鎖国はほんとうにそれほど鎖国だったのか?

鎖国はほんとうにそれほど鎖国だったのか?


安倍応援団の日本会議の問題は、どういう国にしたいのかという理念性を拒否している点にあると思うのです。残念ながら思ったほどには左翼からも声がきこえません。ヨーロッパ諸国は戦後、平等と多様性を重んじてきました。権利のない社会に反対してきました。「鎖国」をして非常事態体制でも権利のある社会を壊しているようにみえないのです、個人に補償をしています。市場至上主義も停止です。平等を重んじつつ、文化多元主義を保とうとしています。ところが安倍日本は、非常事態宣言もしていないのに、どんどん権利のない社会を作っている感じです。ウイルスとの闘いなのに、まるで権利に対する闘い(権利を抑圧する)をやっています。多様性を破壊しています。また平等に関しては、多国籍企業を規制するためには、一国主義ではやっていけなくなってきた、グローバルデモクラシーの時代にいかにやっていくかについての理念が要請されています(本来「要請」はこんな意味ではないでしょうか。) 現在はやむを得ない鎖国となりそうですが、実は日本は鎖国がはじめての経験ではありません。近代からは悪い評価しかきかれませんが、鎖国の時代に学問と教育と文化が開花したのです。識字率はヨーロッパよりも高かったのです。鎖国はほんとうにそれほど鎖国だったのか?人びとは学んだのです。ウイルスの問題が解決したときに、国をどう開いていくかを考えて準備するときです。現在のように五輪ばかりにとらわれていたのではそれこそ本当に「鎖国」‪の自国中心主義に陥ってしまいます。

劇評; 東京演劇アンサンブル公演『揺れる』


揺れる』(マリア・ミリサヴリエヴィッチ作)は、ベルリンの壁の崩壊後の現代をえがいている戯曲である。<わたしたち。誰でも。何人でも>というト書きは思考を揺さぶる事件だ。これは、戯曲のコスモス(ロゴス)が、反コスモス(わたしたち。誰でも。何人でも)を利用して自らをグローバルに再構成しようとしているようだ。『揺れる』が呈示するカオスはなにか?‪『揺れる』は、なんでもかんでもカネがモノをいう社会に対するネガテイヴな明確なイメージをもっている。回路づけられた欲望の知覚し得ぬ極限に、隅々まで情報の客体となった身体の深い孤立がもたらす痛さこそがカオスである。これにたいして、マリア・ミリサヴリエヴィッチと東京演劇アンサンブルの舞台はウイリアム・ブレイクの想像力を導入する。舞台をみる。舞台に抱擁されているのは想像力。演出家の公家義徳氏の舞台は想像力の舞台からラディカルに問う。演劇は世界とともに、奪回した視線の肉体を以って、外の思考の領域へと逃げることが可能かと。引きこもりの箱たち?私と私のなかの汝の下に、微かに呟き続ける即自的に影のように私につきまとう身体が呟き続ける。そうして世界は根拠が与えられ、世界は突然、希望の無限の広がりを自分のものにしていくプロセスを想像できた。2020年という年に、『揺れる』の舞台をみることの意味は何か。全世界が音楽、演劇、映画、美術館をたずねる能力を失った現在、それらの真の価値を真剣に考えはじめることになった。演劇とはなにか?演劇とは、泣くこと、思いだすこと、笑うこと、考えること、学ぶこと、受け入れること、そして揺れるー揺らされるのなかで想像すること


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MEMO

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『揺れる』(マリア・ミリサヴリエヴィッチ作、公家義徳演出、東京演劇アンサンブル公演)を観劇すると、演劇は二つの真実がある。肉体を通して次第に素描され形成され均衡し明らかにされていく歴史の真実から揺れる、両義的であり続ける言説の真実が存在する。問題となっているのはこの揺れである。同一の空間(舞台上)に、解放の物語を教える過去への不安から外へ逃げるふりをした80年代の言説。これが、未来への不安から外へ逃げるふりをする現在の言説と、互いに惹き合う。‪舞台の空間は自ら折り重なる余白をもっている。この余白から何を学ぶのか?‬ ‪もうやっていけなくなった後期近代の行き詰まりにたいして、‬リアルに、われわれは外へ出るためには言説とのたたかいのなかにいるー確立した物の見方の中でそれとは異なる新しい物の見方が問われる

(下は舞台のスケッチ。舞台は速度のヴァリエーションがある)


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If everything on earth were rational, nothing would never happen. 

- Fiodor Dostoievski


なるほど、「不要不急」 はunessentialですか。国家にとって何がなんでもやりたかったオリンピックは内部の中心のようですが、音楽、演劇、映画、美術館は外部にあるような「不要不急」...


エクリチュールの神は医術の神である。この場合、「医術」とは、学であると同時に秘薬でもある。治療薬にして毒。エクリチュールの神はパルマコンの神である。(『散種』)


読むことは、さしあたり、書くことの後に来る行為である。それは、より慎しみ深く、より洗練された、より知的な行為なのである。ーボルヘス


小学校の正門近くに高木ブーさん家があって時々顔を出していたので毎週土曜日にドリフターズをみていたけれど、彼らは大人に人気があった。加藤茶チャップリンで、新しく現れた志村がバスターキートンに対応させていたわたしの親たちの世代は、現在は考えられないが、サイレント映画が記憶の卑近にあった。ドリフのコントはあまり分からず、最後の数秒間の建物(舞台)の崩壊するカタストロフィーからみんな逃げ出すように退場したのをぼんやり見た。キートンについてだけれど、アメリカ人と喋ったことがあるが、キートンの映画を通じてアメリカの風景を発見できる。キートンはいつも勇敢でイノセントなキャラだった。‪アメリカの開拓を伝える。‬風景は崩壊後の自失唖然と共に成立する。モダニズムの創造と絶えざる解体の形象?彼は声が悪くてトーキーの時代に人気を失ってしまう。ベケットは映画を作ったときキートンを導入したが、「最後の貢献」などと‪<父として>‬オイデプス的に道徳化されることはなかった。



志村の死もダイアナのときのようなギリシャ悲劇みたいな偶然の死だが、なんとしても理由がなければならない。「最後の貢献」とか?なんの理由もないからこそいよいよ悲劇的となる


‪le livre n’est pas image du monde, suivant une croyance enracinée. Il fait rhizome avec le monde, il y a évolution apparellè du livre et du monde, le livre assure la déterritorialisation du monde, mais le monde opère une reterritorialisation du livre, qui se déterritorialise à son tour en dans le monde ( s’il en est capable et s’il le peut) ーD=G‬


本は、根強く信じられているように、世界のイマージュなのではない。本は世界とともにリゾームになる。本と世界との非平行的進化というものがあるのだ。本は世界の脱領土化を確かなものにする。けれども世界は本の再領土化を行ない、今度はその本がそれ自体として世界の中でみずからを脱領土化する…。ーD=G


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•「生きた精神」が生き続けなければならないのは「死んだ文字」の中においてである。そして「生きた精神」を死から救い出すことができるのは、それを進んで蘇らせようとする一つの生命と再び接触するときだけである。ーハンナ・アーレント『人間の条件』23


‪It is always the “dead letter”in which “living sprit” must survive, a deadness from which it can be rescued only when the dead letter comes again into contact with a life willing to resurrect it, although this resurrection of the dead shares with all living things that it, too, will die again. ‬


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 居酒屋「講座」でしたか(笑)。梶野さんのような方に聞いていただく内容のあるお話だったか疑わしいですが、アイルランドの話に興味をもっていただきまして感謝申し上げます。たしかベケットと画家ベーコンのお話ですね。彼らは支配者層(10パーセントの地主階級)に属していたが、彼らの芸術に、アイルランド独立のときにプロテスタントの没落していった子供時代の経験が反映されていたのではないかという話でしたかね。永遠と言われても、来る人がいなくなった教会も売りに出されます。ただ「独立」もわたしが想像していたよりもはるかに複雑なものです。また現在それを考えることは自己言及的でもあります(“アイルランドは語る”は’アイルランド’を意味するというか)。独立後、従属が深まるのですね。まずアイルランドはヨーロッパのなかで植民地化された唯一の国です。こういうのは英仏独伊にいたのではわかりにくいのですが、ヨーロッパは非ヨーロッパを植民地化しただけではなく、実は自らも植民地化したのです。またアイルランドは政治は独立したが経済が自立できないアジア・アフリカ第3世界の代表選手です。ジョイス文学はモダニズムの勝利を記念した作品ですが、植民地を持たぬ近代というのはゼロでしかないことを暴露した本でもあります。現代アイルランドは、文学と演劇は70年代の「血の日曜日事件」と呼ばれる地域紛争をどうとらえるかが中心的課題です。演劇は再び世界に発信できた80年代が黄金時代でした。わたしが行ったのは90年代ですが、この時代は非常に優れた批評が出ました。’Inventing Ireland’(Kaibard)という本では、いかにイギリスがアイルランドを発明したかを分析した本です。アイルランドの「独立」は、明治維新と比べることができるような、クーデターによる独立が実現した独立でした。銃による政治はずっと続くのです。サイードが関心をもっていた、アイルランドの自立を考えているのですが、子安先生がいう「グローバルデモクラシー」に近いコンセプトではないかと思っています。これはアイルランドにいてはわかりにくいのですが、アジアから考えるとみえてくるものがあるようにおもいます。先生が外部から近代日本を批判的にみるというとき台湾から考えることなのですが、講演のとき先生が連れて行ってくれました。わたしにとって、台湾はアジアのアイルランドに対応しています。沢山の国に支配されてきたのでアイデンテイテイーに穴を開けるものがいっぱいあるのですね。この人生、残りは、くたばるまで、地球の視点で考えて行こうか、と、こんなこともやっと最近わかってきました。‬


現在「グローバルデモクラシー」を考えることは自己言及的であります(“ グローバルデモクラシーは語る”は’ グローバルデモクラシー’を意味するというのは、「グローバルデモクラシー」が開かれた問題だからです。We とかIという主語を以て語るとうまくいかないのは、「グローバルデモクラシー」について語っているからではないか?「グローバルデモクラシー」を語るためには、「グローバルデモクラシー」を逃がさなければいけないというか


「不条理が、列挙された物の分けられる場所である<なかで>を不可能にすることによって、列挙をささえる<と>を崩壊させてしまう。」このフーコの方法論を幕末の徳川日本に適用したらどんなことがいえるか?近代知<なかで>に絡みとられずに、<or>としての<と>を崩壊させてみたら、たとえば、幕末の神学と経済政策が出会う冒険が可能となるんじゃないか。<and>としての<と>に、言語が集中している


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お金ならあることはあります。五輪を主催することができるのですから。しかし五輪のリスクはお金がそれに吸収されて必要な所にまわらなくなることでした。現在は延長のための経済負担やコスト調整ですね、ここに吸収される金が大学生全員のネット環境のために平等にあてられないのですね。大学生はそれでも自分たちで勉強しなければいけないですが、子供たちに学ぶためのネット環境が必要です。一斉休校にしても学ぶ機会がありそれが平等であることがほんとうですが、残念ながら、教育勅語の国は学校(国のために教える)の体制しかないので、自発的に学ぶことを助ける発想がありません、そういわれても仕方ないでしょう


大御心


マスク二枚の


令和奴婢



1、意外と、中国史(フランスの学者が書いた)を面白く読める。インドとイスラムからの影響を考えながら思想史の背景を追う。国際化とナショナリズムが交代する反復に興味をもつ。夷狄(われわれは東夷だ)を文明に対する野蛮として記すヨーロッパの歴史の見方に拠っている知のあり方を思うが、世界システム論のない中国は存在しない。思い返すと、ロンドン時代にnew left review誌に掲載されたポストモダン論客の論文を何の知識もなく読んだが、東京に戻ってきたとき、柄谷行人を勉強した自分の物の見方が転倒するような感じで、彼らと共にある柄谷を批判しなければならなくなった(どちらがどちらに影響を与えているかわからないが)。天安門広場事件を考える。劉暁波を読む。そして子安先生のおかげで台湾を発見した。帝国か民主か?中国の思想史を形成する対立する言説の中に生きている。21世紀は東アジアにいきなり出現した大き過ぎる他者である中国の圧倒的存在感に揺れているが、揺らされる世界はどこに向かっているのかそわからないままである。

2、西欧が読み解く中国の”ルネッサンス”で意味されるものはなにか?ヨーロッパのルネッサンスを考えたのはヨーロッパの端っこに位置しているアイルランドにおいてである。もう少し詳しく概念的に書くと、ポストコロニアル世界においてである。

3、ポストコロニアル世界の研究の対象は、政治の独立はあったが経済の独立がない国々の経験である。アイルランドはこのポストコロニアル世界に属する。少しアイルランドのことに触れると、フランスからみると、イースター蜂起はアイルランドにおけるパリコミューンとしてとらえる見方もあって、何にしてもフランス革命後の政教分離の危機のどこかの段階にまだあるらしい。アイルランドのなかでは自分達はフランス革命が必要だという意見がある。否、500年前のルネッサンスが必要だという声もある。興味深いのは、500年前といわれている彼らの思い描くルネッサンスから18世紀フランス革命まで300年間かかっているという点である。つまり都市の自治とともにあったルネッサンスの成立はまだ、個人の政治的自由を意味する民主化ではなかったということは世界史で教わるが、とにかくヨーロッパの民主主義はルネッサンスから500年を要したといえる。このことを考えると、アジアの民主化は150年とか30年でやっている。非常に圧縮された時間の中で、全体主義民主化と考えたり、民主化全体主義と考えることが起きる。(ヨーロッパのドイツですらフランス革命後の150年の経験をワイマールに集中させた結果、全体主義民主化と考えたり、民主化全体主義と考えることが起きたかもしれない。)

4、未来を考える。アジアのグローバルデモクラシーはどんな世界だろうか。ポストコロニアル世界と比べたらどんなことが言えるか?経済の従属はないかもしれないが、しかし問題は平等を実現しているかである。平等に関する最高の原理アジアにあることはあったが、ヨーロッパのようにそれを実現する方法がなかった。しかしヨーロッパの平等は帝国主義に絡みとられてしまうことが問題であった。アジアのグローバルデモクラシーは、われわれはフランス革命が必要だったとか、ルネッサンスが必要なのだという声がでてくるのだろうか。ルネッサンスの存在を表象するためには、朱子の時代にみることができるアジアのルネッサンスを考える必要があるということか。フーコが明らかにしているようにヨーロッパのルネッサンスバベルの塔の災厄からの言語の回復だったとすれば、子安先生が問題提起しているのはアジアのルネッサンス朱子学における四書の新しい普遍主義の再構成である。アジアのルネッサンス漢字文化圏において、ヨーロッパのルネッサンスと同様に、コスモポリタンが生じてくると考えていいのか。そこで成り立ってくる平等の観念があっただろうが、しかしこれを以ってアジアはヨーロッパよりも先にデモクラシーの近代があったと考えることができるか?中国における平等の観念はヨーロッパのように市民が考えたのではなく、士大夫が考えたのであるから。それは、皇帝と民との間の貴族が官僚となっていく時代で、民と直にむすびついて大きな権力をもつ皇帝のもとに臣下(官僚)は平等であるというような理念である。これを民主主義の思想であるとはいえるだろうか?

5、グローバルデモクラシーを考えるために、アジアにおけるコスモポリタンとは何かを考える。ここから、アジアにおけるコスモポリタンとは何かをポストモダン的に、地域的に考えるとき、江戸思想として展開した思想史を考えることになるとおもわれる。江戸思想は多様性の方向をもつが、天下の公(国家を越える宇宙)を考える思想が出てくる。そして西欧(縦軸)とアジア(横軸)を逃してやる斜線としての東洋とは何かを考えていくことが可能である。アジアのグローバルデモクラシーにとって障害となるのはナショナリズムフランス革命の時代はナショナリズムは平等を実現する運動としての役割をもっていたが、今日の後期近代におけるナショナリズムにそのような役割があるのか疑わしいと言わざるを得ない。今日のナショナリズムは縦軸(一国民主主義)と横軸(自立的一言語主義(国語))から構成されるとしたら、グローバルデモクラシーは縦軸と横軸から解放されたフレームのなかの斜線をなすものであると思う。このフレームは江戸思想が形作るか。江戸思想は明治維新の近代を批判的に相対化する視点をもっているからである。



意外と、中国史(フランスの学者が書いた)を面白く読める。インドとイスラムからの影響を考えながら思想史の背景を追う。国際化とナショナリズムが交代する反復に興味をもつ。夷狄(われわれは東夷だ)を文明に対する野蛮として記すヨーロッパの歴史の見方に拠っている知のあり方を思うが、世界システム論のない中国は存在しない。思い返すと、ロンドン時代にnew left review誌に掲載されたポストモダン論客の論文を何の知識もなく読んだが、東京に戻ってきたとき、柄谷行人を勉強した自分の物の見方が転倒するような感じで、彼らと共にある柄谷を批判しなければならなくなった(どちらがどちらに影響を与えているかわからないが)。天安門広場事件を考える。劉暁波を読む。そして台湾を発見した。中国の思想史を形成する対立する言説の中に生きている。21世紀は東アジアにいきなり出現した大き過ぎる他者である中国の圧倒的存在感に揺れているが、揺らされる世界はどこに向かっているのかそれほどわからない。


ポストコロニアル世界の研究の対象は、政治の独立はあったが経済の独立がない国々の経験です。たとえばアイルランドポストコロニアル世界に属します。フランスからみると、イースター蜂起はアイルランドにおけるパリコミューンとしてとらえる見方もありますが、何にしてもフランス革命後の政教分離の危機のどこかの段階にまだあるのですね。アイルランドのなかでは自分達はフランス革命が必要だという意見があります。否、500年前のルネッサンスが必要だという声もあります。どのアイルランド像が本当か?これについては、アイルランドをどこからみるかの物の見方の違いであってどの見方も正しいのだろうと思います。ここで興味深いのは、500年前といわれている彼らの思い描くルネッサンスから18世紀フランス革命まで300年間かかっているという点です。つまり都市の自治とともにあったルネッサンスの成立はまだ、個人の政治的自由を意味する民主化ではなかったということですが、これが単純に、ヨーロッパの民主主義はルネッサンスから500年を要したという意味です。

さて、アジアのグローバルデモクラシーはどんな世界でしょうか?それは、ポストコロニアル世界と比べると、経済の従属はないかもしてません。しかし政治の独立はどうでしょうか。平等を実現しているでしょうか?平等に関する最高の原理アジアにあることはあったが、ヨーロッパのようにそれを実現する方法がありませんでした。だけれどヨーロッパの平等は帝国主義に絡みとられてしまいます。アジアのグローバルデモクラシーは、われわれはフランス革命が必要だったとか、ルネッサンスが必要なのだという声がでてくるでしょう。ルネッサンスの存在を表象するためには、朱子の時代にみることができるアジアのルネッサンスを考える必要があります。ヨーロッパのルネッサンスバベルの塔の災厄からの言語の回復だったとすれば、アジアのルネッサンス朱子学における四書の新しい普遍主義の再構成なのです。アジアのルネッサンス漢字文化圏において、ヨーロッパのルネッサンスと同様に、コスモポリタンが生じてくるのです。そこで成り立ってくる平等の観念がありました。しかしこれを以ってアジアはヨーロッパよりも先にデモクラシーの近代があったと考えることができるでしょうか?平等はヨーロッパのように市民が考えたのではなく、士大夫が考えたのです。それは、皇帝と民との間の貴族が官僚となっていく時代で、民と直にむすびついて大きな権力をもつ皇帝のもとに臣下(官僚)は平等であるというような理念です。これを民主主義の思想であるとはいえるでしょうか?

