ラディカルリベラリズム

ラディカルモダニズムにおける外部思想の否定的差異化の意味は、ラディカルリベラルの肯定的差異化からはじめて明らかになるとおもわれる。外部の肯定的差異化は、ラディカルモダニズムの言説<言語の消去としての近代化>に絡み取られず、死に切った過去の言語を身体に奪回する。言語は不可避の他者である。言語は国家祭祀の近代だけでなく帝国の文明論的同化主義と戦争と開発の教説に対するラディカルリベラルの異議申し立てを構成する

MEMO

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目に見えない素材とリズムを以って他者を描く=書くピカソにおけるマネの‘草上の昼食’の解釈は、バベルの塔の崩壊の後の人間の文化において不可避なものを問うたと私は思う。文化を無意識の情動の上に築こうとするが、再びファシズムに絡みとられずに、情動から独立している概念ー外部の思考ーが必要とされる‬のではないか


Ulysses 

近代の植民地主義を考えるとき、ヨーロッパ自身も植民地化されたのである。英国の帝国主義アイルランドを植民地化した。近代を超える為に、植民地化されたアイルランドを書く倫理性は、同時に自身を植民地化したヨーロッパを書く倫理性である。これが『ユリシーズ』にダブリンの署名がない理由ではないか


Finnegans Wake 

ー And the duppy shot the shutter clup Perkodhuskurunbarggruauyagokgorlayorgromgremmitghundhurthrumathunaradidillifaititillibumullunukkunun



ホーホー、たまたま目の前に座っていた誰とか、並んでいた誰とかの輪郭、通り過ぎた誰とかのも重なっているのかもニャリ。疲れて文字を書く力もなくなってきた所で、絵というほどのものではないけれども、何とか、秩序づけられている仕方を明らかにすることによって秩序を崩していく認識の場の揺れる影みたいなものを描く/ 書くことができるか、ホー


L'art est la nostalgie de l'idéal. 

ー Andrej Tarkovski


表現の自由」からは、「日本人の国民の心を踏みつける」ものが見えるだけのこと。「心を踏みつける」かどうかは、作品をどう解釈するかによる。または解釈の解釈によること。解釈の自由がある。しかし「表現の自由」をみとめないと、政治家と文化人たちがいちいち指示する、生活の隅々まで侵入してくる「日本人の敵」「国民の敵」にヘイトスピーチしなければならなくなる。そうなっては、結局何も見ていなし、なにも語ってはいないのであるまいか。人間の自由をやめなければならない


<ラジカルなモダニズム> は何か?トータルに、全的否定的に、思想性なき広がっていく翼、豊穣さに宿るのか?


‪フーコ的に言うと、「バベルの塔」の崩壊(原初的な第一次的パロールの喪失)がはじまるのは17世紀からである。「表象」の時代がくると、原初的な書記言語の前に話されていた言葉が実在したと近代主義者の間から言われるようになる。これは原初的な書記言語の「透明化」である(「『古事記』は読まれ続けてきた」)。そうして超越的なものが声の中から構成されるとき、問題は、帝国主義の時代の政治支配者が、死者の世界を主宰する超越的なものに権力を集中することで、昭和十年代天皇ファシズムに帰結するような無責任体制を推進してしまうことにあった。しかし書記言語の消去を徹底を言うことによって、天皇ファシズムの否定を根本的に考えさせる批判性をもった「ラディカルなモダニズム」も存在した。われわれは「表象」の時代ではなく、「言説」の時代に生きていることをおもう



思想史教室にアジア主義の亡霊が徘徊している?失敗した近代日本の問題は中国の革命が解決するという。と、再びデリダアルトー論が気になってきた。近代演劇の問題の解決は政治にかかっている。問題はルソーだ。ルソーを読み解かなければならない。演劇の代理性を排したファシズムの記号(声)の透明性に解決をみるルソーの言説に、アルトーの書記言語としての身体が抵抗する...



After Godard, chapter one (a) all the histories  

denn ein Filmprojektor ist gezwungen sich an die Kamera zu erinnern 

und wenn das Kino nur eine Zerstreuungsindustrie is dann, Weil es zunächst der einzige Ort ist wo das Gedächtnis Sklave ist. 


