フーコはいかに「言説」を語ったか

‪フーコはいかに「言説」を語ったか(No.1)‬


‪16世紀の言語(ランガージュ)は、自己にたいして、たえざる注釈という立場をとっていた。ところでこの注釈は、何らかの言語(ランガージュ)がそこにあるー何らかの言語(ランガージュ)が、それを語らせようとして用いられる言説(ディスクール)に先だって沈黙のうちに実在するーという条件ではじめておこなわれるものにほかならない。注釈を加えるにはテクストの絶対的先在が必要なのだ。逆にまた、世界が標識ち語とのからみあいだとすれば、注釈という形態をとらずにどうしてそれについて語れるだろうか?ところが古典主義時代以降、言語(ランガージュ)は、表象の内部、表象のなかに空洞を設ける表象それ自体の二重化のうちに展開される。爾後、第一義的<テクスト>は消滅し、それとともに、自らの無言の存在(エートル)を物のなかに刻みつけていた語の尽きることのない基盤全体も消滅する。表象だけが残り、それを顕現する言語記号(シーニュ・ヴェルベル)のなかにくりひろげられ、そのことによって<言説>(ディスクール)となるのである。‬

‪ー 『言葉と物』第四章 語ること‬

2019年の選挙

これから投票所へ。社民党の存続が気になっている。立憲民主党日本共産党山本太郎?女性の政治家の数も大切な判断材料。安倍政権は「安定か混迷か」と訴えるけれど、有効需要の不足による不均衡なまま安定していることが問題。それでも安倍はアメリカしかない。米国のネオリベを再検討するつもりがない。そして安倍応援団の日本会議は日本しかない。ナショナリズムがすべてである。わたしの考えは、揺れ動くこと自体はわるいことではない。たとえ「混迷」しても、権利のある社会を求めて分裂したらいいじゃないかとおもう。「安定」していけばいくほど権利のない社会になっているんじゃないの?そしてこの時代、香港と台湾、韓国は、外側から、日本の選挙をどうみるかという話をもっとききたい。

「方法としてのアジア」

ネオリベの言説「敵と競い合う世界」ー向こうからきた人はこちらに最悪の攻撃をしてくるからそれを想定して報いる必要があるーに対しては、それが拠るゲーム理論パレート最適的前提が社会民主主義的見方から再検討されました。また共同体を重視する倫理的な考え方からする反論もあります。ほかに、21世紀は、「方法としてのアジア」を導入せよとわたしは言いたいのです。それは、日本にだけでなく、グローバル資本主義の分割であるネオリベの中国にもアメリカにも要請されるものではないかと考えてみたらどういうことが言えるかですね。死に場所がないだけでなく生きる場所もどんどん奪われていくならば、人びとが自由に移動していくことができる新しい普遍主義のこともいっしょに考えています

漢字論

‪漢字は他の文化を盗む為に必要だったと考えてみる。盗んだ痕跡は残る。寧ろ神話に他の声が介入してくるように漢字で盗まなければならなかった。ナショナリストが漢字に依拠できるオリジナリティーがないと嘆くときは、映画を観て「英国の空は美しい」と言う人と似ている。色の美しさはフィルム感度が作るのに‬。映画館で見ていたのだから、投射の働き(思考方法)を考えなければいいのであって、そうではなくて、英国の空(思考実体)をたたえるのはなんと愚かだろうか。‪漢字とそれを自分のものとしてもとうとして読む仮名で構成されるエクリチュールこそが投射ではないか。



‪西欧近代しかないとする支配的見方はどこで成り立つのだろうか?それはアジアは独自の言語学がないとするヨーロッパの言説をアジアが受け入れることによっても成り立つ。サイードが指摘したように、支配的見方のなかでそれと異なる見方をするためにはアジア人達が行った言語の分析を学んで、それが文化論的にどういう展開をもったかを知ること。例えば漢字論の言説のリゾーム的運動をアジア主義(竹内)とともに理念的に考えていく必要があるのではないか‬と思う。先週の講座で子安先生は9月以降の予定を話されたとき、津田左右吉が漢字をネガティヴにみていたがそれについてもかんがえたいという。‪



漢字論の言説のイメージは自らの内部におけるものにみいだせるかどうか?そのイメージが、コピー(漢字は借り物である)とかオリジナル(漢字は起源がある)とかいう言説の中からその内部に向かっていくとき、こだわりを以って内部が思考実体(「国語)となってしまうところで、イメージは「不可避の他者」がみる外部の視点-思考方法-を失なう危険あり

