して、先ず価値あるものは何かを問うたのである。価値あるものをいかに分類し名を与えるか。二つの価値あるものが交換されるのはなぜか?それを文のどこで言語化できるか?17世紀の思想は、複雑な世界から自立しはじめている、簡単な世界の現れをみている。17世紀の思想革命は、複雑な世界をみる物の見方にたいして リアルにかんじられないときはじまった知識革命であった。同時代的に、アジアでも町人が推進した知識革命が起きた。‪「道あり人あり」という「道」よりも、「人あり道あり」の「道」のほうが価値があるのはなぜかを‬根本から問うラジカルさをもっていた。ここから、仁斎は、当時東アジアを代表する思想ー朱子学ーにたいして思想闘争を挑んだ。改めて、思想革命とは何か、私なりに整理すると、それは、究極的に依拠できる価値あるものを学において発見していくことではないか。学問は近世まで寺社と宮廷貴族に独占されていた。町人が学の要請された意味を発見していく。江戸時代の学問する町人たちは、複雑な世界(奥深い内面)から自立しはじめている、簡単な世界(天と地の間の往還)をリアルにみはじめているのである。思想の解体的ラジカリズムを、あえて『論語』を選んでその読みを再構成していくことによって、万民のために普遍化していく‬ ‪。 ‪アベノミックスと呼ばれる安倍政権に体現された‬、ネオリベラリズムの近代は、17世紀において卑近さから語り始めた自らの画期的な視点を生かしているだろうか? 

17世紀の思想は、複雑な世界から自立しはじめている、簡単な世界の現れをみている。17世紀の思想革命は、複雑な世界をみる物の見方にたいして リアルにかんじられないときはじまった知識革命であった。同時代的に、アジアでも町人が推進した知識革命が起きた。「道あり人あり」という「道」よりも、「人あり道あり」の「道」のほうが価値があるのはなぜかを問うラジカルさをもっていた。ここから、仁斎は、当時東アジアを代表する思想ー朱子学ーにたいして思想闘争を挑んだ。改めて、思想革命とは何か、私なりに整理すると、それは、究極的に依拠できる価値あるものを学において発見していくことではないか。学の要請された意味。それは人においてはじめて可能となるものである。17世紀思想が発見した学びこそ、万人が依拠できる多数の入り口をもっている。近代は卑近さから語りはじめたこの画期的な視点を生かしているか? ‪「この道しかない」とする、1%と99%を分割しようとするネオリベラリズムの思想は学に値しない。それは「人あり道あり」の「道」ではあり得ない。‬

( 現代にあってモーツアルトは簡単すぎてかえって演奏が難しいという。是と比べたいのは、『論語』"為政第二"で、ここから簡単すぎて読めなくなる。「天下の儒者たちの語る言葉がただ高遠であって、卑近でないのは、彼らに徳がないからである」と伊藤仁斎が言うようには...

対話による言語を学ぶのはとりあえず思惟だ。思惟は最初に誰が言ったかを読む。思惟と切り離せないもので、行いによる言語を学ぶのは身体。身体は卑近を読む倫理だ。卑近も、高遠と反対の方向からの理念的構成物だから、その解釈はそれほど簡単にそこに無いと知って愕然とする)


L'alphabet et la representation absolu


アルファベットの意味とはなにか? 

ー アルファベットと絶対的代理 

L'écriture alphabétique est la plus muette qui soit, puisqu'elle ne dit immédiatement aucune language. Maid étrangère à la voix, elle lu est plus fidèle, elle la représente miex. Derrida 「アルファベット文字は、直接的にはいかなる言語も語らぬがゆえに、すべての文字(エクリチュール)のうちで最も無言である。しかし、声とは無関係でありながらそれは声にいっそう忠実であり、声をよりよく代理(表現)するのである。」 D

 E

 C

 O

 NSTRUCTION


Behove this sound of Irish sense. Really? Here English might be seen. Royally? One sovereign punned to Peter y'all pense. Regally? The silence speaks the scene. Fake ! ‬

‪So This is Dyoublong?‬

‪Hush! Caution ! Echoland !‬

‪(Joyce Finnegans Wake )‬


Mais l'immobilité attentive de ses yeux renvoie á une autre direction qu'ils ont suivie souvent déjà, et que bientôt, à n'en pas douter, il s vont reprendre : celle de la toile immobile sur laquelle se trace, est tracé peut-être depuis longtemps et pour toujours, un portrait qui ne s'effacera jamais plus.(Foucault)

つまり、すでにしばしば彼の眼がたどってきた、そして疑いもなくただちにふたたびとるであろう方向 、いいかえれば、そのうえに、もはや決して消されないであろうひとつの肖像がおそらくはずっと以前から、そしてこれからも描かれつづけ、描かれたままであるにちがいない、不動の画布の方向のことだ。(フーコ 『言葉と物』渡辺訳)


あなたほど信条をもたぬ保守の政治家は存在しなかったよ、Bye bye!さて安倍退場のあと応援するものを失っても日本会議のウルトラナショナリズムが収束するように思えない


‪ねえねえ、大嘗祭やってもらって、しあわせになったひとがひとりでもいるのかしら?国家は異界の入り口を独占したいらしいけれど、多分入り口は何処にもあるよ。路で拾った4個の石をリズムよく順番に左右のポケットに入れたり出したりすれば時空の歪みへの入り口になる。ベケットの小説に書いてある...‬


「安倍を見る」会の国民のみなさんは飽きないのですかね?


‪日本人を分析しているというわかい香港の女性の観察によると、日本はbuddyが好き。彼らは寂しいからではないかと。なるほどね、そう見られているんだな。わたし自身については寂しさを強く感じるほうだとおもうが、四、五冊の書物以外に一体感をもとめるのはヤバイと感じる。そういう意味で本こそは国内亡命の場所かな。国内亡命者は本の厚さに属しているけれど、そこは部分にはならない偶然とそこから常に新しく成立する連続面がある‬ことに遅かったのだけれどやっと気がついてきた...


トータルに考えることが不可能となっている本当に嫌な世の中だ。それは外部にある過去との関係を考えられなくなったことによる。過去を考えれば、普遍として確立した物の見方ではやっていけなくなってきたときそれとは異なる見方があったことがわかる。‪質問することによって、‬普遍はたえず再構成され得る。倫理的に一つに非ず。 

卑近なところからトータルに考えるためには、外部にある過去との関係を考えることが大切である。たとえば、ゴダールへのインタビューを解釈してかんがえてみたことだけれど、文字を発明したメソポタミア文明との関係がみえないので、現在アメリカが行なっているこの地域への侵略がどんな意味をもつのかをトータルに考えることができないでいるのかもしれない。アメリカは文字を侵略していると質問してみよう。そう考えてみたら、どんなことが言えるか?新しい普遍を再構成しようとするわれわれの思考が依拠する言語と言われるものを支配するつもりではないだろうか?‪これが、卑近なところから‬トータルに考えるためには、外部にある過去との関係を考えることが大切であるということの意味である。‬


来日する習近平にたいして、経済の話ばかりするのではなく、共産主義でもいいから外国と少数民族との関係を解決しなさい、それから政治的自由と法の支配を確立して権力者の支配をやめなさいと言うのはだれなのでしょうか?安倍晋三ですか?自身と自国のあり方を正すことなくして言うことができますか?


ひとくちにヨーロッパ音楽って言うけれども、ヨーロッパにだって多くの民族があって、それぞれのローカリティーがあり、そのローカリティーベートーヴェンの音楽などにも、ある意味では出ているわけでしょう。僕たちが、今、多くの民族音楽のローカルなもののなかに在るすばらしさに本当に気付いて、人間にとって、根源的な大事なものがそこに在ると気がつくのは、それはもしかしたらベートーヴェンなんかを知ってるからかも知れない、とも思う。ベートーヴェンを知らないのと、知っていた上で、ローカルなもののよさを見つけるのとでは、その重さは大分違うんじゃないかな。ー武満徹


BBCはベートーベン全作品(1000)の演奏を放送したことがある。この企画のために、演奏されなかった小作品もたくさん演奏した。18世紀全体が聴こえてくるほどの広がりなのだという。ウイーンの田園交響曲はスラブからの影響があると聞いてはいた。スコットランドから影響を受けた作品も結構あるんだね。残念なことに、現在は、二週間かけて朝から晩まで録音したそれらのテープを再生できずにいる...