北アイルランドとの国境線を不可視に保つこと(keeping the border invisible)によって紛争を避けている。境界線は地図に見えるだけ(内緒だが南アイルランドの地図では国境線は毎年数センチづつ北へあがっている)


‪‪‪イギリス人はイギリスを一つとみているからアイルランドを一つとみる。沖縄を無視して日本を一つとみている日本人が中国を一つとみるように。イギリス人がアイルランドナショナリストの見方をつくったが、しかし普通の人は地球上のどこかに貧困があればそこにアイルランドが存在すると考えるからアイルランドは単純に一つではあり得ないというか。一つだとしても、‪ポストコロ二アルな‬貧困の経験を利用して、一的多であると考えていこうというのである。沖縄、台湾、香港も、自らを囲まれていない海で繋がる一的多であるとして新しくやって行こうというのではあるまいか



あらゆる可能性の予見に責任をもたされたらクルマの運転ができなくなるというようなことがいわれたこの理屈をですね、原発の運転の場合にも適用していいものなのでしょうか?


東京地裁からの贈り物で今夜は東電は大パーティで盛り上がるのでしょうか

「東電旧経営陣3被告に無罪判決」


AWFUL 


Fukushima disaster: Nuclear executives found not guilty



原発問題を作り出した国家の自らに対する「無罪判決」については、復興幻想の内側のなかにおいて十分に報じられず議論されていないようであるが、この問題は外からはどうみえるのか


RHETORIC WORLD No.1 のお国の独立騒動


英国議会は、前例のないほど長く正常とはいえない休会にはいった。首相が、合意なき英国EU離脱をめぐって野党の質問を封じるために、女王を騙してその権力を利用した可能性も囁かれる。この件について最高裁が介入してきた。現在、休会の手続きが違憲かどうか審議中。ロンドンの三角形を為す行政・立法・司法の権力ゲームを、第4の権力であるBBCが伝える( BBCは野蛮なイギリス人を啓蒙する役割をもっている)。EUは、ナショナリズムを背景とした合意なき英国EU離脱をみとめて、北アイルランド国境の暴力の復活をゆるわけにはいかない。 

嗚呼、RHETORIC WORLD No.1 のお国の独立騒動、どうなるのか?ナショナリズムは、フランス革命の時代においては平等を実現する役割もあったが、ー 「みんな」「みんな」と言っているうちに「人類」を意味する可能性もあったがー、21世紀の現在はそんな役割をもっておらず、ただ他国とのあいだに憎しみの交換をもたらすものでしかない(憎悪の互酬性) 。人類における新しい普遍主義の探求は、EUからの差異化からでてくるのであり、EU離脱の「みんな」によるナショナリズム否定からはでてこないとわたしはかんがえている‬




ベラ・バラージュ『映画の理論』第五章 視覚的人間 (佐々木基一訳)‬ より‪


いまや映画は、文化にひとつの新しい転換をもたらそうとしている。少なくとも、文化に新しいニュアンスを与えようとしている。数百万の人間が、毎夜映画館の中に座って、言葉に頼ることなく、もっぱら目を通して、さまざまな事件や人物や感情や情緒に、いや思想にすら親しんでいる。(...)‬

言語学の研究は、言語の起源が表現動作のなかにあるということ、すなわち、人間が話しはじめるときには(ちょうど幼児がするように)舌や唇を、顔や手の筋肉と同じように動かすということを発見した。つまり、そのそもそもの目的は音を作ることにはなかったのだ。舌と唇の動きが、体のすべての表現動作と同じく、はじめは自然のジェスチャーであり、反射運動であった。その際、その動きから音が生まれるということは、最初から意図された付随現象ではなく、ただ後になって、実用的な目的のために利用されただけである。直接に目に見える精神は、こうして、間接に耳に聞こえる精神に変わった。このプロセスもなかでーあらゆる翻訳の場合と同じくー非常に多くのものが失われた。しかし表情豊かな動作、ジェスチャーこそ人類の土着の母国語なのだ。(...)‬

‪とはいえ、これを、言語文化のかわりに、ジェスチャーと表情の文化を置き換えようとするものだ、というふうに受けとめられては困る。両者は互いに取り換えることのできないものだ。合理的な概念文化、およびそれと結びついた科学の発展を抜きにして、社会の、したがって人間の進歩はありえない。現代社会の接着剤は、言葉と文字であって、こうした接着剤を見い出しえないところでは、どんな組織も、どんな計画不可能である。他方、人間の文化を、合理的な概念のかわりに、無意識の情動の上に築こうとする傾向が、どういう方向を辿るかは、ファシズムがはっきり示した通りである。(...)‬

