左翼能楽‬

‪左翼能楽


都民ファシスト党代表「降臨術の教祖さまをお連れしました。さあ、厄介な天皇の問題について総理にご助言を」‬

‪教祖「わたしはマルヤママサオ。天皇のことは全部極右翼にゆだねよ、そうすれば自ずと消滅するだろう」‬

官房長官「つまみだせ!」‬

‪安倍「待て...うまくいくかもしれない」‬

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永遠性の意味を問う

「人間への信仰は、人間の存在を可能ならしめる神性への信仰を前提としている 」(ヤスパース)。わたしはヤスパースについて何も知らないが、ここでいわれていることからかんがえると、ここでいわれる「神性」とは、ヨーロッパにしかない永遠性の観念のことだろうか?そうだとしたら、アジアにおいては「永遠性」の観念がないから、人間への信仰が不可能となってしまうということなのか?そうではあるまい。ヤスパースはヨーロッパの特殊性について語っているのではないだろう。アジアでもヨーロッパと同様に、人間への信仰が成り立つはずである。結局問題となってくるのは、「神性」を永遠性として理解した点である。「神性」の意味に絡み取られないように再び考えてみる。では人間への信仰は何と結びつくというのか?「我々は結局のところ、かつてないほど依存し合っている個人個人にすぎませんが、同時に根源としての我々自身に投げ戻されています。めいめいが自己に投げ戻されているのです。 肝心なのは自分だということをめいめいが知らなければなりません」。ここから、人間への信仰は、我々自身と同一化しているものと結びつくと読み取れる。そういう読み方が可能だということ。そうして我々自身と同一化しているものは、国家かもしれない。しかしヤスパースは知識人として、愛国心を否定するだろう。たとえば今日のナショナルなものとしての憲法という捉え方は知識人において不可能なものである。ヤスパースの言葉を読むときにおいても、だれが同一性を語るのかということを問題としなければならないのであるまいか。だけれど十分に読んでいない哲学者についてわたしは無責任にもあまりに喋り過ぎている。永遠性の意味を問うところで止めるべきだったのだ。間違った思い込みを指摘されても仕方ない。

寸劇 「記憶にありません」

‪‬寸劇


‪野党梟猫党議員「総理の記憶を盗んでいるその悪戯な妖精はどうしたら退治できるのですか?」‬

‪安倍「妖精にギネスビールを飲ませて眠らせてしまうと、私の記憶が...」‬

‪議員「蘇るのですか!?」‬

‪安倍「妖精の夢の中から直ぐに別の記憶泥棒の妖精があらわれるんです」‬

21世紀にフーコを読むことの意味

‪「言葉と物」を読むと、単純なものは、互いに切り離せぬ関係を以て、複雑な表象をもつものから自立している。此処から、思考を構成する四つのもの(分節、主辞-属辞関係、指示、派生)へ展開するというような書き方をフーコはする。画家がそいうふうに描いていくことになったというべきか。ネグリ帝国論(世界資本主義v.s.マルチチュード)から、恰も世界史の必然性を以て(?)、柄谷グローバル帝国論 (アメリカ、ロシア、ヨーロッパ、中国)が展開する今日の言説は、これを反復しているだけだ

「シュレーバー回想記」

小池百合子の「ラジオ体操は日本人のDNAに刻まれた体操である!」宣言。元々ラジオ体操は『シュレーバー回想録』を書いた彼の父親が発明した体操という。ラジオ体操は音楽がかかるとどうしようもなく身体が動いてしまう、吉田松陰の心の中心から洗脳してくるように、身体を従順にしてくるテロリズム

シュレーバー回想記」に芸術の線と点が織りなすヴィジオンがある。吉本隆明の書評を読んだ後に、その最初の翻訳を読んだのを覚えている。フロイドは「シュレーバー回想記」を分析した。今日で言うテクストとしてそれを読んで分析の言葉を書いたのである。私の関心は、フロイドは彼の精神分析の枠組みを成り立たせなくなるような過剰を隠蔽しなかった理由である。それは、神話が支配者がその支配を正当化するには都合の悪い反逆の記述を残す場合と同じなのだろうか ?パラレルに、そう考えてよいのだろうか?

‪消え去ったアルベルチーヌの痕跡であれ、

逃げ去った神々の痕跡であれ、

雪の狼の足跡であれ、

世界の端である痕跡の上に留まり、

そうすることで世界の裏側にもつれること。

このほかに、無限が介入する

人目につかない

それらの痕跡を感じ取る理由があるのか?‬

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統治者達

だれが「記憶にありません」と語るのでしょうか?統治者達です。彼らはそうしてひたすら語り続けるのです。

• 大抵は語るのは統治者達であり、語ることしかできねば、語ることしか欲しもしないのが統治者達であるということを悟らねばならないだろう。私達に提示される純然たる憤怒といった舞台の役回りは拒否できるし、また拒否せねばならないとは、経験の示すところである。-フーコ『政府に対しては人権を』

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