人形浄瑠璃文楽

男女の愛と友情の世界を演じ切った人形が三体、舞台で操る九人の男性の影たち。何だろうね、これは?秩序の背後にもう一つ別の秩序があるわけだけれどね、秩序と秩序の間に秩序そのものが宙吊りになる、観客席からは見えない、過剰なものの存在を考えた。‪これなんだな、舞台を見ながら、溝口映画(『近松物語』等々)はどうだったかなと思い返す。映画は純粋に見ることをいう近代の言説に対抗している。映画というのはそれほど純粋ではない。書く言葉に優位する話す言葉が見ること、ここに、映画が生み出す異質性があった。これももうひとつの近代なのではないかといわれれば多分そうなんだ... ...

人形浄瑠璃文楽

男女の愛と友情の世界を演じ切った人形が三体、舞台で操る九人の男性の影たち。何だろうね、これは?秩序の背後にもう一つ別の秩序があるわけだけれどね、秩序と秩序の間に秩序そのものが宙吊りになる、観客席からは見えない、過剰なものの存在を考えた。‪これなんだな、明治「維新」の近代が苛立った‬のは(よく理由はわからないけれどさ。) 舞台を見ながら、溝口映画(『近松物語』等々)はどうだったかなと思い返す。映画というのは純粋に見ることをいう近代の言説に対抗している。書く言葉に優位する話す言葉が見ること、ここに、映画の本質があった。これももうひとつの近代なのではないかといわれれば多分そうなんだ...

ヨーロッパの端とアジアの端

'Let's leave theories there and return to here's hear'

(Joyce, FW)

ヨーロッパの端にある‪アイルランドで考えるポストコロニアルからポスト構造主義にかえってきた。そのポスト構造主義は、人間が立つアジアのあり方を考えるポスト構造主義。そうして言語論の言説を去って漢字論の言説にやってきた。映画の歴史は終わったけれど(だがまだやることはある)、そこから開かれた思想史の旅を行なっているというか。アジアの端っこで、いかに目に見える端と目に見えない端との関係を思考において打ち立てるのか?

(参考)

近代、脱近代、ポストコロニアル

普遍主義に反撥する浪漫主義的文学の近代は、絵画の近代と同じように、資本主義からの独立を目指すという近代である。文学は文学のほかに立つことはない。世界からの独立は前衛精神の抵抗に極まる。文学は、資本主義の外部性を空無化することによって、資本主義の偶然性からの克服を一層わがものにする。問題は、ファシズムも空無化していくようにみえるときである。その危険に対して、マルクス主義文学批評の近代は、前衛的実験にたいして、全体性のリアリティの疎外を指示する。ポストモダン文学からみると、そんな疎外の回復を指示する近代は全体化の言説である。ポストモダンは資本主義的な断片を以て近代的なものに抵抗したところで、近代はポストモダン断片化を資本主義の擁護として告発しなければならない。ポストコロニアルがやってくる。ポストコロニアルは多様な言説であるが、文学は植民地主義が創り出した近代と近代文学の勝利の前に自らをゼロに感じる。そしてテクスト的脱近代に知的に触発されながら最終的に脱近代は共同体の声を無意味化するものとしてこれを受け入れることができないだろう。帝国の時代の文学は勉強不足でまだよくわかっていない。(帝国の時代はもしわたしならこんな文学を書く。歴史の必然を見渡す知が”命懸けの飛躍?“的落下のあと、世界-内-存在の偶然しかない街に徘徊したが、帝国時代は、知が再び塔ー歴史の必然を見渡す世界史の構造の高みーに帰って行く時代である。見捨てられて地上界に取り残された存在が、魂によって観察されながら、卑近なものと至上なものを見る。見る行為が先行する。)

(参考)ペンローズのイラストより

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結局修正脱EU案も修正なき脱EU案も否決された

1998年のベルファスト平和条約は自立北アイルランド(英国からの独立に非ず)を成立させた。国民投票と雖も確立した平和条約の実質を破壊できない。結局修正脱EU案も修正なき脱EU案も否決されたのである。議会は期限の延長を可決したが、恐らく修正脱EU案は困難だろう‪(いかにEUから離れるかのアイデアを最初からもっていない英国はEU頼みであるというのは変な話である。)‬極右翼と保守党の脱EU案はポピュリスム的な内向きのスローガンのままである。‪「次に何が起きるのか」という言葉が増殖している。その中で、アメリカに過剰に期待する保守党の終わりを指摘する声も出てきているようだ

