漢字論

夢の中で荻生徂徠がわたしに、「そこに漢字が書いてあるか?」ときく。

と、そのとき私は漢字を見たのはどうしてなのか?本当にそこに漢字があることを確かめたかったからだろうか?

だけどこのようにいちいち見なければならないとしたら、東アジア漢字文化圏の全体を前提にすることなどできない。

漢字を見たのは、見ることによって見ることを確証するためだったのかもしれない。(それは可能か?)

だけれど十分に確証しているのは、確証していないからである。世界に固有なものがあるなどとどうして確証できようか?

漢字が思考させる力は、同じ漢字であると表象することのうちにあるのではなく、非等質なものがことごとく呼び出された平面に依拠していることにあるのではないかだろうか。 「なにも変えてはならない、すべてが違ったものとなるように」

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エクリチュール論

‪近代の始まりが、原初的テクストにおいて列挙されたものの分けられる場所である<なかで>を不可能にすることによって、列挙される<と>を崩壊させてしまう。ここから、<と>は言語のなかの未知数と成る。崩壊はおどろおどろしい境界とは無関係で、理の言語的存在者にとって存在することの意味を問う思考がこれをやるのである。エクリチュールが先行するにもかかわらず、確立した近代からは、何が<先>で何が<後>かがみえなくなってしまう。‬近代の反復とは思考が<先>にあると教えてくるような類の反復である。他者の位置を学ぶことがない。他者は立札としての思想を見ることができない外部に位置しているからこそ、思想はあるか?と問い返してきたのではなかったか?エクリチュールの<他なき>あり方が問われているところに、だけれど、まだ近代は思想はあるかどうかは恰も<なかで>定数として物として同じ場所にあるかどうかを以ってきまると語り続けている。その声を、近代から措定された<起源>のほかに、だれも聞いてはいない

ポストモダンの多神教の時代に、一神教のあり方を考えることにどんな意味があるのか?No.2

オペラ座シェーンベルクモーゼとアロン」をみたときは、この舞台で何が問題とされようとしているのか正直わからなかった。2018年の現在、オペラをみながら、砂漠を舞台とした戦争、敗戦の度に多神教に偽装したであろう一神教のあり方を考えていた自分を思いだすことができる。「モーゼとアロン」の問題は多分、2018年の問題だからだ。一神教はかつて領土を求めた戦争国家との共犯関係の無理を隠蔽せずに、むしろその不可能を開示して、そのことによって、一神教は自己が一神教としてあるために領土と国家を必要としない天(=外部)のあり方を獲得していく道があるのではないだろうか

十年間

どんな本を読んでもかまわない。何を読むかは自由だ。だけどもしあの大学の教授たちが根本的なことを学生に考えさせることができたら学生達はああいう本を買わないだろうと思う。そもそも現在の教授が根本的なことを考えたことがないのかもしれない。

お前は根本的なことを考えたのかと問われたら、無かったかもしれない。ただこの十年間、根本的なことは一つなのかという問題を考えてきたと思う。一緒に考える仲間がいた。ラディカル・デモクラシー、アジアのグローバル・デモクラシー、なんちゃって『論語』のポスモダン孔子、現在は朱子鬼神論と制作学。学ぶものたちのそれぞれの始まりもまた一つではない。わたしにとっての始まりは、2009年反-G20ロンドン開催に抗議した中央銀行前広場の占拠だった

ポストモダンの多神教の時代に、一神教のあり方を考えることにどんな意味があるのか?

‪問題提起; ポストモダン多神教の時代に、一神教のあり方を考えることにどんな意味があるのだろうか?

