MEMO

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Chaosmos of Alle 

万物のカオス(コス)モス


ーFinnegans wake  James Joyce



‪映画というのは、方法としての神話だ。フレームは操作による(世界の)変形だ。フレームのなかに世界をとらえようとすると、世界は全体であると同時に枠づけられた世界は部分である。全体は全体である。全体を部分にすることができないのだから、これはフレームにおける矛盾だ。(スクリーンへの投射はこの矛盾を隠蔽してしまう。) そこでレヴィストロースが言うように、フレームに起きる矛盾に仮面を被せてみよう。何がみえてくるか。カオスがコスモスに先行していたのだ。ロゴスはギリギリ要請されるとしても、統一などできやしない。フレームから考える映画の方法としての神話的思考は、デリダ脱構築論、ドゥルーズリゾーム論‬とおなじ物の見方をなすとおもう


ダブリン時代のピンタの映画の特集を10日間やっていたときの話ですが、インテリがユダヤ人問題を考えるという映画だったので私は全部みたのですが、映画としては耐えられないほどつまらないものでした。わたしはいつも映画における構図を考えるので大抵は同じ席に座るのですが、毎日ガラガラの映画館のなかで毎日自分の前に同じひとが座っていました。体格がよく帽子をとらず行儀悪く前の席に足をのせて映画を最後まで見ています。ある日、観客は、私とその彼だけでした。とうとうこの日が来ました。多分浮浪者だろうこの男に、「あなた、こんな映画、一体何が面白いの?」と顔をのぞいてきく日がきました。だけどそのときは帽子をとっていて、頭に包帯を巻いていて、何か聞く気がなくなりました。思い出の中では、この男からみると毎日同じ背後の席に座っているこちらのことも怪しいと感じたのだろうけれど、彼はアイリッシュにしては外国人慣れしている。それから二人は闇のなかに...あとで、そのときは彼がダブリンに来ていて映画館の男がピンタその人だったことを知りました。ピンタはノーベル賞受賞がきまったことをこのダブリン滞在中に知ったようです。


Être de gauche c’est d’abord penser le monde, puis son pays, puis ses proches, puis soi ; être de droite c’est l’inverse.  Gilles Deleuze


恵比寿の「去年マリエンバートで 」L'Année dernière à Marienbad


‪「去年マリエンバートで 」とは何か?それは、自己のまわりから外部を考えることができるかという問いかけである。われわれはフランス風の庭園から彫刻と共に立って建築を見る。その中では、長い廊下に沢山の類似しあった部屋があるのに、もはや記号はものを引きよせ結びつける力が失われていることを知る。記号は認識でなければならなくなっている。過去における類似物と相似の意味世界は認識にとって周縁となってしまった。それにたいして、映画は、記号を、ラディカルに記号が記号として成り立たたない認識の体制から脱出させた。そうして今度は記号が外部から自分のまわりを考えようにできるために。外部からなにが自己のまわりに見えてくるか?ここから、不可避の他者が立つ外部における卑近から、「去年マリエンバートで 」とは何かを問うことの意味がでてくる‬


トリエステまでいくと南ヨーロッパとトルコが感じられたものだ。ブルガリアの女性が、スペインから排除された人々をオスマン帝国が助けたと喋っていたのを思い出す。ヨーロッパのイスラムとの関係についてこれを一体的にすることは難しいのは何故か?問題は、スペイン行った「ホロコースト」の16世紀に遡る。イスラムは自分たちを排除することによって成立した「近代」を全面的に受け入れることは不可能なのだ。‬この排除された人々ースペインのイスラム人ーの歴史を忘れてしまっては、新しい普遍主義を再構成していくことはできないのじゃないかね


アルチュセールがやったように、マルクス剰余価値の理論を国語という思想に適用できないか?日本語は一国的自立言語であると教えられる。それは記号であるかぎりにおいて内部に普遍的な表象能力をもたなければならない。透明な自己自身のために整えられているとする音声主義の言説の極端において、漢字には豊かな文化を実現してくれる表象能力がないのである。しかしほんとうにそうか?この思想の問題は、漢字圏の言語から、「多様的漢字受容世界」(子安氏)から、意味作用の配置を盗んでいる点にある。一国民主主義の思想と共に、ヘイトスピーチナショナリズムを生み出している。