ウィーン古典派の音楽家たちが、民族音楽の影響をどんなに喜んで受け入れたかは周知の事実です。たとえば、ベートーヴェンの《田園交響曲》第1楽章の主要主題は、スラヴ民族の舞曲の旋律によるものです「民俗音楽とは何か」1931 バルトーク


Quī nimium multīs 'nōn amō.' dīcit, amat. 


あまりに度々「俺は愛していない」と言う人は、愛しているのだ。ーオウィディウス「恋の療治」


向日葵運動のときのこと、連日台湾から私のYouTubeに1日数百回アクセスしている人がいた。後日、子安先生の講演で台北に行ったとき呉叡人さんが見ていたとおっしゃっていた。早稲田大学小教室の市民大学講座における子安先生の柄谷『世界史の構造』批判をみていたようだ。現在香港で起きていることの日本人にとっての意味をかんがえるうえで非常に大切なインタビューだとおもって私は読んでいる。ただし「香港ナショナリズム」という視点には同意しない。21世紀のどんなナショナリズムも、フランス革命の時代において従属から自立できる平等を実現する意義をもっていないから



ゴッドファーザー映画が描く<血>は、誕生を現す標であることをかんがえると血の場面は人間の誕生を表現している。ただテレビ放送の日本語吹き替えでこの場面を見たものだから、この場面の初めにおいてラテン語が語られていたとは知らなかった。


翻訳ほどおぞましいものはない。翻訳なんかいらない。言語(エクリチュール)の存在と人間の存在は同時的に両立していた。そこに連続性があったのに、諸言語(ラング)の侵入はそれを不可能にしてしまったというわけだ。弁証法的な深読みの謎めいたイメージを作りあげてしまう‬


kre  dans un ordre   peck ti

e   fulminant.     kruk

pte


中国革命のイデオロギーに行かず、香港の民主主義の経験にも行かず、「アベを見る会」の国民に留まる均衡。だけどそれは、一国民主主義と自立的一国言語のナショナリズムのなかに安定しているだけの不均衡かもしれない。不均衡のまま同じであることは不可能である。問われている思考は、困難でも、アジアにおけるグローバルデモクラシーの外部的あり方についてではないか


ああ気持ちわるい!「伊勢に即位を報告」って、報告を受けるのは、「皇室の祖先である天照大神」かよ?起源の後退と回帰というフーコの文を思い出す。人間が存在しない時代に遡りながら、人間の思考(起源についての)を投射する矛盾って何だろうとおもうのですよね、思想の分野ですが、近代になってこういう矛盾にとらわれることが始まったといわれますが、厄介だなとおもっています。何というか、「われ考える、ゆえにわれ存在する」のコギトの思想が飛躍して、「人間は人間の存在を考える、ただしそれは人間が存在しない限りにおいて可能である」というもだと私はおもいます。


「皇室の祖先である(『といわれる』『とされる』だったかも)天照大神」とフジテレビで言った。天照大神って神話の神ですよね?


「伊勢に即位を報告」(朝日新聞)って書いちゃっているのだけれど、報告を受けるのは、NHKやフジテレビで繰り返している「皇室の祖先である天照大神」かよ?と、起源の後退と回帰というフーコの文を思い出す。人間が存在しない時代に向かって遡りながら、人間の思考(起源についての)を投射する人間の歴史認識を問うている。厄介なことに、近代における「われ考える、ゆえにわれ存在する」となんか自然に語るコギトの実証主義的思考が、「人間は人間の存在を考える、ただしそれは人間が存在しない限りにおいて可能である」(‘未来を思い出せ’)といういかにも終末論的なものと共存している。こう教えてくる人間認識の歴史にも耐えられない。そんな言説は時代遅れだよ、と、人間と共に消滅している近代に向かって異議申し立ての言葉を吐きたいのだけれど


人間が存在しない時代に遡りながら、人間の思考(起源についての)を投射する矛盾って何だろうとおもうのですよね、思想の分野ですが、近代になってこういう矛盾にとらわれることが始まったといわれますが、厄介だなとおもっています。何というか、「われ考える、ゆえにわれ存在する」のコギトの思想が飛躍して、「人間は人間の存在を考える、ただしそれは人間が存在しない限りにおいて可能である」というもだと私はおもいます。まあしかし、『といわれる』『とされる』ならば、だれがそれを語っているかを注意することが大事で多分そうして距離をとる判断が成り立つはずですが、場合によっては世界神話の普遍性をかんがえてみる契機になることだってあるかもしれませんが、しかしこういう言語の方向に行くのではなく、神話についての注釈の歴史に関心なくテクストも読まずに、『である』を繰り返して同一性に絡みとられてしまうと、それは日本会議的な思考停止のヤバイ伝達と、アイデンティティーの方向へいく排除の言説になりはしないかと心配です。一番ヤバイのは、信頼していた専門家の中には、そういう事実がないことを知りながら、何かの目的をもっいて、何千年も『いわれてきた』と『である』とを結びつけて言ってしまうのがいるのですね。かくも連続性を実体化すると戦前の考え方に戻ってしまいます(長文失礼)


元祖寸劇

ー善行はプラス、わるい行いはマイナス


閻魔大王「貴様の書いた人生バランスシートはプラスになっているが、馬鹿者!都合の悪いことを隠さず明細書をだすのじゃ」


フクロウねこ「明細書はありません」


‪ Jonathan Swift, who took aim at Leibniz’s thought-calculating machine in his 1726 book, Gulliver’s Travels. In one scene, Gulliver visits the Grand Academy of Lagado where he encounters a strange mechanism called “the engine.”‬

‪Swift’s point was that language is not a formal system that represents human thought, as Leibniz proposed, but a messy and ambiguous form of expression that makes sense only in relation to the context in which it is used.‬


‪By OSCAR SCHWARTZ‬


‪In the 17th Century, Leibniz Dreamed of a Machine That Could Calculate Ideas‬


フーコの精緻であり且つダイナミックな物の見方

表象が物に帰属させられてはいないこと、つまり多様性が予め結合したかたちで主観に与えられてはいないことこそが、他人との諸表象のやり取りを常に可能にする。なぜなら主観はどのように触発されるかによっては規定されず、表象を合成することにおいて自らを規定しているのだから。-『カントの人間学』ー

コッポラの映画を流してくれたテレビのおかげで、自覚なくラテン語を初めて聞いていたのである。血は映画においては誕生をあらわす。と同時に、隠れている観客の欲望も。諸言語(ラング)による吹き替えに観客がもつ幻想が投射されている。それは支配する欲望である。もしかしたらナショナリズムの誕生かもしれない!?

カタストロフィを制御するノセントで勇敢なキートン。これはアメリカの原風景でもある。だが面白いのはそこじゃない。わたしの関心は芸術作品みたいにロープが連接しているのかはっきりしない点にある。どうも家は起源の記号らしい。起源というものを時間の流れから解放するアナーキーなイメージをよむの


なぜ中国と日本とは近代において出会えないのか?不可能にする分散している近代を問わなければね、「自身を語る」こだわりをみせるとき?否、他者との関係に集中するときだ

アイルランド文学といわれるものはアイルランドでそれがはじまる前にすでにイギリスに知られていた。存在していなくとも存在するのである。この事情は不思議でも何でもなく、植民地化された地球の多数派がおなじ経験をもっている。日本文学においても、『源氏物語』とかそういう自立的な文学が出てくる前に、中国文明のなかに存在していたと考えることができる、『古事記』『万葉集』が中国文明のなかにあったように。それなのに存在しなかった「日本古代」という虚構によって、<自己においてはじまる前に既に他において存在していた>そういう配置を隠蔽してしまう。‪オリジナリティの虚構にとらわれる日本文学は帝国主義<日本文学>というべきである。‬

MEMO

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アジア思想を考えるとき、絵画における場合と同じように、点は四書の解釈のあり方を再構成する朱子学と『論語』に帰る古学であるが、点が線を作るのではなく、逆に、同一性と差異性の線のほうが脱領土化した点を巻き込み、外への作用に駆り立てる。外部の思考をもつポストモダン朱子学ポストモダン孔子



この放蕩というやつには少なくとも、なにやら不変なもの、自然に根ざしていて、幻想などに支配されないものが、つねにかっかと燃えている炭火みたいに血の中にあって永遠に心を焼き、さらに長いこと、おそらくは年をとってもそんなに早く消すことのできないものがある。 

―『罪と罰


Brexit means Titanic はなにを意味するのか?