‪新しく発展してきたこの表情とジェスチャーの言語は、人類を互いに親密に近づけるだろうか。それとも今以上に疎遠にするだろうか。バベルの塔を建てる際にも、それぞれ異なる多様な言語の背後、共通の諸概念があったのであり、だからこそ、他国の言語を学ぶことが可能なのである。ところで、文明化された世界のなかでは、いろいろの概念は慣習によって定められた表象内容をもっている。普遍的に通用する文法は、互いに切り離され、めいめいが勝手な方向を向いているブルジョア社会のもろもろの個人を結合するひとつの環であった。極度に主観主義的な文学でさえ、普遍的に通用する語彙を用いて書かれたので、誰も全く理解されないという孤独な運命を免れたのだ。‬




講座「明治維新の近代」13 について

<ラジカルなモダニズム> は何か?トータルに、全的否定的に、思想性なき広がっていく豊穣さに宿るのか?


バベルの塔’は古代帝国の高度な建築術と都市の多言語的多様性の勝利であった。それを憎んだ共同体ナショナリズムが「悪名高い」’塔’崩壊の伝説を物語ったと考えられるようになったのは、ポストモダンの時代においてからである。さて中華文明の書記言語がアジアにおける’バベルの塔’だとあえてフーコ的に問題提起してみたらどんなことが言えるだろうか?このことを、昨日の子安先生の講義(「明治維新の近代・13、シナの消去としての日本近代 (その一))で考えてみることになった。「書記言語として共通な日本語をもつの1500年代、それがはっきりしてくるのは江戸時代」(子安氏)という。これに対して、近代の言葉(ラング)を推進する体制から、書記言語としてのシナの消去をもとめる主張がなされる。現実も、音声化をよしとするこの方向で進んでいる。これが’バベルの塔’崩壊を意味する体制である。しかし津田左右吉においては、漢字的なものとしてのシナに対する批判は、明治維新の「漢的な」構成(例. 『教育勅語』)に対する批判性をもったことに注意しなければならないという。なるほど、この点において津田の明治維新の近代を批判する<ラジカルなモダニズム> は、なにか?<ラジカルなモダニズム> は何か?思想性なき広がっていく豊穣さ?それは、ほかならない、「希少性」(子安氏)である。明治維新150年の現在を考えてみよう。「現代日本語の最大の課題は漢字の廃止である」と音声化を称える言説は、言葉(ラング)の体制による後戻りできない’バベルの塔’の崩壊の必要を訴えるだけだ。ナショナリズムナショナリズムとが衝突しあって、お互いになにを喋っているのかさっぱりわからず、憎しみの互酬性に翻弄されて、そのことが帝国の支配を許すかもしれないという近代の限界をみようとはしない。だけれど現在考えなければならないのは、言説から言語(ランガージュ)を奪回すること、明治維新の近代から攻撃された書記言語を取り返して自立的な思考の力を回復すること。これらのことがグローバルデモクラシーにおける理念としての’バベルの塔’を再構成することの意味を考える思想史の充実にかかわるとおもわれるのである。


(追加)

‪フーコ的に言うと、「バベルの塔」の崩壊(原初的な第一次的パロールの喪失)がはじまるのは17世紀からである。「表象」の時代がくると、原初的な書記言語の前に話されていた言葉が実在したと近代主義者の間から言われるようになる。これは原初的な書記言語の「透明化」である(「『古事記』は読まれ続けてきた」)。そうして超越的なものが声の中から構成されるとき、問題は、帝国主義の時代の政治支配者が、死者の世界を主宰する超越的なものに権力を集中することで、昭和十年代天皇ファシズムに帰結するような無責任体制を推進してしまうことにあった。しかし書記言語の消去を徹底を言うことによって、天皇ファシズムの否定を根本的に考えさせる批判性をもった「ラディカルなモダニズム」も存在した。われわれは「表象」の時代ではなく、「言説」の時代に生きていることをおもう

『タクシードライバー』(1976) と 『キング・オブ・コメディ』(1982)

タクシードライバー』(1976)


『キング・オブ・コメディ』(1982)