整理しますと、グローバルデモクラシーを考えるために、アジアにおけるコスモポリタンとは何かを考えています。ここから、アジアにおけるコスモポリタンとは何かをポストモダン的に、地域的に考えるとき、江戸思想として展開した思想史を考えることになるでしょう。江戸思想は多様性の方向をもつのですが、天下の公(国家を越える宇宙)を考える思想が出てきます。そして西欧(縦軸)とアジア(横軸)を逃してやる斜線としての東洋とは何かを考えていくことができます。アジアのグローバルデモクラシーにとって障害となるのはナショナリズムです。フランス革命の時代はナショナリズムは平等を実現する運動としての役割をもっていたが、今日の後期近代におけるナショナリズムにそのような役割があるのか疑わしいと言わざるをえません。今日のナショナリズムは縦軸(一国民主主義)と横軸(自立的一言語主義(国語))から構成されるとしたら、グローバルデモクラシーは縦軸と横軸から解放されたフレームのなかの斜線をなすものであると思います。このフレームは江戸思想が形作ります。江戸思想は明治維新の近代を批判的に相対化する視点をもっているからです。‬


領土性と脱領土性のあいだにある両義性は、<生まれ故郷>のもつ両義性と同じものである。(…)<生まれ故郷>は外にあるのだ。――(中)p349


寸劇布マスク

犬「安心だけの布マスクはいりません」

安倍「君達どうした?別に、”ありがとう、ご主人様“って言わなくてもいいんだから」

犬「犬だから自由に吠えたいんだ!」


鎖国はほんとうにそれほど鎖国だったのか?


安倍応援団の日本会議の問題は、どういう国にしたいのかという理念性を拒否している点にあると思うのです。残念ながら思ったほどには左翼からも声がきこえません。ヨーロッパ諸国は戦後、平等と多様性を重んじてきました。権利のない社会に反対してきました。「鎖国」をして非常事態体制でも権利のある社会を壊しているようにみえないのです、個人に補償をしています。市場至上主義も停止です。平等を重んじつつ、文化多元主義を保とうとしています。ところが安倍日本は、非常事態宣言もしていないのに、どんどん権利のない社会を作っている感じです。ウイルスとの闘いなのに、まるで権利に対する闘い(権利を抑圧する)をやっています。多様性を破壊しています。また平等に関しては、多国籍企業を規制するためには、一国主義ではやっていけなくなってきた、グローバルデモクラシーの時代にいかにやっていくかについての理念が要請されています(本来「要請」はこんな意味ではないでしょうか。) 現在はやむを得ない鎖国となりそうですが、実は日本は鎖国がはじめての経験ではありません。近代からは悪い評価しかきかれませんが、鎖国の時代に学問と教育と文化が開花したのです。識字率はヨーロッパよりも高かったのです。鎖国はほんとうにそれほど鎖国だったのか?人びとは学んだのです。ウイルスの問題が解決したときに、国をどう開いていくかを考えて準備するときです。五輪ばかりにとらわれていたのではそれこそ本当に「鎖国」の‪自国中心主義にに陥ってしまいます。


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軍国主義解釈改憲的復活。日本が依拠できるのは何も無い。国家祭祀の禁止だけだ。ブレイク詩と『ユリシーズ』(ジョイス)が私の中に反復してとらえて離さない理由は、それらが国家祭祀からの断絶を以って行う出発を書いた文学だからである


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puppet strings ー up in the air and down




平気で安倍は「公金を使って助成するのはふさわしくない人びと」と差別していますが、「おまえは公職につくのが相応しくない戦争犯罪人の孫」と言われたらどうなのでしょうか?


フーコ『言葉と物』がウィリアム・ブレイクに言及しているとおもわれる一文。こういうことです。


「我々にしか属さず、認識することによって世界の真実を我々に開いてくれる、有限性に自分自身が繋がれていると信じている我々は、我々自身、虎の背にくくりつけられているということを思い出さなければならないのではなかろうか?」


Ought we not to remind ourselvesーwe believe ourselves bound to a finitude which belongs only to us, and which opens up the truth of the world to us by means our cognition ーought we no to remind ourselves that we are bound to the back of a tiger ?

ー Foucault


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‪「我々にしか属さず、認識することによって世界の真実を我々に開いてくれる、有限性に自分自身が繋がれていると信じている我々は、我々自身、虎の背にくくりつけられているということを思い出さなければならないのではなかろうか?」(フーコ『言葉と物』渡辺一民訳)‬


‪「有限」と「有限性」との差異についてですが、「有限」を理解することは特に難しいことではないですが、有限「性」はなにかグッとくる言葉ですね。形而上学的何かがはたらくからだとおもいます。la finitude, フランス思想を受容しているアメリカ人が読む英訳ではa finitude としているようですが、「有限性」の語は、文法ではとらえきれない沈黙のなかに、思想を与える枠組み(根拠を根拠づける)の痕跡をもっているとおもいます。わたしが子安先生のもとで江戸思想を勉強しはじめたときでしたが、渡辺氏は「フーコも、演劇も、明治維新の近代に負うている」と言ってきたことがありました。たしかにそうで、明治以降の翻訳語の創造なくして一文も読めないのですが、西欧の形而上学のかわりに、忘却されまた抑圧されたアジア(朱子学的)の形而上学が、漢字(「性」)によって存在感をもって現れてくるのは何だろうかとおもっています。‬


本文で言われていることはなにかについてですが、まずおさえておきたいことは、一度確立された支配的な物の見方のなかでそれとは異なる物の見方をつくるのは非常に困難であるという点です。思想史的風景を与えておきますと、バベルの災厄以降、課題となったのは秩序をとりかえすことでした。それにこたえる形で、表象の物の見方が確立されていきます。そして表象とは異なる認識という物の見方をつくったカント。(それほど違っていたか?)。そしてカント以降の人間学的眠りを差異化したのがニーチェの思想。(ここではブレイクの虎をおもいえがいているようですが)。簡単な整理ですいません。これらと対応する形で、古代における四書(『論語』『大学』『中庸』『孟子』)の読みを根本的にかえた宋代の朱子から展開した近世の仁斎(“ポストモダン孔子”のデビュー)、仁斎の言説を差異化していった、徂徠の”一番弟子”である宣長の物の見方を考えます。




金メダル ドイツ

銀メダル 韓国

銅メダル 台湾


頑張って賞 イタリア

言うことをきかない賞 フランス

ピークを過ぎたで賞 スペイン

政府が感染したで賞 イギリス

大統領がマスクするつもりない賞 米国


敗北した国 日本


(中国は情報が無い)


小島

呂大圭と同じく、元に投降するのを潔しとせずに死を選んだ人物として、文天祥がいる。彼は状元(科挙主席合格者)として宮界のエリートだったが、権臣賈似道(かじどう)に楯突いて地方に出されていた。臨安(抗州)に危機が迫ると呼び戻されて宰相となり、元との交渉にあたる。宋政府は無血開城天無条件降伏の道を選んだが、彼自身はレジスタンス運動に身を投じ、捕えられて大都(北京)に護送される。元世宗(クビライ)から臣従するように説得されたが応ぜず、刑死した。
彼の「正気歌」は朱子学の世界観にもとづいて、天地の正気が艱難時の英雄たちの行為として現れることを、いくつもの事例を列記して述べ、三網・道義の前には生死は論ずるに足りないとして、自分が宋への忠節を貫いて死ぬ覚悟を詠った詩である。尊皇攘夷という文言が登場するわけではないのだが、後世、宋の皇帝の忠節を尊皇、元に屈服しなかったことを攘夷として解釈されるようになる。

東湖の詩は文天祥を模倣して書かれているのだから当然であるが、二つの詩は同じ構成を採る。、すなわち、冒頭で理気論による世界像を展開し、人間もその一部であることが示される。そして、正気がはたらいた事例として古今の人物の事績が語られ、自分をその系譜に位置づける。終盤では自分の置かれている不遇な状況を描写し、しかしなお正気をはたらかすことであるべき生を遂げる決意が表明される。人生は倫理的価値を実現するため、すなわち天地の道理に適うことのためにあった。正気は個々人の生命を超えてつながっており、それゆえ尊重されねばならない。
私たちは何のために生きるのか。この古今東西つねに問われてきた倫理的設問に対して、「正気歌」は明快な回答を与えている。生命それ自体よりも高次の価値として尊皇攘夷という理念があり、しかもそれは人為的な約束事ではなく天地自然の道理だとする見解である。私たちの生命は天地から(父母を通して)賦与されたのだから、道理のためにはみずから進んで提供しなければならない。これが彼らの実践倫理であり、そのようにして生命を捧げた場合、「英霊」として天地の正気に溶け込むことができると思念された。作者の文天祥藤田東湖がこうした生を実践したこともあって、この生き方が規範として敬仰され、多くの「英霊」を生み出すことになった。



Wiki


皇帝祭祀(こうていさいし)とは、中国皇帝が執り行った国家祭祀。中国の皇帝は皇帝祭祀を行うことにより、祭祀王権としての側面も持った。


皇帝祭祀の起源については諸説があるが、今日一般的と思われる説明に従えば、などで行われていた自然神に対する祭祀である社禝と、で行われていた祖先神に対する祭祀である宗廟を合わせたものである。


緊急事態宣言のまえに、この男はなにをやりたいのか何を言っているのかわからない安倍の説明に対する緊急事態宣言


緊急事態宣言は補償で人間扱いしてくれるが人口に還元される怖さはある。だが日本新自由主義国家の緊急事態宣言という名の自粛のもとでは数えられるものでしかない権利すら持てない




推敲中


挿話<ペーネロペー>では、身体の損傷は外敵に攻撃された共同体の損傷の表象です。ジョイスがそこに人間としての復活を書いたモリーの声は、起源の言説に定位しているならば、共同体の破壊(政治的災害)を推進した近代の問題の解決を再び近代に委ねることに。だから声は解体的に起源の起源を住処にするの


推敲中

la série, l'enchaînement, le devenir

漢字は他者からの贈与と考えてみよう。漢字「借り物」論が絡みとられる純粋な起源を忘却してこそ、他者の言語によって自己の言語との関係を絶えず構成した決定不可能性を記憶できる



MEMO

ポストモダンヘーゲル感染のワクチンだったはずだがどうもワクチンが足りていないようである。ヘーゲルとはなにか?ヘーゲルの言語は近代を体系的に示した。その言語の全体の表象が成り立つ為には、言語が「精神」(Geist、Spirit)として書かれる姿をー『百科全書』とは違うやり方でー思い浮かべなければならない。問題は、「精神」とは前近代的な他者であるときに、近代は自己の中でその内部に沿ってそれが否定する他者を見ることができるかに存する。これは、全体構造が齎らした不可能性を解決しようとして、再びその全体構造に依拠しようとするような他者なき同一的反復の悪夢である。ワクチンが必要だ。


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アジアの身体のイメージ

東洋医学が)ツボというものを見つけ出すのに、そこに何の理論も解剖学的観察もあったわけではない、手さぐりで、いろんな体験、試行錯誤を経ながら、人間は長い時間をかけて見つけ出して来たという一事です。この事実は、ふしぎに私を感動させ、勇気のようなものをあたえる。

小田実『二つの世の中』73年


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先月から20年ぶりに自由が丘にある整体道場に行っている。自由が丘の道場は、九段下道場の環境と違って、お洒落な小道沿いの建物にある。親しみがあるというか。今日は先生から、「頸椎2番と背中の端をおさえていると息があさい」と指摘された。ふむ、ふみ。「(息があさいから)物の見方も目先のことしかかんがえられない」。ズキン、たしかに、鋭い...「首と肩と頭でかんがえるよりも、丹田(へその下指4本)を中心に身体全体から考えること」のたいせつさをいわれた。おそるべし、整体道場


「マクロレベル」を言わざるを得なくなったか。若者は考えてみて。不均衡の構造は、需要を考えず供給だけで全体を考える経済政策、つまり部分対象なのに全体とする言説から生じる


表象représentation の傍らにかならず反コスモスanti-cosmos の痕跡である外部があるー本の存在、言語の存在、イマージュの存在、思想史


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ändere nicht ‬

‪damit alles anders ist ‬


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‪マスクの詩


宇宙と通信できた顔の下にあった仮面が

顔の上で顔を顕にするマスクとなっている

戦争が増殖中ー令和2年+2600年


高橋源一郎教育勅語の原文(「朕は」)で読む恐怖感を口語訳によって取りのぞいて、まさか、親しんでもらいたいとでも思っているのでしょうか?「はい、天皇です。よろしく」という口語訳などせずにそのままにしておいたほうが消滅していくはず



「芦部先生は教科書で国家法人説に触れて、「君主主権か国民主権かという近代憲法が直面した本質的問題を回避しようとした」と説明しています。要するに中途半端な理論だと言っているのですが、」。この部分を読んで、吉野作造民本主義などのように、国民主権なき民主主義を考えることはできませんが、なるほど芦部はこの点が大切だったのですね。しかしながら宮沢説を見直すことは、8月革命説(丸山真男の説でもあった)と、天皇機関説の意義を理解することで、象徴行為論をいう危険な清宮説が影響力をもっている現在、それを批判する見方をもつために大切だと思います。再び天皇に象徴制を過剰に超える行為をみとめてしまえば、国民主権が危ういことは憲法が警告しています。事実、古代から、天皇が観る見方の枠のなかで世の中を考えてきたのが日本知識人ではないかと思わざるを得ないところがあります。長谷部はなにが言いたいのかよくわからなくなるのは、「自分自身の良識」で考えようというときです。それは天皇の御大心(おおみこころ)となってしまう危険があるでしょう(自由意思と自分自身の良識を奪っていくもの、それが構造というものです)。そんなことを言うのでなくて、このひとは、このひとの主張からもっとはっきりと、「日本人で憲法を書こう」と言わないとわからない。もしそうならば、そのとき、憲法前文はヨーロッパの全体主義軍国主義を問題にしているけれど、これが天皇ファシズムを問題にしているとは読めないので、全体主義軍国主義が一致することになった歴史を前文に書くべきではないかというのはわたしの意見です。戦前の天皇<祀る神=祀られる神として>憲法に書いていない権力ー国家祭祀を主宰する権力ーをもつのですが、わたしが心配しているのは、軍国主義と方向を同じくしていったこの天皇ファシズムをもっと問題にしなければいけない大事なときに、ヨーロッパのファシズムのことを語って終わりにしてはいけないということです。GHQの占領期間が短かったために戦前のファシストを撲滅できませんでした。戦前そのままの主張を以って極右翼の政治家が復活した日本の戦争責任なき戦後を語らなければいけないのに、いつの間にか、ドイツの戦争責任を果たした戦後だけを語っているのですね。日中戦争をまだ日華事変と言っているようなことも含めて侵略の戦争犯罪を裁かなかった日本に再び台頭してきた極右翼を、戦争犯罪を裁いたドイツに現れてきた極右翼と同一視しているのが大変気になります。「極右翼」という言い方でおなじものを指示していると勘違いしていないでしょうか。すると、こちらで起きていることはあちらでも起きているというような錯誤が起きてしまいます。心配しています


わたしは専門家ではないが、間違っているかもしれないが、イスラム哲学とユダヤ哲学において来たるべきスピノザの思想は十分に準備されていたようにみえる。『エチカ』でやったことは、神や属性や人間の自由意思の否定についての言説を公理論的に再構成することだった。ラテン語で書いた理由は一の神の構造にこだわりがあったからだろう。ヤハウェ(יהוה)またはアラー (الله, Allāh) が、あるいはデウス(Deus)として語られることになっても、一である神の構造そのものが彼をとらえることに変わらない。だが公理論的再構成によって一にたいする関係が多様化するその結果、スピノザは彼の前に誰も言わなかったことをはじめて語り出したのであるー多元主義に向かって。多分商人出身のスピノザを助けたオランダの知のネットワークがそういう多元的なものだったのではないか。