「ラジオになること」、「エレクトロニクスになること」、「分子的なものになること」といった万人の生成変化に武器を提供するものなのだ。これらすべての決定不可能な命題を通過しない闘争は存在しない。すべての闘争は、公理系による接合に対して、革命的な連結を構築するのである。―D=G (下)p245



‪かつてオーストリア帝国に属していた、ハプスブルク家別荘があるトリエステに、カフカの城みたいな城跡がある。ジョイストリエステにいた。ダブリンから行くときは、ドウルーズのマイナー文学の意味を考えた。動物に成ること、イデッシュ語を以て、ゲーテ普遍主義を解体する、周辺の普遍主義を政治的に書くマイナー文学の意味。脱出ならば、それと同様に、他者('学者さん')に成ること、17世紀の漢文読みを以て、徳川ジャパンの普遍主義を書くという、解体朱子学の古学にもあった、そう考えることができないだろうか。



もう人間とはおさらばだ、

妖精と共同生活しよう

とりあえず現在もっているものと

できそうなことをクレヨンで書き出してみた...

国際便で何ヶ国も彷徨う19箱の本たち、

マイナーなものづくり、地下茎のように

共通の部分が腐ったガラクタ学問、

そして思想史的遠足


The Logic of the Place of Nothingness and the Religious worldview (1945)

ーKitaro Nishida (trans. David A.Dilworth)


Not everyone is an artist. But to some extent at least everyone can appriciate art. Nor is everyone a theologician, and rare is the man who experiences a religious conversion. To some degree, however, any person can understand religion. There is probably no one who does not feel a strong resonance in the depths of his heart when he reads the fervent confessions of belief of the great religious figures. Moreover, upon falling into condition of extreme unhappiness, there is probably no one who does not feel some religious sentiment welling up from the depths of his own soul. Religion is an event of the soul. Philosopher cannot fabricate religion from their own thought system. They must explain this event of the soul. To do so、they must experience religious in themselves to some degree



‪ダブリン時代にハロルド・ピンタの映画の特集を10日間やっていたときの話ですが、インテリがユダヤ人問題を考えるという映画だったので私は毎日映画館に通って(IFC)、全部みました。問題提起がありました。ただ正直、映画としては耐えられないほどつまらないものでした。わたしはいつも映画における構図を考えるので大抵は同じ席に座るのですが、毎日ガラガラの映画館のなかで毎日自分の前に同じひとが座っていました。体格がよく帽子をとらず行儀悪く前の席に足をのせて映画を最後まで見ています。ある日、観客は、私とその彼だけ。とうとうこの日が来ました。多分浮浪者だろうこの男に、「あなた、こんな映画、一体何が面白いの?」と顔をのぞいてきく日がきたのです。だけどそのときは帽子をとっていて、頭に包帯を巻いていて、何か聞く気がなくなりました。思い出の中では、この男からみると毎日同じ背後の席に座っているわたしのことも怪しいと感じたのだろうけれど、彼はアイリッシュにしては外国人慣れしている。アイリッシュではない。沈黙。それから二人は闇のなかに...。あとで、映画館の男がピンタその人だったことを知りました。ピンタはノーベル賞受賞がきまったことをこのダブリン滞在中に知ったようです。‬彼の『ハッピーバースデー』をロンドンで観ました。闇のなかで誰が何を喋っているかわからない場面があります。パッと舞台が明るくなると、死体があります。と、この芝居の闇によって、あのときの闇は何だったろうのかということを考えていました。わからないままですが、「黒板」のようなものではなかったでしょうか?誰が何を喋っているかわからない外の暗闇に書き続けるしかないわけで、「意味」がでてくるまで...‬


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昨年から脚を痛めてもう遠くにいけないかも...痛いと知らない暗いところに歩くのが大変とおもってしまうのだね。わたしはこの芝居を知らないのだけれど、面白そう。「指令」「察知」「不安」かあ、なるほどね、ハロルド・ピンタの世界かもね。中々字がうまい!「外部」もあるとおもうよ。それから「意味」。ところで、「指令」「察知」「不安」と「殺し屋」との間に共通なものはなに?