どちらの作品も、マーティン・スコセッシ監督のStorytellerならではの映画ですね。ロバート・デ・ニーロが主演。ポール・シュレイダーが脚本を書いた『タクシードライバー』は、不眠症の人が時間を活用してタクシードライバーになって、中世の騎士みたいになるという話です。これは都会の孤独を描いていると思うのですが、比べると、『キングオブコメディ』のほうが孤独が深いのかもしれません。現在は孤独が深くなってきたので、『キングオブコメディ』の面白さも再発見されるようになってきたのではないでしょうか。『タクシードライバー』のトラヴィス・ビックルは、ギャングが商売している少女買春にたいしては、実際に連れ戻された被害者の少女を目撃して、かれの孤独が憤りになりました、あそこまで過剰になったのは驚きましたが。比べると、『キングオブコメディ』のルパート・パプキンは、事件を起こすまえに、決定的に何を見たのかがはっきりしません、わたしの印象ですが。彼は居酒屋でテレビに登場する自分の姿を見て一応満足気なのですが、これは映画のやや後追い的な説明であるように思います。対象が存在しないなかで自分の内部でストーリーをどんどん作っていく逸脱の面白さがあります。テレビに出たら兎に角問題は解決するのだという乗りなのですね。

タクシードライバー』のトラヴィスは本を読む都会人。事件を起こす前まで結構読んでいました。本を読むStorytellerと同じように、言葉にたいする信頼が、依拠できる天をまもろうとします。カタストロフイーの映画はマゾ的かつサデイズム的に展開します。戦争に勝てば問題は解決するのだと大衆に呼びかける三島的なところがあるように思いました。比べると、『キングオブコメディ』のルパートは、照明のなかに置かれて舞台にたつ彼の後ろ姿が印象的ですが、テレビを見るーテレビに見られる大衆。突き動かしてくる闇は、ファシズムの闇ほど暗くはなく、むしろ視聴率という名の最大多数の最大幸福の「明るさ」をもっています。だけれど伝達すればなんでもいいというわけではなく、discipline として、storyを語らなければいけません。『キングオブコメディ』はわれわれが生きている現実に根差しているような映画ですが、十分にこの映画の意味を分析した批評が出てくる前に、インターネットの時代がきてしまいましたかね。これから語ることを、かつて言われていたに関わらず、だれも言わなかったこととして、語ること、これが終わりなく解釈を解釈していくこの時代のstoryにたいする要請です。孤立しないためには受けいれるしかありませんが、何か人間の底なしの無根拠性のほうへの孤独が深まってきたと感じるのはわたしだけでしょうか?

「‪われわれ物を解釈するよりも解釈を解釈するのに忙しく... 」

「‪われわれ物を解釈するよりも解釈を解釈するのに忙しく...」


解釈の解釈はなんのために行われるのか?それは、読む人間が依拠できる究極の原初的テクストの存在をもとめているとする説明がある。朱子学の言説から言葉を奪回しようとして、注釈の任務を通じて、依拠できる天の思想が近世の儒者によって読み直されているのである。「すでに言われたはずの事柄を言い直すことをもっぱら目的とする未来の言説のなかではじめて真実を表明する」。「だが、このきたるべき言説自体、みずからのうえにとどまる力をもたず、その言わんとするところを、一種の約束として閉じこめたが、さらにべつの言説へと遺贈するのである。その定義からして、注釈の任務はけっしておわることはない。」「われわれは物を解釈するよりも解釈を解釈するのに忙しく... 」。と、フーコにおいて分析されたように、本居宣長の仕事は、古文辞学荻生徂徠から影響を受けることになったのは必然である。(子安先生は宣長は徂徠の一番弟子であると指摘なさっている。) 宣長は『古事記』に拠れというときは、中国文明からの自立を主張するためにだったのだろうか。アジアの危機をもたらした西欧列強の時代に、言論の自由がないなかで、徳川日本に何か言うとしたら、漢字の思考を批判する言葉しかなかっただろうかとわたしは想像してみる。彼は開かれた解釈の解釈を可能にする漢字書記言語を否定した。問題は、そうして『古事記』は(想定された)「大和言葉」に同一化される可能性がでてくること(あくまでも可能性の話。) そのとき漢字は「借り物」に過ぎない。ところが近代主義は一見して同じ類いの同一化によって、ただし遥かに陰険に、非難されるべき宣長の思考に原理主義の存在を同一的に指示する。大和言葉が実体化するのは、宣長の思考形式を思考実体化することによってである。自ら実体化した思考を前にして、われわれはかくのごとく「合理性」の否定、したがって普遍の否定に導く原理主義(教説)に抗議すると近代は語るようである。ポストモダン多元主義はこの近代主義の普遍を批判する。漢字論の言説の運動として読み直すときわかってくるのはこういうことである。近代の普遍の同一化の見方からはみえないが、宣長がやったことは差異を差異化することだったのである。‪共同体が依拠できる絶対の原初テクストをさがしたのである。