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Kojèveたちが取り組んだヘーゲル。フランシスフクヤマも読んだとおもわれるフランス語訳も面白い


‪La nécessité de l’expérience, pour la conscience, que la chose, de par la déterminité justement qui constitue son essence et son être, aille au gouffre se trouver brièvement considère de la sort selon le concept simple. La chose est posée comme être pour soi, ou comme négation absolute de tout être-autre; par conséquent négation absolue ne rapportant qu’à soi; mais la négation de rapportant à soi est sursumer de soi-même, ou( le fait) d’avoir son essence dans un autre.‬

‪ーPhénoménologie de l’Esprit、Hegel‬


‪「物がその本質と自立性を成り立たせる、まさにその性質によって破滅していく、という経験は、意識にとって避けがたいものだが、その必然性の単純な道筋を辿ると以下のようになる。物が自立しているというのは、他との関係をすべて完全に否定して、自分だけと関係することだが、自己と関係するこの否定の作用が、物を破壊するような、言いかえれば、他のものを本質的に認めるような力をうみだす。」ーヘーゲル精神現象学』Phänomenologie des Geistes (長谷川宏訳)‬



‪フランス語訳も面白い


Mais l’esprit devient ob-jet, car il est ce mouvement de devenir à soi un autre, i.e. ob-jet de son Soi, et de sursumer cet être-autre. ‬

ーPhénoménologie de l’Esprit、Hegel


‪「精神が対象となるのは、精神が、自分の外に出て、自分が自己(意識)に見つめられる対象となり、さらに、この外的な存在を破棄するような、そういう運動だからである。」ーヘーゲル精神現象学』Phänomenologie des Geistes (長谷川宏訳)‬


‪意識と自己意識と欲望と真理に高められた自己確信との関係をかんがえる


Diese Unmittelbarkeit ist aber selbst absolute Vermittlung, sie ist nur als Aufheben des selbständingen Gegenstandes, oder sie ist Begierde. Die Befriedigung der Begierde ist zwar die Réflexion des Selbstbewußtseyns in such selbst, oder die zur Wahrheit gewordente Gewißheit. ‬

ーHegel, Phänomenologie des Geistes ‬


‪This “immediacy”, however, is itself absolute médiation; it exists only as supersession of the independent object(I.e., as desire). The satisfaction of this desire is indeed the reflection of Self-Consciousness onto itselfーa Certainty-which-has-becomes-Truth     ーHegel’s Phenomenology of Spirit ‬


‪Mais cette immédiateté est elle-même médiation absolue, elle n’est que comme sursumer de l’on-jet ‬

‪autostant, ou elle est désir. La satisfaction du désir est certes la réflexion de l’autoconscience dans soi-même, ou la certitude par parvenue à la vérité.‬


ーPhénoménologie de l’Esprit、Hegel‬



長谷川訳:

この直接の存在は無限の媒介を経て生じたものであって、自立した対象をなきものにする働きなしには成り立たない、という点で、それは欲望する存在である。そして、欲望の充足をもって自己意識は自分のうちへと還えり、自己確信は真理へと高められる。


‪Es ist ein Selbstbewußtseyn für ein Selbstbewußtseyn... ーHiemit ist schon der Begriff des Geistes für uns vorhanden. War für das Bewußtseyn weiter wird, ist die Erfahrung , was der Geist ist, diese absolute Substantz, welch in der vollkommenten Freheit und Selbständigkeit ihres Gegensatzes, nemlich verschiedener für sich seyender Selbstbewußtseyn, die Einheit derselben ist; Ich, das Wir, und Wir , das Ich ist  ‬


‪ーHegel, Phänomenologie des Geistes ‬


‪• 自己意識と自己意識が対峙している。...そこにはすでに「精神」というものの構図があらわれている。以下で展開される意識の経験は、世界の絶対的な本体たる精神がどんなものか、それをあきらかにしてくれるものである。それは、独立に存在するさまざまな自己意識が、完全な自由と自立性をもって対立しつつ、そこに統一が成り立つような経験であり「われ」が「われわれ」であり、「われわれ」が「われ」であるような経験である。ー ヘーゲル精神現象学長谷川宏訳本‬


‪• Self-Consciousness exists for-a-Self-Consciousnesses ...With this the concept of Spirit is already before us. What still remains for consciousness is the Experience of what Spirit isーSpirit, this absolute substance, which in the completed freedom and independence of its opposite, namely disparate self-consciousness existing-for/self constitutes their unity: The I that is a We, and the We that is an I. ‬

‪ーHegel’s Phenomenology of Spirit ‬


‪• Il y a une autoconscience pour une autoconscience...Du coup est déjà présent-là pour nous le concept de l’esprit. Ce qui pour conscience advient en sus est l’expérience de ce qu’est l’esprit, cette substance absolute qui, dans la liberté parfaite et autostance de son opposition, savoir des autoconscience diverses étant pour soi, est l’unité de ces mêmes [autoconscience]; Je qui [est] nous , et nous qui est Je. ‬

‪ーPhénoménologie de l’Esprit、Hegel‬



ジョイスの「自分で決めた亡命」だったのに「父息子」になったとガッカリするな。「ヨーロッパでレンズ豆のポタージュ」の無分節化を経て、本質なき分節「父息子」に成ったのだから


‪He even ran away with hunself and became a farsoonerite, saying he would far sooner muddle through the hash of lentils in Europe than meddle with Ireland’s split little pea. ‬

‪ーJames Joyce, Finnegans Wake ‬


‪あいつはアイルランドのけちな割れ豆を我慢するよりヨーロッパでレンズ豆のポタージュをこねまわしている方がまだしもだと言って女と逃げ出し、父息子となった。(宮田恭子訳、2004 集英社)


 フーコ『言葉と物』、この一冊のなかには何冊つまっているのか?華厳教じゃないけど、無限だ、少なくとも1000冊以上だ。見つめてくる本の真ん中に鏡があり、本の傍らに無がある


ゴダール『映画史』の中の映画を数える。フーコ『言葉と物』を構成する本達のように無限だ。見つめてくる本にしたのは真ん中にある顔とその傍らに存在する無を創造したかったから


江戸思想史は朱子批判の言説を作ることによって漢字を数えられる無限にした。漢字はヘーゲルが言う意味でまさに自立した物である。それは自ら二重化し破滅して他と関わるようになる


本は、根強く信じられているように、世界のイマージュなのではない。本は世界とともにリゾームになる。本と世界との非平行的進化というものがあるのだ。本は世界の脱領土化を確かなものにする。けれども世界は本の再領土化を行ない、今度はその本がそれ自体として世界の中でみずからを脱領土化する…。ーD=G


人々は、大がかりな調教の体制ともいうべきものを作り上げたのだ。市民は自分自身を調教し、それにふさわしい個人の種類を作り出したのである。ある種の市民的自由主義が制度の次元で可能となるためには、私がミクロの権力と呼んでいる次元で[警察や司法などによって]個人をさらに厳重に包囲することが必要になった。規律というのは、民主主義のコインの裏側なのだ。(フーコ)


seq1 口の中にマドレーヌをころがす話者、冗長性、無意志の回想のブラック・ホール。どうやって彼はそこから脱け出せるだろうか。結局これは脱出すべきもの、逃れるべきものなのだ。――(中)p49

seq2 プルーストはそのことをよく知っていた。彼を注釈する者たちにはもう理解できないことだが。しかし、そこから彼は芸術によって脱け出すだろう、ひたすら芸術によって。――(中)p49


フィリップ・グラスがドラキュラ映画を利用した作品がある。「ドラキュラ映画は沢山あるけれど、どうしてこれを選んだのですか?」というダブリンの聴衆の質問に答えてた。ドラキュラは棺桶のなかで杭をうたれて死ぬが、「ドラキュラが死んだかどうかあんまりはっきりしないところが気にいっている」と


東京五輪を<中止>ではなく、<永久延期>にしてください。東京五輪にきまったのは問題があったが、FTだけ違うことを言った。外国メディア記者達が放射能汚染の状況を監視できると


「だれが語るのか?というこのニーチェの問いにたいして、マラルメは、語るのは、その孤独、その束の間のおののき、その無のなかにおける語そのものー語の意味ではなく、その謎めいた心もとない存在(エートル)だ、と述べることによって答え、みずからの答えを繰り返すことを止めようとはしない。」(フーコ『言葉と物』、第九章’人間とその分身’、言語の回帰より。渡辺一民訳)


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親鸞は最初に、善か悪かがそれ自体が何であるかではなく、正義論を誰が語っているのかを問うた知識人だ。念仏では民を救済できないでいる己のあり方と依拠する言語の存在をみる


「我々はウイルスとの戦争状態にある」(マクロン)。「目に見えない敵」との戦争では隙間なく人間は人口に還元される。ネオリベの何でもかんでも金がものをいう市民社会と両立する


国境閉鎖しない英国と日本。英国はリスクのある集団免疫に対する反対があり人命を重んじる方法に議論がある。日本は国家主義だけ、オリンピックの安倍政権と自民党のことしかない


‪1、マルクス主義は言説である。終わりから始まると物語る言説である。他方で近代経済学は始まりから終わりに向かっていると語る言説といえよう。マルクス主義近代経済学、この両者の言説は互いに補いあう構造をなしている。問題は、構造に絡みとられたら最後、世界の半分のことしか喋れなくなる点だ。どうすべきか?ドラキュラ映画を見よう。ドラキュラ映画のなかで棺桶の中で杭をうたれてもドラキュラが終わったかどうか不透明なのもある。始まりも終わりもない。そこでわたしは残りの世界の半分を喋ることができるようになったのか?わからない。多分難しいだろう。だけれど少なくともこのことを喋っている。‬


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‪「金利ゼロって何よ?」と取り付け騒動を心配したらしい母から電話。流動性について喋ったが、後で何十年ぶりにはさみ✂️の形をしたIS曲線とLM 曲線をメモ用紙にかいていた


夜中にポチポチとゲーム感覚で投資して、好きな本を読まなくなったひとが多いのではないかとおもうのですが、コロナのせいで現在大変みたいです。ブラックマンデーのときはどうだったかを思い出しています。とはいえ、株など持っていなかったので無関係といえば無関係でした。「現在わたしたちは株をもつようになってプチブルジョア化したので非常に打ちひしがれている...あなたはアナーキストだから興奮しているかもしれないけれど」と隣人から言われて、嫌なことを言うなあ、アナーキーストじゃないし、そうだとしても興奮なんかしないですよ。わたしは本を読んでいますから、コロナになった気持ちをうたった詩を書くぐらいですね(マスクの詩も書いてます。)「本は世界とともにリゾームになる。」というポストモダンの言葉を考えます。「リゾーム」は大袈裟なことではないことに気がついてきました。距離をもつために何とか思想性を保つ、それだけでいいのですから。だけれど書いた言葉に思想がはいっていることは滅多にありません...



「本は世界とともにリゾームになる。」というポストモダンの言葉を考えます。「リゾーム」は大袈裟なことではないことに気がついてきました。距離をもつために何とか思想性を保つ、それだけでいいのですから。だけれど書いた言葉に思想がはいっていることは滅多にありません...。多分近代の思想が自分自身のなかに閉じこもることによって、近代の後の思想があらわれるのでしょう。


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デカメロン』はボッカチォが1348~53年の間に書いた物語集で、『十日物語』とも言われる。ペストの流行から逃れてある邸宅にひきこもったフィレンツェの10人の男女が10日間にわたり、1夜にそれぞれが1話ずつ退屈しのぎの話をする形式をとっている。面白いとおもうのは、黒死病ルネッサンスへの影響が文学作品を通じて理解されることである。


「さて、神の子の降誕から歳月が千三百四十八年目に達したころ、イタリアのすべての都市の中ですぐれて最も美しい有名なフィレンツェの町に恐ろしい悪疫が流行しました。それは天体の影響に因るものか、或いは私どもの悪行のために神の正しい怒りが人間の上に罰として下されたものか、いずれにせよ、事の起こりは数年前東方諸国に始まって、無数の聖霊を滅ぼした後、休止することなく、次から次へと蔓延して、禍いなことには、西方の国へも伝染してきたものでございました。

 それに対しては、あらゆる人間の知恵や見通しも役立たず、そのために指命された役人たちが町から多くの汚物を掃除したり、すべての病人の町に入るのを禁止したり、保健のため各種の予防法が講じられたりいたしましても、或いは、信心ぶかい人たちが恭々しく幾度も神に祈りを捧げても、行列を作ったり何かして、いろいろ手段が尽くされても、少しも役に立たず、上述の春も初めごろになりますと、この疫病は不思議な徴候で恐ろしく猖獗になってきました。」

<ボッカチオ『デカメロン』野上素一訳 岩波文庫 第1冊 p.55-56>


ボカッチョの「デカメロン」に匹敵するような、文学や死生観まで昇華したものが日本にはあったのか?このことを考える上でわたしは、『歎異抄』が有名だが『教行信書』が重要であることを講座「『歎異抄』の近代」(子安先生)によって知った。

‪12世紀の相次ぐ戦乱・飢饉・疫病を前にして、「呪術的」な仏教・神道陰陽道は無力だった。そこで登場したのが法然親鸞日蓮・一遍などの「鎌倉新仏教」。親鸞は‬、実在したならばの話で書くと、最初に、善か悪かがそれ自体が何であるかではなく、正義論を誰が語っているのかを問うた知識人だ。念仏では民を救済できないでいる己のあり方と依拠する言語の存在をみたのである。


パゾリーニ監督『デカメロン』(1971)は、当時の画家を描いている。この画家を通じて、依拠する言語の存在をもとめる


パゾリーニ監督『デカメロン』(1971)は、当時の画家を描いている。この画家のイメージを通して、そこに、依拠する言語の存在をもとめるルネサンス知識人を表現したのではないかとおもう。『デカメロン』はダンテの『神曲』に対して「人間喜劇」とも呼ばれ,ヨーロッパ散文小説の範となったという。


いまこそこの映画を見るときではないでしょうか!手と愛・友情は別々にあったのではないことを思い出すために。かつて他者をたすけるときは手を差し伸べたものです。見ること、手で考えることが「意識の流れ」に先行した、’ヌーヴェルバーグ’と呼ばれる、映画のゆたかな身振りとジェスチャーは景色とともに存在しました。


知的直観というのは、自己がイデヤに合一することではない、又所謂主客合一ということでもない、自己が直に自己を見ることである、自己が自己の奥底を見ることである。(『一般者の自覚的体系』)


‪幼少時代の四年間はオーストラリアにいた。字はアイリッシュの大学生よりも上手い(爆)。七歳のときに言語化できない世界に来てしまった。もしもう少し年齢がうえだったらバイリンガルになって二つの言語の関係に関心をもったかもしれないが、そうではなかったので、この経験から、言語化できない世界と言語化できる世界との相互関係をかんがえつづけている。ソシュールとかレヴィストロースは面白いし、いまは荻生徂徠を読んでいる‬

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低予算オリンピックの理念はできるだけ多くの国に主宰の機会を与える。東京五輪の予算は7,000億だったはずなのに3兆円は約束違反だ。将来のオリンピックを世界から奪っている


トマスピケティ「新型コロナの危機は重大だが、社会変革のきっかけに」



映画版『21世紀の資本』は、共産主義体制が崩壊した東側諸国のそんな悲惨な光景から始まる。原作者のトマ・ピケティは学生時代に、そんな東側諸国を旅して、内側からその惨状を見たと映画で語る。

共産主義の欺瞞が白日のもとに晒され、資本主義が支持されることになりました。ただ、問題はそれが行き過ぎた資本主義の礼賛になってしまったことです」


「生きた精神」が生き続けなければならないのは「死んだ文字」の中においてである。そして「生きた精神」を死から救い出すことができるのは、それを進んで蘇らせようとする一つの生命と再び接触するときだけである。ーハンナ・アーレント『人間の条件』23


アイルランドのような貧しい国では、わたしの同僚が教えていた、日本語を履修していた、大学生は水泳の世界記録2位の保持者でしたが、自分のお金でギリシャへ行かなければならず、結局オリンピックに参加できませんでした。アイルランドより貧しい国なんかたくさんあるので、オリンピックは、ポストコロニアル世界で成り立っているワールドサッカーの参加国の数と比べると、それほど「普遍性」がない一部金持ち国クラブの大会だという評価があります


生きた言語と死んだ言語のせめぎあいー言語化できぬ世界と言語化できる世界にどんな関係が成り立つのか。原初的テクストの存在をゼロに還元する文献学的ニヒリズムの近代、言語の細分化と言語の拡散、そして多分音声中心主義のラディカル・モダニズムによっては思考できぬと考えた文献学者ニーチェは、言語が集中する哲学の場ー存在の意味を問うーに誘う


世界と違うことをやる「政権とともに危機に対する防衛ゲーム」の<自己責任>は国民が負うことになるだろう。本当にこれしかないのか、他にできることは無いのか?


為政者はもっぱらメダル世界の普遍の「遠い」所をみていて、もしウイルスに晒される民の「卑近」を十分に気にしていないようでは、たとえ国が偉くなっていくら威張っても、社会の基本‪ーたとえば人類知を学び共有する権利を保障するー‬が崩壊しないような防衛を構築できないとおもうのですけれど


‪もちろんヒューマニズムに反対しません。望ましいものです。ヨーロッパが五百年かけた構築したヒューマニズムをもっと充実させなければなりません。ただ、これについておもうことを書かせていただくと、わたしはアイルランドに住んでいたときは植民地化された国の過去を勉強しました。イギリスにおける帝国主義ヒューマニズムは両立していたことを知りました。もはや帝国主義の時代ではありませんが、現在は米国などの国際社会はヒューマニズムの名によって爆撃を正当化しています。さてピケティーがいうのは、経済政策に市民が介入する重要性のことであるというのがわたしの理解です。子安先生の講座でもアナール派の影響があると思われるピケティーを取り上げたことがあります。ヘーゲル左派の時代のマルクスについて言うと、人類知とその条件を共有する社会のあり方を強調していました。経済政策はそういう知を構成するでしょう(かつての経済政策はブルジョア知に留まっていました)。新しい普遍主義として模索されているグローバルデモクラシーとともに、ほんとうのヒューマニズムが成り立つと思います‬


Faut-il envoyer des athlètes Français aux de Tokyo ? 

