田辺元「哲学の根本問題 数理の歴史主義的展開」(1954年執筆)を読む

田辺元「哲学の根本問題 数理の歴史主義的展開」(1954年執筆)を読む

田辺元は西田が考えた包越としての全体性に対して批判している。それでは、「弁証法的な行為的な立場、すなわちわれわれは内に根源悪をもち、常に神に叛く可能性というものを内にかかえている、しかし叛くということがさらに顚倒的に神によってゆるされ活かされて、神はかえって自己否定的にそういう相対的な、罪のわれわれを媒介にしてはたらくのであるといような、そういうことは、いまいったような全体を無限の袋が包んでおるという閉鎖的な統一というものではそうしても現すことができない。」そこで田辺は言う。「無限な網。締括りも何もない。締括りしてもいくらでも出られるから開放的なのです。しかもみずから内部のものを局所的に被うように動き行くことによて、これを外に出さずに、どこまでも内に摂め取る。そういう網が無即愛の絶対に対する譬喩になるでしょう。」「無限は網なのです。網はどこにでも穴が開いている。だから網はいかに口を締めておいても実はなんにもならない。何でもそれを出たり入ったりすることができる。すなわちその限りにおいては、網は袋が閉鎖的にであるのに対して開放的である。」だが綱は綱。無限と修飾された網は、田辺の「無限網」は本当にそれほど開放的なのか?そもそも、純粋に理念的に構成された、「西洋の神というもの」といういい方から、対抗的に「東洋的な絶対者」が措定されてくるが、そこから「包越としての神」へ行くつもりになっても、ふたたび包摂としての全体性に依存するだけであろう。西田は田辺のように内部的に読むべき思想家ではないのである。外部から読まないと、西田の中から内部に即して、どこまでも内側に絡みとられる解釈しかうまれないとおもわれる。包摂の全体性は、田辺においては、力の体系の成立とともにある。力の体系の成立は、自制的な、いつでも自己の反対を、自己の矛盾対立者を、媒介にして初めて可能になるという。つまり生きることと死することは媒介しあう。だが国家の側から要求する包摂の全体性の奉仕するために、再び死を合理化・正当化
するような、力としての媒介の論理の主張が倫理的に許されていいものだろうか?歴史を数学の思考において形式的にとらえてみせた、田辺元のその言説の語りからは学ぶことが多いけれども・・・