わたしも、手も足も出ずという感じで彼の『ハッピーバースデー』をロンドンで観ました。今回投稿された写真を見て、「指令」「察知」「不安」と「殺し屋」に共通しているとみえたものは...「黒板」でした。誰が何を喋っているかわからない外の暗闇に書くしかないわけで、意味がでてくるまでね


Becoming walk of Duchamp's bachelor-machine, becoming girl and plant, becoming process itself, becoming space of...

ー D=G


アレンジメントは内容と表現の区別に従属しているかぎりでは、まだ地層に属している。(…)しかし内容-表現の区別が新しい形象をおびているかぎり、厳密な意味ではすでに、地層とは別の要素にわれわれは直面しているのだ。――(下)p306


彼(三木清)の言う修辞学というのは、つまり社会を分析するんじゃなくて、社会をいかに動かすか、いかに変えるか、というような手だてとしての学です。そういう修辞学がわれわれには欠けているということを三木氏は力説しているんです。

小田実『対話篇(中村真一郎との対談)』1973


「アジアになること」も、「分子的なものになること」と同様に、万人の生成変化に武器を提供するのだろうか?『漢字論』のあとに、だれが良質なアジア主義の修辞学を書くのか?


ヤジは自由であるが、やじってきた相手に「ヤジるな!」とただすときは先ずは自分をたださなくてはね。安倍の問題は、隣国を批判するときはまずは自分をたださなくてはいけないのに


‪昨日は高田馬場の喫茶店で象徴性をめぐってワイワイガヤガヤと話し合う時間をもった。これは、国民に主権があるということは国会に議論があることであるはずなのにー選挙制度によらずー、国民の間で危機に感じられていない危機を考える視点を与えてくれた。今朝思い出しながら不十分ながらも私なりに理解した仕方で整理してみた。あるものの見方が一度確立されるとそのなかでそれとは異なる見方をするのが困難となるこの意味で、戦前において確立した国家祭祀と天皇機関説は両立しないように、平成から確立した祈る天皇の象徴性がつくりだす統合と国民主権は両立することがないのである。象徴性の代償としてこれからわれわれはなにを犠牲にしなければならないのか?これは民主主義の問題である。これに関してきちんと思想史的に子安氏が12日に大阪で、14日東京でお話しするので、そこで考えを深めたいとおもう‬


The idea that free-trade imperial states use informal controls to secure their expanding economic influence has attracted Marxists trying to avoid the problems of earlier Marxist interpretations of capitalism. The approach is most often applied to American policies. (Wiki)


Reviewing the debate from the end of the 20th century, historian Martin Lynn argues that Gallagher and Robinson exaggerated the impact. He says that Britain achieved its goal of increasing its economic interests in many areas, "but the broader goal of 'regenerating' societies and thereby creating regions tied as 'tributaries' to British economic interests was not attained." The reasons were:


the aim to reshape the world through free trade and its extension overseas owed more to the misplaced optimism of British policy-makers and their partial views of the world than to an understanding of the realities of the mid-19th century globe.... the volumes of trade and investment...the British were able to generate remained limited....Local economies and local regimes proved adept at restricting the reach of British trade and investment. Local impediments to foreign inroads, the inhabitants' low purchasing power, the resilience of local manufacturing, and the capabilities of local entrepreneurs meant that these areas effectively resisted British economic penetration. (Wiki)