Le ministre de la Santé Olivier Véran répond "non"

東京五輪にフランスの選手を派遣してよいか」

フランスのヴェラン保健大臣「ノン(駄目だ)」


“The first task of the doctor is ... political: the struggle against disease must begin with a war against bad government." Man will be totally and definitively cured only if he is first liberated...”

Michel Foucault, The Birth of the Clinic: An Archaeology of Medical Perception


東京五輪にフランスの選手を派遣してよいか」の質問に、ヴェラン保健大臣は「ノン」。安全の問題だけではない。悪い政府との闘いによってまず解放がなければ一人も治っていない


トマス・ピケティ「新型コロナの危機は重大だが、社会変革の契機に」。安全の問題だけではない。経済政策に市民が介入する政治。悪い政府との闘いと解放がなければ誰も治らない


2)それゆえに、無意識の平面は超越性の平面にとどまり、精神分析家の存在とその解釈の必要性を保証し、正当化しなくてはならない。このような無意識の平面はモル状のレベルで知覚ー意識のシステムと対立するのみならず、そこに欲望が翻訳されなければならないところから、



3)しかし斜線はすでに横断線に、あるいは半対角線や自由直線に、また破線や角ばった線に、さらにまた曲線になるばかりか、常にこれらの中間に位置する。(…)これは起源をもたない線である。つねに絵の外で始まり、絵はこれをその中間地点でとらえるしかないからだ。


2)とすれば、線は一つの点から別の点に向かうのではなく。点と点のあいだを別の方向に疾走し、この新たな方向性によって点が識別不可能になる。線は斜線となり、垂直線と水平線から解放される


<芸術>は、ただ名目的なだけの、誤った概念だと思う。(…)絵画は顔ー風景の「問題」に組み込まれている。音楽は、それとはまったく違う問題に組み込まれているが、その問題がまさにリトルネロなのである。[中p295]


ホー、ナルシシズムは芸術に不可避ニャ。だけど日本近代の失敗は戦争が解決できる、大衆よ、必ず勝つ、蜂起せよという反知性主義へ行く自己否定ナルシストに非ず、梟猫の想像力は


「人の心が分からないのか」と非難しても、安倍は心の中のことは分からぬと開き直っているかもしれない。「人の道」を言ってただしても、道徳を反省する相手ではない。この男は法を守っているのかと問われているのに、何が法であるかを自分が発見しているという態度である。法を守る意思もないようだ。


恐慌の危機を深める貨幣飢餓のようなことが、安倍内閣支持率において起きているのは、欲望によることなのか?自分に不利なのはわかっているのに理性では止められない、欲望の暗い領域に惹かれる人間は、自己の生存手段にしがみつく動物の従属した姿である。他者なき孤立する身体の痛みに耐えられなくなったほどの欲望の果てに、欲望は欲望しなくなるのか。そこから、別のものを欲望するのか?欲望の生産にゆだねることがほんとうにできるのか、しかしドウルーズが言うようには...。ちくしょうめ、これだけはみてやろう


原発アンダーコントロールと世界に宣言して五輪誘致したりするのを自粛しなければいけなかったのですが、現代国家の安全システムはどんどん巨大化し監視の網み目を自粛といっている


日本<自己責任論>とは、おまえたちの行き詰まりはおまえたちの責任だが、おれたち(安倍とハシゲ)が行き詰まる日は一億総懺悔だ


橋川文三+ 吉本隆明+三島由紀夫= 0


法システムは古い処罰の機能の仕方のことで、中世から17-18世紀まで主調だった。規律システムは近代システムとも呼べるもので18世紀から主調となった。安全システムは現代のシステムであり、その問題設定が登場したのはかなり早いが、まさに今、これが主調となりつつある。

ー フーコ 安全・領土・人口-


どうしてこの文がここにあるのかわからない。『言葉と物』はこんなところに別のことを書いているような文が多い。フーコはどんどん書き足していったのではないかと渡辺氏が言っていたな。水平線と垂直線から解放された斜線みたいに、ここでこの文を書いているのはこの文から文を逃してやるためではないかとおもうこともある


アジアにおけるコスモポリタンとは何か?それをポストモダン的に、地域的に考える意味は何か?西欧(縦軸)とアジア(横軸)を逃してやる斜線としての岡倉の東洋とは何か?


ゴダールは究極の美を求める厚みのありそうな探究を映画の表層的断片を通じて行うとき、ポストモダンに非らず、モダニズムではないかと分からなくなる。「われおもう」から「われあり」への移行に、「われ見る」が介入しなければならない。見えない<手で考える>というウィットゲンシュタインととともに



推敲中


始まりと終わりがあるという前提だが、『ユリシーズ』が書き始めるのはマーテル塔から。あの形は、『朱子語類』における思考の優先順位としての形而上学的円(理=大極)か?冗談で、6月16日まで読んでみるか ‪ 

重々しく、肉づきのいいバック・マリガンがシャボンの泡立つボウルを捧げて階段口からあらわれた。十字に重ねた鏡と剃刀が上に乗っかっている。はだけたままの黄色いガウンがおだやかな朝の風に乗っ、ふわりと後ろへとなびいた。彼はボウルを高くあげて唱えた。‬

‪ー Introibo ad alatare Dei <ワレ神ノ祭壇ニ行カン>‬

‪彼は立ち止まり、暗い螺旋階段を覗き込んで、荒っぽくわめき立てた。‬

‪ーあがって来い、キンチ!あがって来いったら、このべらんぼうなイエズス会士めが!‬

‪彼はいかめしげに歩みでて円形の砲座にあがった。くるりと向きなおり、三度、塔とまわりの土地と、目覚めかけた山々をおごそかに祝福した。それからステイーブン・デイーダラスを目にして、彼の方に身を乗り出し、喉をごろごろ鳴らし、頭を振り、たてつづけに空に十字を切った。不機嫌で眠そうなステイーブン・デイーダラスは階段の手すりに両腕をもたせて祝福を与えてくれる首振りのごろごろの馬面や、白樫のような色の木目の通った。明るい剃髪していない髪を冷たい目で見た。‬

‪バック・マリガンはちょっと鏡の下をのぞいて、またぴしゃりとボウルに蓋うぃした。‬

‪ー兵舎に戻れ!と彼はきびしい口調で言い渡した。‬

‪それから伝道師の声色でつけ加えた。‬

‪ーなんとなれば、ああ皆様方、これこそはまことの

クリステイーン様、肉体と血と槍傷ですぞ。ゆるやかな音楽うぃ、どうぞ。諸君、目をつむってください。ちょいとお待ちうぃ。この白血球どもが少々手間をかけておりましてな。みんな、静かに。‬(丸谷訳)


もし来年、五輪怪獣と出あって食われそうになったら、どうするかって?黒ビールを飲ませてだね、お土産に和牛商品券三枚わたして帰ってもらえ


A tale is born from an image, and the image extends and creates a network of meanings that are always equivocal.


—Italo Calvino


現在への己れの帰属を問うとは、ある教養やある伝統への己れの帰属を問うことではない。ただ単に一般的な人間の共同体への己れの帰属を問うことでもない。ある種の〈我々〉、即ち自らの現在性によって特徴付けられているような文化的な一総体へと関わるような〈我々〉への己れの帰属を問うことなのだ。ーフーコ


‪ユヴァル・ノア・ハラル氏「信頼とグローバルな団結抜きでは、新型コロナウイルスの大流行は止められないし、将来、この種の大流行に繰り返し見舞われる可能性が高い。だが、あらゆる危機は好機でもある。目下の大流行が、グローバルな不和によってもたらされた深刻な危機に人類が気づく助けとなることを願いたい。」‬

トマス・ピケティ氏「新型コロナの危機は重大だが、社会変革の契機に」

子安宣邦氏「グローバルデモクラシー」‬


‪・「自分が第一ミー・ファースト」がモットーの指導者に対して、人類の視点をもつ市民が介入する政治。悪い政府との闘いと解放がなければ誰も治らない‬


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‪適切に説明できる自信がありませんが、なんでこんな式を書いたかですよね(笑)。昔ロマン主義を解説している本にあった説明文とイラスト(下)に興味をもちました。0(ゼロ)の意味を説明すると、フランスのユートピア社会主義とイギリスの政治経済学とドイツ観念論、これらが、マルクスにとって、一体であった(線形的に)ということですね。‬これがヒントになって、勝手に、橋川文三+ 吉本隆明+三島由紀夫= 0 を書いてみました。

さて明治のロマン主義は世界のロマン主義のように理念的なのに、大正の日本ロマン主義は反知性的です。昭和の三島由紀夫も反知性的にみえます。正直いって三島由紀夫について何か論じる気持ちになれないですが、このことは、子安先生のご自宅で伺った話で、三島由紀夫橋川文三吉本隆明との関係においてとらえたら何か言えるかもしれないと理解しています。(「理解」したといっても酔っ払っていたので、間違っているかもしれませんが、大体こういうことです。)日本ロマン主義は、近代日本の失敗(明治維新の不完全)は戦争が解決すると主張していました。必ず戦争に勝てるというのですね。橋川も吉本も同じものをみていたようです。その場合、主体は、橋川は文学者、吉本は大衆と考えていたのですが、戦前における橋川と吉本の主張を、戦後に三島が主張することになるというわけです。‬凡庸な反復ですかね。

‪これが、橋川文三+ 吉本隆明+三島由紀夫= 0 で意味しようとした内容です。‬

‪付け加えていうと、橋川についていうと、廣松渉などの近代の超克では橋川が無視されます。(廣松は橋川を知らないのでしょう)。だから廣松の近代の超克論の分析はどこかで聞いたようなヨーロッパの世界史になってしまっています。竹内好をよく理解するためには、文学を論じる橋川は毒がありますが、失敗を隠さずに、これから明らかにしていかなければならない意味ある思想でしょう(「昭和維新論」がNHKで取り上げられていたようですか、これはどうですかね????)

‪吉本は、若い人が『共同幻想論』を読んだら、右翼思想家と考えるんじゃないでしょうかね。もっぱらこの構造主義的な(?)仕事が読まれるようです。吉本は最後まで、天皇を批判しないでしょう、文化人類学的に。吉本の影響下から、現在内田のような天皇抑止論の言説が出てくるのは偶然ではないでしょう。『最後の親鸞』(最後の吉本?)のような仕事は大変意味深い思想だとおもっています。‬

最後に三島。全共闘がノスタルジーにおもう三島ですが、これは自己否定のイメージ(大学解体)ばかりで、今日のネオリベをもたらした自民党のようになんでもかんでもカネがモノをいう社会に対するネガテイヴな明確なイメージをもっていません。影響を与えた当時のフランスの5月革命は、ちゃんとドリフェス事件に対する批判、なんでもかんでもカネがモノをいう社会に対するネガテイヴな明確なイメージももっていたのではないでしょうか。

フーコ『言葉と物』を翻訳した渡辺一民氏が、「大江と三島からよくやったと言われた。左翼と右翼からほめられちゃった」と言っていたので、この話から、三島はフーコのポスト構造主義に意義を理解していたのでしょう。しかし現在は三島の思想なきイメージ(のイメージ。金閣寺みたいですね)が流通しているだけにみえます


司法機構は誤ったことを有効と認めたり、偽りや嘘を作り出したり、命令によってか自発的な共謀によってか黙り込んだりすることがある。だがそれが少しずつ、日にちの経過と共に、証拠資料を辿りつつ、報告書や証言や手掛かりを通して「認知しえないもの」を作り出していくやり方は余り知られていない。ーフーコ


揺れる』(マリア・ミリサヴリエヴィッチ作)をみた。これはベルリンの壁の崩壊後の現代をえがいている戯曲である。この時代は、ネオリベポストモダン世界から生じてきた「自分が第一ミー・ファースト」がモットーの指導者達によって国どうしの境界がつくられている時代である。戯曲を読む。<わたしたち。誰でも。何人でも>というト書きは思考を揺さぶる事件だ。これは、戯曲のコスモス(ロゴス)が反ロゴス(わたしたち。誰でも。何人でも)を利用して自らをグローバルに再構成しようとしているとおもった。『揺れる』が呈示するカオスはなにか?‪『揺れる』は、なんでもかんでもカネがモノをいう社会に対するネガテイヴな明確なイメージをもっている。欲望の知覚し得ぬ極限に、隅々まで情報の客体となった身体の深まる孤立がもたらす痛さ(物理的な痛み)こそがカオスである。これにたいして、マリア・ミリサヴリエヴィッチと東京演劇アンサンブルの舞台はウイリアム・ブレイクの想像力を導入する。舞台をみる。想像力のもとに抱擁されているのは、私と私のなかの汝の下に、微かに呟き続ける即自的に影のように私につきまとう身体、何処にも属するがどこでも部分になることのない呟き続ける身体。演出家公家義徳氏の舞台は想像力の舞台からラディカルに問う。演劇は世界とともに、奪回した視線の肉体を以って、外の思考の領域へと逃げることが可能かと。そうして世界は根拠が与えられ、世界は突然、希望の無限の広がりを自分のものにしていくのではないかと想像できた。演劇から学ぶ。2020年という年に、『揺れる』の舞台をみることの意味をかんがえている。全世界が音楽、演劇、映画、美術館をたずねる能力を失ったので、それらの真の価値を真剣に考えはじめることになったことも事実である。演劇とはなにか?演劇とは、泣くこと、思いだすこと、笑うこと、考えること、学ぶこと、受け入れること、そして想像すること



国家にとって何がなんでもやりたかったオリンピックは内部の中心(本質)で、音楽、演劇、映画、美術館は外部である「不要不急」とされている。だけれど


ピカソ(1902)はどのようにグレコの作品(1607-1614)を解釈したか?これは、グレコピカソをスケッチした私の勝手な解釈の解釈によることなのだが、ピカソグレコにおける類似性のイメージを同一性と差異性のイメージにかえているようにみえる。グレコは外部を示している(稲妻が闇を裂いている世界が世界自身に巻かれている、と同時に、世界は巻き返す。)。ピカソにおいては二人(私と私のなかの汝?)が共通のもの(彼らが立っている場所)をもっている。抱擁されているのは、私と私のなかの汝の下に、微かに呟き続ける即自的に影のように私につきまとう身体ー何処にも属するがどこでも部分になることのないーかもしれない。



想像力とは、自国ファーストを呼びかけて戦争と開発と同化を押し進める指導者達に対する社会変革のモーメントを為すものと不可避なはないかと考えさせてくる


宇宙は根拠が与えられ、宇宙は突然、希望の無限の広がりを獲得した。

ボルヘス

MEMO

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ここで問題提起。演劇の死とはなにか?




死の演劇に交換できない死はない。

死の演劇において死は存在を交換できる存在の存在の如くある

だけれどそこで交換それ自身が成り立たない

不完全なものが交換の構造の外にある。

意味あるその入り口が塞がれようとしている

演劇の死とは多分そういうものであるー


正直、野田氏が言っている「演劇の死」をわたしはよく理解できていません。ただ、<演劇>が<演劇でないもの>(たとえばゲゼルシャフトまたは社会といわれているものですかね、わたしはそれを<死の演劇>ととらえています)にとって不可欠な他者である理由を考えましょうということならばですね、岩井克人ならばどう考えたかななどと考えています。またわたしの理解ではハイデガーは死が内側に向かって自己が存在している自身をみるとしたら(死がとる位置は)外部においてほかはあり得ないと思索しましたが、ハイデガーならばこう言ったんじゃないかとか勝手に考えたことを書きました。この場合は、死に切ったという場所から、ですね


ミクロの世界における見えない領域に憲法は適用されずというヤバイ境界線。ウイルスを利用する危険な「緊急事態宣言」は、憲法の精神の自由の傍で、反論できぬ形で価値中立的に線を引かれて、精神が従属する見えない絶対権力者が増殖する


コロナの詩を書く


われわれは国籍を超えて頑張るのに

ブラウン運動に囚われている

だけどあんたたち人間はどうした?外の思考に向かって

ウロウロウヨウヨ、ワイワイガヤガヤがなければ

わたしの王冠を超えられないよ


“Words ought to be a little wild for they are the assault of thoughts on the unthinking.” 

John Maynard Keynes



“Words ought to be a little wild for they are the assault of thoughts on the unthinking.” ― John Maynard Keynes


象徴天皇制はいつかはやめる。それまでに強力な共和主義の理論を構築しなければいけない。スピノザはこう言っている。議論のあるところである。

If then human nature had been so constituted, that men should live according to the mere dictate to reason, and attempt nothing inconsistent therewith, in that case natural rights, considered as special to  mankind, would be determined by the power of reason only. But men are more led by blind desire, than by reason; and therefore the natural power or right of human beings should be limited, not by reason, but by every appetite , whereby they are determined to action, or seek their own preservation. ーSpinoza


MEMO

現象学の序文は論理学の終わりから書かれている。(デリダ『散種』)


朱子によれば、理が気に論理的に先行する。言語的存在である人間とは何かを問うことが論理的に先行している。同様に、映画とはなにかを問うことは映画の運動とその多様性に先行している


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朱子によれば、理が気に論理的に先行する。言語的存在である人間とは何かを問うことが論理的に先行している。同様に、映画とはなにかを問うことは映画の運動とその多様性に先行している


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 ‪芸術とはなにか?アジアの形而上学を学んであらためてポスト構造主義を読む。論理的に先行するのは芸術とは何かを問うコスモスである。これが第一原理である。コスモスが反コスモスを利用することが常に起きる。反コスモスの全体の表象のためには白紙の本のすがたが思い浮かべられるかもしれない。形而上学は要請されると脱構築的になる。一は一でも、差異が生成する多元主義としての一である。芸術の多様性は第一原理に対する運動である。運動の前後関係は論理の前後関係とは別である‬。両者の関係を考える必要がある。

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世界中の川に「法的な人格」をあたえよう


求愛も集団も領土的アレンジメントの部分であることをやめ、求愛や集団のアレンジメントが自立性を獲得するのである。たとえ領土内にとどまるにしても、このことに変わりはない。――(中)p346


原初において演劇が成り立つのは人間の分身によってであるー役者は観客を必要とし観客も役者を必要とするこの関係は時間なき闇のなかに移って行かない。二重化によって世界の半分と半分をもつことが可能で、言語が空間をとりかえすほど構造的に独立している。これが演劇の強さであり弱さかもしれない。ヨーロッパではしっかり支えられている大切なものがなぜ無理なのか?




