伊藤仁斎を考える

「天は吾を滅すか」の「天」は、伊藤仁斎によって17世紀にはじめて新しく意味づけられる(子安 宣邦 仁斎論語論語古義』現代語訳と評釈)「天」との関係において自己を否定して「人」が依拠できる「道」とは、なにか?皆が往来している表側の路を考えてみる。この時代、自分をすてて皆んなを優先させたらヤバくはないか。たしかに、路から考える卑近が大切である。このことは選択する。だからこう考えてみる。表側は内部である。裏側は内部に絡みとられることがない。だから自分を捨てて人(人類)を優先するのは、裏側にあることが要請される路においてではないかと。そこに天下の公が存在するとしなければやっていけなくなるのではあるまいか。どんな時代も表側の路から裏側の路を消滅し尽くすことはできなかったが、近代というのは表の側からする原理主義ー「この道しか無い」「他の道がない」ーがでてくる時代である。‪近代がうまく行っていたあいだは原理主義が齎す政治的災害に関心がいかなかったけれど。‬近代を経験し始めたベラスケスの絵は画布の裏側を示しているのは、身をかわすために、裏側の路が残されるのである。裏側には多分われわれ自身が表象されているが、われわれは決して近づくことができない。

グローバル資本主義の問題をどう読むか ー子安氏と柄谷氏

‪西欧列強のアジア進出の時代に帝国(清朝)が植民地化されていく歴史の中で、日本近代国家が方向づけらて、明治維新から大正に確立した帝国主義が展開していくのは昭和の全体主義に向かってである。この歴史のことを考えるとき、「大正デモクラシーに帰れ」といっても、これは、グローバル資本主義帝国主義的言説に対する批判を為していないことがわかる。21世紀の帝国論は、グローバル資本主義がもたらす問題(貧富の格差)を解決するために理念化されるのだけれど、帝国を帝国主義に還元しない。柄谷氏の互酬性における高度な次元の止揚である社会主義の統整的理念をいう言説も、「帝国にかえれ」ということによって、カントから語りはじめたその画期的な視点を台無しにしてしまうと言わざるを得ない。帝国はグローバル資本主義の分割である。グローバル資本主義の分割においては、それぞれの帝国の内部にグローバル資本主義が成り立っているのだ。柄谷氏は世界史の構造と彼が読んでいるものに絡みとられる。柄谷氏の議論が意味をもつのは、構造がもたらす袋小路を解決するために再びその構造に依存できないという倫理的問題を考えることによってである。問題は、アジアにおいて要請される、国家の公を超える天下の公を自立的<私>がもつかどうかにかかっているのではないか。柄谷氏がここから語りはじめた画期的視点を最後まで貫くことができなかったカントだけではない、子安氏が読んだ17世紀の仁斎も、国家の公を超える天下の公の意義を考えた。ここで、実体化されたアジアあるいは実体化された江戸から現在を批判することが言われているのではない。子安氏がいう「方法としてのアジア」と「方法としての江戸」は、外部の思考を成り立たせる批判的視点である。「グローバルデモクラシー」(子安氏)の視野から、この方法論的概念をもっと深めたい。他者というのは明治維新の近代を批判するためにわれわれの思考を可能にしてくれる他者であるが、その他者はあたかも明治維新の近代の自画像をかくという問題を持ちはじめているかもしれない。

『フィネガンズ・ウェイク』1

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The fall (bababadalgharaghtakamminareonnkonnbronntonnerronntuonnhunntrovarrhounawnskawntoohoohoordenenthurnuk!) ーJoyce ‘ Finnegans Wake ‘

多言語で構成されている雷の音

‪フィネガンの落下、雷の音、20年代のウオール街の株価落下... ジョイスは身体の地理的表象を書く。ダブリンの風景と眠れる巨人の姿のモンタージュ。ホース岬に人類の頭脳があり、西方のフェニックス公園に爪先がある。‬

‪The great fall of the offwall entailed at such short notice the pftjschute of Finnegans, erse solid man, that the humptyhillhead of humself prumptly sends unquiring one well to the west in quest of his tumptytumtoes. ‬

‪ー Joyce, FW‬

‬『ユリシーズ』では、20世紀のブルームの視点を通して、反帝国主義の自分に打ち勝つ武力的たたかい(それは帝国主義の自分に打ち勝つ武力的たたかいと類似している)に距離がとられているけれど、(帝国に連れ出されたユダヤ人たちの)土地の奪回を望む神話的な無意識が書かれていた。‬『ユリシーズ』はマーテル塔から始まることが象徴的である(ギリシャ神話”テレマコス”のパロディー。)

それと比べて、『フィネガンズ・ウェイク』の書き出しが画期的なのは、己に帰る流れのことから描写しはじめている点にある。riverrun, past Eve and Adam's, from swerve of shore to bend of bay, brings us by a commodious vicus of recirculation back to Howth Castle and Environs. ( Joyce Finnegans Wake)

己とは人に対する自分をいう。打ち勝つとは自分よりも人を優先させることである。つまり他者を愛することが己に帰る流れを意味する。「デヴリン人が初めてリヴィを愛して以来」since devlinsfirst lived livvy

ベケット

Becket

‪ダブリンに引っ越して一週間めに、「モロイ」のひとり芝居をテンプルバーでみることができた。小説はその後に、数年後に読んだ。アイルランド出身のベケットは小説を書くときかならずフランス語で書いた後にこれを英訳した。理由はわからないがこの順番はまもられる。自己自身を翻訳していくみたいな変な投射が文学を構成している。自己自身を二重化する言説空間を書いているのか、ちゃんと、秩序と秩序の間に外部に連れ出してくれる小鳥が存在している。‬

