デカルトの後のスピノザは自分の考えをラテン語で書いたのは理由は何か?

なぜダンテとシェークスピアは普遍言語のラテン語で書かずに、地方言語のイタリア語と英語で書いたのはなぜか?普遍主義の代名詞のラテン語と哲学との結びつきは揺るぎないようにみえたが、デカルトは地方言語のフランス語で哲学を書いた。学術研究の領域に存続しても知識人が定位する言論の領域ではラテン語は時代遅れになったのか?だとしたら、デカルトの後のスピノザは自分の考えをラテン語で書いたのは理由は何か?近代語は初期言語としての古典ギリシャ語・ラテン語の文法性に負うのだが。さてポストコロニアリズム研究のおかげで、1665年のスピノザの次のような手紙の一文が再発見されることになった。'I would have preferred to write in the language in which I was brought up' (de taal, waar mee ik op gebrocht ben); I might perhaps express my thoughts better" 。自分のオランダ語を直してくれと友人に頼んだ手紙だが、これを読むと、自分の考えを書くためには、通説が解釈したようにラテン語ではなく、ポルトガル語で書いたほうが有利だとスピノザは書いていた。と、ポストコロニアリズム的言説から、マイノリティーのスピノザが仕方なく自分の考えをラテン語で書いた姿がみえてくるが、しかしそうか?ポストコロニアリズム研究の<脱普遍主義>の思考に限界がないわけではない。普遍主義の歴史が語る他の歴史を語ろうとするあまり、民主主義のリアルな歴史を軽視することが起きる。スピノザラテン語への回帰というか、反時代的なこだわりは、もはや普遍性が崩壊したとしても(経験知から新たに再構成された)普遍的な理念性がなければ人間はやっていけなくなるという近代哲学の民主主義の息吹を思わせる。独立オランダのスピノザフェルメールは、'偉大'な普遍性をもっていたハプスブルク帝国の崩壊の後の時代に生きた人々であった。