21世紀の言説空間

‪21世紀の言説空間はグローバル帝国論とグローバルデモクラシー論の<間>に揺れ動く。どんな政治体制にも侵入していく、この<間>は、脱コード化であり(近代から自立していく方向をもつ)再領土化である。たしかネグリポスト構造主義と(一国知に絡みとられない)ポストコロニアリズムを継承することの重要性を強調していた。サバルタンは語るためには、前近代を忘れてはいけないのだとおもう。そこでイスラムからは、近傍(近所)どうしの関係をいうポストオリエンタリズムの言説が語られるようになってきた。またアジアにおいてはポストモダン孔子の言説とそれを充実させる鬼神論の発見が重要な意味をもつようになってきたのではないだろうか。いかに、アジアにおいて形而上学(後者)とそれを解体していく批判哲学(前者)が成り立ったのかを考えること

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[p・o・e・m] x [t・h・e・a・t・r・e]

It is this secret language, different in the case of each artists, which submerges their works in a great solitude. 
Jean Cocteau

 [p・o・e・m] x [t・h・e・a・t・r・e] 

It begins with table
 It could be a chair 
It could be shoes 
But my word always returns 
 To this broken mirrors 
A tranquillity of decomposition 
 Wandering 
 Around 
 My land,
 My image. 
 I can be anywhere in it 
And still not be of it

はじまるのはテーブルから、
椅子のときもある 
靴だったかもしれない 
でも戻って来てしまうのはここ、 
なにもうつらない鏡 
崩壊の静寂さ 
 わたしはこの土地を 
さまよった 
どこにもいた 
けれども、わたしの土地はみつからなかった

『論語古義』(伊藤仁斎)


140字の『論語古義』

 ‪『論語古義』は言説と言説を媒介する場である。またその場は自らのうえに折りかさなる。「政は正である」(伊藤仁斎)といわれる。「政」と「正」のそれぞれの固有の歴史を探す近代主義原理主義ならば駄洒落しか聞きとらないかもしれない。あまりに表面的過ぎるが、深さなきこの滑らかな空間にこそ、「信」を問う「ポストモダン孔子は定位している‬とわたしは理解しているのだけれど

MEMO

‪< 内閣支持率は、この国に晴れる日が永久にやって来ないのではないかという不安をもたらすあのアイルランドの天気予報の降水確率と似ている タイムラインに流れてきた、あまり理解できていない思想家の言葉である。現在改めてどう読めるか。敢えて言うと、均衡と安定、連続性にかんする二つの真理が問題ではない。同じ時代に共存した二つの言説が問題。もしそうだとしたら、偶然のその共存から一体何が言えるか?‬言説(卑近性を語る語り)と言説(至高性を語る語り)の間の関係が問われるということかな。

‪「プロレタリアートの問題とは、社会科学を構築することである。ところが、この時代にはもはや近視眼の経済学者と狂信的な社会主義者しかいない」(プルードン『貧困の哲学』)‬


‪ヨーロッパの現実はこうだから明治の日本はそうであるべきだというが、私は別の見方をとる。方法としてのヨーロッパはああだから方法としての日本はどうだと問うような見方である。津田左右吉は方法としてのイギリスと方法としての佐幕派を考えることができたのだー明治維新を物語る物の見方を解体するために‬


<イメージ (は) | 脱構築的に解体する| 明治維新150年>

<image | deconstruct | Meiji Restoration 150 >‬


昭和の天皇ファシズムによる軍事国家の成立と「王政復古」維新



‪「津田はいうのである。『王政復古』クーデターが「天皇親政」を騙った明治政府を可能にしたのだと。昭和の天皇ファシズムによる軍事的国家の成立を「王政復古」維新と無縁ではないと考える私は、津田の維新をめぐる論考を大きな助けとして「明治維新150年」を読み直したいと思っている」(子安宣邦氏‬、講座「明治維新の近代・1 」4月14日)



70年代から欧米に留学した人達が思想史の本を書くのだから、イスラム思想の1000年前にポストモダンの先駆みたいな思想があった。この五年間のあいだに、言説的再構成としてのポストモダン孔子を学んだおかげで、若手専門家達のtwを読みつつ、知識人=ポストモダンイスラムの可能性を考えている 



 6年前の 投稿 (書きかけ)