最後に、本居宣長近代主義からは一言で言えば<困ったやつ>とされてしまった。その本居宣長を擁護することは、近代主義を批判することである。近代主義はこれを許さないのは、<困ったやつ>としかみれない自分の物の見方が批判されたくないから。宣長を非難する近代主義者が、宣長擁護を宣長批判と烙印を押す。これは何だろうか?‬

ジョイスの’自分で決めた亡命’ self-imposed exile

アイルランドからヨーロッパに出たジョイスの’自分で決めた亡命’ self-imposed exile を読みとれる一文。亡命といっても、1920年代のパリの知識人と芸術家たちの亡命とは随分ちがう。アイルランド人は英語を教える日雇い労働をさがしてやむを得ず国外を出るが、ジョイスも例外ではなかったとみるひともいる。「女房と逃げやがった」(ran away with hunself)の妻ノラアイルランドとおもっていたし、言説の空間化であれ(『ユリシーズ』Ulysses)、言説の時間化(『フィネガンズウェイク』Finnegans Wake)であれ、アイルランドのほかのことは本に書かなかった。’自分で決めた亡命’ self-imposed exile、これは勝算もない亡命であることをジョイスは隠しているが、むしろアイルランドから逃げた 

アイルランドのなかの亡命と考えるべきではないかと思うのである。


He even ran away with hunself and became a farsoonerite, saying he would far sooner muddle through the hash of lentil in Europe than meddle with Ireland’s split little pea. 

ーJames Joyce Finnegans Wake

MEMO

「戦後の日本は物質的に豊かになったが、代わりに失ったものがある」という言説に対してなみを言うか?たしかに失いました。朝鮮戦争ベトナム戦争によって物質的に豊かになったという、他国の不幸を犠牲にしてしか豊かになれなかった恥ずべき記憶を失いました。イラク戦争のときは、「盲目的にアメリカが破壊したあと、日本が建築して金儲けする」と海外で言われたものですが、繰り返しています。またおもうことは、「失った」という言葉の気持ち悪さですね。失うことそれ自身を失ったというか、失ったという言葉から失ったという意味を失っているのではないですか。もっぱらインパクトのある近過ぎることだけをみるから失っている物の見方に気がつくことがないというか、自身への反省をこめて書くことですが、ソーシャルネットワークの時代、だれもかれもあまりに近いことだけを語るというのでは。「応仁の乱」から語るのもいいし、ここから自分関心のことを語って恐縮ですが、世界史的に言って、17世紀以降、もっと遡ると12世紀からですが、この五百年間は注釈の古典主義と意味作用の近代といえるのですけれど、この場合は『論語』でもなんでもいいのですが、言葉が溢れ出すことになる、原初的な第一義的パロールの絶対性を失ったことのトータルな意味を考えてみたいです。危機の17世紀といわれる500年前のことを考えるためには近代の文化的枠組みに属していないようにみえる16世紀を考える必要がありますが、あえて最近の事件を関連づける(あるいは関連づけられない)物の見方を考えてみることができだろうかとおもっています。そうでなければ、150年前のことを繰り返すだけで、結局は安倍政権の物の見方を反復するだけになってしまいます。



‪We will say that non-contradiction is the unnameable of mathematical.‬

Alain Badiou


‪Or la poésie est ce qui fouille dans le langage pour le contraindre à nommer ce qu’antérieurement il n’arrivait pas à nommer. 

