芸術を考える

17世紀から危険なものがはじまったといってよい。芸術に委ねたらなにが起きてくるのかだれもわからないというのに、だからこそ?だれもが芸術に関心をもつというそういうことは17世紀の前に起きなかった。17世紀の前に危険なものは存在しなかった。12世紀に‪共同体に侵入してきた‬よそ者に(規則にしたがって)一番最初に叫んだ人がわかっているように、17世紀に危険なものに最初に身をかわした人がわかっている。危険なものは芸術家の肖像画、身をかわしたひとの名はベラスケスである。17世紀の東西は芸術が外部へ出ていく時代。外部は近代の絶えず境界を超えていく運動によって、たとえば神話とそれを読んだ視線から切り離されていく。土曜日の講義で勉強したが、徳川日本の18世紀にそうして神話を再構成するほどの宇宙の形成過程を説明していく抽象性が神学という形で生産される。破壊から逃れる自己同一性は近代に存在しない。外部は表象の限界に直面しながら表象からの自立を自分のものにしていくとき、ヨーロッパの危機はアジアの発見とともにやってくる。新しい偶像破壊の時代に、アジアと名づけられた、過去のあらゆる時代の芸術品がたどり着いたと語られた場所に、あえて再び偶像の再興にたくす言説が現れたりした。そこにやってきたのは、野獣だった。Alors les bêtes l'ont mangé 野獣がなにを喰らったって。17世紀が制作した人間を?危険なものがもっと遠くに行くためにか?最後に、20世紀後半に、脱近代がいわれる。言説から切り離されたものが言説にやってくるという再びイメージの到来を迎える。アジアも方法としてのアジアしかない。野獣がいたところを自らにとっての宇宙の中心として再構成して脱出していくだけで、そのときの中心も、分裂していくものを無理に統合できない中心であるけれども

香港を考える

「非存在者は存在するということは証明されない。」非存在者がそれを語るときは、「わたしの存在は(形式)証明できない」と言っている。「非存在者は存在するということは証明できない」は、それ自身の否定、すなわち「非存在者は存在する」を意味しているのだ。ところで「本質は現象しなければならない」とするアリストテレス-マルクス主義一国二制度的な見方は、一国のうちに現実化しない本質などは存在しないとみる。だが非存在者は本質だろうか?非存在者は本質ではない。香港は本質だろうか?否である。大切なことは、非存在者は人類的な別のあり方で存在するということ。だから一国二制度において「非存在者は存在しない」と言っても、「非存在者は存在する」。帰るところがない「目に見えない他者は存在する」のである。国のなかで’亡命’する場所において... 民主アジアは「非存在者=他者は存在する」あり方を自らに書くことができるだろうか

「本質は現象する」とするマルクス主義一国二制度的な見方に、一国に現実化しない本質は存在しない。だが非存在者は本質なき他者として人類的な別のあり方で存在する可能性がある

『フィネガンズ・ウェイク』

オスカー・ワイルドはいう。アイルランド人は自分自身について完全なものを書く必要があると。帝国オリエンタリズムが表象する“アイルランド人”が不完全であることを示してこそ自立できるからだ。そうしてワイルドの精神を継承したジョイスは宇宙を構成する密度を以ってダブリンの一日を書く。それを書くために<自分で決めた亡命>を行ったのである。その本は『ユリシーズ』と名づけられた。‪後に続く『フィネガンズ・ウェイク』は、『ユリシーズ』が<昼の本>であるかぎり、<夜の本>でなければならなかった。迷路ともいわれる。だけれど<夜の本>の裏側にわれわれが正面から見ている<昼の本>があるのだから、表というべきかもしれない。亡命者の視野から隠れるものは存在しないのである。

オスカー・ワイルドとはだれなのか?