▼包越としての神「西洋の神というものは、何か自分の意志をもって世界を造る。特にユデア教の神というものは自分の意志をもって世界を造る。そういうものですから、自らを含んだ全体を造ると言わんよりは、自分はこっちにあって向こうに世界を造ることになる。神はその世界を自分の意志によって、あるいは罰しあるいは救うという超越神であります。高いところにいて世界を支配するもの、世界の支配者という形になる。いわゆる主といわれるわけでしょう。ところが東洋的な絶対者は、この現実におりてきて現実に入り込み、超越がすなわち内在だというような側面が強くなっている。超越が即内在というような、超越という面からいえば、世界を超えておりながら、しかもいわゆるユデア教の超越神論のように、世界と自己とが対立しないで、どこまでも世界の中にみずから内在している。したがってそこでは、世界を超越していながら、世界を包んで世界の中に働くという意味が強く出ているというわけであります。そこから包越ということも言われている。世界を超えていながら同時に世界の外にこれと対立するのでなく、それを包んでおる、あるいは包みながら超えているというのです。単に包むというだけだといわゆる汎神論というものになって、内在の一方が勝ってしまいますから、超越の面を現すため超という字で示したわけでしょう。しかしまた、ただ超越では、内在が消滅して超越一方になりますから、包越という言葉が、何時のころからか、われわれ日本の哲学に行われてきました。これは一見絶対と相対との関係、あるいは宗教の構造、言い換えれば哲学の宗教的側面というものを非常によくとらえているように見える。しかしいままで話してきたような、どこまでも絶対は自己矛盾であり、絶対無であって、その絶対無のいちいちの裂け目において、無即有としてわれわれを活かし、われわれを働かせる、絶対の働きはただわれわれの相対的な働きを通してのみ、媒介されて、働くのであるという関係は、包越では現すことができない。それで私は苦しまぎれに、こういう例をかんがえた。どうせ例ですから完全に適切な、ちっとも不都合がないというわけにはいきませんが、いくらか皆さんがみずからお考えになるのに手がかりになるかと思って、最後に申し上げるのですが、それは包越といますと、あらゆる相対を、最も端的に言えば、われわれ人間というものをすっかり包んでおるような袋である。その絶対者という袋の中に、相対的なわれわれはみな包まれて、さきにいったアリストテレスの実体におけるごとく、われわれはいちいちみずからのおるべき場所をもつ、いわゆる場所的にその中で限定されておる、絶対はそういうようにわれわれを場所的に限定して、自己の中に包みながら、いつでも、それを超えて、その袋を常に動かしてゆくところのものである。その袋は無限に大きいからいくら多くのものを入れてもゆとりがある。無限りは部分が全体をうつすような組織である。だからそういうように動きながら全体をみずからの中に包んでおる。そういうのが包越という例になるだろうとおもいます。したがってそういう場合の全体とか、絶対とかいうのは無限の袋であって、全体を包むのですからその全体を包むという限りにおいては閉鎖的なのです。それの外に何ものかをあらしむるということはない。閉鎖的な無限の袋の中に全体を包んでおるというのが包越という考え方で、それが絶対を考えようとするとき、最も広く行われているところの考え方だと思うのであります。しかしそれによってはいままで話してきたような弁証法的な行為的な立場、すなわちわれわれは内に根源悪をもち、常に神に叛く可能性というものを内にかかえている、しかし叛くということがさらに顚倒的に神によってゆるされ活かされて、神はかえって自己否定的にそういう相対的な、罪のわれわれを媒介にしてはたらくのであるといような、そういうことは、いまいったような全体を無限の袋が包んでおるという閉鎖的な統一というものではそうしても現すことができない。あるいはもっと適切な現し方があるかと思いますが、とにかくいまわたくしのご参考までに提案するのは、次のようなことを考えたらどうかということです。」
▼無限網の譬喩「本来絶対はちゃんとまとまった、閉鎖して締括ることのできるような袋ではない。無限は網なのです。網はどこにでも穴が開いている。だから網はいかに口を締めておいても実はなんにもならない。何でもそれを出たり入ったりすることができる。すなわちその限りにおいては、網は袋が閉鎖的であるのに対して開放的である。網は自由に出たり入ったりすることができるものです。われわれはそういう網の中にいる。袋の中に、いかに無限であるから動く余地があるとしても、相互の位置秩序を定められ自分のあり場所を決められて入っておるというようなおとなしいものではない。われわれはもっと始末に負えない顚倒者なのである。網の中にいるがいつでも網の外に出ようとしている。足を半分出したり、手を半分出したりして網から外にはみだしている。しかし網はやはり外には出さないで内にはいるように仕向けている。網はちゃんときまった形で、この位置はこrて、あの位置はあれ、という秩序立てはしていない。網はそれこそ中へ入っておるものが動くままに、足を出しそうになると足がこっちにはいるように、みずから動いて行き、音を出そうとしておる者がいると、上からそれを被うように動く。網は網自身としてどうでも自由に中のものに応じて動き、その開放性を維持しながらしかもそれから出ようとするものを決して外へ出さないように接取する。みずからの中へ摂(おさ)め取る。そういう働きをしておるのが網である。それは袋の閉鎖的とは違う。網には自分の固有な形とか限界とか、またその内部の位置とか秩序とかいうものはないともいえる。無限な網。締括りも何もない。締括りしてもいくらでも出られるから開放的なのです。しかもみずから内部のものを局所的に被うように動き行くことによて、これを外に出さずに、どこまでも内に摂め取る。そういう網が無即愛の絶対に対する譬喩になるでしょう。そういう網に摂取されておる現実がいわゆる絶対現実である。