ー Alain Badiou, Éloge des mathématiques‬


わたしは国語が嫌いでしたが、どうも国語の先生も国語を馬鹿にしていたように感じられました。これは国語問題です。わたしが愛していたものは多分「文学機械」というものでした。『古事記』も『万葉集』も、文字と音節を発明的にモンタージュした「文学機械」。近代になって、ヨーロッパに圧倒される形で、明治の自然主義みたいに理念をもつ孤独の力である機械もあるし、大正から昭和に行く日本浪漫主義みたいに勿体ぶっているだけで理念を失っている膿んだ機械もあります。精神といわれるものも「文学機械」が故障を起こして出来上がってきた解体。精神の編集とは、ほかならない、解体の編集、ここに表現の問題があります。だからこそたたえようではありませんかとおもうのです。


[p・o・e・m] x [t・h・e・a・t・r・e] 


It is this secret language, different in the case of each artists, which submerges their works in a great solitude. 

Jean Cocteau


It begins with table

It could be a chair 

It could be shoes 

But my word always returns  

To this broken mirrors 

A tranquillity of decomposition  

Wandering  

Around  

My land,

My image. 

I can be anywhere in it 

And still not be of it


‪1986年からは、アパートの隣人が韓国の留学生たちだったこともあって深夜まで彼らと議論する毎日となった。その内容を色々思い出してきた...‬


アイルランド政府は教会の子供の性的虐待の補償に取り組んできた。一応終わりにするらしい。議論があるところだが、当時の政府はお金が無くて教会に頼らなければ教育を維持できなかったといわれる。私が暮らしていたときは、「ケルトの虎」と呼ばれる好景気だった(このときはじめてアメリカからアイルランド人が帰ってきた)から、’貧しさ’を想像するしかなかった。メディア研究の教授が教えてくれたが、思い出すことが禁じられた「恥ずべき」記憶に、1950年代のアイルランドは自らを韓国と同一視していたという事実がある。だがこの隠蔽された記憶は彼らがつくる映画に反復的に現れるという。アイルランド人は自然をみるときイギリス人のようには’ロマンテイック’に’ありのままに’みることができないのは、自然は仮面を被っているからである。無意識において自然は核爆発を起こしている




L’intuition est la jouissance de la différence. ーDeleuze

差異を差異化すること、これは、近代を批判する理念としての多元主義がいわれた60年代から成り立ってくる言説である。言説批判的に、このように仕方で直観を語ったのはドウルーズが初めてだった。それは事件だったのであり、彼を、思想を深化させたという意味でベルグソン主義に還元してはならない。


方向性の変化が他とのトータルな影響を以って起きてくる言説というのは、形而上学のなかで考えられるものではなくて、自然学において考えるべきものなんじゃないかな。「連続的なものは不可分なものから成ることはできず、常に可分的である」という見方に行き着いたような気がする。知識が足りないのだけれど。差異の運動、新しく反復する力のことを考える



Finnegans Wake 

ジョイスユリシーズ』を読んだと言えるひとはいない。読むという意味が問われる『ユリシーズ』の理解は、神話というものをどう理解するかに関わってくる。アイルランドにおける『ユリシーズ』の読みは、ポスト構造主義による神話解読を批判する視点をもっている。それは植民地化された国の経験から構成されているが、ポストコロニアルとそれほど同じ視点ではない。「わからなくなったら声を出して読んだらよい」といわれる。正直これがわからない。50カ国語が混ざっている多言語の『フィネガンズ・ウェイク』をどうやって声を出して読めというのか?と、本を閉じ込めている自分を笑う。宇宙は笑いに満ちているということに気がついたときは、読むとは、学ぶと同様に、宇宙の隅々まで理解し尽くすという近代のあり方とその同一化にたいして隙間をつくる行いなんだろうとおもう



差異を差異化すること、これこそは、近代の普遍主義を批判する理念としての多元主義がいわれた60年代から成り立ってくる言説である。近代の普遍主義が一元的な原理主義に陥る危険をもつのに対して、理念としての多元主義はそのような原理主義を解体する差異化である。存在は一に還元されぬ多であるという意味で一的多として構成される。言説<一的多>は多様性の方向をもつ。それは、言説「帝国」のグローバル資本主義の分割を意味するような一の分割ではない。L’intuition est la jouissance de la différence. 言説批判的に、このように仕方で直観を語ったのはドウルーズーDeleuzeにおいて初めてだった。外部的に不可避の差異化が語られるというか、事件としての差異化が、ポスト構造主義によって語られていく。ニーチェの力の哲学も言説的に再構成されることになった。(だから彼を、思想を深化させたという意味でベルグソン主義の哲学者に整理還元してはならないのだと思う。)