国事行為ならば儀式である。しかしその逆は真ならず。それは国事行為でなければ、無限定に国民を統合する象徴性をつくり出して国民主権を破壊する危険があると憲法は抗議している




seq2 事物(もの)のあいだとは、相互に一つのものからもう一つのものに及ぶ定位可能な関係を指すのではなく、一つともう一つを両方ともまきこんでいく垂直的方向、横断的運動を指すのだ。始めも終わりもなく、両岸を侵食し、真ん中で速度を増す流れなのだ。p.61



‪Kleist, Lenz ou Büchner ont une autre manière de voyager comme de se mouvoir, partir au milieu, par le milieu, entrer et sortir, non pas commencer ni finir. ... C’est que le milieu n’est pas du tout une moyenne, c’est au contraire l’endroit où les chose prennent de la vitesse. Entre choses ne désigne pas une relation localisable qui va de l’une à l’autre et réciproquement, mais une direction perpendiculaire, un mouvement transversal qui les emporte l’une et l’autre, ruisseau sans début ni fin, qui ronge ses deux rives et prend de la vitesse au milieu.‬


D=G





土曜日の子安氏の講座で、尾崎秀実の、ひとつともうひとつの両方を突き動かす為に先ず日本が自らを変革する横断的運動、世界革命としてのアジア主義の透明な意味を考える。津田左右吉におけるラデイカモダニズムは「シナ」を消去するが、尾崎のアジア主義の言説は中国を書いたのだ。だが尾崎の知的誠実さは、明治維新の近代が極端へ行く昭和十年代にとって不透明である


統合の象徴性は憲法の分裂する力を奪ってしまう。「立場を超えて皇室に共感」(大澤真幸)という。No!それは意味があるのかと問う分裂が人間であるかぎりにおいて必要である


明仁天皇が実現していったのは「解釈改憲」的象徴天皇像である。」「そして今、新たな象徴天皇の即位に当たって歓呼する国民は、新たな「ノモス的主権者」たる象徴天皇に真の主権者たる自負も自覚も譲り渡してしまったことを知らないのである。」

(子安宣邦氏 天皇の「象徴的行為」について)


ナルちゃん、ピンチ!君のパパの象徴的行為(清宮説)は解釈改憲的で、意図せずに戦前との連続性もあるかもよ。この天皇のあり方を継承してはならない。賢いマサコさんが教えてやれ


それゆえアレンジメントにおいては、これらの表面よりもなお深い何か、前提しあう二つの形式、つまり表現の形式あるいは記号の体制(記号的体系)と、内容の形式あるいは身体の体制(物理的体系)とを同時に考慮するような何かに達しなければならない。それをわれわれは抽象機械と呼ぶ。――(上)p289


宮沢は天皇機関説を支持していた。象徴が象徴となるのは宮沢説がいう憲法の定める国事行為のうちにおいてであって、清宮説がいうような象徴行為のうちにおいてではない。令和天皇はex天皇の象徴行為的天皇像を継承するという。万歳三唱!未来を思い出す悪夢ー戦前からノモス的主権の言説が国民主権を奪ってくる


権利のない社会に反対!象徴行為的天皇像と共に、戦前からノモス的主権の言説が国民主権を奪ってくる時代において、新しい転向というものを考えるとしたらが誰が転向しているのか?