‪ドイツのメルケル首相は3月18日の演説で次のような声明を出しました。‬

‪「すでにどれほど劇的に様々な制限がなされているかは承知しています。イベント、見本市、コンサートは中止。そして当面、学校、大学、保育園は開かれず、公園で遊べません。連邦政府と各州が合意した様々なことの中止が、私たちの暮らしと、民主主義社会としての私たちにとっていかに侵略的なものであるかも承知しています。こうした制限はドイツ連邦共和国が経験したことのないものです。」‬


‪2020年3月12日FIA国際俳優連合とFIM国際音楽家連盟が「新型コロナウイルス感染症の緊急対応が、元来生活基盤の弱い日本の芸能実演家を破壊しかねない影響があることに関する声明」を発信しました。この一文に尽きるとおもいます。‬


‪「日本の芸能実演家は、選択の自由のない個人事業主です。専門性のある技術を備えるために、自ら莫大な自己資金を投じているにも関わらず、しがらみのある、無期限の雇用契約をさせるために、法的に労働者性を不当に否定され、社会的な権利の保護が狭められている。日本の芸能実演家は、議論もされないままに、個社(個別取引を行う為に存在する会社)のように扱われています。‬

‪新型コロナウィルス感染症の安全対策を講じるのはもちろん不可欠です。 多くの命がかかっており、経済的利益が人間の安全より優先するべきではありません。 そのために、コンサートや演劇公演での不特定多数の集団行動は慎重に対処し、リスクは回避するべきです。」‬



スポーツイベントを「見下した」「軽蔑した」といって憤慨している人達はですね、読み間違いです。まさかスポーツ観客を「見下した」「軽蔑した」のではありません。読み間違いした人達は演劇を一度もみたことのない者たちが殆どなのではないでしょか?そのことが恥ずかしいといえば恥ずかしいことかも。問題はナショナリズム‬。スポーツと結びついたナショナリズムが同調しない声を非難しています


中江兆民のルソー訳を読むものは、漢文エクリチュールの記憶によって、荻生徂徠の制作論について考えることができた(講座・明治維新の近代8)



‪昔の西欧哲学史を読むと、大陸の災厄から避難してきた古書が集まってきたにもかかわらず、思想史の発展にアイルランドは付け加えるものがなにもなかったと書かれています。ただ文字装飾のアートしか出てこなかったと。古代アイルランド語は読めないので殊更装飾だけが見えていたのかもしれません。少し説明しますと、アイルランド語は19世紀にほぼ消滅します。況やおいて古代ケルト語などは読めないテクストです。ジョイスは唯一、読めないテクストを書くことによって読むことが不可能なテクストとコミュニケーションをとった作家です。彼はケルトの文字装飾からインスピレーションをえました。『フィネガンズウエイク』を読むとき彼が書いたこの本が読めないことを知っておかなければなりません。さてフーコの本が出るまで、文字の装飾が原初における言語の存在を称えていた象徴だということがわからなかったのですね。フーコから、たんに文字を飾る装飾と思われていたものの意味が一気にみえてきました。そして大切なことは、フーコが言語の存在の象徴から反権力的に考えたことです。われわれは死に切った過去の問題をアジアでどう考えるかですね。たとえば中国では12世紀の朱子が読めないテクストになっていると考えてみたらどういうことが言えるでしょうか?明治維新からのラディカルモダニズムが過去の書かれた姿を消し去るように、文化大革命が過去の言語で書かれた姿を破壊し尽くしました。荻生徂徠の読みが現代のオリエント学の読みよりも信頼できるのは、非常に単純なことですが、20世紀よりも彼の生きていた17世紀のほうが12世紀に近いからです。わたしは荻生徂徠の専門家ではありませんが、もしかしたら徂徠の眼からは、朱子のテクストが四書の言語の存在ー死に切った過去ーを飾っていたとみえていたかもしれません。彼は聖人による命名制作を言ったことが画期的でしたが、そうして原初における分節化と絶えざる意味の変容とが展開していく歴史が明らかになります。徂徠の文からは、国家祭祀を禁じる今日のわれわれの制度を考えるための出発を読みとることができます。現在の中国が、伊藤仁斎におけるポストモダン孔子の意味を理解しはじめたのは、アメリカやイギリスの海外に行って英語でフーコを学んでいるからです。アングロサクソンにおけるポスト構造主義の受容によってこのことが可能となりました。東アジア漢字文化圏を表象するためには、現代中国語から思い浮かべることができるでしょうか?書き下し文の漢字エクリチュールに依拠することなく、過去の言語が書かれているすがたを思い浮かべることはできないのではないかと考えたりします。東アジアの憲法を書くときは、最初に、天皇ファシズムを為した国家祭祀の禁止ー祀る神は祀られる神という現人神の禁止ーを規定することになるとおもいます。


「聖人の未だ興起せざるに方りてや、其の民散じて統なく、母あることを知りて、父有ることを知らず。子孫の四方に適きて問わず。其の上に居り、其の物を享けて、その基(はぐ)むる所を識る莫し。死して葬ること無く、亡じて祭ること無し。鳥獣にひらがりして以って殂落し、草木と倶に以って消歇す。民是れを以て福無し。蓋し人極の凝らざるなり。故に聖人の鬼を制して以てその民を統一し、宗廟を建てて以て之を居く。丞嘗を作りて以て之を享ける...礼楽刑政是れ由りして出づ。聖人の教えの極みなり。」‬(子安氏配布資料より)


紙コーヒーカップから、新型手作りマスクをつくってみました。問題はどちらが表の面でどちらが裏の面がわからないこと。マスクなのに、外部からの侵入性が大きいこと。それぞれの点が主辞=属辞関係、分節化、指示作用、転移である「この四辺形は内部関係の図式というより外周を描くものであり、言語がその外部にあるものとどのように絡みあっているかを示している。」ce rectangle dessine une périphérie plus qu’une figure intérieure, et il montre comment le langage s’echevêtre avec ce qui lui est extérieur et indispensable


語るというのはまさにこのこと。知るために語る。顔の下にマスクしたほうがよく語れる。


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法治国家でないと嘆く声を読むのだけれど、法治国家になれなかったのどうしてだろうか?そもそも薩長のクーデターの暴力で成り立ったクーデター国家だった。自由民権運動を弾圧し、政府が議会を作った。天皇に全権力を集中させたまま、大逆事件で市民の思想家達を殺害した。クーデター国家は国家に逆らうと怖いことをみせつけた。満州事変の統制的推進が大正デモクラシーと呼ばれるの?今日は解釈改憲軍国主義靖国公式参拝国家神道を事実上復活させた。さすがに「明治維新万歳」という声はもうなくなったけれど、まだずっとクーデター国家をやっているんじゃない?3、マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』(1852)の読みは専ら20世紀ドイツの全体主義の分析に常に向かう。だけれど19世紀明治維新のクーデターを見逃してきたのはなぜか?天皇ファシズムを差異化していないからではないか。国家祭祀の天皇がもつ見えない権力を分析できていなかったのである


世界が四選の安倍に注目しているって?だれも彼を知らないよ。ロンドンのカフェで隣にいたユダヤ系ギャング(?)の間のこんな喧嘩があった...


「おまえはバカだ」

「バカじゃない」

「バカのバカだ」

「バカでない証拠に、俺は日本の首相の名前を知っている」

「だれだ?」

「アベシンゾウ」

「ほらみろ、やっぱりバカだ」


日本人のウンコの量は変わらないのだから安心してみたいなことをいうけれど、買い占めにきたのはみんなウンコだったとしたら?量が増えている


人間は、一つの言葉、一つの名の記録のために、さすらいつづけていゆく動物であり、それゆえドラマでもっとも美しいのは、人が自分の名を名乗るときではないか。ー寺山修司


寺山修司が言いたいことの全部はわかりません。名指すというのは非常な遅れをともなうこと(「もしもしだれがそこにいるの?」ときいて、1000頁後に返事がくるとか)、同一化できた自己の分身が何であれ、その名を自分の名とすること(花の名前とか動物の名かもしれませんしあるいは原初の名かもしれません)、だれも名前をもっていること、などをかんがえました。同一化を拒んで沈黙する権利もあるだろうとおもいます。何しても、名だけでは思考を自分のものにすることができないので、一文でも文を構成しないといけないだろうとおもいます。寺山はドラマのことを言っていますね


‪現在では留学先が中国から米国に変わって、朱子学ではなくて米国憲法と経済学を一生懸命学んでいる。‬


フランスにおける18世紀から始まるイギリスと地球半分づつ分けあった帝国主義の展開。17世紀の「文法」から「語る」ことが始まったことがちゃんと伝えている。「語る」ことの成立とともに「ユートピア」が思い浮かべられてくるのではないか?アカデミーフランセーズとか、帝国のオリエンタリズムの芸術とか、19世紀の普通選挙の確立も関係がある。


日本の漢字を紹介している。1945年に国会が行った漢字の簡略化(「新字体」)をとりあげている。『日本語』で、中国の場合ほどには無規則に簡略化が行われていないという。ナショナリズムが現れてくるのは、東アジア漢字文化圏を成り立たせた書かれた言語の衰退からではないのかということをかんがえるヒントになる


ヨーロッパの大学でもアメリカの大学でも、もう日本語は中国語の一部門になっているのじゃないのかな。昔と違って、いまの時代、みんなの関心は中国なので、こういう構成は大変参考になる。比べる方法をもつヨーロッパ近代がスゴイのか。日本語を考える上で面白いよね。


「無観客の五輪」開催って、大島渚『儀式』のなかで父が挙行する花嫁不在の結婚式ー女は逃げ出していたがあたかも新婦がいるかのように式は進行していくーを思い出したな



「礼」といえば、ヘーゲルの精神の客観。荻生徂徠は「礼」の言説に関係しているとおもうが、荻生徂徠の制作論における客観のもとに、伊藤仁斎の道徳学の対自的・対天下的な主観がいかに展開したのだろうか?近代主義者は、朱子学とのラディカルな断絶から説明して、思想におけるリアリズムから歴史への一直線的な発展があったとする。しかしそうだろうか?仁斎の朱子にたいする思想闘争はたしかにあったが、ほんとうに朱子学との断然を簡単に言っていいのか?思想史の舞台において行ったり来たりしてもどることは起きないのか?コスモス(理)が反コスモスを利用して他の見方を生み出したとき、仁(愛)の傍らに反コスモスの無とか空が存在していたとしか説明できない。反コスモスとしての江戸思想史。サイードならばそれをpowerlessness と呼ぶのではないかとわたしは思う。後期近代は「礼」を語るとき、精神の客観に、国家や民族はなくて、市民がその中心に来なくてはならないのではないか?

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ジョイス文学を読みながらアイルランド語の消滅のことを考えたダブリン、イラン戦争によって成り立たなくなったマルチカルチュラリズムの危機をかんがることになったロンドンから、東京に戻ってくると、言語の消滅を気にしない人が多いことに改めて気がついた。マジョリティーは一言語(国語)のほうが国家の統一に有利だとおもうのであろうか?わたしはアイヌ語琉球語ではなくて、漢文を発見したというか。言語を失うと、言語に書かれている多様な見方を失う。漢文に則して言うと、明治維新150年の破綻した近代を批判的に相対化することもできなくなる。たしかに夏目漱石などはアジアの形而上学をもっていたが、しかしほんとうに彼の文学にそれほど期待していいのか?『こころ』を読んで段々疑問におもうようになってきた。海外で読んだ江藤の漱石の時代もどうなんだかね?


3月11日は仮に本質的欠如でも、何の為の豊かさだったのかをラディカルに問う意味の反省に充足させられているかぎりにおいて欠落に非らず。復興幻想・令和五輪によって欠落である


自民党しか政党が無いとおもう理由?正直わからない。やはり明確な社会のネガテイヴなイメージをもっていないからではないか?香港の若者は自由に喋れない、何でもかんでも金がものをいう社会(中国共産党)に対するネガテイヴなイメージをはっきりもっているのに、遡ると、全共闘運動学生はラディカルに近代を問うたが、明確な社会のネガテイヴなイメージがあったとはいえない。同時代の最も影響力をもった思想家サルトルは『存在と無』で対自的自己否定の<無>を書いただけではなかった。『奇妙な戦争日記』で、<ファシズムにたいするドイツとの戦争に勝っても、直ちに資本主義が勝利するだけではないのか>と書いている。サルトルは明確な社会のネガテイヴなイメージをもっていたーオーソンウエールズ監督の『市民ケーン』における社会のネガテイヴなイメージを理解できずに「歴史を嘲弄している」と非難したけれども。日本学生は純粋な徹底した自己否定と共に自己が属する大学も破壊した結果、マルクス主義研究者が追放される口実をあたえた。明治維新を批判しているふりをしているだけでよく話を聞くと賛同しているような、今日自民党提灯持ちばかりじゃないか?ポストモダン自民党批判として作る体制の絶望を表現したが十分に成功したとはいえない。今日われわれは原発ジャパンアズNo.1が帰結したものに対する憤りを通じて改めてこのことを考える必要がある。これから何ができるか。自由に喋れない、何でもかんでも金がものをいう社会のネガテイヴなイメージをはっきりとつくりだすことから始めることではないか。自民党の社会ではやっていけなくなってきた演劇に期待するのはこの私一人だけだろうか


延期とか中止の発想ではなくて、オリンピック主宰権のトルコへの返還を考えましょう。そもそもイスラム世界の国が国際デビューする機会を奪った東京五輪は国際犯罪的でしたから


悪魔に操られる大臣の言葉に顕にされるものよりも隠されていたものー声なき声ーが見えてしまう。国家は自らが齎らした災害から一番最初に逃げ出したのだ。問題は今も逃げている


“Wir müssen auf unverschuldete Härten und Notlagen reagieren und sie ausgleichen. Das muss uns nicht nur die Wirtschaft, sondern auch unsere durch die Absagen schwer gebeutelte Kulturlandschaft wert sein“


ポストモダンヘーゲル感染のワクチンだったはずだが。ヘーゲルとはなにか?ヘーゲルの言語は近代を体系的に示し




推敲中

ἀνέχου καὶ

Sustine et abstine.