MEMO

‪「21世紀の現代における「方法としてのアジア」とは、人間の生存条件を全球的(グローバル)に破壊しながら、己れの文明への一元的同化を開発と戦争とによって進めていく現代世界の覇権的文明とそのシステムに、アジアから否(ノン)を持続的に突きつけ、その革新への意志をもち続けることである」‬

‪ー 子安宣邦『「近代の超克』とは何か」(2008)‬


土曜日は竹内『近代の超克』論を考えた。アジアへの共感なき安倍は西欧近代しかみない。安倍応援団をなす日本会議歴史修正主義は日本しかない。日中国交回復を実現した田中角栄社会党に存在したような、対抗軸としてのアジア主義が消滅してしまったというお話を子安先生からきいた。帝国主義をもたらした近代を乗り越えていく方向を以って理念的自立性を構成できないこと、それを実現する条件が不在であることが現在の問題である‬とされる

‪‪パリは「マクロンはどうなんだ」という批判が隣のお喋りからよくきこえてきたけど、東京にくると、改めて気がつく。日常生活で景気と健康の話題は出るが、昨日食事会のときに話題に出たことだが、隣人に「安倍はだめだね」という話をする隙間もない。この言語化できない禁止を言語化しなければヤバイという危機感すらないか‬パリは「マクロンはどうなんだ」という批判が隣のお喋りからよくきこえてきたけど、東京にくると、改めて気がつく。日常生活で景気と健康の話題は出るが、昨日食事会のときに話題に出たことだが、隣人に「安倍はだめだね」という話をする隙間もない。この言語化できない禁止を言語化しなければヤバイという危機感すらないか‬

‪Nietzsche se doutait bien que lécrivain ne serait jamais debout; que l’écriture est d’abord et à jamais quelque chose sur quoi l’on se penche. Mieux encore quand les lettres ne sont plus des chiffres de feu dans le ciel .‬ ‪ー Jacques Derrida L’écriture et la différence. ‬ ‪ニーチェは、作家が立っていることは絶対にないだろうことに、すなわち、書くこととは、そもそもの初めから、永久に、人がその上にかがみこむ何かなのだということに、はっきりと気づいたのだ。そして、文字がもはや空中ののろしではないときには、いっそうそうであることに。(デリダ『差異とエクリチュール法政大学出版局)‬

‪...Artaud a voulu interdire que sa parole loin de son corps lui fût soufflée.‬ ‪Soufflée: entendons dérobée par un commentateur possible qui la reconnaîtrait pour ranger dans un ordre, ordre de la vérité essentielle ou d’une structure réel , psychologique ou autre.‬ ‪Soufflée: entendons du même coup inspiré depuis une autre voix, lisant elle-même un texte plus vieux que la poème de mon corps, que le théâtre de mon geste.‬

「恋愛恐怖病」は、昔、松下さんが演出なさったものを観ました。興味深く観劇しました。観客席の後ろにいた代表の入江さんと(岸田の研究がある)渡辺先生がともに、岸田のこの芝居はいかにも鎌倉的というか上流のブルジョワ的雰囲気だねというような褒めつつやや突き放したようにも受け取れる感想を述べておられました。わたしははっきりとその意味がよくわからなかったのですが、とくに質問もしませんでした。いま思い返すと、非政治的に、一人のなかの関係の多様性が呈示されているというようなことをご指摘なさっていたのだろうかとおもっています。渡辺先生のお考えでは、劇団というのは、一人の主観ではどうにもならないという意味で、非ブルジョワ的なところなんだそうです。そうすると、劇団という政治的な場で、「舞台は関係がある」ということ。いや、「舞台は関係である」と表現すべきなんですかね。「関係がある」の「がある」と「関係である」の「である」とは同じかな???前者はどちらかというと一人の主観ではどうにもならない関係の客観性で、後者はその関係をなんとか自己のなかで構成しようとする主観性?客観性から主観性への移行?日本語はその境界が曖昧。関係の冒険という一人の主観ではどうにもならない政治の事件性は終わっているが、思想としては終わっていないということについて考える今日この頃です。

‪Non sum uni angulo natus, patria mea totus hic mundus est. Seneca, Epistulae Morales ad Lucilium, XXVIII, 5. ‬ ‪わたしはこの片隅だけに生まれたのではない。この世界の全体がわたしの祖国だ。‬ ‪セネカ『倫理書簡集』‬ ‪