‪ ‪現在は『朱子語類』と宣長を読んでいるのだけれど飯田橋『仁斎論語塾』の二次会のワイワイガヤガヤのお喋りのときだったのだけれど、最近「思想史研究会」講座から参加してきた洋書翻訳をよく読んでいる仲間と喋っていると、「注釈」についてのイメージが彼と違うことに気がついた。その人がもっている「注釈」は語の説明なんだね。点と点との翻訳的対応をおもいえがいているように感じた。‪わたしは思想史アマチュアだが‬、私の考える「注釈」はむしろ線と空間との関係である。思想は自らをあらわすためには言語を要する。命題が言語となっていく時代がある(フーコはこれを「古典主義時代」という。はじめて言説が命題のかたちで言明されるようになった) 。命題とは、自らをも分析する、分析の順序をもっているという線的構成である。それに対して思想というのは平面なんだね。われわれは空間を考えるときは絵をみるときのように同時的に全体をみる。そうだと考えると、問題は、線はいかなる権利にもとづいて、平面をあらわすことができるかということ。言語は分析の順序をもってみていくかぎり、空間を同時的にとらえることができない。線は不可能性をいかに解決するのかである。おそらく解決できないだろう。そこで注釈の出番ということになる。空間の普遍的なものは存在しているのではなくて線において要請されているのである。「注釈」はこのことを書くのである。それは「注釈」を超えた思想かもしれない。語というよりは、言説への従属を拒む<言葉>なのだ。そうして『童子問』の仁斎は、中国における言語支配者の垂直的に遠く高くある普遍主義に対して、水平的に自分のまわりにある卑近なものにこそ普遍主義があると考えたとき、<言葉>から「理念性」を発見したのである。中心は言う。思想の普遍性を書くためにはその言語に普遍性がなければいけないと。 その普遍性は周辺において存在しないからこそ要請されるのである。 17世紀のその「理念性」は垂直と水平から成る新しい思考の斜線であったとわたしは理解している。‬儒者たちはこの斜線において多様性の思想を権利として自分たちのものにしたのである。



‪古典主義時代における「語ること」は命題の線的構成によって可能となる。それは分析の順序をなす。そこに言説がはじめて成り立つことになったとフーコは言う。さて思想は絵画のように全体を同時的にみなければみえてこない平面であるとき、思想は自らをあらわすとき命題すなわち順序の分析である線的構成において可能なのか?不可能だと答えることは単純すぎる。渡辺一民氏がやったように多分『言葉と物』の絵画分析をかんがえながら第四章『語ること』を読むときは、そう単純にはならない。問題は、問いが前提としている全体の概念である。よろしい、還元され得ない思想の空間は普遍主義であるとしよう。だけれど思想はそれほど全体性なのかという問題がある。どうしても全体性というならば、それは線が関わるのはベラスケスの絵画において構成されていた全体性なき全体性ではないだろうか。全体性は魂のように消滅し切るかといえばそうではなくて魂の如く現れるのだ‬ね。わたしは思想史アマチュアだからこんなふうに考えるのだけれど、普遍主義という名の全体性なき全体性を多様性と呼ぶことはやはり急ぎ過ぎた理解なのだろうね


17世紀の知識革命‬ 

近代においては、価格が価値をきめる。ネオリベラリズムの思想が席巻する現在、何でも彼でも金がものをいう。そこでは社会と市場とが 、価値が価格と同一視される。そういう物の見方が確立したのは、そう遠くに遡らない。500年前からの17世紀、交換の時代から始まること。だけれど、この時代の支配的思想は、価格と貨幣に先行して、先ず価値あるものは何かを問うたのである。価値あるものをいかに分類し名を与えるか。二つの価値あるものが交換されるのはなぜか?それを文のどこで言語化できるか?17世紀の思想は、複雑な世界から自立しはじめている、簡単な世界の現れをみている。17世紀の思想革命は、複雑な世界をみる物の見方にたいして リアルにかんじられないときはじまった知識革命であった。同時代的に、アジアでも町人が推進した知識革命が起きた。‪「道あり人あり」という「道」よりも、「人あり道あり」の「道」のほうが価値があるのはなぜかを‬根本から問うラジカルさをもっていた。ここから、仁斎は、当時東アジアを代表する思想ー朱子学ーにたいして思想闘争を挑んだ。改めて、思想革命とは何か、私なりに整理すると、それは、究極的に依拠できる価値あるものを学において発見していくことではないか。学問は近世まで寺社と宮廷貴族に独占されていた。町人が学の要請された意味を発見していく。江戸時代の学問する町人たちは、複雑な世界(奥深い内面)から自立しはじめている、簡単な世界(天と地の間の往還)をリアルにみはじめているのである。思想の解体的ラジカリズムを、あえて『論語』を選んでその読みを再構成していくことによって、万民のために普遍化していく‬ ‪。 ‪アベノミックスと呼ばれる安倍政権に体現された‬、ネオリベラリズムの近代は、17世紀において卑近さから語り始めた自らの画期的な視点を生かしているだろうか? 