In the "Waiting for Godot", Becket is supposed to emphasize the significance of accepting the world without meaning. But if one radically denied meaning in life, consequently even might be collapsed and disintegrated.The philosophy of absurdity really expected such a relativism ? In the repetition of pessimism and optimism Becket might have waited for the very coming of . Anyway I can't find definite reason on why one has to live/die with , the nuclear power generation 「ゴドーを待ちながら」の解釈に関して、<意味なき世界>を生きることの意義を説いたとするのが定説だが、疑問はある。そこまで<意味>を否定してしまうと、<無意味>すら成り立たなくなるから。ベケットは<意味ある世界>を待ったかもしれない。原発とともに、<意味なき世界>を生きる理由がない ・文学であることは、曖昧であることである。ただし、この曖昧さは​、たんに明快さを否定することによって、得られるものではないと​思う。文学を書くとき、曖昧さを積極的に生産しなければならない​から。難しいのは、次の段階、即ち、ジョイスとベケットの様に、​曖昧であることの価値をみとめることである 関連記事; 日本の「空気」は、インターネットによって、壊れつつあるのか? 「空気を読む」といったら、アイルランド人です。タブーが多いから、あそこは。日本人以上に「空気を読む」場合があります。このような「空気を読む」人々といると、開放感がありませんが、しかし、そういうところから、かえって、ベケット文学のような、世界文学をリードする人間の自由な想像力が出てくるメカニズムのは非常に面白いと思います。 それに対して、「空気を読まない」の代表選手は、アメリカ人です・笑。タブーがないですからね、かれらには。(正確に言えば、タブーがないふりをしているだけかもしれませんが)。この「空気を読まない」人々といると、私の場合、やはり、開放感を感じないのです。それと、「空気を読まない」のは、あの原発推進派の都知事です・泣。ただし、アメリカ人に関しては、当時、オバマのような殆ど無名の人物の話を一年間耳を傾けた米国国民の公明さ・公平さに、私は、心から拍手しました。「空気を読まない」ゆえに、ああした公明さ・公平さが可能となるのだと思います。他者の声なき声に耳を塞いでしまう、石原のような狭量な(narrow-minded)人物には、決してできないことです。 私が注目しているのは、「空気を読み間違える」ことの大切な意義です。 「空気を読み間違える」人々、これは、どこの都市に存在する移民の人々のことです。このような「空気を読みちがえる」人々と一緒にいると、開放感があるのです。私の中で、笑うことと考えることが一緒に歩み出すのですー外の領域へ快活に連れ出してくれるのです。 そこで、問題は、twitterfacebookといった、ネットワークが、果たして、どれだけ移民的か、ということに尽きる、と、私は考えています。ちなみに、この点に関して、原発というのは、「空気を読み違う」ことを組織的に抑圧するネットワークの形の一つではないでしょうか。その証拠に、原発は、事故という避けられない必然性によって、外国人を追放してしまいます。インターネットのシステムが、開放感をともなって発展していく鍵は、移民的である必要があります。この大事なことを認識する前に、ドーンと3.11が来てしまった、そんな感想をもっております。震災直後は、twitterのなかでは、推進派と反対派が半々に分かれていましたが、このこと自体は、ネット社会の「成熟」への一歩を感じ取りました。象徴的にいえば、そういう、意見が割れる場所に、移民は、入りこみやすいからです。多孔性の、染みとおる。、穴だらけの、侵入しやすいことを、英語では、porousといいます。ベンヤミンが、強調した言葉でした。他者に開かれた全体性ですね。「空気を読み間違えること」、「移民的であること」、「多孔性であること」、最後に、原発の様な「抑圧組織をもたないこと」です 表題「名づけられぬもの」が暗示する通り、サミュエル・ベケットの世界には固有名詞が殆どありません。小説のなかで名前と出会う確率は、アイルランドで晴れる日に出会う確率よりも低いのです!(分る人には分る)。ベケットにおいて貫徹する、固有名詞に依拠しない書き方は、ジェイムス・ジョイスの世界、(あ~~~)びしょびしょに濡れちゃう、固有名詞の洪水的氾濫とは、全く正反対なんです。ですけれども、しかしながらですね、何故、ポストモダニズムの批評家ジル・ドゥルーズは、ジョイスとベケットが同じ本質を表現すると主張するのでしょうか?面白いですねー








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津田左右吉

‪ヨーロッパの現実はこうだから明治の日本はそうであるべきだというが、私は別の見方をとる。方法としてのヨーロッパはああだから方法としての日本はどうだと問うような見方である。津田左右吉は方法としてのイギリスと方法としての佐幕派を考えることができたのだー明治維新を物語る物の見方を解体するために‬

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ベーコンとピカソ

ベーコンは、ダブリンで育ったが、南アフリカに行ったときの彼の子供時代を回想している。目撃した庭の奥の藪を一瞬横切った小動物にトラウマをもったという。外部(小動物)によって、自己との関係を再構成していったかもしれない。ベーコンの絵画は、存在が表象にすんでいる西欧の伝統の枠を出ないようにみえるが、存在は小動物との出会った事件に遡るだけであって、それ以前に遡っていくことはない。存在は失うために失われる。比べると、「ゲルマニカ」のピカソの場合は、描かれるのは人間化した動物である。そして存在の日付をスペイン市民戦争の前においている。民衆の顔の至上性を書くのは物である。物ならば無限にさかのぼることができる。物が可能にしてくれる。ほかならない、始原にこそ失われることのない人類の起源がある。しかし物によって至上性を与えられているというのに、人間はそこでますます失っていくのである。

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信の構造

‪安倍政権を終わらせることができないかもしれない。なぜか?安倍政権は憲法そのものを拒んでいるわけではないからだ。憲法というのは、憲法を読まない安倍政権と両立しうるのである。問題はどこにあるのか?問題は、安倍が最後の堤防を取り去ろうと企だていることではないか?最後の堤防とは、ほかならない、「信」の構造である。「信の構造」に、東アジアにおける天下の「公」がある。そうでなければなにもかも成り立たないようにおもう。子安氏は言う。『「民、信無くんば立たず。」(論語・顔淵7)私はこれを「民の信とは、お上の言葉が信頼できることである。それが信頼できなくなったら、民はもうその国でやっていけない」と理解する。』‬

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