ジョイス『ダブリナーズ』のテーマはcounterpartであるといわれることもある。アイルランドとイギリスはcounterpartであるか?ダブリンからロンドンへ行くと、実際にはそれほどでもないことがリアルにわかる。しかし仮にcounterpartであると考えてみたら何が言えるかと考えることに意味があるのだ。そうして、世界と映画そのものはcounterpartと考えてみる。何がみえてくるか?世界と映画が互いに互いを巻いている。IRAはそれまでアイリッシュが知らなかったハリウッドにおけるアイルランドのイメージを利用して現実のナショナリズムを作っていることに驚く。またBrexitを推進する保守主義者がもとめている大英帝国は、案外、映画『タイタニック』のなかの‘大英帝国’を夢見ているのかもしれない。しかしどんな夢も破れをもっているように、タイタニック大英帝国’には破れがある。目覚めは死である。だから夢を発明し続けなければいけない。

これがBrexit means Titanicという意味である。


カタストロフィを制御するノセントで勇敢なキートン。これはアメリカの原風景でもある。だが面白いのはそこじゃない。わたしの関心は芸術作品みたいにロープが連接しているのかはっきりしない点にある。どうも家は起源の記号らしい。起源というものを時間の流れから解放するアナーキーなイメージをよむのだけれど




近代エピステーメーの「知の三面体」

①演繹的科学(数学/物理学)

②経験科学(生物学⇔経済学⇔言語学

③哲学的反省(同一者の思考)

①⇔②数学化しうるもの

②⇔③存在論(生命⇔疎外された人間(労働)⇔象徴諸形式)

①⇔③思考の形式化

人間諸科学は何処にも所属しない

-言葉と物-



「働く⇔生きる⇔語る」三角形の転移

①表象の体系(古典主義時代)

「語る/一般文法」⇔「分類/博物学」⇔「交換/富の分析」

↓主要点が「語る」から「働く」へ転移

②近代人間学の体系(有限性を実定化して分析する)

「労働/経済学」⇔「生命/生物学」⇔「言語/文献学」

-言葉と物-



近代人間学の三角形の転移

①「経済学/葛藤」⇔「生物学/機能」⇔「文献学/意味作用」

↓人間諸科学の発生とそれらの相互構成・解釈による〈人間〉分析の増殖図式

②「経済学⇔社会学/葛藤⇔規則」⇔「生物学⇔心理学/機能⇔規範」⇔「文献学⇔文学・神話分析/意味作用⇔体系」

-言葉と物-



人間諸科学による近代人間実定化と非-人間排除の三角形

「経済学⇔社会学/葛藤⇔規則」→「正常/異常」

「生物学⇔心理学/機能⇔規範」→「合理/非合理」

「文献学⇔文学・神話/意味作用⇔体系」→「有意味/無意味」

→「正常/異常」⇔「合理/非合理」⇔「有意味/無意味」


‪『朱子語類』の鬼神論を読んでいけば、西欧の形而上学も理解できるというから、時々アリストテレスについて考えることになった...とはいえやはり考えることは難しい。時間が必要だ。鬼神論によってロマン主義的「精神」を生き生きと理解できるようになったのは本当にラッキーだった。「精神」はわたしの構成ではない。美を存在論的に把握するわたしはもっと古典的に考えたいのだなと教えてくれたと思う。これはポストモダニズムが近代をどう批判的に理解するかの問題でもあるかもしれないけれど。

『自然学』は何とか読める議論が結構ある。アインシュタインの言説によって乗り越えられた「絶対空間」の言説はここにある(マッハとか色々あるんだろうけれど)。) アリストテレスの絶対空間」の考え方が天球(外部がない)の概念と両立しないということを知った。知ることは優先される。知れば知るほど、知ることの困難な条件が問われてくる(「鬼神論」もそういうところがある。) ほかに、「無限」とか「場所」の話を面白く読む。読みながら、美はどこに存在するか?と思い巡らす。ここに答えが書いてはいないだろうが、カオスから(カオスをコントロールする)線の運動するリズムが生まれてくる場所について哲学的に考える。絵画作品を思いながら考えていくことができる。



積分記号の中にしか棲むことができない関数があるというんだね。どうか文系の愚かな妄想をゆるしていただきたいが、カフカ文学やゴダール映画のナレーターも記号を住処としている。そこに迷い込んだ人物達はナレーターの声を聴くー虫の声だったり鳥の鳴き声だったりーが、いつの間に痕跡に還元されて外に放り出されてしまう。文学と映画が関わるのはひそひそと呟く誰の声かわからぬ魂の声との交信だけである‬ーまだ消滅していなければ。プルーストはいつも波の音を聴いて書いている...


ポストモダン的再構成によって再発見されたオブジェob-jetのDadとsurréalismeは、数学のノマド的隠語の影響のもとに、大衆との関係を失って思考の形式として再出発するproーjecの映画と映画史の構想へと繋がって行くとおもうのだけれどね。面白いのは、映画史の理論化が注釈学的思想史によっていることで、思想史としての映画史は、まだ名づけられていないが、思想史でもなく映画史でもなく、新しい学問として意味づけることができよう。その学の方法とは、原初的イマージュとそれを注釈したイマージュとの間に共通のものがないとする。それだから根拠づけるよりも差異化していくことに意味がある。そうして差異は言説をもつことによって、(言説が再構成されるとき)学が成り立つ。「事件学」「言説学」という言葉は検索してみるとまだみつからないようだけれど。(上はBadiou の本の一文を撮った)


‪どの時代も、確立した物の見方と異なる見方が起きてくるのだけれど、言語表現の成熟のなかで起きてくるときに新しい見方が常に頽廃しているなどと非難されるのは、マニエリスムとかヌーベルバーグについてみると、成熟が秩序の働きとしてみえるからで(本当は無関係)、成熟が可能にした新しい物の見方はあらわれるときは常にスキャンダルである事件としてあらわれてくるというか...


‪『変身』の家はこうだったりして?天とのリズムを保ちながら、グレゴールの魂が虫の死体を住処としたように、情念は外部にすんでいる‬。情念は概念に先行する。概念は情念によって再構成される。傍の虫からじっと見られながらカフカゲーテ文学論からの諸々の出口をかいている。


たしかに文学にその痕跡はあるとおもうのですね。<いったん'得た'>ものについて考えてみようとするのですが、どうも、'得た'ものは無かったようにおもうのですね。それなのに、わたしの中で、<失うことになった>といつも感じているのはどうしてなのか。この喪失感はわたしだけでないようなので、(「みんなのもの」という冗談でなければ)、それは文学に書かれている先験的なものじゃないかしらとも思うのですが、'先験的'といえばそれで何かがわかったわけでもありませんね。<何かを得るために何かを失う>というのは、50年前の、1968年の輝かしい精神だったでしょう。だけれどそれはまだ近代のためとしてある反近代でしかないとしたら、<失うために失うことができる>というのが、現代という暴力が剥き出しになってきた時代に対して、1968年以降思想がとる喪失ではないだろうかとやっとかんがるようになったのですけれど。(考えたのはいいのですが、遅すぎたという観念に苛まれています。) その思想は探されているというか...探されているのですけれど、その思想は、無限に広い宇宙と等価の大きさをもった懐疑の内省と、虫の死体に宿った情念というか感情というか、そういうところにすんでいるというか、点点点点...変なものですね


‪Zilu s'arrêta pour la nuit à la Porte de Piere. Le gardien de la porte lui demanda: < D'où êtes-vous ?> Zilu dit: < De chez Confucius.> L'autre dit : < N'est-ce pas celui-là qui poursuit ce qu'il sait être impossible?> ( Confucius, Les Entretiens)‬


黒板 35 ‪


ウィトゲンシュタインについて彼の人生の真ん中にあたかも「立ち入り禁止」の標識が立っているかの如く、「前期」「後期」というふうに整理される。年表の知識として役立つ。だけれど私の場合、他者の手をとって渦巻きの方向に沿って「中へ」歩く記号の形式性と、その他者と共に渦巻き沿って「外へ」歩く日常言語の意味世界とを切り離してしまってはやっていけなくなるだろう‬なあ


ジョイスが分からなくなったら声を出して読めとアイルランドではいわれる。「自分が-語るのを-聞く」だけだと思う?意識はそれが定位する声の内部にとどまるか。外部の世界を自己の中心に置く準備をしている。声は時間とともに、原理主義の奥を占めることはない‬のではないだろうか



桜の謎が深まる。「功績」あるひとを呼んでいるはずなのに、なんで反社会勢力が来ちゃっていたのかと言うが、それならば反社会勢力に「功績」があったほうがよかったのか...