‪ワイルドの『真面目が肝心』The Importance of Being Earnestは気になる作品です。二十数年前にダブリンで最初に見た芝居でした。アイルランド版『真面目が肝心』に観客たちはびっくりしました。ワイルドの格言好きは有名ですね。『真面目が肝心』と口にする凡庸さを軽蔑的に愛しました。これはワイルドのなんか貴族の世の中に対する距離を感じさせる態度です。しかし現在それは古いワイルド像と言わざるを得ません。ワイルドは『幸福な王子』『わがままな大男』のなかに描いるように、他者につくすアナーキースト‬。つまりあえて貴族の側に位置をとったアンチ・ブルジョワ的作家です。 アナーキーの意味は、ジョイスが影響を受けるのですが、アイルランド人は自分自身をオリエンタリストの記述よりも完全なものを書かなくてはならない。そうして帝国のオリエンタリズムがいかに不完全かを示すことによって自立できるのだというのですね。ジョイスはダブリンに一日を宇宙を構成する密度を以って『ユリシーズ』を書くことになります。 さてほんとうのところ、ワイルドにとって、貴族はどう見えたのでしょうか。

アイルランドは「遅れた国」なので、ラテン語とかを勉強するのですね。詳しくわかりませんが、多分教養という感じではないのですね。古典語の力がみとめられて、ワイルドは英国の大学へ行くことができました。ワイルドはイギリスにきてみたら、なんと貴族たちの物の見方が、互いに正反対にあるとおもわれていたアイルランド農民と物の見方が非常に似ているのかに驚いたといわれています。シングも同じ印象を語っていました。ここで非常に簡単に謎解きすると、英国の産業革命の敗北者は、アイルランド農民だけではなかったのです。イギリス貴族もまた敗北者となっていくのでした。両者ともに反ブルジョワ的反近代的世界観の方向を共有していたというわけなのです。そうして理解されてきた新しいワイルド像のもとに、後期近代のアイルランド版『真面目が肝心』の演出ではワイルドの貴族にたいして共感をもっていた視点を示していたように感じられました。

アイルランド農民が貴族のような物の見方を共有している様子は、フリールの戯曲『トランスレーションズ』において生き生きと描かれています。じつは、アイルランドナショナリズムに「敵」とされているイギリス貴族の価値観が反映されているということがこの戯曲を分析したポストコロニアルの影響を受けている研究は指摘しています。植民地政策のゲール語禁止(ゲール語を話すと罰せられました)の時代に、A hedge schoolで、古典ギリシア語とラテン語の先生たちがアイルランド人に英語を教えましたが、フリールは、ナショナルアイデンティティを形成する共同体のなかに疎外されている人物に、農民=貴族の特異なキャラクターを作りました。アイルランドにおいて近代的測量によって地図が制作され固有名が抹殺されたのですが(ゲール語の名がアングロサクソン化されていく)、ここから目に見えるものと言語と関係が複雑になっていく様子を描いた戯曲は普遍的な批判の視点をもっています。‬このフリールの戯曲はわたしの留学してきた高校生の教え子をとらえました。彼はずっと海外生活で、お父さんが日本人、お母さんが香港人でした(当時は、「香港人」という言い方はマイナーでした)。何と、高校生はアイルランドと香港を重ねて考えてみたのですね。今日彼は現在展開している香港の市民の運動をどうみているのでしょうか?意見を聞いてみたいですね‬

MEMO

香港のデモは香港のデモ以上の意味をもっている。2014年のひまわり学生運動と雨傘運動。民主アジアのあり方を考えようと呼びかけているものではないか

安倍チャンネル化しているこの国のメディアは、香港デモを「暴徒化した」と簡単に伝えてしまうまでに常に権力の側から見る見方しかなくなった自分の姿が見えなくなっているのでは?