• 英国のヒューマニズム批判の保守派論客だったけど、啓蒙主義の近代の無神論一神教を否認するが、自覚なく一神教的な考え方ーこのとき自らの一神教的考え方が宗教から独立しているとするーをもっているというんだね。どいうことなのかな?ここで歴史のフラッシュバック(どうか大まかな整理を許していただきたい。)多神教のローマに一神教が成立した後に、その一神教の偶像破壊が起きたときに、近代が始まるとされる。この後に、人間性と両立しないような、台頭してきた極度に潔癖な物の見方のもとに、自由な表現の抑圧が起きた。他方で、一神教の知的影響から、スピノザのような内在性の柔軟な思考の哲学、多元主義が生まれてきたのであった。(彼にとってのラテン語は、東アジア漢字文化圏の漢字エクリチュールと等価だったのか、これは到底わたしの力を超える問題だが、パロール的言語では考えることができないことがエクリチュールは可能にしてくれたかもしれないと想像している。)ポストモダン多神教の時代に、一神教のあり方を考えることにどんな意味があるのかという問いに戻ると、近代日本において公の問題がある。一神教は公(=国家)を超える天の存在と結びついていた。そこに形而上学的な考え方が成り立っている(仁斎の宇宙第一の書や清沢の親鸞の読みとか。)この理解からつぎのことがみえてくる。近代日本の問題は、国家を公と教える『教育勅語』がでてきてしまったことに尽きる。子安氏の反明治維新はこのテーマをもっているということを少しずつ学んでいる。かつての一神教に戻ることも形而上学に戻ることは、20世紀の二度の世界大戦をもたらした国家に戻ることと同じくらい無理なことであろう。しかし、言語的存在としての人間にとって世界はどんな意味をもっているのかという問いは意味をもっている。ポストモダンの時代から、反時代的な形而上学の場所をもつことによって、多様体多元主義が成り立つかを問うことがはじまったと考えているのだけれど‬

MEMO

‪‪「英離脱、なお険しい道」(朝日新聞)と伝えてくるけどね、険しくない道はない。物事はコインのように表と裏があるから、道も両方を見ないと。私は英離脱に反対だが、同時に、喋る内容は別として、今迄喋らなかった人たちが喋りはじめたという動きを私は見ている。‬嫌なことに、イラク戦争のブレア体制のときはブレアひとりが喋っていたに等しいではなかったか。現在、最早ブレアその人の影響力はないが、自由に喋ることを許さないその体制を終わらせようとしているようにみえるのだけれどね。他方で、英離脱の一国主義の視点がEUの普遍主義の再構築を難しくしていることもまた事実‬なのであるが

温暖化など地球環境破壊から生じた「自然災害」に対する損害についても各国はそれぞれの生産量に応じて賠償しなければならないとする見方もあるように、この時代は地球の人類的視点で考えていく時代ではないか。CNN記者は、移動中の移民を「侵略」と呼ぶトランプ大統領を問いただしたことが話題となっているが、米国は世界の総生産量のうち二十数パーセントを占めているというなら、それに釣り合う世界の雇用に責任をもつべきだとおもった。地域の人々の生存権を確保しながら、理念をもつことは意味がある。日本も例外ではあり得ない。恐らく「何とかファースト」の”みんな”にもどることはできないしその必要もないと考えた

ゴダール論

ゴダール「あなたがたは映画作家であるよりは作家なんだが、それでも、映画作家と対等に映画をつくることに成功した。しかも、映画の世界から締め出されていた。あなたがたはわれわれが映画を信じるのを助けてくれたんだけど」‬

‪デュラス「書くことの原則となっていることのなかには、一方ではあなたの心をひきつけ、もう一方では、あなたをたえがたくさせて逃げ出させるなにかがあるの。あなたは書かれたものを前にして、前にして、もちこたえられなくなるわけよ」‬

‪(1987年のテレビ対談より)‬

デカルトのコギトは何か簡単ではないが 、エクリチュールならば、われ(エクリチュール)は考えるゆえにわれ(エクリチュール)は存在する。そう考えてみたらどんなことがいえるか?われ(映画)は見るゆえにわれ(映画)は存在する、video ergo sum”、とはなにか?作家デュラスを前にゴダールがおそらく言いたいことは、エクリチュールは映画をもつことによって、つまり作家は映画をもつことによって、外部から、言語に変数Xを介入させようとする、このことである。ここで存在の証明が成り立っている。批評家たちの間に映画とは何かを問う映画のディスクールdiscours(言説)が存在するから、はじめて映画が存在する。哲学者の間にコギトのディスクールが存在するからコギトが存在するように。批評を書く書き手たちの議論のなかに映画にしか存在しないというとき、ここで言われる「存在」に統一性はない。存在概念は他者に向かって開かれている、外の世界に投射されているというのである。‬

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