何が問題となっているのか?盗まれる公的資金。腐敗と不平等。市民法の廃棄を推進するのはネオリベの世界的傾向であるが、この国がやっていることも、四字熟語「公私混同」が知らぬ、選挙制度の「公」の崩壊。彼らはそのかわりに何を確立するのか?はっきりしないが、靖国神社としての日本人のナショナリズム、理念性を否定してもアメリカと中国から自立できるとする歴史修正主義天皇教ー文化にかかわる無意識的なものの体系。ここに、一国民主主義と自立的国語という思想が合流する。あらためて現在何が問題となっているのか?思想史の欠如もある。自動仕掛けにどんどん狭くなっていくばかりの排他的にせまい物の見方を批判的に相対化していく、広さをもつ物の見方をもつことは可能だろうか。500+1000の思想史ーあらためてフーコのヨーロッパ500年の近代を批判した思想史と、明治維新150年の失敗を反省するアジア1000年を見渡す思想史



東京五輪のなかに隠蔽される原発<体制>の問題とは、不平等、汚職、政治的自由の問題。人間の「健全な」肉体に、歴史修正主義の声を聞く「健全な」精神ぐらいのものしか宿らない



世界は習近平が香港に軍事介入するかもしれないことを非常に心配しているのは、「天安門事件」が再び起きるのかと考えられているからだが、なんというか、現在の習近平の<ひとりの>中国と比べれば、皮肉だが、かつての中国は<党員の数の存在だけまだより民主的だった?>‬という話も出てきた。「礼」は「暴力」にたいする法と秩序であるという、中国の「礼」の勝手な解釈に同意していたかのようなあの日本の言説は「選挙」=「暴力」に対する「礼」=軍事介入に拍手するのかしらね?


イギリス、アルコール、ローマ・カトリックアイルランドの三大病といわれる。カトリックからの抑圧感は国家神道の場合と比べられるだろうか、反ー普遍主義の地域宗教が大切で、パワーを失ったfaith healerに焦点をあてた面白い芝居(ブライアン・フリール)なんかもあった。宗教と芝居、この二つは何処にもある


証言によると、撮影の現場ではゴダールの周りは彼の敵だらけで、意図的にそうしているのか?わからなかったが、あの意味の幅のあるモンタージュはそうして成り立ってくるのだろう



イギリス、アルコール、ローマ・カトリックアイルランドの三大病といわれる。カトリックからの抑圧感は国家神道の場合と比べられるだろうか、反ー普遍主義の地域宗教が大切で、パワーを失ったfaith healerに焦点をあてた面白い芝居(ブライアン・フリール)なんかもあった。宗教と芝居、この二つは何処にもある



注釈学の出発をもつニーチェは自分が神を殺したのだと告示するのは、宣長が神をカミと読んだ思想を喚起するが、勿論、近代主義が説明する実証主義イデオロギーの矛盾はここに無い



だからわたしは教育というものを信頼していない。


ヘーゲル以後、[…]かつて西欧において最も高度な思考であったものが今や教育の領域で最も価値のないものとみなされている活動に転落してしまったという事実が、恐らく哲学が既にその役割と機能と自律性を失ってしまったことを証明しているといえるでしょう。」ーフーコ『文学・狂気・社会』


『男の敵』は、1935年のRKOによるドラマ映画で、1922年のアイルランド独立戦争を背景としている。原作はリーアム・オフラハティの小説『The Informer』。 『暗殺のオペラ』のベルトリッチはアイルランドの裏切りのテーマに関心をもったと語っているが、裏切りというのはアイルランドの独立のまえに存在しなかった。ダブリン時代に、IRAとM 16の間で両方を百回ぐらい裏切ってとうとう自分でも一体どちらのスパイなのかわからなくなっていた男の裁判があった。それで、アイルランドにおける労働者階級出身の劇作家の「ダブル・クロス」という芝居が気になりはじめた。もうどんな芝居だったか忘れたが、階級闘争よりも「ダブル・クロス」を選んだのは、古典主義時代の<二重化>に意味ある脱出があると考えたからかしらなどとフーコ『言葉と物』を読んでおもうのである。人間のうちに発見された歴史性が炸裂したところで外部の思考できないものこそ思考にとって不可避な他者である


なぜ中国と日本とは近代の路において出会えないのか?不可能にする分散している近代を問わなければ。再び「自身を語る」こだわりをみせるときか?否、他者との関係に集中するときだ




畜生!35年後、「勿論所謂公式参拝です」(1985)が正に望む通りになったー国家神道の事実上復活と軍国主義の復活。民営化の意味も明らかにー格差と経済徴兵だったのである


図書館は、その厳密な中心が任意の六角形であり、その円周は到達の不可能な球体である。ボルヘス


‪7年まえのこと、先ずダブリンにおけるカオスとの出会いがありました。だけれど、カオスの後に生きておらずただコスモス(秩序)の後に生きていると思わせてくるのが日本なんでしょうかね。‬


わたしは、ダニエル・ブレイク」のケン・ローチ監督の映画

スコットランド人はカレーがほんとうに好きかわからなかったのですが、デリバリーで持ち帰ったあの毒みたいに不味いカレーを食べるときは英国から独立を勝ち取ったインドを食べるんですよ、沈黙しないように自分の身体を作りなおしている


カオスの後に生きておらずただコスモス(秩序)の後に生きていると繰り返し思わせてくるのが日本なんですかね。高田馬場の夜、わたしはまずいコーヒーが好きだと言ったら若者が驚いたようです。プルーストの場合と同じで(笑)、不味いコーヒーは無意識となったダブリン時代の映像を思い起こさせてくれるのですから


ジョナサン・スウィフトライプニッツ形而上学とその言語を批判した。今日生きていたら京都学派を再評価する文化人を批判するだろう。バカがバカを称えていると


Est-ce la même chose, strictement la même chose,en peinture ? En effet, ce n’est pas le point qui fait la ligne, c’est la ligne qui emporte le point déterritorialisé, qui l’importe dans son influence extérieur 

ーD=G Mille Plateaux


外部の思考は単純だろうか?単純かもしれないが、このわたしにかんしてはそれは関係の外部化という他者へ逃れ行く比類なき単純さなのだ


「絵画でも同じだろうか?まったく同じことが当てはまるだろうか?なにしろ点が線を作るのではなく、逆に線のほうが脱領土化した点を巻き込み、外への作用に駆り立てるのだ」

D=G ミルプラトー


アジアにおける政治でもまったく同じこと。点は近代の起源と反近代の起源であるが、点が線を作るのではなく、逆に線のほうが脱領土化した点を巻き込み、外への作用に駆り立てる


馬鹿馬鹿しい。選挙に勝利しても選挙前と何も変わっていないのでは?ボリス・ジョンソンは彼が何も知らないアイルランドについて嘘を言い続けていると指摘されるその根拠は何か?



BBCが明らかにしているが、レイプされた市民を公安が監視していたという。なぜ?もし本当ならば、ほかでもない、安倍の警察国家の犯罪ではないのか


選挙に勝利しても選挙前と何も変わっていないのでは?ボリス・ジョンソンは彼が何も知らないアイルランドについて嘘を言い続けていると指摘される。平和が壊れると北アイルランドの住民が大変心配している


自由が丘の喫茶店の隣でお母さんが息子の太郎(17歳)の将来をおばあちゃんに相談しています。太郎はアメリカにいるときは自分をアメリカ人と絶対に思っていません。日本にいるときはアメリカ人とおもっています。と、おばあちゃんはききます。「何人や?」お母さんが答えます。「だからさ、インターナショナルや。太郎はな、東京では変な関西弁を使っている自分は一人ぼっちだと感じている」。おばあちゃん「帰ればいい」。お母さん「家族バラバラなったらママ寂しいで...」


F・W・ムルナウが監督しフラハテイーが撮影した『タブゥ Tabu』(1931年) は映画史に残ることは異論がないだろう。両者ともアプローチはちがうが当時の人類学的視点をもっていた。映画をみると、島の共同体間の交易を西欧人が請負っているだけではない。掟破りにたいする刑の執行も彼らが行うのである。これは何を意味するか?囲い込まれない海の開かれたネットワークも、西欧の権力の介在無くしては島々はその掟とともに成り立たなったという事実である。島の掟は自律的にあるようにみえても、それは西欧権力が維持している西欧の掟なのだ。映画史の観点からいうと、映画は西欧が南島というものを成り立たせる人類学的視線がいかに構成されてきたのかを示しまったのだ。