グローバル資本主義大国主義から距離をもって自立するという、天下の公をめざす民主アジアのカレンダーは、西暦2019年、向日葵運動五年、雨傘運動五年を告げる。この際、時代遅れのナショナリズムを重ね合わせた時代錯誤の令和の名はこっそり安倍首相のもとに返して、わたしはこの三つでいこう

‪どうして、デモクラシーをもとめる市民の蜂起をかくも簡単に「暴徒化」と指示してしまうのか?意味不明である。それとも、「暴徒化」とは、マルクス主義をゼロにしてしまう「暴徒化」のことで、理性そのものを否定するほど何もかもゼロとなってしまわないかという「暴徒化」とかんがえているのか?だが寧ろ逆ではないか。「暴徒化」と指示する隅々まで監視する統合のあり方こそが、思考の柔軟性を与える理性自身を否定しているからである。暴力はゆるされない。暴力が正当化される場合は、言論によっては覆させない絶対の権威に抵抗するときに限ってのことだ。これにたいする権力の行使は21世紀の全体主義をなすものとおもう。‬日本だけがやっている意味不明な「暴徒化」の指示にこだわることは新しい全体主義の部分を構成する超越化と言わざるをえない

『真面目が肝心』はアイルランドで最初に見た芝居でした。3、4回は観ましたかね。ワイルドのことだから「アーネスト」に反語的意味があるのに、『真面目が肝心』の「真面目」は「真面目」であるかぎりオチないということですね。だからこそダブリンに来ていた演劇研究者たちはアイルランド公演のオチのない『真面目が肝心』の「アーネスト」にびっくりしていたのでしょうが、わたしは一緒に観劇した彼らがびっくりしているのでびっくりしました(笑) 。どうも、イギリス人が期待する形で「アイルランド人」を演じるという意味で「真面目」なふりをしてはアイルランド人は駄目なんだ、大英帝国から自立できないのだというナショナルアイデンティティの問題意識がアイルランドからワイルドをどうみるかという視点の変化とともに、芝居の解釈を再構成していたようです。しかしこれはポストコロニアルの研究がなかった人たちにはついていけなかったのかもしれません、「アーネスト」はアイルランドの名前だとしたら....ワイルドは「真面目が肝心」という教訓を語ることを2流、3流と軽蔑していましたが、だからこそ言説「真面目が肝心」のなかでそれとは別の見方をつくりだすために、「真面目が肝心」が要請されるということです、これは、反復することによって破壊していく、アイロニーでしょう。

‪今日人間の観念、有限性の観念を超えることがいわれる。人間の有限性としての観念は、『論語』をヒューマニズム的に解釈するようなオリエンタル学の言説と結びついている。そうならば、オリエンタル学の真理を語る言説も終わるべきなのだ。17世紀が注目されるのは国家がなかった時代だから。ナショナリズムのようなものは異常とされたから、天下の公と人についてよく考えることができたのではないか。今日ならばそれは民主アジアと市民である(結局は外部からの思考が成り立たなくなる一国民主主義の「市民社会」ではなくて)。17世紀の思想は有限性を超えるのは「学び」によってであると考えた。「学」とは何か?それは自発性にかかわることとおもうが、まだわたしははっきりわかっていない。‬考えだすとねむれない...

‪「近代の超克」について考えていたら、なーんかワールドカップのことをかんがえてしまった。アイルランドのサッカーは負けた姿がカッコいいと評判である。それは勝ち負けの基準からの超越?。政治的に、永久に行われる被支配者の反抗を表象させるからではないか。スポーツというのは映画のように自己に都合よく世界を変える視線を以って成り立つ。この視線においては、ナショナルチームのメンバーがイギリスで活躍している殆どアイルランドと無関係な選手から成り立っていることは問題とはならない。敢えて外部の敗者を世界の中心として構成することによってポストコロニアル世界からの脱出を試みるしたたかさもあるのだが、スポーツと一体となっているナショナリズムに絡みとられると袋小路である‬...