ー Epictetus

エピクテトスの「権能」ーアリストテレスを応用した epi heminーは、「われわれの力が及ぶもの」にしようかと、フェースブック友達のEiji Kunikata さんから教えていただきました。どれも大した絵ではありませんが、何とか内部の感覚の全体を以って<力が及ぶもの>を描けないだろうかという課題をもっています。努力しては描くことができないこの制作はどうも絶対他力的ですけど(笑) まだ続けているのは、秩序と別の秩序も間の説明不在の揺れ動く境界線が形成される過程の面白さですかね


人間は、おたがい、死者と語らう死者なのだということを忘れる。ー ボルヘス


推敲中

Godard 

ゴダールは『右側に気をつけろ』でポピュリスムの問題を議論している。歴史は自ら編集するという『映画史』では歴史修正主義の問題を考えている。と同時に、そこで原理主義の他の道がないとする言説も批判していた。21世紀からはグローバル資本主義の問題をヴァーチャルな立体空間を通じて議論している。いる。

(超越的なもの、天、音楽 は人間に内面化されない。収容所の弦楽四重奏団の映像とレンブラントの映像の関係を打ち立てるためには、これら二つの映像の関係を媒介する他としての映像(重ね合わせの状態)を必要とする。命題論理的に構成することによって言語の中から変数Xを作りだしている)



MEMO


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母音もまた孤立させられて、慣用によって忘れられていた太古の名詞の秘密をあかすだろう。Aは所有(持つavoir)、Eは実在(existence)、Iは力(puissance)、Oは驚き(まるく見開いた眼)、Uは湿気(humidité)したがって体液(humeur)をあらわす。

ーフーコ『言葉と物』、Court de Gébelin 1816 に言及した一文)


 ‪今朝BBCで女性がナショナリズムと日本文化のミソジニーに憤慨していた。天皇は飾り物でなくなった。天皇の本質は変わらないならば、この権力に人間性を読むことは不可能だ


近代の国家の時代の計画し過ぎた官僚と後期近代の何でもかんでもカネがものをいう市場の時代の何もしない官僚。両者は求められることが互いに正反対だが、共に「優秀」なんだろうが、責任を取らないことと、官僚養成機関の東大法学部が民主主義を教えるはずがないことはまったく変わっていないと思われ


政治家と官僚がバカになったと嘆くのはどうして?権力に支配されている市民が賢くなるチャンスじゃないか、喜ぶべし!ネットは3.11以降の対抗メディアとしての出発をもった。ANAを支持したり神戸大教授が利用するネットは言論の自由をはかる尺度だとおもう


「不快」?寧ろ小池は反省して。国際社会にデビューするイスラム国から奪ったオリンピック開催で、国際的犯罪と言われても仕方ありません。ロンドンは奪うつもりはないです。勿論安倍みたいに情報操作を行ってはいません。この大変なときに東京はロンドンの申し出に感謝の言葉を口にしなっくちゃですね


プラトンイデア説の要点は、経験的現実を原型として先に置くことである。だが、”作家“の理論(ないし構造)は原映画(アーキーフィルム)などでは全然なう。(...)だが、反プラトン的議論の根底には、映画そのものを見るという「生きられた体験」を少なからず遠ざけるようなどんな説明に対しても、しばしば敵意が見られる。しかし明らかに...映画と批評とのあいだに、またテクストとメタ=テクストのあいだに距離を、ギャップを含んでいなければならない。‬

‪ーピーター・ウオーレン『映画における記号と意味』(1976岩本憲司訳)‬


プラトン大好きの国、アイルランドに8年間もいたので、恥ずかしながら、ピーター・ウオーレンのよい読者ではないのでござるが、今日彼の一文を拾い読みしたら、何かはじめて、4年間いたロンドンの批判知ー現象学批判ーがわかってきたとおもわれ


1、“エコノミスト誌“がグローバル・デモクラシーの危機”Global  democracy is in in decline として民主主義指数をはかる4つの分類をしている(日本はflawed democracyである。) 火星から地球の民主主義の状況を眺めているような感じでいて、一国民主主義を自明とした近代主義の視界ではないだろうかとおもう。

2、なるほど、flawed democracies とAuthoritarian regimesと指示された二つの領域が互いに惹きつけ合うように隣接しているのがわかる。(互いに、一方の民主化が他方の民主化の条件であるという可能性も考えられる。)ただ“エコノミスト誌”によるこのようなこの分類は言語の問題を最も重要な問題であるとは考えていない。言語の問題を考えていないようでは世界の半分しかみていないと言わざるを得ない。

3、他方で、「グローバル・デモクラシー」と子安宣邦氏が命名した見方では、言語の問題を考えることが重要である。自立的一言語(国語)主義と一国民主主義が後期近代のナショナリズムを形成していて多元主義ー平等を実現するーを妨げている。「グローバル・デモクラシー」は、ネオリベグローバル資本主義に抵抗する理念であるが、21世紀の問題は、新しい普遍主義の模索が極右翼によって非常に悪い形で行われることである。またヨーロッパの一部の国々も日本と同様にflawed democracyだが、ヨーロッパはナチスを裁いている。考えなければならない決定的な点は、日本の歴史修正主義の極右翼が戦前の形をとってあらわれていることである。



‪「クロソウスキーにおいては分身の、模造の外在性の、<自我(moi)>の演劇的かつ錯乱的な多数化の体験とともに」(フーコ『外の思考』豊崎光一訳)。クロソウスキーウィットゲンシュタイン論理哲学論考』を訳しているのはどうしてか?もちろんわたしに答えはない。言えることは、映像と批評とのあいだにギャップを含んでいなければならない。テクストとメタテクストとのあいだに距離があるべきだ。だがそれだけだと世界の半分しかみていないから(したがって透明となっているから)、再び新しく(はじめて?)映像を見る。テクストに帰るのである。つまり世界の半分しかみていない構造を解体するとはこういうことではないか‬


したがって、交換価値は、何か偶然的なるもの、純粋に相対的なるものであって、商品に内在的な、固有の交換価値…というものは、一つの背理…のように思われる(K・マルクス


ダブリンでリアル・カトリックという言葉をきいた。自発性を失った既存の枠組みより広い範囲で人々に生存の意味を与えるものにリアルの接頭辞をつけるが、FWのジョイスの原初の神話に向かう脱構築性にリアル・カトリックの精神を読むことに、近代の知識人は警戒する。どうもリアル平田篤胤もあるらしい


1)性愛はあまりにも多様な生成変化を結びつける。それはいわばn個の性であり、一貫した戦争機械であり、恋愛はそこを横切っていく。(…)重要なのは、恋愛自体が奇妙な、そして、ほとんど恐怖をいだかせるほどの力をもつ戦争機械たりうるということだ。


安倍の政治ではもうやっていけなくなったかんじである。政治は、だれが倒れないで一番タフなのかを競うゲームになってきた。言葉の崩壊のほうもおそろしい


古典は、何でもかんでも金がものをいう社会に対するネガティブなイメージをしっかりもっているんだな

Quid faciant lēgēs ubi sōla pecūnia regnat? 金だけが世の中を支配するとき、法律に何ができるというのだ?(ペトローニウス「サテュリコン」)



‪La nature juxtapose les différence et les lie de force ; la réflexion découvre les ressemblances, les analyse et les développe. ーFoucault ‬


自然は相異なるものをならべて否応なくつなぎあわせ、反省は類似を発見し分析し発展させる。

ーフーコ『言葉と物』より、第四章「語ること」、指示


‪近代の日本人の宿命は、西欧とその西欧を日本人としてどう理解するかという二重化の囚われにある。東洋美術といわれる物の見方にその二重化があらわれるのかもしれない。そうして世界の半分しかみないことになるとしたらどうしてか?フーコがいうように「自然は相異なるものをならべて否応なくつなぎあわせ、反省は類似を発見し分析し発展させる。」つまり近代においては東洋美術は西欧の類似に整理されるだけだろう。結局西欧の普遍しかなくなる。たとえば中国美術の見方では西欧の中に構造化されてしまう。そこから世界の半分しかみていないことが起きる。だからこそ岡倉がアジアという方法をつくったのではなかったか。それは自明に繋いでいく中を解体しいく外の思考。ポストモダンは岡倉を見いだしたとおもう。ついでだが岡倉のアジアという方法は西田の無の場所に先行している


1973年にトイレットペーパー騒動があったが、またパニック?この50年間進歩がなかった。というか、戦前と何も変わっていないのかも。渡辺一民安倍晋三は戦前について何も知らないと憤慨していた。凄い勢いでパーと広がるらしい。そのうち、「貴様フランス文学を読んでいるのか、生意気だ!」と殴ってくる軍人が現れてくるよ。知においても、近代批判なんかダメだと言っているのだから、そうすると、この立場は、昭和十年代ファシズムに帰結した明治維新の近代をたたえる安倍と同じということになる


1、保守伝統は鎖国というネガティヴなイメージがある。徳川日本は西欧列強の植民地化・従属化を避けるために鎖国した。また中国文明からも自立する必要もあった。保守伝統は普遍主義(朱子学)だ。民族主義を異常だと考えた。横井小楠は侵略に対する国防さえ整えれば、開国して万国の普遍に委ねようと主張した。

2、さてこの時期に隣国にヘイトスピーチすることほど危険なことはないのに、問題を起こしているのは、アジアに共感をもっている保守伝統ではない。かつての社会党アジア主義だった。日中国交回復をすすめた。再び現在問題を起こすのは、他ならぬ、ヨーロッパと米国にしか共感をもたないナショナリストである。

3、ナショナリストの中には、ラディカルに近代的なものが存在する。ここで誰々がそうだというのではなく、あくまで理念的に言うのであるが、ナショナリストは自立的<一言語>(国語)主義なので「漢文」(明治以前の)が不要だ。書記言語の前に遡る古代に日本があるとする<一国>民主主義の近代主義者である



1973年にトイレットペーパー騒動があったが、またパニック?この50年間進歩がなかった。というか、戦前と何も変わっていないのかも。渡辺一民安倍晋三は戦前について何も知らないと憤慨していた。凄い勢いでパーと広がるらしい。そのうち、「貴様フランス文学を読んでいるのか、生意気だ!」と殴ってくる軍人が現れてくるよ。知においても、近代批判なんかダメだと言っているのだから、そうすると、この立場は、昭和十年代ファシズムに帰結した明治維新の近代をたたえる安倍と同じということになる


アレッサンドロ・フランチェスコ・トンマーゾ・アントニオ・マンゾーニ (Alessandro Francesco Tommaso Antonio Manzoni


Wikiより 「1823年『ロマン主義について』を書き、新しい流派の説を詳しく展開しているが、その要旨は神話と古典への盲従を排し、修辞法則を否定し、それに対して「意図としては有益であること、主題としては真実であること、方法としてはおもしろさ」を追求するべきである、というものだった。さらにイタリア語の統一という問題について多くの論文を書いて、イタリア語の中のトスカーナ性を擁護し、名作『いいなづけ』によってトスカーナ語を基本とする近代イタリア標準語をいちおう完成させたといえる。」


推敲中


『フィネガンズ・ウエイク』とはなにか?その全体像を公式的に言ってしまうのは躊躇いを感じるが、「第一部 両親の書」は貴族の世界が表現されていると私はおもっている。「第ニ部 息子たちの書」では僧侶の世界がえがかれるのだ。貴族の世界が体現する戦争の原因となる報復の互酬性が終わり、僧侶の世界におけるものとしての天における超越性が始まるのだ。だけれどこの超越者は大き過ぎるのだ。そうして、必然として、「第三部 人びとの書」では民衆の世界が呼び出されることになる。貴族における従属物としてあった王と民衆とが台頭したのは、貴族同士の争いが招いた彼ら自身の没落によってである。王と民衆が直に結びつく。王は『ユリシーズ』ではブルームがその役割を演じたし、父の時代のパネルの後のジョイス自身であることをみると、それは文学的王(チャンピオン)としての市民である。「第三部」において人間全体の視点と人間の内部的視点を切り離せない。ジョイスにおいて問題となってくるのは、人はどこからきてどこへいくのかと未来を思い出すことによって語り得ないものを語るという一線を超えた過剰に古代的な祭政一致的国家の理念像が呼び出される復古主義の政治をいかに解体するかである。「自己で決めた亡命」の戦略もそれほど勝ち目はないが、ジョイスは外部的位置を以て、国家と時代と対等な世界を書こうとしたことは確かである。ジョイスの文学的世界はstóry-tèll-erが要請される。‪stóry-tèll-erが語りかける、人類的河として表象されるordinary people も要請されている。‬stóry-tèll-erは、宇宙に散在する隙間を厳密にコントロールするこだわりを嘲笑う、人間世界と等価の物語素を構成できる。とりあえずその場で手に入る古くて汚いものを利用すればいいが、物語に再び孤立する人が出てこないように気配りするアマチュア精神が要請される‬ということだろう


マスクという記号が広げる「全員」が増殖している。その「全員」によって感染が弱まってきたと安心しているけど減っていないでしょう?要請によって自由の制限を行う権力も大満足


コロナ対策費を比べると、中韓は兆単位、シンガポール、香港、台湾は数千億単位。日本はたったの120余億円。休業補償とか、中止を言うならばきちんと補償しなければいけないのに。お金がオリンピックにフィックスされてしまったので、必要とされているところにまわらない。ロンドン・オリンピックの問題もそこにあった


「現場」を離れて書斎のなかでばかり考えていると、世界はすべてお見通しになって、自分がとてつもなくえらぶつであるように思えて来ることがあるにちがいない。『人間みなチョボチョボや』1985


「非-資本主義的な文化」とはなんだろうか?まだわたしはわからないけどね。資本主義は人間の成立とともに17世紀近代から始まる。「非-資本主義的な文化」は、アジアで展開した、17世紀の道徳学、18世紀の制作学、国学、19世紀の神学、政治神学、20世紀の倫理学政治学、そしてグローバル資本主義が成立するなかで‬「非-資本主義的な文化」を考えはじめた後期近代である21世紀の思想史、そうしたセリー(系列)ではないだろうか


「世界が、資本主義に特有のこの西欧的な「権力」形態を越えねばならない。今や、非-資本主義的な文化は、西欧文明の圏外にしか生まれまい。西欧は、西欧文明は、西欧の「知」は、資本主義の鉄の腕によって屈服させられている。我々は、非-資本主義的な文明を創出するには、疲弊し尽くしている。」フーコ



フーコー『言葉と物ー人文科学の考古学』の新装版、書店が書いた宣伝文を読む。 「1966年に発売され人々を魅了してきた思想書」とある。信頼できる翻訳である。日本では広がらなかったのか一考の価値がある。「外来思想」(苦笑)の常のこととして土着化の問題ではなく、純化の問題があるかもしれない。フランス現代思想の幻想が純粋ポスト構造主義の幻想をうむというか。また成熟する前に、ナショナリズムの言説にやっつけられれてしまった。後期近代の近代主義ナショナリズムとの関係には警戒しなければならないと思っていいる。だけれどまだK.Oではない。まだ「ふーこのポストこうぞうしゅぎ」に非らず。時々反権力の側から、ポストモダンの見方を非難する批評の言葉を読む。「じゃあ、あなたは、昭和10年ファシズムを帰結した明治維新の近代を信じている安倍晋三と同じなの?」と質問したいのだけれど、どうなの?


‪亡命のこというときは、気がつかないのだが、永久革命的に定住する端っこをもちたいからではあるまいかとおもう。永久革命といえば、ネオリベの市場至上主義は永久革命的であるといえよう。だれも市場が約束している永久革命の成就する日まで生きてはいない。他方で、折衷という真ん中は、なんだろうか、ノマド的であるから動かずとも常に動く国内亡命を構成する。常に外へ脱出する作戦を考えている。ダブリンとロンドンから東京に来たのは東京から脱出を考えるためであると言ってもいい‬などと勝手に考えはじめたからいい気なものである。思い返すと若いときはどちらかというと原理主義的だったので現実迎合的にみえた折衷を憎んだのではなかっただろうか。現在はそれが近代という時代の折衷的なものだとわかってきた。知識ないわたしのようなものでも、何とか、江戸思想の展開を学んで方法としての折衷がもつラディカルな意味を理解しつつある(朱子学の普遍はそれを脱構築した古学の後に発展した)。


天保のフーコなら関心がある


見えない領域に憲法の法則は適用されずという境界線はヤバイ。見えない戦争ならば憲法は気にしなくてもいいと同じ危険性がないか。それ以上だ。対象の存在が問われない。憲法が精神の自由を規定する傍で、反論できぬ形で価値中立的に線を引かれて、精神が従う憲法の中の見えない絶対権力者が増殖する?


元祖寸劇

安倍「立法府の長であるわたしは国会休会を決めました。」

野党「何を言っているんだ!?」

安倍「国会休憩です。つい言い間違えました。」


ハンカチでマスクつくったり、国滅ぶの川柳をつくったりする日本人の器用さに疎外感をかんじる。外国にすみたい


学問として、非協力的関係において合理性を追求する合理主義のもとでは必然として合理性が成り立たなくなるあり方を数学的に説明できた点はみとめるけれどね。数学は美しいんだけど。いつも思うことだが、安易に具体的事例に適用していないか?もし買い占めなければ、知らない他者にやっつけられてしまう、しかも最大限に、という前提がね。知らない者どうしの両者のあいだで買い占めないという協力が困難であるとしているのもなんだかな。言葉の世界に生きる現実があるのだしね。逆に、為政者の言葉に真がなくなって、信の構造がなくなると、数学で記されるこの通りのことが起きるのかもしれない。


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ハンカチでマスクつくったり、国滅ぶの川柳をつくったりする日本人の器用さに疎外感をかんじる。外国にすみたい


推敲中

対象の不在?