(『タブゥ Tabu』から、天皇を語っている吉本隆明の”人類学的視点”の構造主義を考えてしまった。吉本は、西欧の権力が全く無い時代に遡って、国家日本の現在に「南」からきた起源を投射してみせようとしたようだが、「南」を繰り返す透明なあの言説は何だったのか?たしかに思考の連続性を拒んで近代とはなにかを問うことができたかもしれないが、「南からきた」というとき、そこで起源をいう西欧他者の視点が介入している複雑な関係を隠蔽してはいないだろうか。常におもうことだが、近代を批判するためには、それほど遠くに遡らなくてはならないのか?そうして近代批判が成功しているのか?難しい問題である)


北アイルランドが迷惑におもう無知が語る英国の教養に違和感を感じる。カント的人格のヒューマニズムに結びつくよりは、明治初期啓蒙主義みたいに、功利主義が喋るようにも聞こえる?「恐怖」が何でも喋て議会をぶっ壊す大英帝国の教養 v.s. 「希望」が説教するソーシアリスムのリベラルエリートの専門


好奇心で書くことですが、朱子によると、動物にも理はあります。天から与えられた心の方向づけ、天命も不完全ながらあります。(人間の場合と比べて理が不完全なのか、気による運動が不完全なのか議論あり)。しかし瞑想によってさとることができるかはわかりません。心即理陽明学がかんがえていくことになりましたが、陽明学は動物に心があるとか無いとかの議論はありません(無いでしょう)。ウィットゲンシュタインはどうかんがえましたかね。人間中心世界に穴を開けるためには動物は人間とは別の心をもつとしたいところです。


神話と現実との融合はヨーロッパをヨーロッパとして成立させるものである。古代ギリシア叙事詩の神話的部分は現代世界においては他国から領土をとりかえしてやるという無意識を構成している。女性議員とマイノリティーグループはボリス首相が戦争語彙を以て恐怖を煽ってきたことを問題にしてきたのである。‪ ‪おそらく過去は死に切ったものだろう。しかし『イーリアス』であれ『万葉集』であれ、タカ派ピュリスムの政治家達は現在の自分達に都合よく、近代がこしらえた「古代」像を利用してくるのである‬



どん底とはなにか?どん底というのは、どん底からどん底を逃したいー集中した\分散したパノプティコンに対して抵抗する文学的拠点に向かって。演劇はどこにもあるようにどん底もどこにおいても成り立つ。マイナー言語としての外国語をもつのもどん底をもつことではないだろうか。どん底は日本語から母国語を逃す。母国語は意外にもひとつではない。そのとき近代日本語が仰ぎ見る英語とかフランス語のヨーロッパ語に限らず、近代日本から前近代として見下した漢文エクリチュールもマイナー言語を構成する。われわれは仰ぎ見る他者と下に見る他者が必要なのだ


今年は、30年ぶりにフーコ『狂気の歴史』を開いて、ヨーロッパ近代におけるデカルトの「思考するひと」を考えた。宋代における朱子の「覚醒するひと」は中国独自の近代ー近代的人間ーのはじまりを考えさせる。だが近代デモクラシーの始まりについて東西別々に考えるのは問題がある。近代デモクラシーはルネッサンスから500年間かかったフランス革命から始まると考えるべきだろう。独自の近代があったからといって独自のデモクラシーが成り立っていると主張する権利をみとめることができないとおもう


裁判官は罰したいナショナリズムの世論を気にしている。ネオリベの時代の刑法はどの罪を買ったら罰がいくらか示すチラシ。買った覚えがなければ払いたくないので逃げだすさ


最近米国で話題をよんでいるヒエラルキーとネットワークの関係を考察した本の内容は詳しく知らないけれど、「近代」におけるネットワークの水平的平等の思想だけが平等の思想ではなかった。「前近代」の思想においても、理念的には、ヒエラルキーの思想も垂直的平等の思想をあらわすものがあった。現代における知のヒエラルキーは、言語を中心としたネットワークの現実に適用される認識と、対象的構成を目的としないが認識の枠組みを与える認識のための判断があるようにおもう。判断というのは、直に「使えない」が、 500年間の美術史が証言するように、常に別の可能性を考えるために不可避であった。垂直的平等ではあるが過去に構築された普遍(そういうものがあったとかんがえてみるのである)を考えるのは判断の領域であるー憲法判断における場合のように統整的に解釈の解釈をするが実定的に判断を構成しない。近代主義ユートピアからみると、これはあまりにポストモダン的な権力を関係に還元した折衷主義であると文句を言われるかもしれないが、‪期待外れに終わった近代の終わりにおいてヒエラルキーとネットワークの関係をあらためて考えるとこういうことがいえるのではないかと‬


そもそもフランスを舐めすぎていた。野蛮な国は裁判の文明が無いとか言われないうちにレバノンに行ってどうかわたしどもの国のお裁きを受けていただけませんかとお願いしたらいかが?


しかしながら宋君は自己の仏国的共和政を彼に承認せしめて彼を栄誉の中心たる意味における大総統たらしめず。かえって孫君の米国的理想にまで譲歩し総理を置きて責任を負わしめず大総統自ら権を握り責に当たるところのものを許容したり。(北一輝 支那革命外史)



袋小路か、それもよかろう。


イギリス保守党は常に大きな戦争を望んでいるといわれます。もはや自分達にその力はないから米国にくっついていって植民地を取り返したいと願っていて、中東はこれをイギリスのトラウマの意味で「心の病」とみているようです。‪確かに力はありませんが、米国は単独では戦争できなくなった時代です‬。こんな時に、非常に不安定なキャラのボリス首相が圧勝しました。国民は安定を望んでいたのにその通りにいかないかもしれません。現在はイギリスから遠く離れて正直空気をよく読めませんが、 労働党コービンが政府はアメリカとイランの両方にたいして‪距離をとれと言っているのはその通りだと思います‬。



推敲中


ロンドンのバービカン・センターで、The Bride and the Bachelorsというテーマの、Duchamp回顧展。The Nude等の絵やオブジェに囲まれた中央ステージで六十年代にケージとカニングハムと協働したダンスパフォーマンスをみた。ダダの精神の結晶、「泉」は詩そのものに変容し、単一のモダニズムとの決別を謳歌していた。前置きが長くなったが、ところで、DuchampとBlake、この両者は、私の中で繋がる。Blakeの絵は、絵として自立してはおらず、絵でないものと、即ち詩と関わりをもつものである。ポストモダニズム的に、たえず外部に赴くのだ。

ここで、ポストモダニズムの実体の概念とは、

α、一でもなく多でもない、固有名の如く単独的に現れる概念。

β、生成消滅する実体。

γ多数の参照系とかかわり合い外部性に依拠した実体。


総括すると、80年代イギリスのマルチカルチュアリズムは、この概念の現実化としてとらえられよう。マルチカルチュアリズムは平和時においてこそ、最大の収穫を得る。しかしそれは、国家が促す戦争(アフガン・イラン戦争)によって最大の損失を被ってしまったのだ。なぜなら、マルチカルチュアリズムは本質的に帝国主義的国家と決別するものとして存在しなければならなかったからだーポストモダニズムが単一のモダニズムから決別するつもりだったように。


‪自由が丘の本屋にならんだ新刊本を見渡すと、歴史修正主義がたたえる明治維新の近代を批判する本が一冊もなかった。危機感のない本ばかりではないか。どうしてこんなことになっているのだろうか?と、昨年末の飯田橋における『論語塾』の中国人留学生を交えてのコンパでの話しあいのことをかんがえた。香港の若者は社会のネガテイヴな像をはっきりもっている。比べると、全共闘的運動は、自己自身と大学に属する自己の否定を行ったが、社会のネガテイヴな像をはっきりもっていなかった。結果的には阻止しなければならなかった大学の資本主義への全面的従属をもたらしたという指摘が子安先生からあった。なるほど、社会のネガテイヴな像をはっきりもっていないと、資本主義を否定する運動が資本主義を推進してしまうということが起きるのが近代なのかもしれないとわたしはこれについて自分自身の経験をかんがえながら話をきいていた。リーマンショックの後、サッチャー主義と決別できないようにみえた労働党政権のG20主宰に抗議する中央銀行広場前の占拠に加わったときは、この運動のイメージがはっきりしておらず、「ここは天安門前広場だ」というひとたちもいた。議会にではなく中央銀行に抗議する新しいタイプの運動だったから、こういう場合は常のこととして過去からそれと類似するものを探すのである。このときだけは世論はデモを支持した。労働党政権が倒れた後、保守党政権のあり方を心配したが、ヨーロッパの新しい普遍主義の再構成の模索を邪魔する極右翼Brexitに食いこまれた知の反動にこれほど権力を持たせてしまうとは考えることができなかった‬



ダンテの外部は何か?朱子の外部は何か?天国と地獄の間にある「煉獄」、人間と猿の間である「東夷」が12世紀に発明されたー二項対立を脱構築的に解体する思考の形式として?