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市民社会論の言説

国家神道の定義を狭くとることによって国家神道天皇ファシズムの戦争と無関係だとしたくても、2000万人の死者は死者である。天皇ファシズムの戦争は例外的に起きたのではない。子安氏が問題にしているように、それはクーデター明治維新と国家祭祀のあり方から必然として起きたのである。そして私の理解では、市民社会論の問題を考えることができるという。市民社会論の言説は自らの為に近代の本当の始まりを敗戦後からとして線を引くとき、これによって、(現代の歴史修正主義に対して批判的視点を与えるという意味で国家改革を国際的に行おうとしていた)もう一つの近代である徳川日本の視点からクーデター明治維新の正統性を批判できた言説を再び思考できなくしてしまったのではないだろうか?これは言説「明治維新の近代」に記述されなければならない言説の体制を為すものであるとおもう。

普遍主義

‪普遍主義は、一国の大国主義に支えられたその中心的な担い手がリベラルであれネオリベであれ、EU帝国となってしまった、この帝国の内部はグローバル資本主義をもっているとする批判がある。これに対しては、英国のEU離脱が起きているが、しかし現在のナショナリズムに、新たに普遍主義を再構成する構想は無いようだ。そもそもナショナリズムフランス革命のときのような平等を求める声が本当にあるかは疑わしい。また普遍主義は、自らを排除して成り立った近代を受け入れられぬ外部との関係をつくる課題をもっているが、普遍主義の再構成は言論の自由を盾にとる極右翼によって悪い形をとらざるを得ないだろう。‪アジアは、ヨーロッパ・モデルの不可能が告げられている。大国主義と互酬的ナショナリズムに巻かれてどうにもならないでいるところに、巻き返す必要があるのに、どうして、天皇ファシズムの戦争に帰結するしかなかった武力奪取による明治維新の近代をたたえるような思考の停滞が起きているのか?‬

MEMO

ナショナリズムは人権(言論の自由)を以って理性を爆撃している。「何をダメだとおっしゃっているのかよくわからない」あなたの中で「ダメだとおしゃっている」あなた自身の理性の声を聞きとってみて

‪普遍の再構成は漢字によって表される思考の像において可能となる。思考の像のなかにそれを書く主体を消すことは倫理的に不可能である。古代の中国知識人と朝鮮知識人と彼らから学んだ日本知識人が書いた国家アイデンティティ、近世の中国文明からの自立を望んだ注釈学、近代におけるソシュール批判からアジアの自立的言語学を打ちたてた学問‬

究極的に役に立たないことを十分に考えてきたか?自分に対して感じるのは、ヨーロッパの端にいたので起きてくるようになった恥ずかしさかもしれない。ヨーロッパだけでなく、言語が分析される客体の側に置かれる500年前からはじまった知の体制を考えてみる。東西で役に立たない言語をみる見方が変わったのだろうか?その前はどうだったんだろうか?

‪おお、ヒギンズ氏ですか、懐かしいです。アイリッシュタイムスの記事を共有できる素晴らしい時代ですね。日本の場合、国家(公)が教育を支配しきっていて、私立大学といっても公によるコントロールを受けていないところはないと指摘されます。もちろん全部ではないでしょう。わたしが知らないこともあるでしょう。しかし大方は、義務教育でいう意味での義務で教えられるのであり、それがあたり前に思われているし、本当の意味での自発性をもって学ぶ「私」があまり強力ではないことがこの国の問題かもしれません。なぜ、問題かというと、この記事を読んであらためて考えたことですが、哲学を学ぶことは、多分一対一による場の形成(コミュニケーション)が欠かせないのだろうとおもいます。しかし国家(公)の介入を受けながら、これは無理です。国家(公)の近代は一対多という軍隊的・監獄的組織化を本質とするからではないでしょうか。‬自立的私を生み出す一対一の場の形成を排除するというか。シネマテックで「学んだ」ゴダールたちの課題でもあるのですけれど(シネマテックは国家に奪われてしまいました。) 哲学を自分のものにするとは、コミュニケーションの主体となることなく、情報の客体の側になっていては難しいものなのではないでしょうか。

アイルランドに何度も訪ねてきた宮田氏が柳瀬訳の問題を検討して新しい訳をはじめました。おまえもちょっと何か訳してみろと言われて、無論そんな力は1%もありませんから、そのときはお仕事を邪魔してはいけないと思って黙ってしまいました。いま思えば、わたしがアイルランドの風景を詩的に語るのに関心があって、それを訳に生かそうとしたのかもしれませんね。宮田訳は、柳瀬氏の読む経験を重んじるとしたら、見る経験を重んじています。また『ユリシーズ』の中国語訳がでた時代ですね。何年か前にFWの中国語訳もでたらしいです。1980年代に翻訳が充実してある意味ではじめて本が活発に語られることになたのですが、結局は、「読めない」というのがこの本の本質ではないかということになりました。「我読まれず、ゆえに我あり」と自己主張しているような天下無敵の本です。しかし読めずとも、世界中の言語に翻訳されている翻訳を通して、すこしづつ理解されてくる本ではないだろうかと。そうだとしたら、FWはまだ完成されていない本ではないかというようなことがいわれています。常に新しい言語による翻訳を必要としています。翻訳が翻訳されるべきものを少しづつ完成させているというのか、翻訳が先行している、何という世界でしょうかね(笑)(笑) ‪