17世紀の思想は、複雑な世界から自立しはじめている、簡単な世界の現れをみている。17世紀の思想革命は、複雑な世界をみる物の見方にたいして リアルにかんじられないときはじまった知識革命であった。同時代的に、アジアでも町人が推進した知識革命が起きた。「道あり人あり」という「道」よりも、「人あり道あり」の「道」のほうが価値があるのはなぜかを問うラジカルさをもっていた。ここから、仁斎は、当時東アジアを代表する思想ー朱子学ーにたいして思想闘争を挑んだ。改めて、思想革命とは何か、私なりに整理すると、それは、究極的に依拠できる価値あるものを学において発見していくことではないか。学の要請された意味。それは人においてはじめて可能となるものである。17世紀思想が発見した学びこそ、万人が依拠できる多数の入り口をもっている。近代は卑近さから語りはじめたこの画期的な視点を生かしているか? ‪「この道しかない」とする、1%と99%を分割しようとするネオリベラリズムの思想は学に値しない。それは「人あり道あり」の「道」ではあり得ない。‬

( 現代にあってモーツアルトは簡単すぎてかえって演奏が難しいという。是と比べたいのは、『論語』"為政第二"で、ここから簡単すぎて読めなくなる。「天下の儒者たちの語る言葉がただ高遠であって、卑近でないのは、彼らに徳がないからである」と伊藤仁斎が言うようには...

対話による言語を学ぶのはとりあえず思惟だ。思惟は最初に誰が言ったかを読む。思惟と切り離せないもので、行いによる言語を学ぶのは身体。身体は卑近を読む倫理だ。卑近も、高遠と反対の方向からの理念的構成物だから、その解釈はそれほど簡単にそこに無いと知って愕然とする)


L'alphabet et la representation absolu


アルファベットの意味とはなにか? 

ー アルファベットと絶対的代理 

L'écriture alphabétique est la plus muette qui soit, puisqu'elle ne dit immédiatement aucune language. Maid étrangère à la voix, elle lu est plus fidèle, elle la représente miex. Derrida 「アルファベット文字は、直接的にはいかなる言語も語らぬがゆえに、すべての文字(エクリチュール)のうちで最も無言である。しかし、声とは無関係でありながらそれは声にいっそう忠実であり、声をよりよく代理(表現)するのである。」 D

 E

 C

 O

 NSTRUCTION


Behove this sound of Irish sense. Really? Here English might be seen. Royally? One sovereign punned to Peter y'all pense. Regally? The silence speaks the scene. Fake ! ‬

‪So This is Dyoublong?‬

‪Hush! Caution ! Echoland !‬

‪(Joyce Finnegans Wake )‬


Mais l'immobilité attentive de ses yeux renvoie á une autre direction qu'ils ont suivie souvent déjà, et que bientôt, à n'en pas douter, il s vont reprendre : celle de la toile immobile sur laquelle se trace, est tracé peut-être depuis longtemps et pour toujours, un portrait qui ne s'effacera jamais plus.(Foucault)

つまり、すでにしばしば彼の眼がたどってきた、そして疑いもなくただちにふたたびとるであろう方向 、いいかえれば、そのうえに、もはや決して消されないであろうひとつの肖像がおそらくはずっと以前から、そしてこれからも描かれつづけ、描かれたままであるにちがいない、不動の画布の方向のことだ。(フーコ 『言葉と物』渡辺訳)


あなたほど信条をもたぬ保守の政治家は存在しなかったよ、Bye bye!さて安倍退場のあと応援するものを失っても日本会議のウルトラナショナリズムが収束するように思えない


‪ねえねえ、大嘗祭やってもらって、しあわせになったひとがひとりでもいるのかしら?国家は異界の入り口を独占したいらしいけれど、多分入り口は何処にもあるよ。路で拾った4個の石をリズムよく順番に左右のポケットに入れたり出したりすれば時空の歪みへの入り口になる。ベケットの小説に書いてある...‬


「安倍を見る」会の国民のみなさんは飽きないのですかね?