‪ 柄谷のようにシェークスピアの英語とかデカルトのフランス語とか、近代の始まりにおける地方言語のもつ意義をいうのならば、煉獄の魂を浄化する地上の人々がする祈りは地方言語(イタリアのトスカーナ語?)だろうし、ここでヨーロッパに限定する理由はなくて、孔子が望んだように東の海を渡ってくるならば東夷の地方言語(京都?鎌倉?)をきくことになるでしょう(その場合、普遍言語の文法性からの規定を無視できないとおもう)


国家神道を再定義することによって、靖国神社としての日本人という教説に絡みとられて伊勢参拝するようになった人びとに只一言だけ。国家神道がアジアで2000万人を殺した事実をどうして忘れるのですか?




MEMO

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「祀られる神」のほかはだれもはいることが禁じられている部屋は果たして存在するだろうか?禁止を破って部屋に入ったら、そこに「祀る神」がいたというんだね。そこでこそ「私」無き「公」の「大御心」が成り立つ。だがこの話はおかしくないか?だって部屋にはいるまえにその部屋から「祀られる神」がこっそり脱出していたかもしれないのだから。(「祀る神」を見たと勝手に言っているだけの話なのさ)。ここで、「私」だけの部屋とともに成立している言説「祀る神は祀られる神である」は、外部の思考をによって批判的距離をとられている点が大切



 ‪「子曰く、吾十有五にして学に志す。...五十にして天命を知る。」 はフランス語ではこう訳される。ちょっとのぞいてみる。


Le Maître dit; < Á quinze ans, je m'appliquais à l'étude. À t ans, mon opinion était faite. À quarante ans, j'ai surmonté mes incertitudes. À cinquante ans, j'ai découvert la volonté du Ciel. À soixante ans, nul propos ne pouvait plus me troubler. Maintenant, à soixante-dix ans, je peut suivre tous les élans de mon cœur sans jamais sortir du droit chemin.> ‬

‪ー Confucius, Les Entretiens ‬


現在の高齢社会では60歳か、「五十にして天命を知る。」 

À cinquante ans, j'ai découvert la volonté du Ciel. この命題をどう理解するか?フランス語はどうしてこの訳なのかやはり注釈が必要だが、フランスのシナ学の資料がない。江戸時代の注釈をみよう。

伊藤仁斎によれば、「天とは、これを為すことなくして為し、命とは、これを致すことなくして至る。皆人力の能く及ぶ所に非ず。」という。訳された子安氏のご説明によると、「仁斎は人事を尽くしてもなお人生上に見出す結果を天命として順受すべきことをいう。」

ここで私は的外れなことをいうかもしれないが、アジアにおけるコスモスポリタンの「天と物」(朱子)にたいして、なにか、京都の市井の人における「天と(見上げる)人」を表象できるというか



Wir sind nichts; was wir suchen ist alles.

 We are nothing; what we search for is everything.

- Friedrich Hölderlin


オペラ『スペードの女王』。存在しない‘モスクワのヴィーナス’をもとめて、依拠していた世界全体が消滅してしまう。プーシキンが書いたが、ヘルダーリンをおもう



無限<方向づけできない>は、

世界<x,y,z,>を以て

表現できるものではないけれど

cine-psychos-mos <x、y、z、t1、t2、仮面ε、仮面ψ>

ならばなんとか表現できるかもしれない。それはセリー(系列)

集まるが、雑じり合わない

単純に、相い続いて絶えない


「天から物がうまれ、天は物に性をあたえる」と朱子が語りはじめた同一性と差異をめぐる形而上学は、なんだろうか、昨日の子安氏の講座は私の思考を揺さぶった。差異の領域(日本)にはあらわれない、と同時に、同一性の領域(中国)にあらわれることがない。だからこそ、同一性と差異についての物のめぐる方は現代の中国と日本とが出会える結び目をなす、エクリチュールが可能にしてくれる、外部の思考ではないかーただしこの垂直的平等性を民の立場において水平的平等に転回していく斜線を書くことが必要である(オリエンタリズムの「明治維新の近代」にたいする批判的検討)ー。まだはじまったばかりなので、わかったようなことを言うべきではない。楽しみに、これから「理気論」「鬼神論」に続いて「性理学」を学んでいく。


作文中

同一化を欲しても天との距離は消せないが、あたかも距離がないかのように、天命が人に存在してくる、と、天命が表象されていたことを憶測し思い描いている。さて17世紀の思想からすると、朱子の「天命」の宇宙論的理解は大き過ぎた。古学の仁斎は「天命」を理念的道徳の地平の内部に置く。五十歳というのは、そこではじめて可能となる有限者からする己の生の自覚である。「これしかないし、あるいはこのようにしかならなかった」(『思想史家が読む論語』)。他方で、「学」を現代の感覚で国家の(ヒエラルキーを作り出す)学校教育への依存とするのは卑小すぎるのである。17世紀にとっては、「学」は、恐らく時代と対等の大きさをもった批判精神としてあったのだから‬


この世は国の最高権力者が最後まで幸せいっぱいに生き続けるのだろうし、生きて欲しいと願っていた方が殺されてしまうのです。嗚呼人間は悲しむことしかできません


サッチャー国葬は民営化で」とケン・ローチは言った。その通りだ。彼女の魂はこの言葉にすむことになるー忘れることがなければ。国葬の日に棺に向かって人々が放つ怒りの言葉を直に聞いた。アフリカ系イギリス人にインタビューしてそも発言をYouTubeで流した。観光客だけが集まったような国葬。マジョリティは死者への弔いだけで、称える人はいなかったとおもう。中曽根の国葬はどうなのか?比べると、中曽根政治に抗議しなかった当時の異常と言われても仕方ない若者達が現在社会の中心にいて、恥ずかしくないのか中立的に彼を称えている者も相当にいるらしい。だがこの私も抗議行動していなかったではないか


「文化系」は、多分「理系」が数式を考えるような態度で、書かれた言葉を読むことができないのではないか。言語のなかで、言語によって、言語に沿って、言語を読んでいるときでも、言語の背後ー書いた人のドロドロとした立場をどうしても考えてしまうし常に考えなければならないのは常に憂鬱である。


seq1 平滑空間あるいはノモス、これと条理空間とのちがい。ーー平滑空間をみたすもの、すなわち身体、また身体と有機体とのちがい。ーーこの空間に配分されるものとは、リゾーム、群れ、そして多様体である。――(下)【原書の裏表紙にかかげられた跋文】


‪みんな人間を嫌っているかといえばそんなことはない。蓋し死んだ人間だけが褒め称えられる。生きている間に関わることは危険だしね、自分に影響しないものなら愛してもいい。人間とは芸術家のことだ‬


こんな真夜中に、渡辺一民氏が言っていた『言葉と物』のフーコの書き方をおもいだした。忘れないうちにメモしておこう。一文一文が緻密にできている、どの一文も曖昧だけれど、全体がわかってくるのがスゴイと。多分、思考の柔軟性を可能にする、投影面が沢山あってそれらが互いに干渉しあっているのではないだろうかとわたしは考えるようになった。おそらく戦略だろう、マルクスの物の見方を批判的に相対化していくやり方なんだ。80年代以降のゴダールの映画においても、見つめてくる本みたいに、曖昧な観念と全体における明確なイメージとが同時に進行していくというかね


私がどうしても絵にしなければならぬという感じで、神(シン)と墓にカミも遺骨もない宣長はを二重化した?『直毘霊』の文は恰も顔の下の不可避の仮面(漢文)から見つめてくる眼差し


英国選挙がヨーロッパにどんな意味があるのか分析されるだけで、日本にとっての意味を語るものは一人もいない。つまりこれはアジアにおけるEUヨーロッパの可能性が消滅したのだ


サブカルにはまったく興味がないが、サブ集合は気になる。‪ < p, o , e , m, t , h , e , a , t , r , e > ‪


「来年決着」って、ヤバくない?東京五輪を契機に、買収された有権者と共に「桜をみる」会から、「大御心」とともに「桜をまもる」会になっていたりして...