18世紀はすごい。この強力な理屈に反論するためには... 「字音によりていへる字義は强たる事おほしなつむべからずまして此方の言を解するに文字の註ばかりを見て心得るは大なるひがこと也言の意と文字の意と相かなふやいなやを考て後に文字の義を考ふべしそれも言の意だにもあきらかならば文字は借物なれば深くいふべき事にもあらず」ー本居宣長『石上私淑言』

「漢字は借り物」だと繰り返すナショナリストはまるで表も裏もあると考えているようだ。漢字の裏側にかならず大和言葉がある。そこに大和民族の起源があると。だが驚くほどのことではないが、裏側も表と同じである。むしろ裏を表と言わねばならない。外部からみると、裏側に隠されているが明白に漢字があるという外部の思考が要請される。「漢字は借り物である」とはいえない。子安氏が指摘するように、あくまで、古代人の心を明らかにするために古言を知るというかぎりにおいて大和言葉があったとしたらどういうことが言えるかという方法上の想定しかできない。子安氏はいう。だからといって漢字を何か絶対者の如く考えようと言っているのではない。もし言語(漢字)支配者が日本におけるマイナーな表と裏を巡る漢字論の言説を理解したら面白いだろう。言語(漢字)支配者の中国が 17世紀徳川日本の漢字仮名による注釈のあり方に関心をもつとき何が起きるかと子安氏は語っていた。きっと新しい知が起きると思う。今週の土曜日の子安氏の講座が楽しみである。『朱子語類』の「鬼神論」の読みも、江戸時代の知識人たちがどう読んだかを考えながら行っている。

歴史をみると、軍国主義をともわずに全体主義が成り立つことがあるし、全体主義をともわない軍国主義が成りたつこともある。問題は軍国主義の方向と全体主義の方向とが一致したときである。なにが起きるかをキューブリック博士の異常な愛情」は教えているとおもう ‪

‪朝六時、ロビーにいるとお別れの挨拶にやってきたフランス猫 ‪「あなた、動物に好かれるでしょう?」‬ ‪「うん、どうしてかな」‬ ‪「隙がいっぱいあるからよ」‬ ‪(なにが言いたいんだ!)‬ ‪

‪旅に出ると、わたしのような者でも、日本を外側からみることができるチャンスがあるものなのでしょうか。戦後民主主義の言語の拡散に人間が現れた後に、言語が集中することになったと言ってもいいと思います。17世紀の仁斎論語、20世紀の日本ナショナリズム批判、12世紀朱子学鬼神論の読みがそういう言語の集中と思います。ヒューマニズムであれ近代の超克の「人民」であれ人間の近代が消失すると共に、間違いをおそれずに言うと、21世紀に、包摂できぬ言語の端に外部の思考が成立してきた可能性があるのです。今日民主アジアから投射されてきているイメージの事件とはなにでしょうか?イメージの力が消滅してしまう前に、明治維新の近代とは別の新しい普遍主義がそれを思考することができかということだと考えようとおもうのですがね ‪

‪画家が自画像を描く場合、描かれた自己の像は、描く処の主体そのものではなくして、主体の客体化され、素材化されたもので、その時の主体は、自画像を描く画家彼自身であるということになるのである。言語の場合においても同様で、「私が読んだ」といった時の「私」は、主体そのものではなく、主体の客体化されたものであり、「わたしが読んだ」という表現をなすものが主体となるのである。主体は「私」という語によって表現されているのでなく、若し主体の表現それ自体を知ろうとするならば、「わたしが読んだ」全体を主体的表現と考えなくてはならないのである。‬ ‪ー時枝誠記国語学原論』‬ ‪

‪詞が辞に転換するということは、表現性の転換でなければならないのである。上に述べた様に、非存在を概念的に表現した時は詞であり、非存在を認めることの表現が辞となるのである。詞より辞へは連続的に移るのではなく、客体の概念的表現が、主体の直接的表現に裏返ることによって辞が成立すると考えなければならない。詞としての転換は、何処までも包まれるものとしての領域を出ないが、詞が辞に転換することによって始めて包まれるものより包むものに転ずるのである。対応の原理とは、以上のごとき表に対する裏の関係をいうのである。‬ ‪ー時枝誠記国語学原論』より‬ ‪

‪巻かれたら巻き返せ、包まれるものより包むものに転じよ。このとき、包まれるものを否定しきったら、包むものしか存在しない。それでは何もかもゼロとなってしまう。たえず包まれるもの(近代)より包むものに転じることが大切ではないか。包むものとなるためには自ら最高のものになる自立的努力が必要とされる ‪

