包摂と展開

「包摂」は前の時代のルネッサンス的概念だけれど、スピノザにおいては「展開」のことが考えられてていくことになったといわれる。動物にに成る、とはなにか?「包摂」は人間だとしたら、「展開」(過程)は動物でしょう。この場合、後者は前者を規範的根拠としてもつことがない。そうして考えてみると、どういうことが言えるか?ドラキュラというのは、「包摂」と「展開」のあいだに定住するというかね、そういうことじゃないか。仁斎がいう人も天を規範的根拠としてはいない(仰ぎ見るお天道様であって..)。「展開」はなんか、再び漢文に翻訳できない、漢字書き下し文の運動をおもうな、それは思想の運動をともなう。共通であること、分節化されないものってそういうことじゃないかと

ジョイス

英国とイタリア(ローマ教会)に支配されてきたと語る外来性の意識は、自由と独立の純粋アイルランドケルト的古代にさがす。先祖のゲール語が絶滅させられたという非難に対して、そうじゃないよ、アイルランドの生活者達自身が生活するために棄てただけさと本当のことを言ったジョイスは最も危険な文学者となった

和辻哲郎

ヨーロッパ人がキリスト教ギリシャ文化も決して外来文化とみなしていないとよくいわれるけれど、ヨーロッパに属することもその部分であることも意識しなかったアイルランドの「ヨーロッパ人」からみると、どんなことが言えるのか‬?ついでにいうと、ベルギーみたいにナチスに占領されたヨーロッパの国はあるが、アイルランドのようにヨーロッパに植民地化されたヨーロッパの国はほかに存在しないのである。「ヨーロッパ人」と和辻が呼ぶものは、<ヨーロッパマイナス1> なのである。そこで「ヨーロッパ人」が語られる。

‪「ヨーロッパ人は外来文化のなかに没入するとともに、その外来性を忘れてしまった。日本人もまた外来文化のなかにおのれを没入したにも関わらず、その外来性の意識を保持した」(

On『日本倫理思想史』)

先行する項は常に無限である。常にその無限は卑近にある

前近代といわれることにすでに隠蔽がある。近代がいくら言葉と物の統一を以って迷宮として描きだそうとしても、隠蔽しようとも、けれども、言語が集中する方向で、世界は言葉と物の分裂が起きているのだ。先行する項は常に無限である。常にその無限は卑近にある。その意味で同じことは繰り返されない。近代に先行する時代に、近代の終わりが始まっている。そうだとしたら、どういうことが現在において言えるのか。たとえば、国体の問題の議論をやめてはいけないとおもう。どんどんやって欲しいとおもう。しかし考えておかなければならないこともある。それは、国体は天皇である。今日は国体はアメリカである、等々においていわれるような、AはAであるというトートロジー的等価は、言葉を拡散させてしまう一方で再び構造の方に人間を集中させる物の見方を作ってしまう危険もなくもないということ。一生懸命天皇の代わりのものを器用にさがそうとしても、戦前のような全体国家の拠り所としての天皇そのものが象徴天皇制のもとで消滅しつつある時代にあって、それは意味があることなのか?(現状維持では同化主義の問題を解決できないので最終的には象徴天皇を、あるいはマイノリティーを統一する国家を、やめなければいけないときがくるだろう)。アメリカはアメリカのままではありないだろう。哲学的にいうと、世界は無限から成り立っている。その無限は卑近なところにある。事物は変化していく。どうしても「国体」と言わなければ何かを言ったことにならないと感じるのなら、課題は、アメリカと中国の間にある位置と機能を活かすことにある。「国体」のアメリカの側からは公民権運動デモクラシーの理念を、反「国体」?の中国の側からはアジアへの共感を、引き出すことではないか。問われるべき問題は、安倍政権のままで、これができるかどうかである。アジアにおける市民の運動にかかっているとおもうよ

エイゼンシュタイン『イワン雷帝』

変なものができあがったなあ、と、『イワン雷帝』は意味が問われる記号。エイゼンシュタインの「西」の経験の意味はなんだったのか?映画のなかで描かれたロシアは自らに向かって、「第三のローマがわれわれだ。第四のローマはない」と繰り返し宣言する。そのロシアからみたポーランドの圧倒的洗練さに驚く。ロシアはヨーロッパではない。「野蛮なロシア人をアジアに追放せよ!」。文明は西からやってくるということだが、単純ではない。その東のなかに更に東西の分割があるからである。だが最も西に位置するアイルランドは"東"だったかは映画からは判断できぬことだったが、ヨーロッパの端と端は繋がっているみたいだから複雑で中々面白い

属性と本質

ドゥルーズの前に、ドゥルーズのように、共通概念から、属性と本質を混同せずに考えていく読み方でスピノザを読み解いたものはいなかったとおもうのだけれど、ドゥルーズにおいてこのように初めて言われたことを恰もバロック時代に遡る過去から言われてきたとするのが言説的なやり方。20世紀はこれで十分だった。ところで、当たり前といえば当たり前なのだけれど、形而上学はヨーロッパに属しているが、部分ではなかった。他者との関係によって自己との関係を絶えず再構成していくという問題意識は普遍的にある。ロンドン時代に近所の本屋さんで手にいれたユダヤ哲学を初心者向けに解説した本を読んでいたら、本質と属性の区別をめぐる思弁的なもの論争がイスラム思想史にあったということをあらためて知った。もちろん20世紀に属性と本質について言われていることを中世思想に向かって直に直線を引くことはできないけれど。だけれど、イスラムからかんがえてみようとするというか、いやいや、(絶対的に知識がわたしに欠けているから)正直かんがえるふりでしかないかもしれないが、21世紀においてイスラムから問題提供されてきた近代の問題をかんがえるところから避けることができない視点というか‬...

石田梅岩

戦争で負けたことをみとめこれを考えるところから、仁斎とカントから、"石田梅岩とわれわれ"へ行くのか?何時迄も戦争で負けたことを知らずに、明治維新150年から、"ヘーゲルと世界史的人倫国家のわれわれ"を追いかけるつもりなのか?