われわれの精神は非常に危ないところに追い詰められている...

われわれの精神は非常に危ないところに追い詰められている

わたしは、国会議事堂のなかにいる人間よりも、これを取り囲む若い人々の方に自分の希望を託している。自衛隊にしか仕事がないという未来に対して抗議する若い人々に委ねた方がうまくいくとさえ考えている。下がることがなかった内閣支持率を下げているのは、青年たちの力のおかげだ。この事実はみとめなければならない。とはいえ、われわれの精神は非常に危ないところに追い詰められている情況に変わりはない。ここに全体主義について書き留めておくのも、この危機感によることだ。全体主義は文化的な抑圧にかかわることである。戦前の全体主義について証言するものは、体系に囲まれてどこも逃げられない状態をかならず語っている。能記と所記との間の<透明な近さ>と<不透明な遠さ>をもった体系に絡み取られて、「他の道」が無くなるということなのか?日本知識人が世界と向き合うときに、世界に先行する知の体系からしか世界を読まないという純化と自ら称えるある種の倒錯が起きるということだ。現在はどうか?21世紀の市民の民主主義を前に、日本知識人の19世紀的「資本論」の読みは、自らを形式的に純化していく果てに、帝国の非民主主義を擁護し始めていることは何を意味するのか?また非転向という純化を思想の中心に置く方向からは、非常に歪曲された形で、20世紀的日本デモクラシーの汚れなき物語が反復する危険な兆候がある。 (「日本の民主主義は東アジアをリードする責任がある」は思い上がりではないのかな) 1938年の「東亜新秩序」とは、日本の帝国主義戦争がもたらすアジアの悲惨を覆い隠す「日本的平和」の提案であった。21世紀に入って自民党政府がいうような、「東アジア共同体」という日本からの「アジア的平和」の提案は何を隠そうとするのであろうか。われわれの精神は非常に危ないところに追い詰められている。再び強い国家と自己民族中心主義に依存していく精神の危機について青年と共に語り合うときはいつか