世界システム」論 は、16-17世紀のヨーロッパ「世界システム」の成立から、 19世紀アイルランドのポテト飢饉、今日の欧米とアフリカの間に起きる武器と飢餓の交換を説明できる。21世紀はアジアの時代だというけれど、文明論的中国社会主義という名のグローバル資本主義はヨーロッパ「世界システム」である。現在起きている危機は、アジアの危機というよりは、グローバルデモクラシー「世界システム」を構築できないでいる危機である


胡散臭い西郷隆盛は江戸を攻撃しなかったのは殿様への裏切りだし、勝海舟も勝手に江戸を放火する根拠はどこに?京都から天皇を政治の舞台に連れてきた明治維新そのものがインチキ


ボリス・ジョンソン首相は「クラウン」と呼ばれていて、どうも在任期間の最も短い首相になるとみられています。北アイルランド問題を無視して、BrexitにおけるNo deal の主張に顕著な、<イギリスしかない>とする理念なき主張をやめようとしません。これに対して、イギリスの議会そのものを崩壊させる危険があるとEU議会は非常に心配していますね。<日本しかない>とする日本会議歴史修正主義者の首相が国会そのものを壊しているという声はまったくないようですが...


body without space and body with time


< p, o , e , m, t , h , e , a , t , r , e >


息を吹き入れられるとは、変わりゆくもの終わりに運ばれる始まりを受けいれること、変わりゆくもの始まりに運ばれる終わりをうけいれること。変わりゆくものしかないか。否、変わらぬものが存在したから運ばれたとおもう。先行する他者から息を吹き入れられること、非場所から投射される場所があること...


学問ー普遍主義の儒学ーは、武士は武士である為に要請された。武士は学問から、貴族・僧侶の文化に代わるものとして、制度論を築いた。ここから、荻生徂徠が近世に与えたのは、人間社会全体への視点を以って能動的に規定する外部性の意味である。それゆえに、「弁名」こそは徂徠学の中心的位置を占めるといわれる。徂徠の新しい言説は、再び幕府を含む東アジアを支えた朱子学的の本来性・純粋性の中心に赴くことはないだろう。



1、‪以前カントロヴィッツは<国王の身体>に関して注目すべき分析を行ったことがある。中世に形づくられた法律中心の神学にもとづいて二重の役割を与えられている身体、というわけである。というのは生きて死す一時的な要素のほかに、国王の身体は別の要素を保有するのであって、それこそは時を貫いて止どまり、その王国の身体的な、だが触知しがたい(神聖にして冒すべからず、でもある)支えとして保持されるからである。しかも、こうした二重性はもともとキリストにまつわるモデルと近いつながりがあったので、この二重性のまわりに組み立てられたのが、君主政治の図像学・政治理論であり、人間としての国王と王権の要請とを区別しつつ同時に双方を結び合わせる法律機構であり、戴冠式と葬儀と服従誓約式によって最高潮に達するすべての祭式である。その反対の極に、死刑囚の身体を置いてみようと考えたらどうだろう、その身体もやはり法律上の地位を持っている、それは儀式を営ませ、理論上の言説を生み出させる、がその目的は、君主の人格に割り振られていた<最大限の権力>に根拠を与えるためではなく、処罰に服す人々が押される烙印たる<最小限の権力>を記号体系化(コード)するためである。政治の場の最も暗い地域で、死刑囚は国王と対称的で逆の形象を描くのである。カントロヴィッツに敬意を表しつつ<死刑囚の最小限の身体>とでも名付けうるものを分析する必要があるにちがいない。‬


‪ー フーコ『監獄の誕生』‬



どちらかの作品も、Storytellerならではの映画ですね。不眠症の人が時間を活用してタクシードライバーになって、中世の騎士みたいになるという話は、都会の孤独を描いていると思うのですが、比べると、キングオブコメディのほうが孤独のほうが深いのかもしれません。ネットの孤独?現在は孤独が深くなったので、キングオブコメディの面白さが再発見されるようになってきたのではないでしょうか。

ギャングの少女買春にたいしては、実際に連れ戻された被害者の少女を目撃して、かれの孤独が憤りになりました、あそこまで過剰になったのは驚きましたが。比べると、キングオブコメディは、事件を起こすまえに、何を見たのかがはっきりしないのですね、わたしの印象ですが。居酒屋でテレビに登場する自分の姿を見て一応満足気なのですが、これは映画のやや後追い的な説明であるように思います。対象が存在しないなかで自分の内部でストーリーをどんどん作っていく逸脱の面白さがあります。昔は戦争に勝てば問題は解決したが、戦後はテレビに出たら問題は解決するのか?