‪『言葉と物』第三章は’表象‘である。このなかで「秩序」と題した一節の書き出しは、思考の揺れを考えようとする言葉である。この文はスゴイ!フーコにおいて、「秩序」に先行するのは<揺れ>である。‬


‪「歴史一般にとって、不連続のあり方を決定するのは容易ではない。思考の歴史の場合、それはおそらくなおのことそうだ。思考の歴史の場合、それはおそらくなおのことそうだ。分割線を引いてみようというのか?だが、あらゆる境界線は、無限に流動する総体の恣意的な切断にすぎまい。一つの時期を切りとろうと望むのか?しかし、二つの時点において対称的な切断を行い、両者のあいだに一個の連続的で統一ある体系を出現させる権利が、そもそもわれわれにあるのだろうか?そのような体系が成立すること、ついでそれが消滅し崩壊すること、それは何に起因するのだろうか?体系の実在と消滅とは、どのような体制にしたがいうるのか?体系の内部に整合性の原因があるのなら、この体系を忌避しうる外的要素はどこからくるのだろうか?思考は、みずからと異なるもののまえでいかにして身をかわすことができるのか?一般的にいって、ひとつの思考をもはや思考しえないとはどのようなことであろうか?そして新たな思考を創始するとはどのようなことであるのか?」


普遍言語を方法化したジョイスは普通の人々の不完全な言葉にこそ<アイルランド>があると考えた。その文学があれば、誰も<本物のアイルランド>へ行く必要がないじゃないか


未完成

映画と呼ばれていたものは、運動によって成り立つイメージのあり方と、時間によって成り立つイメージのあり方があるといわれてみるとなるほどぴったりくるものがある。何にしても、最初から、本を読む人が映画を見ることの意味が問われていたのだから、読むことと見ることの関係が証明されなければならない。証明というとなんか大袈裟だが、映画を語るとき、文学者の思い出してみる視点しか言われてこなかったのは本当だ。映画のために映画に代わって語るならば、考えるようにと見ることの意味が言われなければ...。知識人が成り立たないといわれるポストモダンの時代にあって、たとえ知識人は哲学者でなければならないと言ってももう仕方ないとされても、映画を見る人は哲学者でなくちゃいかんと言ってみようというのである。映画における思考の形式を文学などにゆだねることはできないと言ってみようか。映画は何も恐れはしなかった、他のものも自分自身も。映画は時間から守られていたのではなく、時間をまもっていた。レマン湖は、20世紀と同じ大きさをもった映画が横たわる墓地...

映画において、先ず映像があるという。映画が提示する運動について語られる言葉だけれど、そこで、運動それ自身ではなく、本を読む人が見る運動のあり方が問題とされている。もちろん運動と、映画において見られた運動との間には共通なものは存在しない。映画館の暗闇のなかでまるでスクリーンの代わりに本を読む人は論理の映像(住処)しか思い出せない(否、思い出すことができるというべきではないか、わたしのように論理の映像すら思い出せなくない愚鈍なものは...。)だけれど論理的映像(住処)しか思い出せないのは、運動を考えるようになる映像(旅)をもたないことによるのかもしれない。常のこととして、映画の存在については映像的論理が思い出されるだけで、(論理のほうへ消滅し切ったのか?)、こちらに向かって映画が思考する孤独が考えられることはなかった。と、私はそう語る。否、そうではない。まったく反対だ。思考が先行する。要請されている。思考が先行するとしよう。そこから、思考が自ら関係するもの(時間)をさがす外への旅によって、時間の映像(写真)が絵(空間)にメタモルフォーゼできたとしたら、思考しようとする物を考えることがはじめて可能となる。と、考えるために映像が必要だったと語ることがゆるされるか。こうしていつも痕跡をまえにして、繰り返される。考えることと映像の分裂を解決できないままに、光の世界の無関心に放りだされてしまう。オーストラリアにある洞穴の時代からずっと呟いている...


ジョージ・オーウェル


1943年1月


老いた者の狂乱を私に許したまえ
作り直さなければならぬのは私自身
タイモンやリアへ私がいたるまで
あるいは、かのウィリアム・ブレイク
壁を打つ者
真実がその呼びかけに従うまで



 Tyger! Tyger! burning bright
 In the forests of the night,
 What immortal hand or eye
 Could frame thy fearful symmetry?
 
 
 
 虎! 虎! 赤々と燃える
 夜の,いくつもの森で,
 どんな不滅の手でも目でも
 汝のおそるべきシンメトリーをかたどることはできまい


つまり人間が動物に<なる>のは、なんらかの手段と要素を使って、動物の微粒子に特有の運動と静止の関係に組み込まれるような微粒子を放出する場合にかぎられる。D=G


‪大変興味深い脚本を読まさせていただきました。どうもありがとうございます。戯曲を読んだあと、公家さんからのsuggestion を参考にしつつ、絵を完成させました。‬


‪戯曲を読んでまず考えましたことは、「一般的にいって、ひとつの思考をもはや思考しえないとはどのようなことであろうか?そして新たな思考を創始するとはどのようなことであるのか? 」というフーコの問題提起です。‬


‪ヨーロッパはひとつの思考ー新しい普遍主義の「理性」ーを模索しているのですが、近代(同化主義、開発、戦争)のもとでは思考しえないという問題を戯曲が証言しているドイツの現在から考えました。(極右翼によって非常に悪い形で模索しなければならなくなったという問題は日本と共有する問題だと思います)‬


‪また戯曲を読んで考えたことは、ワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨしている、まだ暗闇の曖昧さのなかにありますが、「私たち、誰でも、何人でも」を為す開かれたネットワークの可能性についてです。それは詩の想像力でなければ成り立たないというか...‬


‪絵の真ん中の人物ですが、青い地球を眺めるアルロと傍らにいる何かは、ウィリアムブレイクの想像力によるものなのですね。‬

‪ブレイクについては、小森さんがFBの投稿で書かれていましたが、わたしもブレイクは大江によって知りました。大江は思考不可能なものを思考するブレイク像を打ち出したとわたしはおもっています。‬

‪それからアイルランド時代で考えたイエーツとジョイスのブレイク。ロンドン時代のロマン主義のブレイク、そしてコンテンポラリーアートの先駆者として評価されようとしているブレイク。‬


詳しくはないのですが、四年間は、ブレイクが一時期すんでいたハムステッドヒース付近にいましたので、ブレイクの散策を考える毎日でした。絵の中で白い線で構成された線全体がブレイクの思索の軌跡です。これが「母親」が若者たちを抱いているように見えたらいいなぁとおもっています。‬


‪戯曲はドイツを背景としたものですが、イギリス化(ネオリベグローバル化)していくなかで若者たちのもつ疎外感のことは非常によく理解できました。公家さんから、若者を描くのなら、ひとの眼が気になって出られなくなった若者のイメージを是非描いてほしいというアドバイスを受けたので、『ラリー』の見学のときにスケッチしたものを利用して描きました。‬


‪公家さんがお選びになった元となった絵は、ブレイクを考えたロンドン時代に描いて未完成のままだったのですが、十数年たって、おかげさまで、なんとか完成しました。‬


‪三月の皆さんのお芝居『揺れる』から学んで、ブレイクの理解を深めたいとおもっております。どうぞよろしくお願い申し上げます。‬


映画の孤独とはなにか?


“バベル”の災厄以降、他者との出会いが不可能になった。過去からやってくる他者である映画と出会えなくなったということについてちょっとかんがえてみたい。映画は生産されなくなったから映画が消滅したのではない。むしろきょう映画は生産されている。問題は、あまりに沢山の映画が生産されたこの氾濫の中で、考えるために見る過去の映画が消滅したということだ。このことは、一国民主主義と自立的国語の近代以降、新しい漢字を量産していく体制のなかで、「前近代」の思考を可能にしてきた漢字エクリチュールが消滅し始めた事態と比べられるかもしれない。わたしは近代に絶望している。なぜか?近代とは生産の永久革命だといってもよろしい。つまり映画の運動はこの永久革命に従属してきた結果、映画の消滅が必然として起きたのである。イメージの単純な増加によって映画におけるバベルの塔への投射は崩壊することになったと言わざるを得ない。2000年になって、時間をまもってきた大切な映画の名は忘却されることになった。と、われわれは映画はキスのイメージであふれていたことに気がつくのである。映画の孤独は忘却にキスするしかなかったと。百年後の人々は映画の名を忘却してしまったわれわれをこう思い返すかもしれない...