フレームから考える映画の方法としての神話的思考

‪映画というのは、方法としての神話だ。フレームは操作による(世界の)変形だ。フレームのなかに世界をとらえようとすると、世界は全体であると同時に枠づけられた世界は部分である。全体は全体である。全体を部分にすることができないのだから、これはフレームにおける矛盾だ。(スクリーンへの投射はこの矛盾を隠蔽してしまう。) そこでレヴィストロースが言うように、フレームに起きる矛盾に仮面を被せてみよう。何がみえてくるか。カオスがコスモスに先行していたのだ。ロゴスはギリギリ要請されるとしても、統一などできやしない。フレームから考える映画の方法としての神話的思考は、デリダ脱構築論、ドゥルーズリゾーム論‬とおなじ物の見方をなすとおもう

思想史についてー思想史アマチュアが書きました

講座『大正を読み直す』のときに彼の名前をはじめて知ったとおもっていたが、そうではなかった。忘れていたが、思想の歴史に関心があったがどう勉強していいのかわからなかった学生時代に、津田左右吉の本を読めと父に言われた。そのときは何か彼をとらえている情緒的知を感じて非常に怖かったのを思い出した。『古寺巡礼』の和辻を読めと文化的にすすめてくる多分ヨーロッパに負けないと構えるこの言葉に躊躇いと後悔を感じないことはなかったが、比べると、津田を読めと言ってくるあの雰囲気は戦前からきた何かなのだろう。否、もしそうならばそれは戦後に隠蔽される何かであるはずだ。津田は戦後も考え方を変えていないということがあるのかもしれない。単純化を避けるべきだが、強いて言うと、和辻は思想の歴史を考えていたらという前提で言うと連続性があったというだろう。偶像を指差してそういうふりをするだろう。津田は彼の専門なのかわからないが思想の歴史に連続性をみとめないだろう。それを認めたら国家に対等でなくなっちゃうというか。しかしシナ文字が日本知識人の思考の発展を阻害したという観察は古代に遡って言われる。「シナ」消去の主張は一貫性がある。さてわたしは思想の歴史は現在もどう勉強していいのか分からずにいるアマチュアであるが、思想に歴史があるとか無いとかをわれわれが言うことにいかなる権利があるのかという問いに惹かれる。法の歴史に連続性は無いが、不連続であってはならない。これは論理的フィクションによる。思想の歴史はもっと複雑にみえるのは言語が関わるからだろうか、到底わたしのようなものに思想史に取り組むことなどは無理なこと。そのかわりに、映画の歴史ならわかるのではないかと思っていた。目に見えるものを対象にするからであるが、しかしこの見通しは甘かった。ヴィットゲンシュタインにおける盲人との対話において示されるように、人間の精神は、そもそも見ること自体を疑うところに来るからである。精神が見えないあり方をしているからかもしれない。映画史も思想史と同様に、見えないものとともに思考していく。結局思想の歴史が二重化しただけだったのではないかと自失茫然しているー此方では思想は見えないものであり、彼方にいっても映像は見えないものがある。絶えず精神は亡霊の如くこの二つの間に彷徨っている

コッポラの『地獄の黙示録』を読む

コッポラを称える

アメリカ人観光客が地図を携えて第三世界を旅行するときはいつどこでテロに襲われるかわからないという『地獄の黙示録』のなかにおいて描かれたような恐怖をもって歩いているのだろう。映画がやれることは少ないが、それ以上のことを伝える。レンズは構造に留まることが不可能な過剰である。レンズからやってきた映画はただの知覚である。映画は自分と似たものを作るだけである。地図はロゴスなき知覚に還元される。多分土地の名のない地図であろう。もはや地図を為さないたくさんの線になぞられた知覚の面というか。国家を制作するのは命名によることだとしたら、映画はこれとは反対のことー国家の解体ーを投射する。そのほかのことは、映画はなにを伝えることができるのかそれほどはっきりしない。映画は自分と似たものを作るだけだと書いたが、映画の際限のない言語は、いつまでも宙に浮いたままであり、決して何かの相似に満たされることはない。映画の徴はいたるところにあるー海に漂う板に、あるいは、映画のなかで不動のまま絶えず動くヘリコプターに


アイリッシュは『地獄の黙示録』を「魔法の絨毯」と嘲弄した。ナショナリズムを呼び出す諸言語における記号的透明性の中で世界に自分が類似している意味を読めないようにするから?