リアリズムによっては包摂されないし、

ロマン主義

純粋な外部的独立から得ることもない、

過剰としての空白、

そこに依拠する文学

わたしたちは

神話的リアリズム


推敲中


岡倉天心「東洋の理想」(1903)を読む


近代日本は戦前が二回ありました。第二次世界大戦の戦前と日露戦争の戦前です。だから「東洋の理想」は戦前に書かれた本、もっといえば、戦前において書かれる必要のあった本だったと考えることができるかもしれません。▼「東洋の理想」の範囲を説明した文を読むと、「(岡倉天心)氏は、インドにおける芸術発展の現実に見られる類縁は多く中国的なものである指摘すると同時に、このことの理由には、一つの共通の初期アジア芸術というものが存在したということをおそらく求められるべきものであると述べ、この共通の芸術は、そのもっとも遠い周辺の波跡を、ギリシャの浜辺、アイルランドの極西部、エトルリアフェニキア、エジプト、インド、および中国に、ひとしく残っているものであるといっています。」(マーガレット・Eノーブルによる解説)とあります。▼共通の初期アジア芸術の痕跡が「アイルランドの極西部」にも。兎に角、理念型として東洋が構成されているということが大事なのですね。▼岡倉の有名な言葉「アジアは一つである」でいわれる連続性とは、なにがホンモノでなにがニセモノといったことを排他的に選別して整理することになる理念の病とは関係がないと私は読みます。異なる時代ではありますが、あえていうと、今日のアーチストが開かれた世界にむかって語る口調で、平等になんでもかんでもわれわれの精神に繋がっている世界に生きるのだとする自身を代表する言葉とそれほど違わないのだろうとおもうのです。▼「思想史研究会」で岡倉天心の後継者としてかんがえてみようとされる大川周明の意味は何かと考えています。1928年の昭和ファシズムの形としての帝国主義国家としての日本、この日本のファシズムイデオロギーに転化していくことになりましたが、しかし大川は1921年においてはまだ第一次大戦後に成立したアジアの革新思想の一つだったこともまたみておかないとフェアーではないでしょう。大正期の大川に「右翼」の接頭語は必要ないという意見があります。▼アジア的主体を介して植民地主義のヨーロッパ近代の限界を乗り越えていくことを思想の問題とした大川は、岡倉天心から読んだものは、岡倉のアジアにたいする比類なき共感ではなかったか。岡倉の本をよむとき、今日の日本の決定的な問題が見えてこないでしょうか。それは、小泉元首相から始まりましたけれど、アジア性を完全に喪失した安倍晋三首相、あるいは自民党だけしかアジアのヴィジオンーただし時代遅れの無効なーを持っていないという矛盾である、と、子安氏は「大正を読む」の最終講義で訴えました。▼「美しい日本」をいうこの歴史修正主義者が原因をつくる<外>の民族紛争の恐怖、と同時に、拡大してきた<内>の経済的格差。内外のこの二重の搾取を受けるアジアの人々はどうしたらいいのかという問いかけが、偏狭な一国的ナショナリズムによって、隠蔽されてはいないでしょうか。集団的自衛権の2016年、岡倉天心が生きていたら戦前のわれわれにむかって何を言うだろうかと不安におもいながら今日は考えていました。




MEMO


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20世紀における存在は戦争における叫び・歪んだ顔・天に仰ぎ地に伏す身体の表象で成り立っていた。存在は死を投射した。絶対の過去が死だった。そして死から存在それ自身を投射する。死に切った過去から問われた存在はずっと死に装束だった。背後から突き刺してきた投射の矢が精神だと気がつかなかった



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ポストコロニアリズムの教科書の序文を読むと、現在イギリスではimperialismが帝国主義という意味をもたないと書いてある。「一生懸命屋さん」という意味でしか理解されないという。たしかに、「植民地主義者め!」という非難の言葉はない。宗主国の真似をする現地住民は自分たちでは歴史を作ろうとしない「怠け者」としてステレオタイプ的に表象される。明治維新の近代という反復する歴史の悪夢から目覚めたいのだけれど、「怠け者」とされてしまう


英国は去った。EUは中でコミュニケーションをするために英語で喋り続けるのだろうか?英語を母国語とする国がないのに。長期的にいって英語の衰退がはじまるのかという見方もある



生というこの不可解な謎、偶然、暗号、バベルの不和、……ーボルヘス


Πλάτων 

『国家』をギリシャ史に照らせば、プラトンが哲学者に要求している「転換」がホメロス的世界秩序の転倒に等しいことがすぐわかるだろう。プラトンの場合、「洞窟」に位置しているのは、ホメロスのハデスの場合のような死後の生活ではなく、地上における普通の生活である。ハンナ・アーレント「人間の条件」41

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近代世界をかわして偉大な過去へ行く?英国ラディカル・ナショナリズムの派手な国際的実験のインチキ。北アイルランドスコットランドが意思に反してEUから引き抜かれることに


思考も揺れる。われわれはどういう時代に生きているのか知りたい。後期近代は1960-1970年からはじまった。1980年代はどういうものだったのか。現在NATOはもうあんまり意味なくなったようだし、大島渚じゃないんだけど、出ていくイギリスのかわりに、死刑制度を廃止した日本をEUに入れてもらえないだろうかと頭の中でちょっとかんがえたりしたとき、1980年代にやっておくべきことがあったのだ、日本とヨーロッパとの差がつきすぎてしまった。EUモデルの東アジア共同体の意義深い構想もあることはあったが、英国のラディカルナショナリズムがもたらしたネガティブなEU像のもとでは、もはや無理だろう。この国は戦前の祭祀国家を否定したあり方でなんとかやっていくしかないとおもうのである。500年間の歴史の視点を以ってもっと勉強しなくちゃ


ポストモダンは知識人の不可能性をいうが近代批判をやめない。日本における知識人否定のラディカルモダニズムとは理念性なき理念性なのかー本居宣長津田左右吉、90年代柄谷行人


The election result is so sensational that it is easy to miss what is at the heart of it: a desire for normality. Like the American military spokesman in Vietnam who explained that they had destroyed a village in order to save it, voters have destroyed the familiar political system in an attempt to make it ordinary. They have confronted the two great anomalies of Irish politics: the half-in/half-out status of Sinn Féin and the duopoly of the Civil War parties. They have decided to get rid of both of them. ーFintan O'Toole


推敲中

‪「人類皆平等」の近代は、フランス革命から始まったことは確かだ。だけれどナポレオンの共和主義の反対に行くことになる方向を、あのベートベンですら、見抜くことができなかったエピソードを読むと、何が「人類皆平等」であるかの判断は簡単ではないのである。第一次大戦後のワイマール体制は「人類皆平等」の方向を打ちだしていた。だがこの体制から、ヒトラーという「人類皆平等」のラジカルな否定があらわれてきた。この混乱はどう説明できるのか?この混乱はフランス革命が百年間を以って行ったデモクラシーをドイツが僅か十数年間という縮約して実現しなければならなかったその無理から生じたのではなかったか、そういう説もある。この問題は、ほかならない、アジアの問題である。ヨーロッパはルネサンスから500年かけてデモクラシーの近代を獲得したが、アジアはそれを百年とか二十年でやろうというのだから、このような大変な圧縮のなかで、どういうことが起きるのだろうか?「人類皆平等」の民主主義を全体主義とかんがえたり、また全体主義を「人類皆平等」の民主主義とかんがえたりするという転倒が起きるかもしれない。東アジアは二十年ぐらいで民主化を行うが、比べると、日本は150年の期間があった。しかし昨年のことを考えると、民主化運動のリーダーを「人類皆平等」の否定者の烙印をはってはいなかっただろうかという危機感すらないではないか。これが東アジアのデモクラシーを先行した"150年間"の達成なのか?ここから、戦後の民主主義は本当にそれほど「人類皆平等」なのだろうかとどうしても考えることになる。大正デモクラシーというのは戦争さえなければ順調に完成するはずだった、だから戦後はこの<純粋>大正デモクラシーから再びはじめれば宜しいと楽観的に考えているとき、帝国主義の議会こそが戦争(日中戦争)を準備したかもしれないということは疑われることがない。こういうことをかんがえながら、「人類皆平等」の近代はなんだろうかと思ってしまう。果たして、「人類皆平等」は不要な観念だろうか?ベートベンの後期のピアノソナタをききながらおもう。そうはおもわない。理念としてもたなければやっていけなくなるだろう、と


書くことも描くことも、平面の上において同一性も差異性もなくて曖昧な本質しかなければ、区別があるのか?「文字で描く」は正しくない。外部に逃げゆく文字で描くというべきだ


このヨーロッパ翻訳語の日本語ではなに言ってんだか話がみえないが、西田と和辻はカントが大好きなんだろうってことはわたしにもよくわかる


「我々の真の自己と考えられるものは人格的でなければならない、単に身体的と考えられるものは真の自己ではない。むろん、何らの身体的欲求なくして自己というものはない、人格というものすら広義に於ての身体性なくしては考えられない。(西田『私と汝』)


「おまえはだれだ?」

「無であります」  

カフカ日記1922年


Foucault 


Parce que nous ne voyons que cet embers, nous ne savons qui nous sommes, ni ce que nous faisons. Vus ou voyant ? ーFoucault

裏側しか見ないのであるから、自分が誰か、自分が何をしているのかわれわれは知らないからだ。いったい見られれているのだろうか?それとも見ているのだろうか?( フーコ 渡辺訳 )

 「裏側」とフーコが言っているのはこのベラスケスの絵のなかに描かれている画布の裏側のこと。王が立ち後に観客のわれわれが立つことになる同じ位置から、モデルたちは自分達が描かれている裏側を見ようとしても、(ここで順番が大切)、鏡を見てからその鏡から画布の方を見ると、裏側しか見えない。見えない限り、誰が誰であるか確定されていない。これは、同一性にたいして思考が揺れるなんと演劇的な配置であることか!問題は、現代にとってこの配置がもつ意味である。‪物事は表と裏でできているのだから、表だけでなく常に裏側も考えよ。と、‬どんな思考が成り立つのか?


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啓蒙主義というのは初心者をあたたかく迎いれる。17世紀の京都の「古義堂」の前でうろうろしているお百姓さんを伊藤仁斎が中に招きいれたという話がある。外国には、わたしは何が正しいか正しくないかは本を読んで知ったと言ってくる知識人がいるんだよね。孤児院で育ったので両親がいなかった場合もあるが、これを外国人(半他者)に告げるのは啓蒙主義の伝統が生きていることをおもう。わたしもこの年になってなのだけれど、フーコの本を読んで正しいことを学びつつある。大袈裟なことではなくて、たとえばご飯を食べる前に手を洗うとか(まえは気まぐれで逆のこともよくあった)。これは衛生上の理由でそうするようになったのではなくて、順序を重んじる古典主義の思考を見倣ってのことである。‪‬最初に書かれたことが大切である。必然だから大切なのではない。17世紀に立ち返ったポストモダンの精神からいうと、偶然だから大切なのである。『言葉と物』の書き出しはこうである。


画家は絵から心もちさがったところにいる。モデルに一瞥を与えているところだ。あるいは、仕上げの筆を加えようとしているのかもしれない。だがもしかすると、最初のひと筆をまだおろされていないのかもしれない。画筆をもつ腕は、パレットの方向、左にまげられている。いま彼は、画布と絵具との間で身動きしない。その馴れた手は視線に吊られ、視線は逆に、静止した動作にささえられている。画筆の鋭い先とはがねのような視線とのあいだでは、光線がその立体的空間を解き放とうとしている。(渡辺一民訳)


Le peintre est légèrement en retrait du tableau. Il jette un coup d’œil sur modèle; peut-être s’agit-il d’ajouter une dernière touche, mais il se peut aussi que le premier trait encore n’ait pas été posé. Le bras qui tient le pinceau est replié sur la gauche, dans la direction de la palette; il est, pour un instant, immobile entre la toile et les couleurs. Cette main habile est suspendue au regard; et le regard, en retour, repose sur le geste arrêté. Entre la fine pointe du pinceau et l’acier du regard, le spectacle va libérer son volume. 

ー Foucault‬


安倍についてはボリスとそれほど違わないけど、英国では権力分立の融解はない。この国は“王政復古”という名のクーデターで天皇に全部の権力を集中させたのが出発だからな


マスコミは政治家の心のなかを追って、腹話術みたいな口調で「高い支持率があるから俺は平気だ」という。公職選挙法違反で買収した内閣総理大臣に対する支持率に意味があるの?


英国は去った。EUは中でコミュニケーションをするために英語で喋り続けるのだろうか?英語を母国語とする国がないのに。長期的にいって英語の衰退がはじまるのかという見方もある。しかし待って、アイルランド英語がある。アイルランドの経済はEUの生産の1パーセントでしかないが、アイルランド英語がこれから英国英語にかわってEUのために働こうとしているのである。要請されているが、それは可能だろうか。アイルランド英語とは、ゲール語(大英帝国の19世紀に絶滅言語となった)、16世紀シェークスピアの時代に遡る英語(地主となる植民者が持ちこんだ)、現代の英国地方の英語からなる。Hiberno  English という文学演劇界の英語もある(ジョイスやフリールは標準英語で書いたと考えるべきだろう)


西欧文明にとって異教徒であり、中華文明からは東夷であるわれわれは、国の内外に周辺をつくる天皇の祀る大御心に行くナショナリズムよりも、グローバルデモクラシーの異教徒かつ東夷である疎外によって可能となるような外部の思考が成り立つ多様な諸関係ー貧富の格差の解決を含めてーを思考できないか


‪1916年はロシア革命とダブリンのイースター蜂起の年。恐怖した英国王室はドイツ起源の名を隠蔽して政治から中立的距離をとる。英国国教会の守護者という立場に自らを限定した。英国の自由の歴史は民が王から権力を奪う歴史。比べると、津田左右吉によると、江戸時代は事実上の象徴天皇制だった(徳川幕府が政治権力をもち、京都の天皇は文化権力をもっていた。) 天皇が政治権力をもつのは王政復古というクーデターの明治維新から‬である


『ザ・デッドThe Dead』(『ダブリンの人々』)の雪の描写が有名だけれどこの国は雪は滅多に降らない。シベリア寒気とメキシコ暖気とが衝突して雨が降るのだと教えられる。雨雲は死者が傍にいるようにくっついてくる。雨にうたれた言葉が裂かれて解き放たれた何かは何か?視線が先行するのか、観念が先行するのか?


華厳経の名前は『大 方広仏華厳経』(mahA-vaipulya-buddha-avataMsaka-sUtra)



大拙の「日本的霊性」の緒言に次のような記述があります。『日本的霊性の情性的展開というのは、絶対者の無縁の大悲を指すのです。無縁の大悲が善悪を超越して衆生の上に光被(こうひ、光が広くゆきわたること)して来る所以を、最も大胆に最も明白に明らかにしているのは、 法然親鸞の他力思想である。』


「華厳教学の中心は、第4祖の澄観が立てた「四種法界」の世界観です。「四種法界」では、世界をまず人間が普段感じている事物の世界である「事法界」と、すべては「空」(実体がない)であるとする理の世界「理法界」の二つに分けます。そして、この二つが互いを邪魔することなく存在している状態を「理事無礙法界」、理が消え、事物のみがそこにある「事々無礙法界」とするのです。普通の人間から見れば、4つの世界はそれぞれ別々に存在しているように思います。しかし、実はすべての世界は一つであると華厳教学は説くのです。」



丸山真男は戦前講座派を再構成した。永久革命としての民主主義ーこれは命題をラディカルに分解してばらばらの素材としての要素(要素の要素)にする近代における音声中心主義の言語観をもつのではあるまいか。‪(だからといって、思考実体を解体する分子の運動における思考の方法としてのリゾームにいくほどではない)。‬後期近代の世界史の構造の柄谷行人もここに絡み取られてきたようにみえる(主人と奴隷、あるいは中心と周辺の弁証法、超越するコミュニスムという名のXという亡霊的理念の反復。これらはラディカルモダニズムによる分解ではなくて何だろうか?)。だが言語が言語となるのは語のうちにおいてなのか?言語が定位する言説を分解しては、世界の半分も見えないし抵抗もできないと考えたのが市民である


言説とは何か?一番最初に叫んだ人を考えよ。彼以前に叫んだ人は存在したが、叫びが「境で見知らぬ人を見たら叫べ」という判断又は陳述としての価値をもたなければならない


‪昨日は、「昭和思想史研究会」(子安氏主宰)の懇親会にいらっしゃったある編集者から伺った話では、最近はルイ・アルチュセールの思想を知ってもハンナ・アーレントの思想を知ろうとしない。ハンナ・アーレントを読んでもルイ・アルチュセールを読まない。これが現在の知の問題だと指摘なさった。アルチュセールアーレントを読んでいても、この両者を関係づける理論をもっているかと問われると、正直わたしはもっていない。そんなわたしでも、『「大正」を読み直す: 幸徳・大杉・河上・津田、そして和辻・大川』(藤原書店)と『帝国か民主か:中国と東アジア問題』(社会評論社)を読んでこの両者の関係をなんとか考えることができるかもしれないと思っている。前者はアーレントの見方をもっており、後者は直接の言及はないが暗黙の前提としてアルチュセールの見方をもっているとおもわれるからである。さてアルチュセールは『資本論』を読み直した。表象は正当化をもつ。そうして商品の交換価値の言説が再構成されることになった。表象は盗み即ち剰余価値である。思想から考えられたこの表象の理論を再び思想に適用できないだろうか。ハンナ・アーレントが「わたしはドイツ語を喋る」と語ったが、「ドイツ人」というのは「表象」とアルチュセールが呼ぶものではなかったか?柄谷氏の『世界史の構造』もまた表象である。グローバル資本主義の分割が「帝国」であると分析できたが、しかしそれを前提に『資本論』の読み方をアジアの知識人に教えるとき、そこに内部に絡みとられた一元主義の表象が機能していないだろうか?表象は市民の新しい経験をなす多元主義を搾取しているとしたら、『世界史の構造』(=『帝国の構造』)は多様体の一的多の思想とはいえないだろう。他者なき構造の見方に依存する限り、他者なき世界の半分しかみていなかった‬のである


小説『日の名残り』の召使いに王室とブルジョアへの全国民の従属が表象される。和辻のいう「全体意志の表現」に仕える召使いではいつまでも主権を自分のものにすることができない


ベラスケスの『ラス・メニーナス』は、ネットに投稿すると、「馬鹿な連中」と、人間の従属性を読み取って腹を立てる人がほんとうに多いことを知りました。だけれど主人よりも召使について考えるほうが面白いのは、たとえばモーツァルトフィガロとかですね。観察される関係が複雑になりますから。その点、ジョイスは没落していく中流に仕える召使を描写するのが上手いのです。中流の分身を表現しているようでいて、必ずしもそうではありません。たとえばThe dead は、議論がありますが、神の平等な視点を体現する形で召使いから書き出すという画期的な視点を指摘する読みもあります。要領よく説明できませんが、リアリズムに還元されない文学が語る、無の存在を利用していくロゴスの脱構築というか、反コスモスとコスモスというか

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Et comme si cette épreuve des formes de la finitude dans le language ne pouvait pas être supportée, ou comme si elle était insuffisante ( peut-être son insuffisance même était-elle s'est insupportable), c'est à l'intérieur de la folie qu'elle s'est manifesté- la figure de la finitude se donnant ainisi dans le language, (comme ce qui se dévoile), mais aussi avant lui, en deça, comme cette région informé, muette, insignifiant où le language peut se libérer. (Foucault)‬


二十代初めのときは、『存在と時間』が反コスモスで、『資本論』がコスモスと考えてより大きなロゴスへ行くつもりが、思考が足りず『資本論』への拘りはカオスになったと思われ


緊急事態条項は必要なのだろうか?法で対応できるのではないか。どうせ緊急事態条項を解釈改憲するだろう。自民党の御用伺いの学者たちがワイマール憲法解釈改憲しているからね


元祖寸劇

フクロウ猫「ホーオリンピックってニャ、これほどの「人混み」がほかにあるの?」

安倍晋三「意味のない質問だよ」


戦争機械とともに、そして遊牧生活において、数は数えられることをやめて<暗号>になる。そして<暗号>として数は「団体精神」を構成し、秘密と秘密をともなうもの(戦略、諜報活動、謀略、待ち伏せ、外交交渉、等々)を発明するのである。――(下)p89