ブーメランの鬼神論

オーストラリアではブーメランは野生動物に向けて飛ばしますが、子供時代に東京にきた私はシドニーのお土産屋さんで買ってもらった大ブーメランを国家公務員の公団住宅のコンクリート壁に向けて投げていました。だけど親といた公団住宅は野生化せず、二つに折れたブーメランも大地に葬られることなく母親によって勝手に産業ゴミとして捨てられました。しかしブーメランというものをはじめて見た近所の超ガリ勉の子供は衝撃を受けて勉強をやめてしまって肖像画を描く芸術家の道に進んだみたいです

中国語は、何世紀にもわたって、朝鮮語、日本語、アンナン語の語彙に洪水のように入っていったが、お返しに何ひとつ受けとっていない。ーエドワード・サピア『言語』

脚の痛みに水の中を歩くといいらしい。今朝は就学前の大勢の子供たちでプールが遊園地化していた。中には私みたいにナイーブな子どもいて、シャワー室でスタッフのお姉さんに世話されている。

「名前はなに?」

「...」

「ママになんて呼ばれてるの?」

「そのママってのは、オフィーリアのこと?」

(変な子供だわ)



可視的なものはー内部における構築された表象ーは、言説的なものー自己同一化の言説に絡み取られる。「方法としての自然光」が自己同一化の言説を解体していくという。スタジオの外の自然光への依拠はゴダールの「外部の思考」を構成する。他者の領域において可視的なものと言説的なものとは独立している


思想の歴史に「方法としてのアジア」がある。映画の歴史に「方法としての自然光」がある。思想史も映画史も「外部の思考」が要請されるのである

‪西欧は60年代の近代批判の新しい思想に先行してスターリズム批判が存在した。「独ソ不可侵条約」でナチスと手を結んだスターリズムだが、ハンガリー革命まで批判しなかったサルトルは批判された。アジアは、50年代に、「近代の超克」の竹内好によるマルクス主義アジア主義(例 平野義太郎)批判があった。

運命の力

ヴェルディのオペラ「運命の力」を観て思ったのは、登場人物達を突き動かしている名誉とか評判。あれは何だろうかと。私にとっての意味を考えるのですね。名誉と評判から生じる葛藤に惹かれることはないですが、しかし望む本をもっていないこと、これほど不名誉なことはないだろうということを、『気狂いピエロ』の島ポルクロールでウロウロウヨウヨ、ワイワイガヤガヤしたことによって気がつきました。説明を要しますが、『気狂いピエロ』の若者たちはこの島にやってきたときは映画は死んでしまいました。そして究極の本を書く詩人ランボーみたいに放浪したのですね。だけれど書くことができないでいます。気狂いピエロとは、ほかならない、映画のことです。表象<映画>ー表象の表象ーは本のかわりとなることによってしか蘇ることができないとはじめて語り出されていくのです。新しい言説ですね。再びヴェルディのオペラですが、ワグナーの大地のなかに吸収してしまうものを保っているように感じられます。名誉と評判が宇宙のリズムと連結している面白さがあります。そうして非帰属性のリズムに成るというか...。その点に関して、階級と身分なき大衆社会の電子化のことをちょっと考えています。かつて大衆からファシズムスターリニズムの全体化が生まれたとしたら、ネットの時代からは何が生まれてくるのかとおもいますが、その点についてそれほど悲観的ではありません。12世紀に極まる垂直的全体性(宇宙的無限の非差異的同一性)と17世紀から始まった水平的全体性(卑近の非同一的差異性)とが斜線において19世紀20世紀において存在しなかった多様性を観念化してみたいです、と、簡単にそう書きましたが、ま、わたしには無理でしょうけれど。最後に、非帰属性だけを拠り所することもできません。たえずヨーロッパのことを考えなければいけないとするアジアの距離の観念ですかね、自分がもちたいと願うのは。本当に願ってる?わかりませんが、その距離が住処とする島は一体どこにあるのでしょうか!?‬

漢字論の言説

ロンドンでWittgensteinをヴィトゲンシュタインと読むと、ウィトゲンシュタインのことだとわからない人もいる。伝記を読んで映画を見ているんだけどね。単に彼のドイツ文化圏の背景を知らないだけでなくて、何となく知りたくない場合もあったのじゃないだろうか。反大陸的な文化ナショナリズムはイギリスの問題だけではない。これと比べてみようとおもうのが、近代日本の問題である。言語(ランガージュ)は「不可避の他者」なのに、反言語(反漢字)の言説は言語化できぬこだわりの対象を漢字から奪われるという感じで、何となくそう感じるのか。でもそうなのかな?漢文の裏側に見つけ出した言語化できぬものを追っかけてもらっても、裏側も表と同じだったという可能性もある。カフカ『城』みたいなこと。戸口でそれがみえる外部の場所もある。漢字論の言説は思考を鍛えてくれる