オペラ『パルジファル』(ワーグナー)を読む

‪オペラ『パルジファル』(ワーグナー)を読む

今日は、19世紀ワーグナーのオペラ『パルジファル』をMET映画オペラ(2012)で観ました。原作は中世の祭祀国家を舞台にしています。共同体の成り立ちのためには、客観的なもの(「聖杯」「槍」「大地」など)との関係が不可欠。それにとどまらずに、これらの象徴が身体に対してとる配置関係がすごく大事ということを思います。これによって、分裂の危機にある社会を救うことができるという政治的な意味をもつのですね。演出家はグレン・グールドの映画を作っているような人で、近代というのはいかに自らを過去の姿において表現するものなのかを問おうとしているところがありましたよね。

‪第三幕で前奏曲は、パルジファルの彷徨・遍歴を示す。前奏曲というのは、どこにも属するが部分とならない<間>である。前奏曲の意味を知りつつある。さてパルジファルテノール)を、隠者となったグルネマンツ(バス)が出迎える。祭祀国家の象徴をリアルに感じないのがクンドリ(ソプラノ)だろうね‬

ネオリベラリズムの思想 2

ネオリベラリズムは、レーガンサッチャーの時代には戦後社会民主主義の対抗言説としてあった。クリントンとブレアの時代になって、市場から社会民主主義が再構成されるようになる。その結果、社会民主主義の消滅の危機が始まった。グローバル資本主義の時代の今日、トランプは反フリーマーケットを訴えるが、実体は一国主義のものさしではかるネオリベラリズム以外のないものでもない。さて、「市場が大きくなり過ぎた」という批判は有効か?この言葉はただネオリベラリズムを有利にするだけのようにみえる。彼らはいう。「では、市場そのものを否定できますか?反近代的な全体主義の統制を望むなら別ですが、否定できないでしょう。われわれはあなたたちに、市場によることの正しさを教えることができるのです。あなたたちの不満は、市場が大きすぎるのではなく、まだ小さすぎるという主張によって訴えるべきなのです」と。このように語ってきた、ある種の高慢さは、近代の理性が自らを閉じこめようとするところの危険な偶像化をおもわせる。問題の所在は、実は、何でも彼でもを市場という名の理性に等価することにある。ネオリベラリズムの時代とは、市場を理性に等値する時代である。社会は市場と同一視できないし、価値はイコール価格ではありえない。市場のカオスにたいして、民主主義が市場へ介入を行う無秩序によって対抗することが起こってきた。何でも彼でもを理性に求めたごとく、言説としての市場の意味に求めるような体制をいつ終わらせることができるのだろうか?

ネオリベラリズムの思想

ネオリベの思想は、ハイエクに遡る。彼は17世紀から成立した近代の問題に直面していた。17世紀の近代から、自然の諸法則が何でも彼でも支配する言説が起きてきたときに問題となってきたのは、人間は何をすべきなのかという、人間であることの意味を問うことであった。社会を作って、価値を形成すること。共通のものを持たない主観同士にそれができるかどうか?何がそれらを現実化するのか。全体主義的<一>に委ねることなく。市場が明らかにしてくれるのは、ネオリベラリズムによるとほかならない価格だが、ハイエクにとっては17世紀から問われはじめた真実に関するものである。しかし今日における現実世界をみると、歴史は彼が言ったことと正反対のことを実現してしまったと言わざるえをえない。(今日の言葉に翻訳すると)社会というのは市場と同一視できないし、価格は価値として同一化することに無理があったにもかかわらず、フーコ「言葉と物」が示しているように、近代の時代に、ルールの規則ー表象の限界にあった知のあり方ーが変わったのである。そうして、後期近代ーネオリベラリズムグローバル資本主義ーに至って、言説の支配を通じて、知は、とうとう市場の法則に人間を隷属させることとなった。21世紀の問題は、17世紀の思想にたちかえって、この知を相対化していくしか解決がない、と、わたしはおもう。‬

メディア比較

イラク戦争を起こした加害者としての間違いを反省している‪海外メディアの中には、「テロ」「テロリスト」の言葉を避けるか、この言葉の使用を警戒する放送局と新聞がある。日本の新聞は何の用心もなくその二文字で溢れているが、この国はイラク戦争にかかわらなかったのかしら?
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デリダ

文は私をとらえる。私を離さない。たとえば、ふとんのなかで、"ああ、これは書いておかなくちゃいけない"と毎晩おもうのである。これは、‪「私は債務者であるというだけでなく、すでに払いが遅れている」ということなのである。だけれどね、この過程を、恰も心の問題からアプローチする探偵がやるように<限界状況>ごときものとみなすという必要がある? (「正常ではないかもしれないが、だからこそ...」とワンパターンの前置きをして)<その心情>には狂気の代償としての<普遍的真理>があるとどうして深読みしていくの?一見文学的創造性のよき共犯者としての様相をとるけれど、所詮は、「正常か、正常でないか」の規範的秩序をより深く再語りしているだけである。‬それは、他者から他者を奪うことをやめない、うんざりとさせられる近代の尽きない監視的眼差しである。


(参考)‪「文はなにかよく分からないものを私に託したーそれはたぶん私じしん、あるいは私たちじしんだったのかもしれないが。文は、そのようにしていわば前貸しをしたのちに、私に身を託したのだ。文は私に前貸しをした。そうした前貸しという事実、それこそが文の実態なのであるー文がどのようなものであろうが、どこから来ようが、何を意味しようが関係なく。そして、前貸しされたという観点からするち、私は債務者であるというだけでなく、すでに払いが遅れている。つまり返済をつねに迫られる状態にあったのだ。」(デリダ、『留まれ、アテネ』より』)

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「媚びないおもてなし」?

?は平仮名世界のナルシシズム。「おもてなし」は大事、されど「媚びない」エートスを「おもてなし」に表現せよということか?または、「媚びない」は「おもてなし」と同一化されているのか?漢字世界は、<表現する>と<同一視する>の違いのほうを考える

伊藤仁斎の17世紀

‪和漢混淆文の成立によって、仮名交じり文のスタイルはほぼ完成された。『今昔物語』『徒然草』『方丈記』『平家物語』は仮名交じり文で書かれた最初期の文学だったとみられている。さて漢字受容から千年かかって成熟した、伊藤仁斎の思想は、見方によっては、12世紀と21世紀の<間>にあらわれたとみることもできよう。<間>とは、そうして始めもなければ終わりもない状態をいう。それは多様な入り口たちから構成されている。日本思想は、20世紀にあらわれてもよかったのだが、<倫理>的だったので、あえてそれよりも前の17世紀にあらわれた。そうして、21世紀に、<解体>日本思想となったのである。‬

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