ポストモダンに理念があるのか?後期近代にまだ思想があるのか?この問いに答えるために、反コスモスとコスモスの関係は弁証法的近代の対立であると考えることはできないという点から考えはじめたいとおもう。反コスモスはコスモスの対抗概念ーカオスーを意味しない。もし反コスモスをカオスと理解すると、カオスとコスモスの対立を語る構造主義の近代になってしまう。カオスというのは、反コスモスなきコスモスからみると、多様性が意味のない分裂ーカオスーにみえる。多様性を統合しなければならない。これは帝国主義の言説である。また今日の文化的ヘゲモニーの帝国の言説である。まそして今日復活している、国体は天皇を全体意志を表現しているのだから何も変わっていないという言説もそういうものである。他方で、反コスモスとコスモスの関係はこの関係から関係を消すことができないという意味でポスト構造主義的な多元主義である。デリダを読んだわれわれは、ハイデガーはこれを存在から存在を消去できないと表現したことを知っている。後期近代において別のあり方が問われるとき、脱構築的な、反コスモスとコスモスの関係が問われる。多様性を無理に統合する明治維新の近代に帰る必要がない。ポストモダン多元主義だから差別を容認するときめつけている意見を読むが、反コスモスというのは人間を平等な空集合と考える。まさにこの平等から絶えずコスモスがつくられるのであるー反コスモスとともに、ポストモダンに理念があるとすればここである。アジアから‪新しい普遍を‬考えることができるか


‪「不条理が、列挙された物の分られる場所である<なかで>を不可能にすることによって、列挙をささえる<と>を崩壊させてしまう。」(フーコ『言葉と物』序 渡辺一民訳)‬

‪近代合理主義の行き詰まっている時代にこのフーコの一文がある。文中の「不条理」を<反コスモス>とおきかえてみる。「列挙された物の分られる場所」は<コスモス>である。そうして読み直すと、<コスモス>は<反コスモス>を利用して別のあり方を模索するということを言っているような一文であることがわかる。市民は、近代の批判的相対化とアジアにおける多元主義を自分たちのものにするためには、明治のヨーロッパ翻訳言語である日本語が”前近代”として軽蔑してきたアジアの言語で考えることが大切ではないだろうか。その意味で「漢字は不可避の他者」である。飯田橋RENGOの「仁斎論語塾」(子安宣邦氏主宰)ではポストモダン孔子と『朱子語類』を読んできたが、四月からは、江戸思想の文献を読みつつ、<反コスモス>と<コスモス>の関係を考えるために、西田幾多郎が影響を受けた中国の仏教である華厳経の思想も考えることになるようである‬。

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童子問』では、「人のほかに道なく、道のほかに人なし」=道とは高邁な哲学ではなく、普通の人の日常生活に流れている道理


" Le propre du langage est de reposer sur des mécanismes inconscients. Quand nous parlons nous ne sommes absolument pas conscients des lois que nous observons pour parler et même le linguiste qui fait la théorie de ces lois, n’en prend conscience que pour autant qu’il les expose dans des livres ou dans des cours. Mais pendant qu’il parle, elles sont exactement aussi inconscientes que pour n’importe lequel d’entre nous. "

- Claude Lévi-Strauss -


‪最初に撮った写真はこの斜めに崩れおちた建築物。結局これ以上の写真を撮れなかった。ここに十年以上すんだが追い出された。当時隣人のフランス人が写真にエネルギーが感じられると言ってくれたがその意味がわからなかった。斜めの世界において成立していた力を垂直方向につりあげたらそこでなにが起きるか見ようというのである‬ーそうして愚かものは音楽をつるしあげるということだろうか


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‪愚か者は類似しているものを同一のものとかんがえると隣人に説明したら、ジャムをパンにではなく皿にぬっているあんたが愚か者だと言われた。この年になって気がついたが、そういうことなんだな‬。付け加えると、似ているか似ていないかは問題ではない


近代英国の議会は全員が一斉に喋った。段々ルールが出来た。国会もヤジ飛ばしあいのこの原点に帰れ。そうすれば自ずから王様が処刑されることになるのだから。民主主義はその後



seq2 動かないことによって、移住しないことによって、一つの平滑空間を保持し、そこを立ち退かないことによって、新たにそれを獲得するためか死ぬときしかそこを立ち去らないことによって、彼らは遊牧民となるのだ。――(下)p263


大乗仏教の哲人たちは、宇宙の本質は空(くう)であると説いている。同じ宇宙の一小部分であるこの本に関する限り、彼らの言うところはまったく正しい。ーボルヘス


 それからもう一つ、書くことと言語表象」のことを申し上げておきたいです。先ほどもお話したように、近代言語学言語の本体は音である」と断言しているのですが、どうして人々は文字問題に強い関心を抱き、感情的になりやすいのでしょうか。 ある言語の全体」の表象が成り立つのは、その言語の書かれた」すがたを思い浮かべることができた時だと思います。そういう意味において国字問題は、日本語をどのように表象し価値づけるかと深い関わりがあります。ーイ・ヨンスク


「ある言語の「全体」の表象が成り立つのは、その言語の「書かれた」すがたを思い浮かべることができた時だ」(イ・ヨンスク)。子安宣邦氏は不可避の他者として漢字の意味をとらえる。しかしラディカル・モダニズムは知識人が依拠してきた漢字の存在にネガテイヴなイメージをもつ(津田左右吉)。われわれは音声中心主義による革命をやめたら化石になってしまう。‪「神」をカミと読んだアジアのバベルの災厄をもたらす形で、‬過去の姿も絶えず発明しなければならない多元主義(本居宣長)。‪過去の言語の「書かれた」姿を真っ二つにして、‬デモクラシーを反近代の永久革命にしてしまう普遍主義(文化大革命)


アジアの問題は、ヨーロッパが五百年間かけてやった近代化を、僅か20年でやらなければならないとか、100年でやったとか(明治維新150年万歳!)、歪に圧縮された近代化の問題につきる。西欧列強の植民地化を避けるために知識人の普遍言語を否定したラディカルモダニズムの国家では、多元主義全体主義と考えたり、反対に、全体主義であるに多元主義であるとおもうことが繰り返し起きるのである。‪アジア共同体における言語の「全体」の表象が成り立つのは、その言語の「書かれた」すがたを思い浮かべることができたときなのに、現在こそ、17世紀漢文エクリチュール多元主義を思い出すべき所に、透明な自立的一国言語主義(そしてそれを支える一国民主主義)のナショナリズムしかないとかんがえている‬


‪「真理とは、悟るもので、論ずることはできぬ」(ボルヘス)。ここで、「真理」はロゴスのことならばつまり理ならば論じることができるが、「悟る」は仏教と儒学を統一した朱子的な、したがって禅的なものなので「論じることはできぬ」というわけである。子安先生によると、儒学は道理である。道理をどう理解するかであるが、やはり先生が取り組んだ伊藤仁斎の思想を無視できないだろう。井筒俊彦氏の考えを参考にすると、道理はコスモスを構成する。他方で仏教は空とか無である。西田が影響された華厳経の思想に尽くされている。「大乗仏教の哲人たちは、宇宙の本質は空(くう)であると説いている。同じ宇宙の一小部分であるこの本に関する限り、彼らの言うところはまったく正しい」(ボルヘス)。空とか無は反コスモスである。コスモスが反コスモスを利用していくと脱構築的なあり方を考えようとしている。だがどうしてフーコも読むのか。多分そこにヨーロッパのすべてのことが書かれているからである。これほどの本は強力なヨーロッパ翻訳言語である日本語を必要としたと言わざるを得ない。日本近代の学問のピークは和辻が活躍した1930年代であるといわれる(和辻の天皇論はすでに構造主義を先取りしていた)。1970年代から後期近代であるが、日本近代が終わった1960年代に『言葉と物』が現れたのは必然だった。『言葉と物』はボルヘスから書き始めた。日本近代が捨て去ったアジアの形而上学はこの本を超えるものとしてあるのは、日本語から自立したアジアの言語の全体の表象をもっているからだろう。少なくともヨーロッパの形而上学と対等である。いつでも誰でも参加できるテクストを読んで先生のもとで勉強している


ゴダール:


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‪ある言語の「全体」の表象が成り立つのは、その言語の「書かれた」すがたを思い浮かべることができたときであるという。先ず表象が自己に記号を与える。記号は「書かれる」姿である。つぎにその「書かれる」すがたを思い浮かべるときに表象が成り立つ。後期近代は現代はセリー(系列)が問題となる。たとえば「映画史」に20世紀が住処としているともいわれる。もはや20世紀の大切な映画たちが投射されるスクリーンは存在しないのだけれど。映画の歴史の「全体」のセリー(系列)についていうと、セリー(系列)は自己に記号を与える(投射する)。記号は、思考の画布のような見えないスクリーンによって二重化されている「描かれる/書かれる」すがたである。いわゆる「モンタージュ」である。そしてゴダールにその「描かれる/描かれる」すがたを思い浮かべるときに、セリー(系列)が成り立つ。リア王‬God-Artという言説

存在すること、それは死に切った絶対の過去。20世紀における存在は戦争における叫び・歪んだ顔・天に仰ぎ地に伏す身体の表象で成り立っていた。存在は死を投射した。存在は死をみた。そして死から、存在それ自身を投射する。死に切った過去から問われているという意味において、存在はずっと死に装束だった。そしてだれも、背後からやってくる投射の矢が精神だとは気がつかなかった

暴力革命のことを言うけど、安倍がたたえている明治維新薩長なんかやったクーデター、もし戦犯の血が流れているおまえは現在もテロじゃないのといわれたらどうなの?

‬ 突然の過労死で他界した友人の死のことがあるのだけれど、現在、死から問われている時間の意味について考えている。映画といえば銃とセックス。映画の歴史を回顧すると、映画は叫び・歪んだ顔・天に仰ぎ地に伏す身体によって死の表象で成り立っていた。だが死から、映画それ自身を問う映画はなかった。スクリーンはずっと、死に装束だったのに... だれもその投射が精神だとはおもわなかった
on porta le deuil de cette mise à mort‬ et c'est avec les couleurs du deuil avec le noir et avec le blanc que le cinématographe se mit à exister ‬ 
‪ ー Godard Histoire (s) du cinéma


推敲中
SERIE(S)
「国内亡命」は、エクリチュールの読み直しにすんでいる。一考の価値あり?解釈で壊さぬ、解釈しない読み直しは可能か?知と弱さがいる。至高性と卑近性の間で、結びつかないもの同士を近づける流れ、セリー(系)を作り出すことのほかに何もできないし一人でもこれをやるだろう


ゴダールの映画『イメージ・ブック』の前半は、ゴダールの『映画史』(Histoire(s) du cinéma)を発展させたもので成り立っているから、『映画史』をしっかり見て欲しいと願うものである。『映画史』は、1988年 - 1998年の間に断続的に製作および発表され1998年に完成した、ビデオ映画シリーズである。『映画史』とはラングロワとトリフォーへのオマージュであると言っていい。『映画史』はいかに目に見えないものを目に見えるものと関係づけるかという言説的構成をもっている。ラングロワとトリフォーの魂の気とは、それが散じ尽くす前に時間があるから、コミュニケーションをとることができると考えてみるのである。それによってどういうことが言えるか?『映画史』を形作っているのは、天地の間、すなわち目に見えないラングロワとトリフォーとゴダールの間に往来している感化の大きな運動である。『イメージ・ブック』では、目に見えない、ヨーロッパにとっての他者とのコミュニケーションのあり方が問われることになった。『イメージ・ブック』は、『映画史』のポール・ヴァレリーに言葉をひいた言葉を呼び出す。「かすかな声、おだやかな、か細い声で、大それた、重大な、驚くべきことが、深く、そして正しいことが語られる」と。この言葉に加えられる映像はただ一つである。映像はイスラムの女性とおもわれる人間の身振りとジェスチャーである。『イメージ・ブック』と『映画史』のナレーションは反時代的精神が吃る形而上学的ロゴスである。はじめにロゴスありき。垂直的に、ロゴスは感化の運動の上に泊まっている。ロゴスは言語的存在が自身が存在する宇宙論的な意味を問う。ロゴスは時間に先行する論理である。時間のイメージに先行する思考のイメージである。天との関係において世界に存在する諸々のものは水平的全体性(平等性)である。 ‪

真理とは、悟るもので、論ずることはできぬ。

舞台をみると観察できますが、多分映画のほうがもっと観察できるかな、身振りとそれによって示されるものとのギャップ。意味するものと意味されるものがかくも違うのに、両者の関係が成り立つのは一体何故なのか?たとえば叫びと恐怖は似ていません。境界付近で見知らぬ者を見たら叫ぶのは共同体の約束だったのか?そうだとすれば、一番最初に叫んだ人はだれだったか特定できる筈です。しかしそれにしても何故別の仕方で叫ばないのですか?経験からいってもっと自然に叫ばないのでしょうか?そもそも自然とは何か?こういうことを考えたのは近代からです。近代の力とは何でも考えてこれらを説明し尽くすことにあります。近代になって同一性と差異性が思考の中心を占めます。そこで恐怖は表象すること、言語化することが要請されます。叫んだだけでは野生児の叫びおなじで何の意味もなさず、少なくとも「わたしは恐怖を感じた」と語らなければいけません。意味をなさず、「わたしは恐怖を感じた」と語らなければいけません。かつての類似するもの同士の力は類似の想像力という形で背景に追いやられることになります。

暴力革命のことを言うけど、安倍がたたえている明治維新薩長なんかやったテロリズム、戦犯の血が流れているおまえは現在もテロじゃないのといわれたらどうなの?

‪ー After Godard Histoire (s) du cinéma ‬ ‪
on porta le deuil de cette mise à mort‬
‪et c'est avec les couleurs du deuil avec le noir et avec le blanc que le cinématographe se mit à exister ‬ ‪

trug man Trauer über diese Grablegung und mit den Trauerfarben mit Schwarz und Weiß begann die Existenz der Kinematographie ‬

‬嗚呼、突然の過労死で他界した友人の死。現在、死から問われている時間の意味を考えている。映画といえば銃とセックス。映画史を見ると、映画は叫び・歪んだ顔・天に仰ぎ地に伏す身体によって死の表象で成り立っていた。だが死から映画それ自身を問う映画はなかった。スクリーンはずっと死に装束だったのに... だれも、背後からやってくる投射の矢が精神だとはおもわなかった

米豪韓加から「救出」するために次々にやってくるらしい。日本会議が応援する安倍王朝に「感染」された民を救いにきてくれるのはいったいだれか...?

樹木は動詞「である(エートル)」を押しつけるが、リゾームは接続詞「と……と……と……」を生地としている。(…)どこへ行くのか、どこから出発するのか、結局のところ何が言いたいのか、といった問いは無用である。――(上)p60

ボクシングといえば、アメリカが最も得意とする映画分野。ボクシングはスムーズに対峙する二人が入れ替わるので映画的だといえる。チャップリンが確立したシステムは、主人公が非常に紳士なキャラなんだね。対戦相手と握手、他の皆んなと握手する。試合が始まると、彼は決してズルをしているのではなく、よく見ればわかるが、勇敢にたたかっている。面白いことにバレーみたいに舞う。チャップリンは休暇のときに愛する女性の幻覚をみる。これが凄い。チャップリンの前に誰もこんなことは考えつかなかった。『ユリシーズ』のブルームの幻覚の描写ー神話的介入でもあるーを喚起するのだけれどね、もしこの場面がなければ、レイジング・ブルやロッキーは無かっただろう。というか、ボクシングの場面に限らず、ハリウッド映画における叙事詩的場面がこのチャップリンのルールにしたがうことになる。リアリズムと神話の共存、19世紀オペラが既に20世紀映画に先行していたことをおもう

クルーズ船実験室化はオリンピックのことがいわれるが、そうであれば人権に配慮して下船させる筈だ。あれはオリンピックにあらず。残酷な<日本>おりんぴっくの生贄なんだよ


1970年代は専ら自己否定の観念で、今日の香港の若者と比べると、それほど社会のネガテイヴなイメージをもっていない。80年代は、70年代から始まった近代批判があったし、隣国で天安門広場事件もあった。だがやはり開発と戦争と同化主義で覆われる社会のネガテイヴなイメージをもってない。小泉の靖国公式参拝に抗議しなかった異常といわれても仕方ないその80年代が今日権力の中心を占めている。若者たちが社会のネガテイヴなイメージをもつのは2011年からではないか。この150年間に、自由に喋らせてくれという声がはじめてでてきたのである。再び曖昧な観念ー歴史修正主義ーに戻る必要がない。‪明治維新の近代の虚構を批判して‬明確なイメージをもつこと

推敲中

SERIE(S)

「国内亡命」は、エクリチュールの読み直しにすんでいる。一考の価値あり?解釈で壊さぬ、解釈しない読み直しは可能か?知と弱さがいる。至高性と卑近性の間で、結びつかないもの同士を近づける流れ、セリー(系)を作り出すことのほかに何もできないし一人でもこれをやるだろう


推敲中

‪Le Maître dit: <La vertu suprême est-elle vraiment inaccessible? Je désire la vertu suprême- et la vertu suprême est lá > Confucius, Les Entretiens ‬

‪「子曰く、仁遠からんや。我れ人を欲すれば、斯(ここ)に仁至る。」‬ ‪「これ仁の甚だ近きをいうなり」(仁斎『論語古義』子安訳)。他者の立場に立って、人の惻隠の心との連関でとらえる仁がいわれる。仁斎の思想は道徳思想である。政治思想ではない。だけれど、飯田橋での講義の後でカフェの場で話題にあがったことだが、他者の視点と、人と我との隔てなき共通性の視点を切り離してはならないのは、政治思想の条件を為す?‬