コッポラの『地獄の黙示録』。公開当時はベトナム戦争をこのように描いてはいけないとする映画に対する非難があったけれど、たしかテレビででやっていた。コッポラの構想の大きさを実現することは難しかった。マーロンブランドはなにもしなければしないほど出演のギャラが上がっていった。隙間があっちこっちで見えてしまう。映画制作がout of controlだった痕跡がみえる。この場面だけれど、ヒューマニズムというか子供の安全を非常に気にかけるけれど、サーフィンをするためならば村をナパーム弾で焼き尽くすことは全然かまわないこのアメリカ人の矛盾をどう表現するかは、撮影監督ヴィットリオ・ストラーロにかかっていた。酷く非現実的なピンクと黄色の煙からうつろな言葉が滑るようにでてくる。何とアメリカ人はサーフィンする海をバックに自己に投射した戦争を語り伝えるのだ。嫌悪感と恐怖に囚われながら、自己の中の言葉にできない闇の内部を吐露するように崇高な詩を作る “I love the smell of napalm in the morning." このヒロイズミは何もかもおなじで区別がない。世界を戦争にする狂気とはこれだと映画は伝える、と大袈裟に書くと、おまえはロマン主義といわれてしまうのでほどほどにしておこう(昭和維新ロマン主義で沢山だ。) 演劇にしたら面白いかもしれない。舞台で伝える。アメリカ人観光客はこういう思いで第三世界を旅行しているだけのことなのだと。こういうのは、脚本におけるロゴスの構造をもつ演劇が得意としてきた領域だ。だがロゴスなき映画ができることは少ない。カメラは構造に留まることが不可能な過剰である。レンズからやってきた映画はただの知覚である。映画は自分と似たものを作るだけである。地図は知覚に還元される。多分土地の名のない地図であろう。もはや地図を為さないたくさんの線になぞられた知覚の面というか。国家を制作するのは命名によることだとしたら、映画はこれとは反対のことー国家の解体ーを物語る。そのほかのことは、映画はそれほどなにを伝えるのかがはっきりしない。こちらの読みを、闇のなかで笑う映画か?原作のコンラット『闇の奥』はポストコロニアリズムにおける読む可能性をもっている。

フーコ『言葉と物』

フーコ『言葉と物』の序文と第十章が重要な理由は何か?ラテン語の「世界という散文」よ、さようなら、と、西欧はそれ自身からの異別化を行った。近代はそれによってヨーロッパ中心主義へ行く。形式化された普遍言語を切り開く。この知は地球の隅々までを支配した。日本の近代化は他の地域の近代化と比べてこの近代によって漢文の前近代をゼロにするほどの極端へ行く。一見最高の知をもつことができたが、問題は、それと同時に、帝国主義をもたらした。このヨーロッパ中心主義の克服は、構造主義と音声化の方向によって可能なのか?後者はたんに前者を対抗しただけではなかったか?第十章はこのことを問うた。人文科学を再構成すること。そのためには、マラルメの別の読み方が要請される。構造主義の言説から言葉を奪回する意味の大きな役割を考えてみよう。そうして『言葉と物』の第二章の重要性もみえてきた。「世界という散文」を「国語という思想」に置き換えていく永久革命の様相を示す近代「知」の表象性を批判するフーコの議論はこの章からここからはじまるといえないことはない。『言葉と物』は、復古主義でも伝統主義でもない日本近代のナショナリズムの正体を明らかにできる。