中西進氏に反論する

‪「中央日報」のインタビュー記事はこう書いている。「中西さんは新元号の出典元である万葉集の研究の最高権威者だ。それによると、万葉集で言及される「和」の精神は聖徳太子時代に出てきた日本最初の成文法である「十七条憲法」によく表れている。(十七条ができた当時、聖徳太子の)そばには朝鮮半島からやってきたすぐれた坊さんだけでも4人いた」とし、十七条憲法は「東アジア発の平和思想」であり「日本初の平和憲法」だと話した。」‬

‪わたしの考えでは、中西進さんは本物の民主主義は戦後から始まるという考え方を多分とっているようである。だがこういう考え方は、戦前の戦争は大変問題だったが例外的な出来事だったように暗黙に考えていないだろうか。昭和十年代において軍国主義天皇に権力を集中した全体主義が一致してしまったのは、偽物の民主主義の例外ではなく、武闘的暴力が推進した明治維新の論理的帰結、一国民主主義の必然だったとおもう。現在の東アジア諸国も政治的多元主義を抑圧する体制の側から明治維新の成功(!)を称える言説が広まっているという大変危ない時代である。古代からやってきた(?)憲法17条の様態である平和憲法があたかも自動仕掛けの機械のごとくいわれる「令和」の未来に委ねればうまくいくのだろうかと自問している。古代から連続的に考えることは無理で、もし連続的に考えるというならば、古代の「和」は、2000万人の命を犠牲にした、すでに決定的に失敗したのではなかったのではないか。古代からやってきた憲法17条としての平和憲法はなにも学んでいないと言わざるをえない。

夏目漱石『こころ』ー子安宣邦氏の解体的読み

夏目漱石『こころ』ー子安宣邦氏の解体的読み ‪「明治28年の事件が1895年の事件とされることによって、その世界史的な意味がはじめて明らかにされる」という今日の子安宣邦氏の言葉は、確立されてしまった明治史的視点のなかでそれとは異なる世界史的視点を作り出す重要な意義を言っていた。わたしの理解では、子安氏の「うつしかえる、とらえなおす」世界史的視点は外部からする批判的投射を為すものである。投射が行う世界史的視点・アジア的視点から、京城における閔妃暗殺事件の意味だけでなく、その後の帝国主義日本の幕開けというべき新聞小説『こころ』の意味も明らかになってくるというのである。『こころ』の事件(天皇崩御と先生の自死)の時期の向こう側に「大逆事件」があると子安氏は指摘する。『大正を読み直す』が読み解いた「大逆事件」から、それが影響をもたらしている可能性のある現在のことをわたしは考えてみた。平成28年の事件を2003年の事件として投射することによって、2016年のイラク戦争と伊勢サミットとの関係が、国家神道の復活と解釈改憲軍国主義化の関係として、はっきりとみえてくるのではあるまいかと。令和の問題になる危険を恐れるのであるが、元号の時間的表象は、平成であれ昭和であれ、大正であれ、’明治へ帰れ’とする明治史的視点にほかならず、世界史的視点・アジア的視点を一国主義的視点に枠づけてしまった統合である。しかし世界史的視点・アジア的視点と明治史的視点は分裂しているのだ。分裂は分裂である。分裂を消去してはならない。夏目漱石『こころ』はこの分裂を「明治の精神」といわれるものを以って隠蔽してしまったかもしれない。先生の自死を問うことよりも、「明治の精神」の内部の奥に外部のなにかが反映されているKの自死を問題とすべきではないか。そのなにかは「明治の精神」が見えなくしている殺戮された他者の姿形。だからこそ、今日のポストコロニアルの批判的視点から、土地と言語を奪われたアジア民衆の抵抗の表象を読み解くことによって、「明治の精神」のユートピア言説(「反エゴイズム」というような見通しいい単一的見方)を解体する新しい読みが要請されていると子安氏は問題提起している。