キミの獲得した全歴史を総括せよ。だがそのキミが「一冊で世界史の全体像を把握できる書物」に属しているとか、またはその逆に、「一冊で世界史の全体像を把握できる書物」がキミに属しているとは信じてはなりませんぞ

キミの獲得した全歴史を総括せよ。

だがそのキミが「一冊で世界史の全体像を把握できる書物」に属しているとか、またはその逆に、「一冊で世界史の全体像を把握できる書物」がキミに属しているとは信じてはなりませんぞ。▼「もういちど読む世界史」(2009)は、もういちど読みたくないとおもうのはなぜなのか?序文ーふたたび世界史を学ぶ読者へーはこう書いてあります。「テレビや新聞などのマスメディアでは世界各地の政治・経済・社会・文化のニュースが毎日報道されrています。ソ連・東欧の社会主義圏が消滅した後、市場経済が世界を席巻しましたが、21世紀初頭にはアメリカに端を発する世界金融恐慌が発生して、アメリカ一極主義は破たんをみせ、民族や宗教にかかわる紛争もたえまなく続いています。大量生産・大量消費の生活が、環境に対する負荷を増大させています。発展途上国の人口は爆発的に増加し、飢餓の問題が進行している一方で、先進国では少子化対策が急務となっています。芸術や学問文野でも新しい才能がつぎつぎとあらわれ、新しい技術や学説が登場しています。世界は動いているのです。これからもまちが...いなく動いていくでしょう。しかし、いったいどこに向かっているのかは不明瞭です」。▼序文の通りならば、現代世界の問題を考える知識を与えるという教科書なのですから、例えばアイルランドとイギリスの高校で学ぶThe World History、つまり近現代史が語られているはずなのです。そこで、1870年以降のフランス革命後、ベルサイユ体制崩壊後、そしてパリコミューンからどういうふうに「世界は動いていく」のかを考える課題があります。フランス革命後の議論ーアナーキズムか国家かーは、21世紀後期資本主義の現在、民主か帝国かという形で継承されていますが、しかしそういう市民の歴史が登場するのは、教科書のやっと半分くらいのところからです。▼教科書の第一章から読もうとすると、'文明の起源と'古代世界'から始まりますが、こういうふうに'古代世界'から始める日本世界史は世界に類がありません。始まりとして古代世界を置くことは自然に思えますが、しかし問題はその始まりに起源を読み出していくことです。そういう'古代世界'は、近代国家の民族主義が自分たちの起源を正当化するために語ってみせた'古代世界'でしかありません。諸君が現在立っている大地を堀りおこせば'古代世界'が現れると。これは偽の文化概念です。たとえば、近代国家の産物でしかない靖国神社が古代にあったと語るときそれを廃止することが事実上できなくなってしまうことの問題を考えてみればいいでしょう。また、近代国家の産物でしかない民族概念の"XX人"を古代の地理に投影した上でかれらがどこから来たのかを物語るのもやはり偽の文化概念です。

21世紀の世界の動乱でグローバル資本主義に抵抗する市民の問題と無関係なものはひとつもなく、それらは現象として市民の民族と宗教の形をとった争いとして現れるだけなのに、「民族や宗教にかかわる紛争もたえまなく続いています」という記述に、19世紀的な民族概念をふたたび国家の側からの視点から実体化しようとしているのではないでしょうか。

最後に、古代世界のことは、もっと別のところで、すなわち古代史として学問的に独立したところで、適切な方法で扱われるべきだとおもいます。古代世界のことは、もっと別のところで、すなわち古代史として学問的に独立したところで、適切な方法で扱われるべきだとおもいます。