ジョイス

ジョイス文学は消滅したゲール語について考える。ゲール語は絶滅させられたのか?否、民の英語を使う生活上の要求の中で捨てられたのだ。ジョイス文学は、絶滅させられたと想定したうえで構築されるアイデンティティの国民文学とは全然違う。新しい文学はあらわれるときは死に切った過去を発明する所に「生まれ変わる」ようにみえる。しかし単純ではない。問題は、アジアの形而上学にとって死者はなくならないように、“自分で決めた亡命”を行ったジョイスが同時に亡命させた「アイルランド」の死んだ言語はなくならないからである。『フィネガンズウエイク』のどの文も異界をもっている(開かれた海に合流する「河」として表象される)。現存する50ヶ国語の言語を利用して作られる見えるものと、消滅した見えないないものとが互いに近くあることをジョイスの言語(「宇宙の劇場)」は思わせる。死者が卑近な生者に生まれ変わるとされる世界の原神話。しかし世界の原神話はそれほど迷路ではないように思う。ジョイス文学が繰り返しとらわれているようにみえる、同じ世界に生者(目にみえるもの)と死者(目に見えないもの)が共存していると考えてみたら、言語的存在である人間の意味に関してどんなことが言えるだろうか。たとえば生者と死者が共存する世界で考えられてくる「連続性」は、外部の思考において成り立つものである。それは生者は自分たちしかいないと彼らの奢る世界で考えられているような「連続性」とは違うのだろうな。(実数と虚数で構成される空間での微分は実数空間の微分と随分と違う‬よねと書いては専門家に怒られるだろうけれど) 生者と死者の共存する世界は、何と無意味な生者の驕った世界の連続性に包摂されていることか。国家神道から、戦争で殺された300万人あるいは2000万人を切り離そうとしているではないか!

資本主義が齎す貧富の格差を気にする政党がなくなったのか

日曜日に話し合ったのだが、資本主義が決定し民主主義はそれを補うという。なるほど資本主義が決定するのか。しかし問題は民主主義は本当に資本主義を補うのだろうか?現在英国では、ポピュリスムサッチャー主義の労働党政府の後に、貧富の格差を気にしない保守党政府がBrexitを進めている。資本主義を補う民主主義がみえない。英国だけではない。世界的に言って、現在資本主義が齎す貧富の格差を気にする政党がなくなった。日本で貧富の格差の問題を気にする政党の声は小さい。SPDの名を知らないものはいないが、どうもドイツの中心にいない。現在をみると、こう言いたくなる。グローバル資本主義が決定するが、民主主義を名乗るポピュリスムはそれを補うことは起きないと。特にアジアでは自由に喋ることがどんどんできなくなってきた

アルトー

‪「アルトーにあっては、言説(デイスクール)としては拒まれ、衝撃の造形的暴力のなかに奪回された言語(ランガージュ)は、叫び、拷問にかけられた身体、思考の物質性、肉体に送りかえされる。」‬ーフーコ『言葉と物』(渡辺訳)‬

アルトーがフランスに強制送還されたのは、ほかならぬ、ダブリンからだった。大英帝国の近代に対抗するもう一つ近代を作りだそうとしていたアイルランドの30年代に、驚くできことに、詩人は聖パトリックの杖を携えてやってきた。現在この大事件を知っているアイルランド人は殆どいない。このこと自体が驚嘆である、シューレアリスムのアルトーのbig nameを知るものにとっては。記憶していると、生きている現在を正当化できないという意味で、都合がわるいからなのか?その時代は死者の記憶と場所が急に消滅したのではあるまいかと考えてみよう。過去の死者は共和国の理念を書き記した言葉を住処にすることによって消滅したからであると考えてみる。しかしアルトーにとって、死は爆発する器官なき身体であるかぎり、死者はなくならない。それは生者の近傍に存在する。現在から考えると、アルトーの言説はポストモダン時代まで近代から拒まれることは理解できるが、近代を批判する対抗的なもう一つの近代からも拒まれることになった意味はなにか。

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