操り人形の糸

なぜ操り人形の糸を描くのかと問われると、堅っ苦しくではなく、いかがわしい変な絵と想像していただければ十分ですが(笑)。操り人形というのは、なんか「主体がない」単純な感じですが、折角複雑なものをなんで単純にしてしまうのですかね?近代の人間は常に自己が存在する根拠を考えて主体として自己が宇宙の中心に位置すると考えなければ気がすまないです。この物の見方とは異なる見方を考えてみたいのです。昨日の朱子の自然哲学と仁斎の天道論を読んだ講義のテーマと関わると勝手に思ってますが、思考の優先順位として仮に人を丸だとする、そこで根拠と運動の相補的な関係を以て考えてみるのです。人は自己に先行する<他のもの>と結びつける運動によって(増殖していく糸、増殖していく線)、自己を開いていくというのですかね。そういう<他のもの>として、例えば失われた理における「学び」とかあるとおもうのですけれどね

広告を非表示にする

『仁斎論語』

歎異抄の近代』を開いてこんなことを考えた。17世紀が12世紀をいかに読んだかを学んだ四年間を以て、読むことの不可能な過去の思想の痕跡を見ることができるようになった。しかしまだまだである。もし解釈する権力のすべてを失ったら、2500年前において始まった状態が反復しているはずなのだ。それは、漢字文化圏においてだけではなくインドでもヨーロッパでも人類的に起きてきた絶対的な喪失と選択にかかわること。思想は解釈の空間への滞在を断ち切った亡命から、神でも仏でも天でもいいのだけれど、超越者を仰ぎ見ながら、超越者と人間との間の交換不可能ー信の構造ーを外部に向かってはじめて語りだした。

広告を非表示にする

普遍主義のアジア


ヨーロッパだけに普遍主義が存在したのではないこと、だけれどヨーロッパにだけ近代が起きたこと、ここから帝国主義における支配する国と支配される国の間の分割が成立したこと、この知を前提に、1990年以降の後期近代にたいしては、水平方向に、政治多元主義と経済の反格差が要請されている。他方で文化右翼と経済右翼に転向したような思想は、垂直方向に、アジア独自の近代?が定位する文化の起源を措定して、「帝国」という名の同化主義の正統化と世界資本主義の分割に解決を見出そうとしているようにみえる。しかし安倍が一番悪いのだけれど各国の文化の固有のこだわりのもとでアジアにおけるヘイトスピーチの交換を終わらせることができるか。新しい形の普遍主義をもった相互の信頼関係を築けるか。分割したところで競争を本質とする経済の下で人びとの間における他に対する排他主義は起きないのだろうか
広告を非表示にする

失うこと

たしかに文学にその痕跡はあるとおもうのですね。<いったん'得た'>ものについて考えてみようとするのですが、どうも、'得た'ものは無かったようにおもうのですね。それなのに、わたしの中で、<失うことになった>といつも感じているのはどうしてなのか。この喪失感はわたしだけでないようなので、(「みんなのもの」という冗談でなければ)、それは文学に書かれている先験的なものじゃないかしらとも思うのですが、'先験的'といえばそれで何かがわかったわけでもありませんね。<何かを得るために何かを失う>というのは、50年前の、1968年の輝かしい精神だったでしょう。だけれどそれはまだ近代のためとしてある反近代でしかないとしたら、<失うために失うことができる>というのが、現代という暴力が剥き出しになってきた時代に対して、1968年以降思想がとる喪失ではないだろうかとやっとかんがるようになったのですけれど。(考えたのはいいのですが、遅すぎたという観念に苛まれています。) その思想は探されているというか...探されているのですけれど、その思想は、無限に広い宇宙と等価の大きさをもった懐疑の内省と、虫の死体に宿った情念というか感情というか、そういうところにすんでいるというか、点点点点...変なものですね

広告を非表示にする

失うこと

たしかに文学にその痕跡はあるとおもうのですね。<いったん'得た'>ものについて考えてみようとするのですが、どうも、'得た'ものは無かったようにおもうのですね。それなのに、わたしの中で、<失うことになった>といつも感じているのはどうしてなのか。この喪失感はわたしだけでないようなので、(「みんなのもの」という冗談でなければ)、それは文学に書かれている先験的なものじゃないかしらとも思うのですが、'先験的'といえばそれで何かがわかったわけでもありませんね。<何かを得るために何かを失う>というのは、50年前の、1968年の輝かしい精神だったでしょう。だけれどそれはまだ近代のためとしてある反近代でしかないとしたら、<失うために失うことができる>というのが、現代という暴力が剥き出しになってきた時代に対して、1968年以降思想がとる喪失ではないだろうかとやっとかんがるようになったのですけれど。(考えたのはいいのですが、遅すぎたという観念に苛まれています。) その思想は探されているというか...探されているのですけれど、その思想は、無限に広い宇宙と等価の大きさをもった懐疑の内省と、虫の死体に宿った情念というか感情というか、そういうところにすんでいるというか、点点点点...変なものですね

広告を非表示にする

知識人

知識人というのは、本を読む視線にすんでいる。差違はその超越論的な不安のうちに、ただ言語にだけ住みつくことができるものなのだ。その中で、他者、開かれた知に、Hello!といえるほどの人は読者を得る可能性がある。ところが、それまで考えてきたことに反しても、読者大衆が望むことを語り出す文化人となるとき、伝達を本質とするテレビ知の内部で他者にたいしてNo、No、Noという。‪差異は世界にすむつくことはできない。救世論的な身振りとジェスチャーを以てする‬差異と外部にたいする拒絶は、ナショナルな「われわれ」を「観光客」とたたえ、「彼ら」を「スリーパーセル」と排除していく。「われわれ」と「彼ら」の間の境界を自分で作っておきながら「彼ら」にたいする実存的不安をかんじている文化人。分断する必要のない人びとをいきなり囲い込んで、他者を自分でわからなくしていく一方的な指示作用にすむようになっている。そうみえるのだけれど
広告を非表示にする

「人間宣言」

クーデターのテロリストたちは‪五箇条ノ御誓文に「王政復古」を書いた。京都から勝手に連れ出してきた天皇政治責任を押しつけることの問題とは、責任をもたぬ政府を成立させてしまうことにあった。今回「人間宣言」(昭和二十一年一月一日)をはじめて読んだが、その五箇条ノ御誓文から始まることには驚いた。「茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、‬一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」。戦後日本の民主主義は、五箇条の御誓文の第一条(万機公論)に内なる始原を見いだしながらその国民的定着がはかられていったと言われても仕方ない‬。小田実の嘆きが聞こえてくるのである。「この国・日本には、どうしてかくも常識はずれ、常軌を逸したことが起こるのか。いや、この国は引き起こすのか。」(2000)。その理由は、「人間宣言」に書いてある

広告を非表示にする