天皇ファシズムの後に生きておらずたんに明治維新の近代の後に生きていると考え、また日中戦争の後に生きておらずただアメリカとの戦争の後に生きていると思っているわれわれの問題



 ‪ ‪ ‪  ‪田辺元の「種の論理」は普遍主義を超える本物の類と個が媒介において成り立つというが、媒介とは類と個が死にに行く戦争万歳のナショナリズムでなければその正体は何だろう


危険なことに、ボリスはBrexitを対独戦にたとえてきた。第二次大戦に大勝利した英国を思い起こせというが事実は乞食だった(ケインズは米国に行って金をくれと請うた)


「美しい映画だとおもう」。映画館のなかでいきなりわたしの真横で喋りはじめたひとがいた。アンナカリーナだった。びっくりした。いつの間にそこに立っていたのだろうか、暗くてわからなかった。そのときは新しいプリントの『アルファヴィル』上映のときにダブリンに来ていたことは知らなかった。「ゴダールの新しい映画もみている」と聴衆に答えていた。アンナカリーナといえば、わたしは『男と女のいる舗道』でのこの場面ーカフェでアンナは隣にいた哲学者と語るーが好きだった。言葉を語ろうとするとどんどん意味がなくなっていくみたいだ。語るためには語らなかったこと、死を通過しなければならないというようなことを互いに語っているんだね。いま改めてその意味を考える。このわたしもわかっているわけではないけれど、形而上学は死を問題としたのは、形而上学は自ら語るためだったのではないか。哲学者とともにアンナはいきている。死んだと考える必要がないじゃないか...


言葉を語るとどんどん意味がなくなるから、語るためには語らなかったこと、死を通過しなければならない。形而上学は死を問題としたのは、形而上学は自ら語るために必要だったのだ


『アルファビル』のこの場面は、30年後の『映画史』のラングをひく編集において冥界の蝋燭達(魂達)の光景が重ねられる。ホテル廊下をグルグルしているそこはまるで皇居だ。祀る都市であり祀られる死の都市「トーキョーラマ」ー天皇の俯瞰する視線に従属する日本知識人達の住処ーを探偵レミー・コーションが破壊してアンナ・カリーナを救い出す未来をわたしは想像している...


パリで小さな仕事があったのでダブリンにあるフランス語学校に通ったとき、会話のレッスンで、「現在活躍している好きな女優はだれですか?」と聞かれたので、答えにこまったが(わたしは女優に興味がない)、一応、「アンナカリーナ」といったら、「あなた、アンナ・カレーニナは昔の人でいま生きていないのよ」と女性に言われてみんなから笑われてしまった。発音も悪かったのだろう、もう一度、少し説明して映画の女優であるその名をはっきり言ったつもりだったが、またゲラゲラ笑われた。「アンナ・カレーニナはロシアの実在しない人なのよ」と。先生からアンナカリーナについての説明の言葉もあったが、アイリッシュはフランス映画に興味がない。文化人達をはじめ彼らの関心はロシアのトルストイなのである。


「神(=人間)は死んだ」のニーチェの外部は私はわかっていない。フーコがいう先験的=経験的二重体(=人間)が成立する前にあった古典主義時代の思考に答えがあるかもしれないとおもう。同一化に対してどうしてもわきおこってくる差異化の方向に線をひくこと。「近代」を相対化する為に「前近代」と彼らが侮蔑的に名づけたものを呼び出すこと。ブレイクの詩をひく

 

Tyger! Tyger! burning bright

In the forests of the night,

What immortal hand or eye

Could frame thy fearful symmetry?

 

 

虎! 虎! 赤々と燃える夜の,いくつもの森で,

どんな不滅の手でも目でも、汝のおそるべきシンメトリーをかたどることはできまい



イラン革命は文字通りの意味での革命ではない。あれは立ち上がり、再び立ち向かうやり方なのだ。これは我々皆に、ただしとりわけ彼らに、あの精油所の労働者、諸帝国の果ての国の住人にのしかかっている恐るべき重み、全世界の重みを取り除けたいと思う素手の人々の蜂起なのだ。-フーコ『反抗の神話的指導者』


近代というのは、泥濘のなかを死に場所もなく、どこまで、目的もわからず悪路を往っては帰り、また出かけては戻りして疲労する兵士の姿に喩えられる。終わらせなければ終わらない


 ‪21世紀においてもっとも興味深いのは、思想の歴史の歴史ーたとえばヨーロッパ思想史とアジア思想史との比較を可能とする物の見方の歴史ーではないだろうか。Keyとなるのはフーコがいう「バベルの災厄」である。「バベルの災厄」はヨーロッパだけでなくアジアにもがあった。四書とそれらを再構成する朱子学を崩壊させたのが宣長による思想闘争ー「神(カミ)とはなにかわからない」ーだった。「バベルの災厄」以降、言葉(パロール)を語るとどんどん意味がなくなるから、語るためには語らなかったこと、死を通過しなければならない。オリエンタリズム批判とポスト構造主義が明らかにしたヨーロッパ思想史とアジア思想史との交差点はここであるーそこで形而上学は死を問題としたのは、形而上学は自ら語るために必要だったことをかんがえはじめたのだった‬。思想の歴史の歴史は、ポスト構造主義を英語をよんだ漢字文化圏の言語支配者の中国の学生たちがいわばマイナー言語における江戸時代のポストモダン孔子を考えることによって展開するのだろう。


ジル・ドウルーズが問題提起した「マイナー文学」における遠くにあるゲーテの言説的文学にカフカの侵入したイデッシュ語とは何者か?ロンドンのユダヤ人から習った。「耳は何というの?」「mimi 」。そうなんだ、吃驚。「目は?」「me 」。「ちょっとあなた、おちょくるのをやめてよ!」「おちょくってないよ。だってイデッシュ語はね、根無し草だから、どんな言語にもすむことができるのさ。僕とのあいだに存在する言葉なんだ」


‪講座「明治維新の近代」によって、関係の外部化ー日本近代と中国反近代という二つの点(起源)の間をひく線の外部化ーをわたしはだんだんとかんがえるようになってきた。あと二回



フィネガンズ・ウェイク』からみると、現代ナショナリズムを形成しているのは近代国家が無かった伝統と保守ではなく、一国民主主義と一言語的自立主義の永久革命へ行く言説である


『ザ・デッド』でスタジオの中に完全なダブリンを作ったハリウッドは『フィネガンズ・ウェイク』の映画における継承だろう。アメリカというのは、自身は一国的民主主義と一言語的自立主義のナショナリズムをみとめない一方で、他国におけるナショナリズムの代わりを完全に作りだすことが可能だとおもう


「戦没学生の手記」を無意味にするなとおもう。「太平洋戦争」(という言い方)が隠蔽しているもの、日中戦争の後に生きておらずただアメリカとの戦争の後に生きているといつ迄も疑わぬ異常なわれわれの問題。非合理なことに、「日華事変」は日中戦争ではないとしているから、領土問題は戦争によってしか解決しない点を学ばない。どうしていまだ15年間の日中戦争を戦争として認識できていないのかは、明治維新の近代の出発に遡ることである。明治維新の近代は終わらせなければ終わらない。田辺利宏「泥濘」をひく。


寒い泥濘である。


泥濘は果てしない曠野を伸び


丘をのぼり林を抜け


それは俺たちの暗愁のやうに長い。


・  ・・・・


愛と美しいものに見離されて


ただひたすらに地の果てに向い


大行軍は泥濘の中に消える。


ながい悪夢のやうな大行列は


誰からも忘れられて夜の中に消えるのだ


植民地化するヨーロッパは植民地化されるヨーロッパである。これは一考に値するとおもう。一国民主主義と自立的一言語主義の見方が成立しているその奥からは、帝国主義の時代のヨーロッパにおけるアイルランド植民地化の意味がみえない。だからそこから今日のナショナリズムは理解できないでいるのではないかーヨーロッパの人格が支配された恐怖も、アジアの人格が帝国日本の天皇の「大御心」(その公的性格は国民主権の代わりであるとされた)に従属したその恐怖も


一国民主主義とは、大逆事件の後に確立した日本帝国主義満洲事変に向かう統制を「大正デモクラシー」などと呼んでこれを理想化すること、自立的一言語主義の見方とは「国語」という思想を自明視してしまうこと


フレームから考える映画の方法としての神話的思考

‪映画というのは、方法としての神話だ。フレームは操作による(世界の)変形だ。フレームのなかに世界をとらえようとすると、世界は全体であると同時に枠づけられた世界は部分である。全体は全体である。全体を部分にすることができないのだから、これはフレームにおける矛盾だ。(スクリーンへの投射はこの矛盾を隠蔽してしまう。) そこでレヴィストロースが言うように、フレームに起きる矛盾に仮面を被せてみよう。何がみえてくるか。カオスがコスモスに先行していたのだ。ロゴスはギリギリ要請されるとしても、統一などできやしない。フレームから考える映画の方法としての神話的思考は、デリダ脱構築論、ドゥルーズリゾーム論‬とおなじ物の見方をなすとおもう