タクシードライバーは本を読む都会人。事件を起こす前まで結構読んでいました。本を読むStorytellerと同じように、言葉にたいする信頼が、依拠できる天を孤独にまもろうとします(カタストロフイー、マゾ的かつサデイズム的に展開します)。戦争に勝てば問題は解決するのだと大衆に呼びかける三島的なところがあるように思いました。批評を書いて面白いのはこちら(笑)。比べると、キングオブコメディはテレビを見る都会人。照明のなかに置かれて舞台にたつ彼の後ろ姿が印象的。ファシズムの闇に行くことがない視聴率という名の最大多数の最大幸福の「明るさ」。だけれど伝達すればなんでもいいというわけではなく、discipline として、storyを語らなければいけない、われわれが生きている現実に根差しているような映画ですが、十分にこの映画の意味を分析した批評が出てくる前に、インターネットの時代がきてしまいましたかね。これから語ることを、かつて言われていたに関わらず、だれも言わなかったこととして、語ること、これが終わりなく解釈を解釈していくこの時代のstoryにたいする要請ですね、孤立しないためには受けいれるしかありませんが孤独が深まるばかりです



未来を思い出す部屋の扉を開けると、その部屋は憲法メルトダウンしていただけではなかった、思想の言葉も...




酷い雨漏り、隣の部屋の床においていた

30冊の本が水浸しでページがぐちゃぐちゃ

扉を開けるまで、天空の本たちは

雨雲で自由に戯れていたのだから、

目覚めなければよかった...目覚めは死


一国民主主義に戻る必要がないグローバルデモクラシーの公共性(天下の公)が問われる時代に、絶望的に近代は自ら一国民主主義の全体性を構成する。グローバル資本主義の論理展開が中国スターリニズム(官僚資本主義)、後者は前者を意味づける(一国二制度)。現在、この世界支配からの脱出が抵抗を構成する



‪子音と母音の端は触れあうとき、一方の端は他方のはじまりとなっている、つまり運動は互いに無限に離れた場所にいるふくろうからねこへ伝わる‬


英国の「憲法メルトダウン」!?この表現は大袈裟ではない。民主主義と権力分立は民衆の王権との戦いによって成り立った点を理解していれば。次はなに?


ボリス・ジョンソンは、長州藩天皇に権力を集中して自分達が支配した政治に責任を取らなかったように、中立であるべき女王権力を利用している。国会を止めて、EUとの関係、北アイルランドとの関係の政治を無責任にやるつもりではないか。これが英国における危険な「憲法メルトダウン」の意味だと私は解する


ヘーゲルの言説<主人と奴隷の弁証法>に絡みとられて、それを展開する形で、永久奴隷としての永久革命を正当化する反権力の近代を深読みすべきではないとおもう。


ヘーゲルによる主人・奴隷の弁証法は、主人の権力が行使それ自体によって解消されるというメカニズムです。私が言いたいのはその逆で、権力はそれ自体の行使によって更に力を増すということなんです。権力が知らぬ間に消滅してしまうなんてことはありえません。」(フーコ『哲学者の回答』)



Si ces dispositions venaient à disparaître comme elles sont apparues, si par quelque événements dont nous pouvons tout au plus pressentir la possibilité, mais dont nous ne connaissons pour l'instant encore ni la forme ni la promesse, elles basculaient, comme le fit au tournant du dix-huit dix-huitième siècle le sol de la pensée classique, ー alors on ne peut bien parier que l'homme s'effacerait, comme  à la limite de la mer un visage de sable. ( Foucault) 


If those arrangements were to disappear as they appeared, if some event of which we can at the moment do no more than sense the possibility- without knowing either what its form will be or what it promise- were cause them to crumble, as the ground of Classical though did, at the end of the eighteenth century, then one can certainly wage that man would be erased, like a face drawn in sand at the age of the sea. ( Foucault)